仔ぼろちゃん in 奈落
夕刻前に降った雨の露が空の茜色を映し、森に繁る葉や下草を輝かせていた。
その輝きも、やがて下りてくる夕闇に飲み込まれてゆくだろう。
この隠れ里では木々が鬱蒼と茂り、里よりも夕暮れが早い。
それを良く知っている少年、朧は道行を急ぐことにした。
「先生。走っても、よろしいでしょうか?」
雨後の泥濘む道で、そんな申し出をする小さな少年に彼の師は首を傾げた。
まだ日暮れまで間があるというに、何をそんなに急いでいるのだろうかと。
朧の片手には、提灯も握られている。日が落ちても、足元の心配は無いはずだ。
「走るのは構いませんが、慌てて転ばないようにしてください」
小さな子供の駆け足など早歩きでついて行けるが、転んで怪我をされるのが心配で引かれている手に力を込める。
「大丈夫です。この辺りは、野草採りでよく来ていますので」
握り込んだ手は、力強く握り返された。
言葉にも表情にも、溌剌とした元気が感じられる。どうやら自分に与えられた仕事に、誇りを持っている口ぶり。
この環境に染まらぬ内に手放すつもりで小姓にしたが、身の回りの世話だけではまだまだ役に立てていないと思っていたのだろう。こうして外に出て出来る仕事が増えたのが、嬉しいのだと分かる。
日頃から役に立ちたいと教えを請われていたが、この無垢な子供の手を血に染めたく無いと暗殺術は教えなかった。
この判断は、正しかった。彼は自分の出来る事を、こつこつと増やしている。
……そして、それは彼を手放す日が近付いて来ていることを思い知らせた。
あと少し、あと少しと、手放す日を先延ばしにしてはいられない時期に来ている。
(ああ、いっそこの子と一緒に奈落を抜けられたら……)
そんな師の思いなど知らぬ朧は、転ばぬように意識を足元に向けたまま道を急ぐ。
薬草採集の帰りに見つけた景色を、一刻も早く先生に見せたかった。
奈落の隠れ里内で、誰かが口にしているのを聞いたことも無い。
だからきっと、先生も知らないはずだと思った。
金品を持たない自分でも、あんなに素敵な贈り物が出来るのだと心が逸る。
命の恩人に対して、ささやかではあるが今に自分にできる精一杯のお返し。
「先生、この先に小川があるのです」
川のせせらぎが聞こえてきた所で、朧が立ち止まる。
繋いでいた手を離し、口元で人差し指を立てた。
先導する少年の歩調が静かになるのに合わせて、師の足取りも慎重になる。
(そういうことですか)
この時期の夕刻、川辺、足音を忍ばせる様子は、恐らく脅かさない為の配慮だろう。
少年が、自分に何を見せたいのかを悟った。
せっかく秘密の場所に案内してくれているのだから、ココは知らないふりを決めようと応える声に驚きを滲ませる。
「こんな場所に、小川があるのですか?」
「はい、先日見つけました!」
師の予想通りの反応に、少年の声は喜びに高まった。だが自身の声の大きさに、慌てて口を塞ぐ。
自分で静かにと合図しておきながら、大声を出してしまった不甲斐なさに肩を落とした。
呆れられてしまったのではないだろうかと、上目遣いで師を見上げる。
「小川に、何かあるのですか?」
朧の視線は、笑顔と共に受け止められた。
何も気にされていない様子に、朧はホッと息を吐いて気を取り直す。
「先生、こちらへ」
丁度良い具合に、辺りが夕闇に包まれる。
朧は師の手を引き、疎らになってくる木々の間を抜けて小川の傍まで案内した。
***
二人は湿った柔らかい下草を踏みながら川縁へと近づく。
小川を流れる水は清らかで、水面は月光を弾き煌めいていた。
「綺麗ですねぇ」
感嘆の吐息を漏らす師の声を聴いて、朧は笑みを浮かべる。
この美しい景色よりも、もっと見せたいものがあった。
水面近くや草むらに、素早く視線をさ迷わせる。
探し物はすぐに見つかった。
「先生、あちらをご覧ください」
朧の指差す方向に、温かみのある小さな光の球がふわふわと揺らめいていた。
そこ以外にも暮れたばかりの夜闇の中で下草を光らせたり、川面にゆらりと光の線を描きながら優雅に飛んでいる幾つもの輝きが目に入る。
「蛍ですね! こんな場所があるとは、知りませんでした」
予想通りではあったが、少年の嬉しそうな表情を曇らせたくなくて小さな嘘をついてしまった。
本当は、川があることも蛍が生息していることも知っている。ただ、近付きたくなかっただけ。
蛍は死者の魂なのだと、何かの本で読んだことがある。
それを信じている訳ではないが、この淡く儚い蛍火を眺めていると忸怩たる思いに胸が塞がれた。
けれど、それを朧に悟られないよう口角を上げる。
「朧、ありがとう」
柔らかな髪を撫でて、視線を朧に移す。
「君が私に見せたかったのは、この景色なのですね」
「はい!」
優しい微笑みと言葉に、朧は頬を紅潮させた。
師を見上げた後、くるりと身を翻す。
小川を背にして、師と向き合った。
「私は、この命以外何も持っていません。ご恩返ししたくとも、先生の身の回りのお世話や里の下働きをするくらいでは、全然足りないって……」
恥じ入る様に睫を伏せてから、再度視線を上げて両手を広げる。
「でも! こうして綺麗な場所を見つけて、ご案内することは出来るようになりました。これからも、もっともっと精進いたします。先生に、楽しんで」
楽しんでいただけるよう頑張りますと言葉を続けようとしたが、それは師の抱擁によって阻まれた。
まだ沢山、伝えたいことがある。
この場所を見付けて、最初に思ったのは美しい風景を先生に捧げたいということ。
嬉しいこと、楽しいこと、素晴らしいこと、それら全てを先生に捧げたい。
先生が笑顔になって下さるなら、少しだけご恩返しができた気がする。
先生の笑顔を拝見できるだけで、自分は幸せを感じますと。
言葉にしなくとも、こうして抱きしめて下さるのは想いが届いたからなのだろうか?
たとえ違うとしても先生の行動を優先させる方が良いと、想いを声にすることは止めた。
代わりに、師の背中に提灯が当たらぬようにそっと手を回す。
こうして触れて貰えるのも幸せなのですと思っていることが、自分の手の温もりから先生に伝わりますようにと願いながら。
小川を飛び交う蛍の淡い光に照らされて、朧の髪や肩が白く耀き、まるでそのままひっそりと消えてしまうかに見えた。
自分の手の届かぬ場所、黄泉平坂へと連れ去られてしまうのではないかと。
(この子を、失いたくない!)
瞬間的な激しい思いが、体を突き動かしていた。
小さな体を抱き締めて、自分の傍にいて欲しいと必死で願う。
(もう、この子を手放すことなど出来ない!)
心の奥底にある本音に、こんな事で気付かされてしまった。
手放せないけれど、この隠れ里に置いておくわけにもいかない。
(ならば、答えは一つ)
しかし、決行するにはどれほどの危険を伴うだろう?
行動することによって、逆に朧を失う結果になってしまったら?
そう思うだけで、更に恐怖が足元から這い上がってくる。
理性では抑えきれない恐怖心が、背中に触れた小さな手の温もりに溶けていった。
暖かな想いに包まれているような心地がして、強張っていた体から力が抜ける。
小さく息を吐いて、抱擁を緩めた。
自分が動いたせいで、背中から離れてゆく小さな手が名残惜しい。
「先生?」
戸惑いの声に呼ばれて、咄嗟に笑顔を作る。
懸命に考えた朧の思いを、台無しにしてはいけない。
「すみません、あまりに感動してしまって!」
「そうでしたか」
ごまかした言葉に、納得の言葉と眩しい笑顔が返ってくる。
少し心は痛んだが、この笑顔を護るためだと自身を納得させた。
微笑み合う二人の頭上を、淡い光が通り過ぎる。
どちらが先か分からないくらいの時間差で、上空を見上げた。
夜の闇は更に深くなり、月が煌々と青白く輝いている。
銀色の月光の下、淡い黄金色の蛍火が舞い踊る様は神秘的で暫し二人の視線を釘付けにした。
「あ! 夕餉の支度を、手伝わねばなりませんでした」
突然自分の仕事を思い出して、朧は優しい抱擁からするりと抜け出ようと身を捩る。
(本当はもっと、先生と一緒にいたい)
自分の思いよりも、師のお世話の為に働かなくてはと気が焦った。
しかし、師の抱擁は解けない。
「大丈夫です。私の世話をしていたと言えば、問題ありません」
そう言われてしまえば、自分はおろか里の誰も責めないだろう。
何よりも、まだ一緒に蛍を眺めていたい気持ちに素直に従える。
「はい、先生」
「良いお返事ですね」
腕の中で大人しくなった朧に、今度は心からの笑顔を向けた。
避けてきた蛍も朧と二人で眺めるなら、心の痛みも幾分和らぐ気がする。
だからもう少しだけ、密かに決意を固めた夜の美しさを味わっていたい。
君と共に、過ごせる日々を夢見て。
了
2023.6.23
その輝きも、やがて下りてくる夕闇に飲み込まれてゆくだろう。
この隠れ里では木々が鬱蒼と茂り、里よりも夕暮れが早い。
それを良く知っている少年、朧は道行を急ぐことにした。
「先生。走っても、よろしいでしょうか?」
雨後の泥濘む道で、そんな申し出をする小さな少年に彼の師は首を傾げた。
まだ日暮れまで間があるというに、何をそんなに急いでいるのだろうかと。
朧の片手には、提灯も握られている。日が落ちても、足元の心配は無いはずだ。
「走るのは構いませんが、慌てて転ばないようにしてください」
小さな子供の駆け足など早歩きでついて行けるが、転んで怪我をされるのが心配で引かれている手に力を込める。
「大丈夫です。この辺りは、野草採りでよく来ていますので」
握り込んだ手は、力強く握り返された。
言葉にも表情にも、溌剌とした元気が感じられる。どうやら自分に与えられた仕事に、誇りを持っている口ぶり。
この環境に染まらぬ内に手放すつもりで小姓にしたが、身の回りの世話だけではまだまだ役に立てていないと思っていたのだろう。こうして外に出て出来る仕事が増えたのが、嬉しいのだと分かる。
日頃から役に立ちたいと教えを請われていたが、この無垢な子供の手を血に染めたく無いと暗殺術は教えなかった。
この判断は、正しかった。彼は自分の出来る事を、こつこつと増やしている。
……そして、それは彼を手放す日が近付いて来ていることを思い知らせた。
あと少し、あと少しと、手放す日を先延ばしにしてはいられない時期に来ている。
(ああ、いっそこの子と一緒に奈落を抜けられたら……)
そんな師の思いなど知らぬ朧は、転ばぬように意識を足元に向けたまま道を急ぐ。
薬草採集の帰りに見つけた景色を、一刻も早く先生に見せたかった。
奈落の隠れ里内で、誰かが口にしているのを聞いたことも無い。
だからきっと、先生も知らないはずだと思った。
金品を持たない自分でも、あんなに素敵な贈り物が出来るのだと心が逸る。
命の恩人に対して、ささやかではあるが今に自分にできる精一杯のお返し。
「先生、この先に小川があるのです」
川のせせらぎが聞こえてきた所で、朧が立ち止まる。
繋いでいた手を離し、口元で人差し指を立てた。
先導する少年の歩調が静かになるのに合わせて、師の足取りも慎重になる。
(そういうことですか)
この時期の夕刻、川辺、足音を忍ばせる様子は、恐らく脅かさない為の配慮だろう。
少年が、自分に何を見せたいのかを悟った。
せっかく秘密の場所に案内してくれているのだから、ココは知らないふりを決めようと応える声に驚きを滲ませる。
「こんな場所に、小川があるのですか?」
「はい、先日見つけました!」
師の予想通りの反応に、少年の声は喜びに高まった。だが自身の声の大きさに、慌てて口を塞ぐ。
自分で静かにと合図しておきながら、大声を出してしまった不甲斐なさに肩を落とした。
呆れられてしまったのではないだろうかと、上目遣いで師を見上げる。
「小川に、何かあるのですか?」
朧の視線は、笑顔と共に受け止められた。
何も気にされていない様子に、朧はホッと息を吐いて気を取り直す。
「先生、こちらへ」
丁度良い具合に、辺りが夕闇に包まれる。
朧は師の手を引き、疎らになってくる木々の間を抜けて小川の傍まで案内した。
***
二人は湿った柔らかい下草を踏みながら川縁へと近づく。
小川を流れる水は清らかで、水面は月光を弾き煌めいていた。
「綺麗ですねぇ」
感嘆の吐息を漏らす師の声を聴いて、朧は笑みを浮かべる。
この美しい景色よりも、もっと見せたいものがあった。
水面近くや草むらに、素早く視線をさ迷わせる。
探し物はすぐに見つかった。
「先生、あちらをご覧ください」
朧の指差す方向に、温かみのある小さな光の球がふわふわと揺らめいていた。
そこ以外にも暮れたばかりの夜闇の中で下草を光らせたり、川面にゆらりと光の線を描きながら優雅に飛んでいる幾つもの輝きが目に入る。
「蛍ですね! こんな場所があるとは、知りませんでした」
予想通りではあったが、少年の嬉しそうな表情を曇らせたくなくて小さな嘘をついてしまった。
本当は、川があることも蛍が生息していることも知っている。ただ、近付きたくなかっただけ。
蛍は死者の魂なのだと、何かの本で読んだことがある。
それを信じている訳ではないが、この淡く儚い蛍火を眺めていると忸怩たる思いに胸が塞がれた。
けれど、それを朧に悟られないよう口角を上げる。
「朧、ありがとう」
柔らかな髪を撫でて、視線を朧に移す。
「君が私に見せたかったのは、この景色なのですね」
「はい!」
優しい微笑みと言葉に、朧は頬を紅潮させた。
師を見上げた後、くるりと身を翻す。
小川を背にして、師と向き合った。
「私は、この命以外何も持っていません。ご恩返ししたくとも、先生の身の回りのお世話や里の下働きをするくらいでは、全然足りないって……」
恥じ入る様に睫を伏せてから、再度視線を上げて両手を広げる。
「でも! こうして綺麗な場所を見つけて、ご案内することは出来るようになりました。これからも、もっともっと精進いたします。先生に、楽しんで」
楽しんでいただけるよう頑張りますと言葉を続けようとしたが、それは師の抱擁によって阻まれた。
まだ沢山、伝えたいことがある。
この場所を見付けて、最初に思ったのは美しい風景を先生に捧げたいということ。
嬉しいこと、楽しいこと、素晴らしいこと、それら全てを先生に捧げたい。
先生が笑顔になって下さるなら、少しだけご恩返しができた気がする。
先生の笑顔を拝見できるだけで、自分は幸せを感じますと。
言葉にしなくとも、こうして抱きしめて下さるのは想いが届いたからなのだろうか?
たとえ違うとしても先生の行動を優先させる方が良いと、想いを声にすることは止めた。
代わりに、師の背中に提灯が当たらぬようにそっと手を回す。
こうして触れて貰えるのも幸せなのですと思っていることが、自分の手の温もりから先生に伝わりますようにと願いながら。
小川を飛び交う蛍の淡い光に照らされて、朧の髪や肩が白く耀き、まるでそのままひっそりと消えてしまうかに見えた。
自分の手の届かぬ場所、黄泉平坂へと連れ去られてしまうのではないかと。
(この子を、失いたくない!)
瞬間的な激しい思いが、体を突き動かしていた。
小さな体を抱き締めて、自分の傍にいて欲しいと必死で願う。
(もう、この子を手放すことなど出来ない!)
心の奥底にある本音に、こんな事で気付かされてしまった。
手放せないけれど、この隠れ里に置いておくわけにもいかない。
(ならば、答えは一つ)
しかし、決行するにはどれほどの危険を伴うだろう?
行動することによって、逆に朧を失う結果になってしまったら?
そう思うだけで、更に恐怖が足元から這い上がってくる。
理性では抑えきれない恐怖心が、背中に触れた小さな手の温もりに溶けていった。
暖かな想いに包まれているような心地がして、強張っていた体から力が抜ける。
小さく息を吐いて、抱擁を緩めた。
自分が動いたせいで、背中から離れてゆく小さな手が名残惜しい。
「先生?」
戸惑いの声に呼ばれて、咄嗟に笑顔を作る。
懸命に考えた朧の思いを、台無しにしてはいけない。
「すみません、あまりに感動してしまって!」
「そうでしたか」
ごまかした言葉に、納得の言葉と眩しい笑顔が返ってくる。
少し心は痛んだが、この笑顔を護るためだと自身を納得させた。
微笑み合う二人の頭上を、淡い光が通り過ぎる。
どちらが先か分からないくらいの時間差で、上空を見上げた。
夜の闇は更に深くなり、月が煌々と青白く輝いている。
銀色の月光の下、淡い黄金色の蛍火が舞い踊る様は神秘的で暫し二人の視線を釘付けにした。
「あ! 夕餉の支度を、手伝わねばなりませんでした」
突然自分の仕事を思い出して、朧は優しい抱擁からするりと抜け出ようと身を捩る。
(本当はもっと、先生と一緒にいたい)
自分の思いよりも、師のお世話の為に働かなくてはと気が焦った。
しかし、師の抱擁は解けない。
「大丈夫です。私の世話をしていたと言えば、問題ありません」
そう言われてしまえば、自分はおろか里の誰も責めないだろう。
何よりも、まだ一緒に蛍を眺めていたい気持ちに素直に従える。
「はい、先生」
「良いお返事ですね」
腕の中で大人しくなった朧に、今度は心からの笑顔を向けた。
避けてきた蛍も朧と二人で眺めるなら、心の痛みも幾分和らぐ気がする。
だからもう少しだけ、密かに決意を固めた夜の美しさを味わっていたい。
君と共に、過ごせる日々を夢見て。
了
2023.6.23