仔ぼろちゃん in 奈落

その日は朝からバタバタと慌ただしく、沢山の大人が隠れ里から出て行った。
編笠に袈裟掛け、手に錫杖を持っている姿は、普段沈められている恐怖の記憶を呼び覚ます。
勝手に心臓がドクドクと勢いを増し、息苦しくなった。
胸を押さえ、必死にあの夜の襲撃の記憶を抑える。
幸い昼から言い付けられていた仕事は無かったので、自主的に屋敷裏手の古い蔵に籠る事にした。
蔵の中は薄暗く黴臭い。明かりは、蔵の天井近くにある小さな格子窓から差し込む陽光のみ。
中に収められているのは古そうな長持や農具、壊れた錫杖や薙刀、埃をかぶった家具や壺など雑多だった。
「うわぁ……」
乱雑な蔵の中の状態に、思わず声を漏らす。
天照院奈落の隠れ里に連れて来られ怪我が回復してから散策した時に、このうち捨てられたような蔵を見付けた。
鍵がかかっていなかったので、こっそり覗いた事を覚えている。
あれから数ヶ月、ますます汚くなっている気がした。
朧は、持参した雑巾と桶を握り締めて背筋を伸ばす。
何の役にも立っていない蔵に我が身を重ねて、ここを綺麗にして使える様にしようと決意した。
歩くだけの振動でも埃が舞うので、蔵の入り口を開けたままにする。
そして一心不乱に壺を磨いていると、胸を締め付けていた過去の恐怖は徐々に薄れ嫌な汗は労働の汗に変わった。
「夕餉の準備までここにいれば、大分綺麗にできそうだ」
ふうっと、息を吐き独り言を漏らす。そう、独り言だったはずなのに返事があった。
「そんなに急いで磨く必要はありませんよ。それより、天気が良いので外に出ませんか?」
優しい声音に、朧は壺を磨く手を止め振り返る。
気配が無かった背後に、いつの間にか奈落の頭が立っていた。
外ではいつも烏の仮面で隠されている口元が、今日はどうした事か取り払われている。
代わりに、そこにあるのは優しい微笑み。
明るい陽光を浴び手招く姿に、朧は壺を置き立ち上がる。けれど、一歩が踏み出せない。
頭に応えようとした笑顔が、途中で強張った。
過去の記憶が、鮮やかに蘇る。
あの時とよく似た蔵の中と、扉前を塞ぐ男の姿。

屋敷に放たれた火のせいで夜だというのに、蔵の向こう側は昼間の様に明るかった。
『こんな所に、餓鬼が』
地の底から響くような声、伸ばされる大きな手。掴まれ、引き摺り出されて……

「ぁ、あああっ!」
恐怖の記憶に囚われ、朧は頭を抱え蹲る。
いきなり様子を変えた朧に対して、頭は駆け寄り抱きしめた。
怪我の介抱をしていた時、こんな風に夢現になる事があったのを思い出す。
あの襲撃の夜、この子は死にかけたのだ。
その恐怖が心の底に澱のように淀んでいて、何かの拍子に記憶が蘇るのだろう。
己が助けた事によって、小さな子供に消えぬ恐怖を刻み付けた。
そんな自責の念にかられ、朧の背を撫でる。大丈夫、大丈夫ですと小声で耳元に囁いて。

暖かな体温に包まれ規則正しい掌のリズムと優しい囁きに、朧は固く閉じた目を薄く開いた。
そっと両手を伸ばして、頭の背に腕を回す。そうすると、胸の動悸が徐々に静まってゆく。
頬に触れる長い亜麻色の髪は、流した涙を吸い取ってくれた。
スンっと鼻を啜って、落ち着きを取り戻す。
「もう、大丈夫ですね」
抱き締めていた腕から解放され、温もりも消えた。
朧はもう少し抱かれていたいと思う気持ちを隠して「はい」と、頷く。
それから慌てて、頭の背中から手を離した。
「では、外に出ましょう」
朧の視線に合わせて屈んでいた身を伸ばし、誘う様に手を伸ばす。
おずおずとしながらも、朧は小さな手を頭の大きな手の上に重ねた。
指先から掌へ伝わって来る温もりは、先ほどの腕の暖かさと同じもの。
朧は安堵の笑みで、頭を見上げた。
「頭、外での御用は何でしょう? 庭掃除ですか?」
自分が何かの役に立てるという期待に、瞳を輝かせて尋ねる。
小首を傾げ、やる気満々な様子を見せる朧に頭は苦笑を返す。
「外での用は、遊びですよ。こんな良い日に閉じ籠っているなんて勿体無いですからね」 
今回の幕府の指令は己が出るまでも無い物だったので任務実行部隊に口煩い数名を随行させ、暫しの息抜き時間を作ったのだった。
「遊び…… ですか? これだけ天気が良いなら、洗濯日和だと思うのですが」
朧は空を見詰めて思案した後、何かを思いついたという表情で一つ頷く。
「頭の布団を干しましょう! そうだ! 枕も一緒に」
「朧、それは有難いのですが、今日は駄目です。遊ぶと決めた以上は、遊びます!」
繋いだ手を引っ張って、屋敷の方へ方向転換しようとした朧の身を門の方へと向けさせる。
「あ、あの、頭! 頭っ!」
必死に呼びかけるも、ほとんど引き摺られるようにして屋敷の門を抜け外へと連れ出された。

門の外は、左右に別れ道が塀に沿って伸びている。
正面に道は無く、僅かな草地からすぐ樹木が生い茂る森林となっていた。
その森の中で、やっと頭が朧の手を離す。
「さあ、ここなら誰にも邪魔されずに遊べますよ!」
浮き浮きと、両手を合わせて朧の顔を覗き込む。
「なにして遊びましょうか?」
向けられる明るさに対して、朧はゆっくりと俯いた。
「申し訳ありません」
「どうしました?」
喜んでくれるとばかり思っていた子供の声と姿が沈むのに頭は首を傾げる。
まだまだ遊びたい盛りだろうに、気を使っているのだろうかと。
しかし、朧の答えはもっと切ないものだった。
「遊びが、どのようなものか…… 分かりません」
朧は小さな手で、拳を握る。
せっかく尊敬する方が遊んでくださるというのに、その遊び方が分からない自分が不甲斐無いと目頭が熱くなる。
物心ついた時に、手にしていたのは遊具では無く雑巾だった。
周りにいたのは、同じ年頃の子供では無く奉公人の大人ばかり。
日々与えられる仕事をこなすのが精一杯で、遊びどころか娯楽自体を知らなかった。
夜寝る時が休憩時間だと教えられ、起きている間は働くもの。
それを疑う余裕さえ与えられずに、生きて来た。
けれど頭に出会い、その薫陶を受ける事によって己の無知を知った。
そして、今日もまた……

「……朧」
小さな拳が、微かに震えているのが分かる。
遊びを知らない事を、恥じているのだと感じた。
文字や算術も教えて貰えず、子守唄さえ知らなかった小さな子供。
奴隷の様に働いていた子が、遊ぶ時間など与えて貰える筈もないだろう事に遅まきながら気付く。
日々の労働を労うつもりが、こんな風に縮こまる思いをさせてしまったことに心が痛んだ。
朧が遊びを知らないのは、彼のせいでは無い。
勉強と同じ様に、遊びを教えてやれば良いのだ。
そう思った所で、己もまたほとんど遊びを知らない事に思い至る。
鬼として様々な迫害を受け、人の子と遊んだ記憶はない。
しかし、ここで遊ばず引いてしまっては余計に朧を傷付けてしまう気がした。
己の長い生の中で見て来た風景を、必死に思い出す。
皮肉にも思い出せたのが『かくれ鬼』だった。
鬼という言葉が、記憶に引っ掛かっていたのだろう。
それでも今はその苦い思いが役に立った。
俯いている頭を優しく撫でて話しかける。
「では、簡単な遊びをしましょう。かくれ鬼という、二人で出来る遊びです」
「かくれ、おに?」
頭を上げ、初めて聞く遊びの名前を繰り返し口に上らせる。
「はい。隠れる人と、それを探して捕まえる人に別れて遊ぶのが決まりです。探す人を鬼と呼ぶのですよ」
その説明だけで、朧は「あっ」と声を上げ納得した。
「だから、かくれ鬼というのですね」
「そうです。鬼に捕まると、今度は捕まった人が鬼になります。だから、上手に隠れないとね」
遊びの説明をする頭は笑顔なのに、朧の目にはそれが何故か悲しそうに見えて思わずその手を握り締める。
「では、私が鬼になります!」
(だから…… 心から笑ってください)
そんな思いを込めて、頭を見上げた。
頭は一瞬、何かに耐える様に目を細め、それから朧の望み通り本当の笑みを浮かべる。
何も知らない筈なのに、何かを察した表情を浮かべる朧を愛しく思っての微笑み。
こんな小さな子供から向けられる優しい眼差しに、心の中の引っ掛かりが春の日差しを受けた雪の様に融けていった。
「鬼は、目を瞑って五十まで数を数えなければなりませんよ。五十まで言えますか?」
「はい! もう、百まで数えられます!」
元気良く勉強の成果を答える。その誇らしい笑顔に、頭の笑顔も深くなった。
「良く覚えましたね。じゃあ目を瞑って大きな声で五十まで数えて下さい。その間に私が隠れます。数え終わったら、探しに来て下さいね。キミが私を見つけたら、今度は私が鬼になりますから」
遊びの流れを、ひと通り説明する。
朧は「はい!」と返事をして近くの木の幹に向かい、頭に背を向けた。
両手で目を覆い、数を数え始める。
森の木々に、子供独特の甘く高い声が反響した。
いつまでも心地良い声に耳を傾け小さな薄い背中を見守っていたかったが、それではかくれ鬼の遊びにならない。
頭は踵を返し、森の奥へと姿を消した。
広い森の中とはいえ隠れる場所は木の陰や枝の上、朧限定で木の洞の中と単純な隠れ場所しかない。
けれど、それを差し引いても互いが互いを見付ける早さや正確さは尋常では無かった。
かくれ鬼を知らない朧はともかく、頭にはこの異常さが分かる。
子供相手ではなく本気で気配を絶ってみたが、朧は見事に探り当てて来た。
今もかなり高い場所にある枝に身を寄せていたが、近付いて来る気配を感じる。
(……これは、もしかして血の絆か? アルタナが呼び合っているのか? それとも)
「頭! 見つけました!」
朧の声が仮説を並べる思考を中断させた。
「もう降参です。キミの勘の良さには敵いません」
登ってきた朧に見えるよう、両手を小さく上げて降参の意志を示す。
「そんな、私など頭の早さに比べれば」
「十分、大したものですよ」
謙遜の言葉を遮って褒めると、はにかんだ笑みが返ってきた。
朧の笑顔を見る度に、今まで感じた事の無い暖かな気持ちが広がってゆく。
心の動きのままに、同じ高さの枝まで登って来た小さな細い身体を膝に抱き上げ抱き締めた。
「……頭?」
狭い枝の上での横抱きに驚きつつも、落ちてしまわないようしっかりと頭の背に腕を回す。
そうすると、大人の広い胸の中にすっぽりと納まってしまった。
「もう、夕方の風ですね。遊び時間は、これでお終いです」
「はい。ありがとうございました」
夕空を見上げる頭の長い髪が風に揺らされるのを見ながら、朧は小さく目礼する。
遊びがこんなに楽しいものだと、初めて知った。
いや、きっと頭と一緒だから楽しいのだと思い直す。
「頭、あのっ」
感謝の思いを伝えたくて、けれどありがとう以外の言葉が思いつかない。
どうすれば、沢山の嬉しさや楽しさが伝えられるだろう?もどかしさに、言葉が詰まる。
「楽しかったですか?」
朧の想いを汲み取る様に、頭が話を振った。
「はい! ありがとうございます! すごく楽しかったです。また遊んで欲しいです!」
結局同じ言葉しか返せなかったが、言葉以上に喜び輝く瞳が朧の心情を雄弁に語る。
また遊びたいという朧の言葉に、頭は腕の中にある柔らかな白銀の癖毛に頬を摺り寄せた。
発する言葉や輝く瞳、暖かな温もり全てが、愛おしい。
この小さな子供を、手離せなくなる日が来ると予感した。
「私も、またキミと遊びたいです。今度は、屋敷の中でかくれ鬼をしましょうね」
するりと口から出た、かくれ鬼。
もう、その言葉に思い出した時の様な苦さは感じなかった。
これから先、この言葉は朧の笑顔と温もりと共に思い出すだろう。
そして、それは朧も同じ。
かくれ鬼は、頭の笑顔と温もりと共に思い出に刻まれた。





了  2019.5.31



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