松朧(IF村塾多数)



夏の最後の思い出。松下村塾の中庭で、吉田家の少年達は花火を楽しんだ。
その名残は庭に残された水を張ったバケツと、空気中に微かに漂う火薬の匂いだけ。
辺りは静寂を取り戻し、月明かりの下で秋の虫が鳴いている。
塾長の吉田松陽は、自然が奏でるオーケストラに耳を傾け縁側で逝く夏を惜しんでいた。
夜風は心地良く月はさやかに輝いて、平穏に過ぎる季節を思い口元に優しい笑みを湛えた松陽の亜麻色の髪を照らす。
平和な萩の片田舎で可愛い弟子達と共に暮らす生活は何物にも代えがたい宝物だと幸福な思いに浸っていたが、背後の物音に気付いて振り返った。
「先生、一本いかがですか?」
障子を開けて、一番弟子の朧が現れる。その手が支える朱塗りの丸盆には、天目の徳利と杯が一組載せられていた。
艶のある天目の酒器は月光を受け鈍く光り、運んで来た朧の白銀の髪は淡く輝いて、どちらも松陽の目に好ましく映る。
「ありがとう、朧」
先に返事をして朧の提案を受け入れてから、朧が丸盆を縁側に置こうとするのに水を差した。
「ですが、酒器が一組しかありませんよ。私に一人で寂しく飲ませるつもりですか?」
言外に、一緒に飲みたいのだと誘いをかけてみる。
子供達も寝てしまったし、二人で話すにはちょうど良い時間だと思ったのだが……
「いえ…… その、まだ夕餉の後片付けが。それに、風呂の湯を抜かなければなりませんし、明日の朝餉の下拵えもまだ」
朧は俯いて、もごもごと断りの文句を並べる。
その顔色は青くなって困っているのではなく頬を染めて赤くなっていたので、嫌がっている訳では無いと判断した。
「じゃあ、今から私も手伝います。全部終わったら、一緒に月見酒を楽しみましょう」
強引に話しを進めようと立ち上がり、朧の持つ丸盆に手を掛ける。
本気で、今夜は話したいのだと分からせるつもりだった。
先月の初め、誕生祝いをして貰った夜。成人したばかりの朧に、長年の想いを告げた。
師弟としてではなく、恋愛対象として見て貰えないだろうかと。
引き出せたのは、畏れ多いという言葉だけで返事は未だお預けを食らったまま。
あれから約一月が過ぎたが、朧の態度に変化は見られない。
ただ、二人きりになるのを避けている様子をそこはかとなく感じて、どうしたものかと思っていたのだ。
「いいえッ!」
俯いていた顔が上がり、今度は青褪めて必死に首を左右に振る。
「私がやりますので、先生はどうか月見酒をお楽しみください!」
言葉と共に丸盆を押し付けられたが、押し戻す。
「一人では嫌です。朧と飲みたいのですよ」
にっこり笑って「だから、早く家事を終わらせてしまいましょう」と付け足した。
すると、朧は観念したように肩を落とす。その態度が、無言で家事を任せられないと語っている。
「分かりました、家事は明日にします。 ……燗を、もう一本つけてきますので、もう暫くお待ち下さい」
普段の家事の出来なさが、こんな時に功を奏したのは不本意だが目的は達したので良しとした。
松陽は障子を開けたまま、朧が戻って来るのを待つ。
「お酒が入れば、少しは本心を聴かせてもらえるでしょうかねぇ」
月に向かって、独り呟いた。


「お待たせいたしました」
今度はちゃんと徳利杯も二組盆に載せられている。
「はい」と頷いて体を左側に傾け、右隣に座るよう促した。
朧は二人の間に丸盆を置き、松陽に向かって斜めに角度を取って正座する。
手酌で楽しむつもりは毛頭無く、松陽に酌をする事に徹しようとする様子が窺えた。
いつまでたっても、小姓気質が抜けないように思える。それが少し、いや、かなり切ない。
「朧、そこに座られては話し辛いです。それに、こちらに座った方が月を楽しめますよ」
丸盆を取り払い、さっと後方へ移してしまう。徳利と杯だけなら、二人を隔てる距離も縮められる。
軽く手招きして縁側の縁に座るよう促すが、朧はなかなか腰を上げない。
「朧?」
「はい、先生」
呼びかけると顔を上げるものの、視線は下方へと逃れる。
月光の下で眺めるその所作は、まるで流し目のように見えた。
まるで誘惑されている様な気分になる。
ゆっくり優しく話すつもりでいたが、余裕がなくなった。
「こちらに来なさい」
自然と声が低まり、高圧的な物言いになってしまう。
こんな風に従わせたくは無いのだが、上からの命令口調の方が朧は動きやすいようだった。
「はっ」
ひと言応えるや、すぐに松陽の隣に移動して同じように縁側の縁に腰掛ける。
二人の間の距離は、瞬く間に徳利一本分となった。
松陽は余計な言葉を口にせず、杯を手に取って朧の前に差し出す。
朧もそれが当然のように、徳利を掴んで杯に酒を注いだ。
天目の杯の中で、月の滴を思わせる黄金色の液体が波紋を広げて揺れる。
熱燗特有の強い香りを気にする事無く、一気に呷って喉を焼く刺激を味わう。
「君も、飲みなさい」
朧の手から徳利を取り上げて、自分が飲んだばかりの杯を持たせる。
間接的な、口づけ。
松陽はただ二人の間が別の動作によって開いてしまう事だけを気にしていて、そんな事を狙っていた訳では無かったのだが、杯を受け取った朧は違った。
平静を装っていたが、杯を摘まむ指先は誤魔化しようの無いぐらい力が入って白くなっている。
とくとくと注がれる黄金色の液体では無く、松陽の唇を盗み見ていた。
「私の注いだ酒は、飲めませんか?」
そう言われて初めて、酒が注ぎ終わっている事に気付く。
「い、頂きます」
逡巡の後、そっと杯に口をつける。そこは、松陽が飲んでいた場所だった。
それが分かっているからこそ、二度三度と口付けることは出来ない。
朧も、一気に酒を呷った。
「先生、ご返杯を」
手を伸ばし後ろに置かれた杯に触れようとしたが、松陽の手に絡め取られる。
朧の左手の指の間に松陽の右手の指が滑り込み、逃げられないように強く握られた。
「洗い物を増やすのは止めましょう」
内緒話をするように額を寄せられ、この杯だけで回し飲みしようと誘いの言葉を耳元で囁かれる。
小さな子供の頃は別として、思春期を過ぎてからこのような吐息のかかる近い距離で話しかけられた事は無い。
背筋に走る未知の感覚と間接的な口づけに、朧の頭は一杯一杯になり声も出せず頷く事しか出来なかった。
「そのまま、杯を持っていてくださいね」
捉えた手を離す事はせず体を寄せたまま、朧の持つ杯に追加の酒を注ぐ。
なみなみと満たされた黄金色に、満足の笑みを零して朧を見詰める。
「それを、私に飲ませてください」
そうお願い口調で話しかけると、朧の白い頬に朱が散った。
請われるままに、杯を松陽の唇に宛てがう。
朧は手を揺らさないよう集中しながら、杯を傾けてゆく。
朧の視線は自然と、松陽の口元に引き寄せられた。
こうして二人きりでいると、どうしても告白された日の事を思い出す。
まるで、夢の中で起こった出来事に思えた。
或いは、自分の願望が見せた幻だと。
幼い頃から慕い続けた気持ちが変化しているのを自覚していたが、それは畏れ多い事だと押し殺して来たのだ。
敬慕から恋い焦がれる気持ちを、持て余し諦めようと決めていた。そのつもりだったのに……
「朧、次は君の番ですよ」
声をかけられて、杯が空になっていた事に気付く。
松陽が徳利を差し出すのに合わせて、杯で酒を受け取った。緊張と恋情が、動悸を走らせる。


そんな返杯を、ほぼ無言で繰り返した。
月見酒といいながら、月など見ていない。
互いの瞳に映っていたのは、互いの濡れた唇だった。
やがて二本の徳利は空になり、後ろの丸盆の上に戻される。
一緒に使った杯だけが、朧の手の中に残った。
二人の距離は酔いによって埋められ、互いの体温を感じられるほど密着する。
この頃になって、やっと二人は月を仰ぎ見た。
繋いだままの手に、力が入る。
「朧…… 君の気持ちを聴かせて下さい」
月から朧へ、視線を移す。
「君は、私を師として見ることしか出来ませんか?」
松陽の瞳に浮かぶ切なさを感じとった朧は、胸に痛みを覚えた。
こんな眼差しをさせている原因は、自分なのだと自覚する。
「先生、私は、」
答えなくてはと、咄嗟に口を開くも続ける言葉が出てこない。
畏れ多いと尻込みする心と、秘めた想いを打ち明けたいと願う心がぶつかって、荒波のように心乱れる。
「大丈夫です。君がどう答えても、私が君に対する態度を変える事はありません」
繋いでいた手に片手を添えて、朧の手を包み込む。
「君は畏れ多いと言いましたが、それは私も同じです。長年暗殺者として、この手を血に染めて来ました。君に、私は相応しくないと思われても仕方無いと思います」
朧が不安に思う事を、自分もまた不安に思っているのだと伝えたかった。
「それでも、どうしても君に私の心を告げたくなったのです。私のような化け物が、人間の君に想いを抱くなど赦されな」
「先生! いいえ! 違います! 化け物などと思った事は、一度たりともございません!」
朧は松陽の言葉を最後まで聴かず、言葉尻を引ったくる。
「私は、私は、」
応えてしまって良いのだろうか?
先生には、もっと相応しい方が……
「君の心の中にある言葉を下さい」
渦巻く思考の隙間に、松陽の声が忍び込む。
柔らかで優しい声音。幼い頃から信じ、従ってきた声。
心の琴線に触れた声音と、酒気が回ってきたせいで、必死に閉めていた心の扉が開く。
「私は、先生が好きです。お慕いしております」
開かれた扉から、大切な言葉が流れ出す。
「幼い頃からずっと…… このまま胸に秘めておくつもりでした」

「……えっ?」
朧の告白に対して、一瞬だけ嬉しさより驚きが勝った。
朧と繋いだ手に乗せていた左手を、朧の右肩にかけて引き寄せる。
「幼い頃って、いつからですか?!」
問い詰められると、朧は顔を真っ赤にして俯き「申し訳ございません」と小声で囁いた。
そこを詳しく教えて欲しいと思ったが、ここで応酬を繰り返しては肝心の告白の返事がうやむやになってしまう。
今はこの喜びに浸っていようと、それ以上の追求は保留にした。
その代わりに、肩を掴んでいた手を滑らせて朧の頬に触れる。
俯いた顔を掌で優しく上向かせ、視線を合わせて笑みかけた。
「大好きですよ、朧。私の恋人になって下さい」
もう一度、告白する。気持ちを確かめたのだから、これから先は恋人として傍にいたい。
改めて告白され、朧の顔はこれ以上ない程に朱に染まる。
目が泳ぎ何度も俯きそうになるのを、松陽の手が引き止めた。
もう逃げる事は出来ないと意を決し、伏し目がちになりながらも口を開く。
「はい。不調法者ですが、よろしくお願い申し上げます」
硬い返事に、松陽は苦笑した。
「そんなに緊張しなくとも大丈夫ですよ。ほら、ご覧なさい」
朧の心を解すように、夜空を指差す。
「月が綺麗ですよ」
松陽の言葉につられて、視線を上げ夜空を見上げた。
けれど朧の目に月が映ったのは一瞬で、視界は亜麻色と緑色に占領された後に闇色になる。
唇に柔らかな温もりを感じ、手から天目の杯が転がり落ちた。
後はただ、夢見心地。




了 2020.9.19



このお話は、銀魂Webオンリー『かぶき町ゴールデン街しろがね通り』のエア無配ペーパーとして書きました。





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