仔ぼろちゃん in 奈落


「朧! 朧は、どこですか!」
暗殺集団・天照院奈落の首領は遠征から帰って来た途端、珍しい大声で己の小姓を呼んだ。
暗殺用の黒衣のまま、自室にも戻らず玄関先での呼び出し。
下働きに混じって夕餉の準備をしていた小姓の少年・朧は慌てて玄関まで走った。
心の中では、不安が渦巻いている。
先生の遠征準備で、何か不手際をしてしまったのだろうか?
或いは出発間際に、自分でも気づかぬうちに不敬な態度を取っていたのか?
考えても、分からない。胸の動悸が煩すぎて、考えが纏まらなかった。
せめてみっともない格好は見せまいと、走りながら襷がけを外す。
適当に丸めて、手に握り締めたまま玄関に着いた。
そこには、夕暮れ前の力を落とした陽を背に立っている先生の姿がある。
亜麻色の長い髪が淡い黄金の輝きを纏い、まるで後光がさしているような神々しさだった。
朧は不安も忘れ、見惚れてしまう。
「朧、来なさい」
言葉と共に、右手を差し出す。その声音には、焦りのようなものを含んでいた。
周りにいた部下たちは、己に命令が無い限り関せずと散ってゆく。
掃除をしていた下働きの男が、慌てて固まっている朧の背を押した。
男は畏れから押す勢いが強くなり、朧は前のめりに倒れそうになる。
「急いで」
もどかしさが先生の両腕を開かせ、傾く朧の身を掬い取った。
「あっ」
「しっかり掴まっていなさい!」
「え? っああ?!」
朧は声を上げ、先生の首に腕を巻き付け抱き付く。
倒れそうになったのを救われたと認識する間も無く抱き上げられ、あっという間に奈落の隠れ里から飛び出していた。


朧は小さな身を更に縮こまらせ、不安と恐怖に心揺さ振られていた。
己という荷物を抱えたまま走る、先生の速度は尋常ではない。
奈落の屋敷に居る時に見る穏やかさとは程遠く、強靭な意志の力だけを感じた。
その原動力の源は、なんなのだろう?
一体、どこへ連れて行かれるのか?
(まさか、捨てられる? 戻って来れないよう、遠くへ?)
恐ろしい考えに取り付かれて肌が泡立ち、身が強張る。
(どうしよう? 俺は、どうしたら……)
泣いてはいけない。そう思っても、勝手に瞳が潤み始めた。
(先生と離れたくない)
そう願った所で、叶わないと知っている。何かを望むなど、己には過ぎた贅沢なのだから。
握り締めたままの襷で目元を拭い着物の袷にしまうと、そっと先生を見上げる。
離れても、この方をずっと覚えていようと。
涙でぼやけないように、瞳に力を込め先生の顔を見詰める。
「寒いですか?」
優しい声が、降って来た。
声を紡ぎ出す唇には微笑みがあり、見詰める瞳には暖かな緑の輝きが宿っている。
それは朧の不安も恐怖も全て解かし、暖かく包み込む。
歩みを止め返事を待つ先生の笑顔を信じて、朧は「いいえ」と左右に首を振った。
「では、もう少し速度をあげますから、しっかり掴まっていて下さい」
今迄よりも更に速くなるのかと驚いたが、表情には出さず黙って頷く。
そして言われた通り、腕に力を込めた。
「怖かったら、目を瞑ってなさい」
くすっと微かな笑い声が聞こえた気がしたが、それを確かめる心の余裕は無い。
飛ぶように走るという言葉そのまま、いや走るでは無く飛んでいるとしか思えなかった。
獣道から葉の生茂る枝へと跳び上がった後は、翼でも生えたかのように距離のある枝から枝へと飛び移ってゆく。
紫色の空と翳りを帯びた深い緑の木々を背景に、それぞれの巣に帰る鳥たちと競う様子はまるで夢に中の出来事の様だった。


「もうすぐ、着きますよ」
先生の声に、朧は夢見心地から覚める。
空は沈み始めた太陽に焦がされ、連なる三山の影を黒くした。
言葉通り、目的地に着いた先生は朧を地に下ろす。
「ご覧なさい」
西の方角を指差され、朧は素直に従って仰ぎ見る。
「う、わぁぁあ!」
思わず、感嘆の声が漏れた。暮れなずむ空と山々の黒、夕陽を受けた裾野の燃えるような紅と輝く黄金、それらを縁取る深緑。
遠くの山肌に浮き立つ、白く映える一本の筋は滝だろうか?
自然が作り出す華やかな色合いと大きな世界に、ただただ圧倒されて言葉も無く立ち竦む。
「君に、この景色を見せたいと思ったのです」
朧の肩に手を置いて、同じ角度から紅葉の絶景を眺めた。
遠征の途中でこの景色を見付け、帰ったらすぐに連れてこようと思っていたのだと教える。
「朧、君は美しい世界にいて下さい。その身を、醜い世界に置きたくありません」
人の血に塗れた己の傍にいてはいけないと、奈落の里から出るよう説得しようとした。
「はい。私は、先生のお傍におります」
肩にある先生の手に触れて、顔を仰向けて真っ直ぐに見詰める。
敬愛するこの方が存在する美しい世界に、居ても良いのだと許されたようで嬉しくて仕方無かった。
「……朧」
己の意図する所と全く正反対の意味に取り違えた少年の様子に、先生は続ける言葉を失う。
その純粋で信じ切った瞳に見詰められると、もう微笑み返すしかなくなった。
「先生」
落日が見せる黄金の蜜のような輝きを纏った黒衣の美丈夫が優しく笑む姿に、神々しさを感じ言葉を続ける。
「先生は、神様の御使いの八咫烏みたいです」
いつだったか下働きの老人から聞いた話。
この地方の神聖な場所。三山が祀る神の御使い、八咫烏の化身の話に出て来る神々しい姿を先生の姿に重ねていた。
ほうっと、小さな溜息をついて朧は頬を紅潮させる。
今や不安も去り美しい景色に心洗われて、思った言葉を素直に告げることが出来た。
何よりも、先生の傍にいられる事実が嬉しい。


人々から鬼と恐れられ謗られて来た己を、神の御使いのようだと言われて、どう反応して良いか分からなくなった。
しかし何も語らずとも、朧は辺りの景観に見惚れている。
その幸福そうな様子を眺めていると、心が癒されてゆくようだった。
暮れゆく紫から、黄昏の黄金、そして全てを染め上げる茜色から紅へ。
刻々と色合いを変えてゆく空は、やがて夜の帳で身を包む。その身を飾る光は、陽光から月光へと様変わりする。
冷えた夜風が、景色に見入る彼等の髪を優しく揺らした。
「そろそろ、帰りましょう」
「はい、先生」
声をかけられた朧は、夢から覚めたような顔をして頷く。
先生は朧を抱き上げる為、両手を広げた。
「あ、」
朧は一歩後じさる。来る時は突然抱き上げられたので、抵抗も何も無かった。
来た時同様の距離を戻るのだから、己の足ではとても追いつかない。
帰る方法は先生に抱いて運んで貰う方法しかないと頭で分かっていても、心は気恥ずかしさと畏れ多さの方が勝る。
「どうしました? 早く帰らないと、夕餉がなくなってしまいますよ」
現実的な事柄を聞き、朧の遠慮が退く。手伝いの途中だった夕餉の支度は、もう終わってしまっただろう。
となれば、先生の食事の配膳や後片付け、風呂の準備等諸々。小姓としての仕事は山盛りだ。
「はい、よろしくお願いします」
そろそろと、先生の前に立つ。抱き上げて貰いやすいように、おずおずと両手を上げた。
先生は、はにかむ朧をそっと抱き上げる。
連れてきた時の性急さは無く、大事な宝物を扱う様にしっかりと胸に抱え走り出す。
「しっかり、掴まってなさい」
獣道が狭まって来ると一言告げてから、大きな木の枝へと跳び上がった。
木々の下は闇に沈み、空には煌めく星々と蒼い月。
来た時も思ったが、空を飛んでいるようだと朧は首を回らし天を仰ぐ。
朧の動きに合わせて、柔らかな癖のある髪が弾んだ。月光を浴びて、キラキラと白銀に輝く。
「君は、白兎の化身のようですね」
ひっそりと小さく呟く。
純粋で、安らぎを与えてくれる存在。朧こそ、御使いというに相応しい。
もしも天に赦されるなら、もう少しだけ傍に……

「先生? 何か仰いましたか?」
何か言われて気がして首を傾げるが、返って来たのは優しい微笑みと気遣う言葉だけだった。
「いいえ、何も。それより、寒くないですか?」
「はい、先生とくっついていると暖かいです!」
朧は、しがみついている腕に力を込める。出来る事なら、己の温もりも先生に伝えたいという様に。
「では、急いで帰りましょう」
先生の帰るという言葉が嬉しくて、朧はいっそう身を摺り寄せるのだった。
「はい、先生」
帰れる場所がある、傍にいても良いと、抱き止めてくれる腕がある。
それは何と幸せな事だろうと、朧は月を見上げて天の神に感謝を捧げるのだった。


了 2021.05.30(松朧真ん中バースデーに寄せて)



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