松朧(IF村塾多数)
「火を放て!それで、完了だ」
暗殺集団・奈落に所属する朧が、命令の言葉を投げる。
組織に拾われた時はまだ幼い奴隷だったが、首領の謎の失踪後メキメキと頭角を現し、今では小規模の暗殺部隊に統率者として出向くようになっていた。
今日の仕事は、禁制品の密輸に関わる田舎藩主の討伐。
幕府の目を掻い潜り、天導衆以外の天人と手を組んでいた。
幕府の依頼は、すべてを焼き尽くせという苛烈な指示。
どういう経緯で、表立って取沙汰せず暗殺の形を取るのかは分からないし、知る必要も無い。
武家屋敷の母屋に累々と転がる死体を集め、その山と家屋に火を放つ。
黒い水を使って放たれた火は、あっという間に全てを炎の中に呑み込んだ。
茜の空を、更に焦がすような紅蓮。
夥しい血の海にも似た赤が、不意に朧の封じ込めた記憶を呼び覚ました。
心の奥底深く、決して周囲に漏らしてはいけない思慕。
狂おしいほど逢いたくて、けれど最早血に塗れた身で近付いてはいけない人。
(せんせい……)
音にならない、心の声が思い出の声と重なる。
「先生、もう日も暮れます。いい加減、本から目を放して食事を取って下さい」
暗殺集団・奈落の本拠地とは思えない、静かな家屋の中庭。
小さな子供が竹箒を片手に、中庭に面した縁側から室内へと呼び掛ける。
先生と呼ばれた長髪の男は、ゆっくりと本から顔を上げた。
「おや、もうそんな時間でしたか?」
おっとりとした物言いと柔らかな眼差しを、呼び掛けた子供に向ける。
「もう、そんな時間です! お昼も取られて無かったのに、夕餉まで」
「ああ、分かった、私が悪かった。ちゃんと、食べますよ」
勢いでお説教が始まりそうな予感に、男は急いで謝罪の言葉を口にする。
どうして、この命が消えゆくままに出来なかったのか分からない。
己の不死の血で、この世に繋ぎ止めてしまった幼い子供。
この子の言葉に耳を傾け、その動きを眺めているのが、こんなにも心楽しく心和む。
そんな想いを笑みに滲ませながら、縁側へと足を進めた。
「本当ですね? じゃ、すぐに食事を運びます!」
竹箒を手放し、中庭から駆け出そうとする子供の名を呼んで引き止める。
「朧、待ちなさい」
朧は、その声にピタリと動きを止めた。
子犬の様に忠実な瞳をして見上げ、男の次の言葉を待つ。
「こちらに、おいでなさい」
手招きして、縁側に腰掛ける。
「はい」
そば近くに行ける事が嬉しくて、朧は元気よく返事をし男の前へ立った。
何か御用だろうか? お役に立てることがあるだろうかと、期待に瞳を輝かせる。
朧の様子に男は手を差しだし、自分の方へと引っ張り上げた。
「せ、先生ッ?!」
いきなり男の膝の上に乗せられて、朧は慌てふためく。
暗殺集団の頭目と、皆から恐れられる存在。
普段から仮面を付け、表情を窺わせない人。でも、自分には優しい笑みを見せてくれる。
そんな人の膝の上に乗って良いのだろうか? いや、周りの目がある。
「先生、先生、いけません! 着物が汚れます!」
なるべく自分の草履が、男の着物の裾に当たらないよう振り上げた。
「じゃあ、脱がせてしまいましょうか」
暴れる朧の腰を片腕で固定すると、反対の手でヒョイッと草履を取り去ってしまう。
「さ、これで大丈夫ですよ」
両腕で朧を抱き直し、ふわりと柔らかな色素の薄い髪に顎を乗せた。
肌に触れる柔らかさを慈しむ様に、頬擦りする。
微かに、汗と土の匂いがした。小さな身体で、下働きとして一日中働いていたのだろう。
片手を放して、朧の頭を撫でる。
「先生、あの? ちょっと?」
優しく抱かれ髪を梳られる、くすぐったいような恥ずかしいような、けれど心が満たされる感覚に朧は戸惑った。
物心つく前の記憶は無い。もしかしたら、生まれてすぐ捨てられたのかも知れない。
生まれて初めての優しい感触に、胸が熱くなる。
親の愛情というものがあるとしたら、それはこんな感じなのだろうか?
「朧は、良い子ですね。今日も、一生懸命働いたのでしょう。偉かったですね」
いたわる様に髪を撫でられ、赤子をあやしているかのように軽く身を揺すられる。
背中が暖かく、耳に囁かれる声は心地良い。
自分の働きなどと否定しようとした言葉は、穏やかな空気の中で溶かされた。
「はい、せんせい。俺っ……」
頑張りましたと続けるつもりが、続けられない。熱い塊のような何かが、胸に詰まった。
無理に言葉を出せば、きっと涙が零れてしまう。瞼の裏の熱が乾く様にと、夕焼け空を見上げた。
真っ赤な夕焼けに染まる空。西の尾根を焼いて、木々の緑が茜色に燃え上がる。
「そうですか、頑張ったのですね」
心の声が聞こえたのだろうか? 言いたかった言葉を掬い上げてくれた。
やはり言葉は出なくて、唯こくりと頷く。
「夜まで時間がありますから、少しお休みなさい」
そっと、身体の向きを斜めに変えられて、胸に凭れ掛かる位置に直される。
髪を撫でていた優しい手が下りて来て、肩に添えられた。
調子を取る様に何度か、ポンポンと指先だけで触れる。
ねんねんよねんねこよ ねんねん小山の雉の子は
起きたらお鷹にとられます だまってねんねんねんねんよ
身体を揺するのに合わせて、小さな唄声が耳に届く。
朧は初めて耳する唄に、思わず顔を上げた。
そこには、愛おしそうに見返してくる優しい眼差し。
夕陽に照らされているせいだろうか? 赤みをさした頬と美しい笑顔。
「子守唄ですよ、自分で唄うなんて、思ったこともありませんでしたが」
「こもりうた?」
今日は知らないことばかり……
それも、すべて優しく心に降り積もる感情ばかり。
「おやすみなさいの唄です。ほら、見られていると恥ずかしいので、お天道様の方を向いていて下さい」
「はい、せんせぇ」
言われた通り、素直に従った。
朧自身も、こそばゆい恥ずかしさにどういう表情をしていいのか分からなかったから。
沈みゆく夕陽と、包まれる暖かさ。
耳に響く優しい声の調子が、心にも沁みて。
記憶は、そこで途切れた。
先生の腕に抱かれ、子守唄を聞かされて眠ってしまったからだろう。
あの日と同じ色の茜空を見上げると、甦ってくる優しい思い出。
そして、今も耳に残る残響。
「朧様、すべて手筈通りに」
部下が、最後の見回りを終え報告に来る。
「そうか、ご苦労」
胸の裡に甦った想いをおくびにも出さず、鋭い視線で辺りを払う。
それが撤収の合図。
焼けた武家屋敷を背後にした朧の記憶から、遠退いてゆく残響。
低く遠くなりながらも、それでも消える事は無い。
暖かで幸せだったひと時の記憶を、再び胸の奥へ秘匿する。
そして見上げる夕空に視線を巡らす。
先生……
私は、貴方を奈落から御守りする為だけに生き延びています。
一番弟子でありながらその教えに背き、この手を血に染めようとも。
朧の心の声は、行方の知れない人に届く事は無い。
ただ、心の中にその残響を残すのみ。
了 2017.05.11
ちょっと、補足。
この当時、松陽先生が、松陽と名乗っていたのか微妙だったので作中では「男」と「先生」表記です。