松朧(IF村塾多数)
目的地の無い旅。
果てなく、寄る辺もない。
けれど、身も心も自由な旅。
天照院奈落という時代の為政者の作った軛から逃れ切り、鬼と恐れ忌み嫌う視線を欺く擬態を身に付けた男の足取りは、宿場に続く街道をしっかりと踏みしめていた。
なのに、その眸だけは哀しみの色を宿している。
胸の奥底に、石のような塊があった。
それは、溶けない氷のように男の気持ちを重苦しくしている。
その原因は、分かっていた。
初めての一番弟子、大切な存在を喪った夜。
私の中の私【奈落の頭目として生きた私】が、消えた日に遡る。
激しい慟哭と、精神を切り裂く痛みの記憶。
後悔と絶望と深い悲しみの感情が渦を巻き、最期は闇に呑まれるように静かに消えた。
その時の私はまだ意識の欠片でしかなく、その感情を共有する事は出来ずにいた。
そして、明くる朝。
松の木の下で、私は目覚めた。
いや、生まれたと言った方が良いかもしれない。
哀しみの記憶と、松下村塾を創るのだとの切望を胸に抱き【吉田松陽】となった。
【奈落の頭目として生きた私】が慈しんだ一番弟子と交わした約束を叶える為に。
手を血に染めた鬼ではなく、人として生きる為に生まれ変わった。
その自我の目覚めから半年。
殺人集団の中にいては知らぬままでいた、人間としての生きる術を学んだ。
日々何かしら得るものがあり吉田松陽という個が形作られてゆく。
そんな中でも哀しみの塊は消えること無く、胸の奥に存在し続けた。
それこそが、消えた筈のもう一人の想いの欠片。
彼の墓標として、留めておくべき記憶。
時間が経過しても薄れず、己の眸に翳りを落とし続ける。
それでいいと、思った。忘れてはいけない記憶だと。
「今夜は、ちゃんと布団で眠れそうですね」
三度笠を傾けて、宿場町までの距離を見る。
このまま安芸を抜けて周防・長門まで行くか、それとも瀬戸の海を渡って伊予に入るか?
この先の事を、今夜は布団の中で考えようと歩く速度を上げる。
とにかく都から離れ、朝廷や幕府から目の届かぬ場所へ落ち着きたかった。
色々と表には出せない方法ではあったが、それなりの資金も調達出来たし、そろそろ私塾も始めたい。
(やっと、君との約束が叶えられそうです)
記憶の中の少年に、心で話しかける。
白銀の柔らかな髪を思い出しながら。
あの頃の私は彼を朧と呼び、優しく頭を撫でていた。
その記憶は思い出せるのに、もう一人の私の感情は紗がかかったように遠い。
愛しいと覚えているのに実感が無いのが、とても哀しく寂しかった。
物思いに耽りながらも、夕陽が空を茜色に染める頃には宿場町に辿り着く。
町の外れ近く、こじんまりとした旅籠に入った。
そこは、一階が飯屋で二階が宿泊所になっている。
近くには銭湯があると聞き、先に湯に入って旅の疲れを癒やそうと思った。
しかし、湯に浸かれば聞こえて来る話題は天人の乱暴狼藉や攘夷の話。
こんな鄙びた田舎の宿場町にまで噂は届いていると実感すると、のんびり湯に浸かっている気分ではなくなった。
明日は、早々に旅立とうと決める。
もっと、南下すべきだと考えた。伊予では無く、周防。いや、場合によっては長門まで。
湯から上がって、夕餉は簡素に蕎麦で済ませる。
『先生!ちゃんと、食べてください』
不意に、頭の中に浮かぶ声。
困った様な、呆れたような、子供の柔らかで優しい声音。
記憶の中の笑顔に重なる。
胸の痛くなる想いの欠片。
(はい、ちゃんと食べましたよ)
両手を合わせ、記憶の中の笑顔に答える。
傍から見れば、ごちそうさまの所作。
松陽は、静かに立ち上がる。
消えてしまった彼の痛みと彼の愛した幼子を、せめて記憶として忘れないでいたい。
いつか穏やかに思い出せるようになるまで、胸に抱いていようと。
混み始めた飯屋で、数人の男たちとすれ違った。
落ち武者の様な成りで、微かに血の匂いを漂わせている。
一瞬、追手だろうかと刀の束に指を這わせたが、相手からは殺気を感じなかった。
纏っている気配は疲弊し、生気も感じられない。
「女将、あれは?」
勘定ついでの体を装い、曖昧な聞き方で男たちに視線を向ける。
「あぁ。あの人たちは、殿様の所のお侍さんやわ」
女将は、首を傾げて続きを話した。
町外れからずっと東の方向で、幕府軍と攘夷軍の戦があったのだと。
彼らは、その敗残兵らしい。
攘夷軍は、余程の強敵だったのだろうか?
かなり、怯えているように見えた。
松陽の視線から、不審に思っている事を感じ取ったのか、女将が更に言葉を付け足す。
「ここ最近、妙な噂かあって。なんでも戦場跡に、屍を食らう鬼が出るとか、見た人がいるとかね。巷じゃ天人なんじゃないかって、言われてるんですよ。じゃから、お客さんも戦場跡には近付かん方がええですよ。何があるか分からんから」
密やかな嫌悪の表情が、心に刺さる。
鬼と言う言葉に、潜められる声や顰める眉が遠い過去の傷を抉った。
そして、一瞬過った微かな期待。
己と同じ存在が?
永久に思えるほど長い時間、出会えなかったのだ。
そんな筈はあるまいと、自らの期待を消す。
女将に礼を伝え、二階の宿泊所に向かう。
旅籠に泊まる時は、なるべく大部屋を選んだ。
宿代を安く済ませるだけでなく、人の中に紛れて消息を不明瞭なものにする為にも役に立つ。
今夜の部屋は、十数人の大部屋だった。
翌朝早い出立の者は、もう高鼾をかいて眠っている。
雑魚寝の部屋での場所取りは、早い者勝ちだ。
万が一を考え、窓側と出入り口近くは避ける。
中央から少し出入り口近くの布団に潜り込む。
刀は枕元ではなく、懐に抱いて寝た。
ずっと野宿続きだったせいで、眠りが足りなくなっていたのだろう。
この夜は、早くに眠気が訪れた。
ざわざわした人の気配が、鼾や寝息に変わり宿全体が明かりの無い暗闇に沈む。
松陽は、過去の記憶の夢をみていた。
珍しく夢を見たのは、鬼という言葉を聞いたせいかも知れない。
何度も何度も、息の根を止められては蘇る。
魂消えるような痛み苦しみ、無限の責苦。
輪廻の輪から外れた存在として、忌み嫌われ恐れられ幽閉された。
気の遠くなる遥かな時間、幾人もの己を生み出し続けた果ての狂気。
憎しみの衝動と、死が叶う人間への憧憬から、彼我の区別無く殺し続けた。
累々と横たわる屍と、夥しい血の海。
血塗れで横たわる幾つもの己の屍、血塗れで虚空を見詰める現在の己の姿。
抗って、抗って、伸ばした手の先……
『せい……先生、大丈夫ですか?』
悪夢に魘された夜、小さな手が触れた温もりを覚えている。
儚く柔らかで、けれど確たる意思を持って、気遣わしげな声音と共に揺り起こしてくれた幼い少年。
陰鬱な日々を、一途な笑顔と眼差しで、希望という光を与えてくれた一番弟子。
―― 朧 ――
彼がいたから、奈落に抗い飛び出す決意がついた。
失えない存在だった子供。
なのに、二度も死の恐怖を与えてしまう結果になった。
あの夜、眠りさえしなければ悲劇は止められていた筈。
この手を、掴んでさえいたら!
離さず、握りしめていたら……
***
「おい、兄ちゃん! 大丈夫か?」
野太い声で、揺り起こされる。
「……ぁ」
悪夢と後悔に苛まされた夢から目覚めた目に映ったのは、旅装束に身を固めた見知らぬ男の姿。
障子から射し込む鈍い陽の光に、夜が明けた事を知る。
「随分と魘されとったよ」
商人風の男は、心配顔で松陽を見下ろした。
「あぁ、すみません。ちょっと夢見が悪かったので。……もう、大丈夫です」
「そうか。なら、まだ朝も早いし寝直すといい」
そうすすめた後、男は市が開く前に隣町まで荷を届けるのだと、荷物を抱えて立ち上がる。
「しかし、あちらさんも酷く魘されていたし……この部屋にはなんか、いるのかねぇ」
くわばらくわばらと経のように唱え、あちらと言った方に視線だけ向け、すぐに部屋を出ていった。
松陽は、もう眠る気にはなれず布団を畳む。
昨夜の噂話も気になっていた事だし、早めに出立しようと身支度を始めた時。
「だから! 見間違いなんかじゃねェ!」
突然の怒鳴り声に振り返れば、それはあちらさんと言われた男・昨夜見た敗戦兵の発したものだった。
「しぃ!まだ、皆寝とる。静かにせいや」
「いや、俺も見た……ありゃ間違い無く鬼だ!」
仲間を宥める男に、他の男が言い募る。
見た者と、見て無い者。その比率は、見て無い者の方が多い。
「ありゃ、酷い戦だった。疲れて幻も見るさ。なぁ」
「さっきだって、夢だったんだろ」
「ほら、も一回寝ろ」
口々に、夢だ幻だと言い聞かせ、見たという者を寝かしつける。
「夢でなんか、あるもんか! あんな子供なのに白髪なんて、想像もした事ねぇ!」
「子供が、死体に腰掛けたりなんかするもんか! ありゃ、間違いなく鬼だ!」
「屍を食ってんだ、鬼にきまってるだろ!」
押さえ付けても抵抗するのに「分かった、分かった。とにかく、寝ろ」の一点張りで真面目に取り合おうとはしない。
だがもう、それは松陽の意識の外の出来事に変わっていた。
白髪の子供。死体をものともしない子供。
鬼の様子を、聞いて胸の奥がざわついた。
記憶の中に在る少年の姿が浮かぶ。
もしかしてとの思いが強まった。
己の呪われた血を与えたばかりに、あの絶望的な状況から生還したのだろうか?
けれど、その血故に精神に異常をきたしてしまった?
「確かめなければ」
己の感情とは違う、遠く壁を隔てたような頭の奥で期待と不安が湧き上がってくる。
その感情に急き立てられるように、刀を握りしめ宿を後にした。
町外れから、東の方向を見据える。
まだ薄っすらと朝靄がかかっているが、歩いて行くうちに消えるだろう。
数刻も歩くと、老婆とすれ違った。来る先は、戦場跡。
思わず声を掛けてしまったのは、冷静になりたかったからかもしれない。
「この先で、鬼を見られましたか?」
胸の痛い愚問。
否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか、己でも分からなかった。
「鬼ですか……」
老婆の皴枯れた声は、カサカサと吹く風の音の様。
「たくさん転がってるのを見たよ。殺し殺されて……修羅の鬼が、わしの息子を奪ってしもた」
幕府か攘夷かは分からないが、老婆の息子は戦場で命を落としたのだ。
その瞳は悲しみに満ち、人こそが鬼だと語っている。
暗い目に涙は無く、見せる表情は疲れ切っていた。
子供の姿を見ましたかと、重ねて問う事が憚られる。
躊躇う松陽に、老婆は「お前さんも、誰かに供え物を?」と問うた。
老婆は、早朝から戦場跡に握り飯を供えに行っていたらしい。
松陽も、誰か縁故の者に会いに行くのだろうと思われた。
曖昧に首を振り、老婆に別れを告げて戦場跡へ向かう。
自分の物では無い衝動に気が急くが、足取りは重くなっていた。
やはり、あれは敗残兵の戯言。気の病が見せた幻ではないかと疑った。
そうして、それでも、やはり足は前へ前へと動く。
おぼろ……朧、朧ッ。そこに、いるのですか!?
感情が、身体が、消えた筈の意志に支配される。
頭の中に在った小さな想いの欠片が、熱を帯び膨れ上がる。
辿り着いた戦場跡。
老婆の言ったように、そこには幾つもの死体が晒されるように転がっていた。
斬られた傷口は生々しく、刺されて絶命したものの目は痛みに見開かれたまま。
上空には、死肉を求めてだろうか? 黒々とした烏が飛び交っている。
「!」
驚きに、息が詰まりそうになった
血に染まった大地に転がる屍。その一つに腰掛けている小さな影。
差し始めた朝陽を受けて、白銀の髪が鈍く光っていた。
震えだす右手を、左手が抑えて宥める。
「おぼろ……じゃ、無い?」
見える背中は、記憶にある朧よりも更に幼く小さい。
急速に、頭の中が冷えてゆく。
激しく脈打っていた心臓も、穏やかに戻っていった。
足音を立てないよう、気配を殺し子鬼と噂されている少年に近付く。
やはり、髪の癖も朧よりキツい。
全くの別人。
松陽が近づいていることも気付かず、少年は握り飯を貪り食っていた。
それは、きっと老婆が供えた物だろう。
鬼でも何でもない、幼い身でありながら戦場荒らしをして生きている人間の子供。
期待が失望に変わる。
ずっと意識の中に在った欠片が、氷が解けだすように崩れ始めた。
もしやとの一縷の望みで残された欠片が消えて、心の奥に沁み入る。
刹那の感情の共有。
我知らず、ただ一粒だけ涙が流れた。
頬の上で消え、吹く風に乾かされる。
頭目の私が、朧に出会ったように。
吉田松陽の私が、この戦場荒らしの少年に出会ったのは運命かもしれない。
「屍を食らう鬼が出るときいて来てみれば……」
右手を差し出し、少年を脅かせぬようゆっくりと近付く。
「また、随分と」
結局話しかける声に驚いて、少年は固まった。
口いっぱいに飯を詰め込み、頬膨らませ、大きく瞳を瞠る。
その様子は、戦場に不似合いで幼く可愛い。
「カワイイ鬼がいたものですね」
松陽は、なにがしかの絆を感じ自然に笑みを零した。
了 2017.05.29
果てなく、寄る辺もない。
けれど、身も心も自由な旅。
天照院奈落という時代の為政者の作った軛から逃れ切り、鬼と恐れ忌み嫌う視線を欺く擬態を身に付けた男の足取りは、宿場に続く街道をしっかりと踏みしめていた。
なのに、その眸だけは哀しみの色を宿している。
胸の奥底に、石のような塊があった。
それは、溶けない氷のように男の気持ちを重苦しくしている。
その原因は、分かっていた。
初めての一番弟子、大切な存在を喪った夜。
私の中の私【奈落の頭目として生きた私】が、消えた日に遡る。
激しい慟哭と、精神を切り裂く痛みの記憶。
後悔と絶望と深い悲しみの感情が渦を巻き、最期は闇に呑まれるように静かに消えた。
その時の私はまだ意識の欠片でしかなく、その感情を共有する事は出来ずにいた。
そして、明くる朝。
松の木の下で、私は目覚めた。
いや、生まれたと言った方が良いかもしれない。
哀しみの記憶と、松下村塾を創るのだとの切望を胸に抱き【吉田松陽】となった。
【奈落の頭目として生きた私】が慈しんだ一番弟子と交わした約束を叶える為に。
手を血に染めた鬼ではなく、人として生きる為に生まれ変わった。
その自我の目覚めから半年。
殺人集団の中にいては知らぬままでいた、人間としての生きる術を学んだ。
日々何かしら得るものがあり吉田松陽という個が形作られてゆく。
そんな中でも哀しみの塊は消えること無く、胸の奥に存在し続けた。
それこそが、消えた筈のもう一人の想いの欠片。
彼の墓標として、留めておくべき記憶。
時間が経過しても薄れず、己の眸に翳りを落とし続ける。
それでいいと、思った。忘れてはいけない記憶だと。
「今夜は、ちゃんと布団で眠れそうですね」
三度笠を傾けて、宿場町までの距離を見る。
このまま安芸を抜けて周防・長門まで行くか、それとも瀬戸の海を渡って伊予に入るか?
この先の事を、今夜は布団の中で考えようと歩く速度を上げる。
とにかく都から離れ、朝廷や幕府から目の届かぬ場所へ落ち着きたかった。
色々と表には出せない方法ではあったが、それなりの資金も調達出来たし、そろそろ私塾も始めたい。
(やっと、君との約束が叶えられそうです)
記憶の中の少年に、心で話しかける。
白銀の柔らかな髪を思い出しながら。
あの頃の私は彼を朧と呼び、優しく頭を撫でていた。
その記憶は思い出せるのに、もう一人の私の感情は紗がかかったように遠い。
愛しいと覚えているのに実感が無いのが、とても哀しく寂しかった。
物思いに耽りながらも、夕陽が空を茜色に染める頃には宿場町に辿り着く。
町の外れ近く、こじんまりとした旅籠に入った。
そこは、一階が飯屋で二階が宿泊所になっている。
近くには銭湯があると聞き、先に湯に入って旅の疲れを癒やそうと思った。
しかし、湯に浸かれば聞こえて来る話題は天人の乱暴狼藉や攘夷の話。
こんな鄙びた田舎の宿場町にまで噂は届いていると実感すると、のんびり湯に浸かっている気分ではなくなった。
明日は、早々に旅立とうと決める。
もっと、南下すべきだと考えた。伊予では無く、周防。いや、場合によっては長門まで。
湯から上がって、夕餉は簡素に蕎麦で済ませる。
『先生!ちゃんと、食べてください』
不意に、頭の中に浮かぶ声。
困った様な、呆れたような、子供の柔らかで優しい声音。
記憶の中の笑顔に重なる。
胸の痛くなる想いの欠片。
(はい、ちゃんと食べましたよ)
両手を合わせ、記憶の中の笑顔に答える。
傍から見れば、ごちそうさまの所作。
松陽は、静かに立ち上がる。
消えてしまった彼の痛みと彼の愛した幼子を、せめて記憶として忘れないでいたい。
いつか穏やかに思い出せるようになるまで、胸に抱いていようと。
混み始めた飯屋で、数人の男たちとすれ違った。
落ち武者の様な成りで、微かに血の匂いを漂わせている。
一瞬、追手だろうかと刀の束に指を這わせたが、相手からは殺気を感じなかった。
纏っている気配は疲弊し、生気も感じられない。
「女将、あれは?」
勘定ついでの体を装い、曖昧な聞き方で男たちに視線を向ける。
「あぁ。あの人たちは、殿様の所のお侍さんやわ」
女将は、首を傾げて続きを話した。
町外れからずっと東の方向で、幕府軍と攘夷軍の戦があったのだと。
彼らは、その敗残兵らしい。
攘夷軍は、余程の強敵だったのだろうか?
かなり、怯えているように見えた。
松陽の視線から、不審に思っている事を感じ取ったのか、女将が更に言葉を付け足す。
「ここ最近、妙な噂かあって。なんでも戦場跡に、屍を食らう鬼が出るとか、見た人がいるとかね。巷じゃ天人なんじゃないかって、言われてるんですよ。じゃから、お客さんも戦場跡には近付かん方がええですよ。何があるか分からんから」
密やかな嫌悪の表情が、心に刺さる。
鬼と言う言葉に、潜められる声や顰める眉が遠い過去の傷を抉った。
そして、一瞬過った微かな期待。
己と同じ存在が?
永久に思えるほど長い時間、出会えなかったのだ。
そんな筈はあるまいと、自らの期待を消す。
女将に礼を伝え、二階の宿泊所に向かう。
旅籠に泊まる時は、なるべく大部屋を選んだ。
宿代を安く済ませるだけでなく、人の中に紛れて消息を不明瞭なものにする為にも役に立つ。
今夜の部屋は、十数人の大部屋だった。
翌朝早い出立の者は、もう高鼾をかいて眠っている。
雑魚寝の部屋での場所取りは、早い者勝ちだ。
万が一を考え、窓側と出入り口近くは避ける。
中央から少し出入り口近くの布団に潜り込む。
刀は枕元ではなく、懐に抱いて寝た。
ずっと野宿続きだったせいで、眠りが足りなくなっていたのだろう。
この夜は、早くに眠気が訪れた。
ざわざわした人の気配が、鼾や寝息に変わり宿全体が明かりの無い暗闇に沈む。
松陽は、過去の記憶の夢をみていた。
珍しく夢を見たのは、鬼という言葉を聞いたせいかも知れない。
何度も何度も、息の根を止められては蘇る。
魂消えるような痛み苦しみ、無限の責苦。
輪廻の輪から外れた存在として、忌み嫌われ恐れられ幽閉された。
気の遠くなる遥かな時間、幾人もの己を生み出し続けた果ての狂気。
憎しみの衝動と、死が叶う人間への憧憬から、彼我の区別無く殺し続けた。
累々と横たわる屍と、夥しい血の海。
血塗れで横たわる幾つもの己の屍、血塗れで虚空を見詰める現在の己の姿。
抗って、抗って、伸ばした手の先……
『せい……先生、大丈夫ですか?』
悪夢に魘された夜、小さな手が触れた温もりを覚えている。
儚く柔らかで、けれど確たる意思を持って、気遣わしげな声音と共に揺り起こしてくれた幼い少年。
陰鬱な日々を、一途な笑顔と眼差しで、希望という光を与えてくれた一番弟子。
―― 朧 ――
彼がいたから、奈落に抗い飛び出す決意がついた。
失えない存在だった子供。
なのに、二度も死の恐怖を与えてしまう結果になった。
あの夜、眠りさえしなければ悲劇は止められていた筈。
この手を、掴んでさえいたら!
離さず、握りしめていたら……
***
「おい、兄ちゃん! 大丈夫か?」
野太い声で、揺り起こされる。
「……ぁ」
悪夢と後悔に苛まされた夢から目覚めた目に映ったのは、旅装束に身を固めた見知らぬ男の姿。
障子から射し込む鈍い陽の光に、夜が明けた事を知る。
「随分と魘されとったよ」
商人風の男は、心配顔で松陽を見下ろした。
「あぁ、すみません。ちょっと夢見が悪かったので。……もう、大丈夫です」
「そうか。なら、まだ朝も早いし寝直すといい」
そうすすめた後、男は市が開く前に隣町まで荷を届けるのだと、荷物を抱えて立ち上がる。
「しかし、あちらさんも酷く魘されていたし……この部屋にはなんか、いるのかねぇ」
くわばらくわばらと経のように唱え、あちらと言った方に視線だけ向け、すぐに部屋を出ていった。
松陽は、もう眠る気にはなれず布団を畳む。
昨夜の噂話も気になっていた事だし、早めに出立しようと身支度を始めた時。
「だから! 見間違いなんかじゃねェ!」
突然の怒鳴り声に振り返れば、それはあちらさんと言われた男・昨夜見た敗戦兵の発したものだった。
「しぃ!まだ、皆寝とる。静かにせいや」
「いや、俺も見た……ありゃ間違い無く鬼だ!」
仲間を宥める男に、他の男が言い募る。
見た者と、見て無い者。その比率は、見て無い者の方が多い。
「ありゃ、酷い戦だった。疲れて幻も見るさ。なぁ」
「さっきだって、夢だったんだろ」
「ほら、も一回寝ろ」
口々に、夢だ幻だと言い聞かせ、見たという者を寝かしつける。
「夢でなんか、あるもんか! あんな子供なのに白髪なんて、想像もした事ねぇ!」
「子供が、死体に腰掛けたりなんかするもんか! ありゃ、間違いなく鬼だ!」
「屍を食ってんだ、鬼にきまってるだろ!」
押さえ付けても抵抗するのに「分かった、分かった。とにかく、寝ろ」の一点張りで真面目に取り合おうとはしない。
だがもう、それは松陽の意識の外の出来事に変わっていた。
白髪の子供。死体をものともしない子供。
鬼の様子を、聞いて胸の奥がざわついた。
記憶の中に在る少年の姿が浮かぶ。
もしかしてとの思いが強まった。
己の呪われた血を与えたばかりに、あの絶望的な状況から生還したのだろうか?
けれど、その血故に精神に異常をきたしてしまった?
「確かめなければ」
己の感情とは違う、遠く壁を隔てたような頭の奥で期待と不安が湧き上がってくる。
その感情に急き立てられるように、刀を握りしめ宿を後にした。
町外れから、東の方向を見据える。
まだ薄っすらと朝靄がかかっているが、歩いて行くうちに消えるだろう。
数刻も歩くと、老婆とすれ違った。来る先は、戦場跡。
思わず声を掛けてしまったのは、冷静になりたかったからかもしれない。
「この先で、鬼を見られましたか?」
胸の痛い愚問。
否定して欲しいのか、肯定して欲しいのか、己でも分からなかった。
「鬼ですか……」
老婆の皴枯れた声は、カサカサと吹く風の音の様。
「たくさん転がってるのを見たよ。殺し殺されて……修羅の鬼が、わしの息子を奪ってしもた」
幕府か攘夷かは分からないが、老婆の息子は戦場で命を落としたのだ。
その瞳は悲しみに満ち、人こそが鬼だと語っている。
暗い目に涙は無く、見せる表情は疲れ切っていた。
子供の姿を見ましたかと、重ねて問う事が憚られる。
躊躇う松陽に、老婆は「お前さんも、誰かに供え物を?」と問うた。
老婆は、早朝から戦場跡に握り飯を供えに行っていたらしい。
松陽も、誰か縁故の者に会いに行くのだろうと思われた。
曖昧に首を振り、老婆に別れを告げて戦場跡へ向かう。
自分の物では無い衝動に気が急くが、足取りは重くなっていた。
やはり、あれは敗残兵の戯言。気の病が見せた幻ではないかと疑った。
そうして、それでも、やはり足は前へ前へと動く。
おぼろ……朧、朧ッ。そこに、いるのですか!?
感情が、身体が、消えた筈の意志に支配される。
頭の中に在った小さな想いの欠片が、熱を帯び膨れ上がる。
辿り着いた戦場跡。
老婆の言ったように、そこには幾つもの死体が晒されるように転がっていた。
斬られた傷口は生々しく、刺されて絶命したものの目は痛みに見開かれたまま。
上空には、死肉を求めてだろうか? 黒々とした烏が飛び交っている。
「!」
驚きに、息が詰まりそうになった
血に染まった大地に転がる屍。その一つに腰掛けている小さな影。
差し始めた朝陽を受けて、白銀の髪が鈍く光っていた。
震えだす右手を、左手が抑えて宥める。
「おぼろ……じゃ、無い?」
見える背中は、記憶にある朧よりも更に幼く小さい。
急速に、頭の中が冷えてゆく。
激しく脈打っていた心臓も、穏やかに戻っていった。
足音を立てないよう、気配を殺し子鬼と噂されている少年に近付く。
やはり、髪の癖も朧よりキツい。
全くの別人。
松陽が近づいていることも気付かず、少年は握り飯を貪り食っていた。
それは、きっと老婆が供えた物だろう。
鬼でも何でもない、幼い身でありながら戦場荒らしをして生きている人間の子供。
期待が失望に変わる。
ずっと意識の中に在った欠片が、氷が解けだすように崩れ始めた。
もしやとの一縷の望みで残された欠片が消えて、心の奥に沁み入る。
刹那の感情の共有。
我知らず、ただ一粒だけ涙が流れた。
頬の上で消え、吹く風に乾かされる。
頭目の私が、朧に出会ったように。
吉田松陽の私が、この戦場荒らしの少年に出会ったのは運命かもしれない。
「屍を食らう鬼が出るときいて来てみれば……」
右手を差し出し、少年を脅かせぬようゆっくりと近付く。
「また、随分と」
結局話しかける声に驚いて、少年は固まった。
口いっぱいに飯を詰め込み、頬膨らませ、大きく瞳を瞠る。
その様子は、戦場に不似合いで幼く可愛い。
「カワイイ鬼がいたものですね」
松陽は、なにがしかの絆を感じ自然に笑みを零した。
了 2017.05.29
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