仔ぼろちゃん in 奈落
ある晴れた日。
いつもの様に、朧は中庭の掃除をしていた。
幼い自分に出来る事と言えば、掃除や洗濯といった家事に限られる。
命の恩人・頭の役に立つ為には、暗殺の技を覚えるのが一番だと思うのだが、頭はそれを良しとしなかった。
だから、今は出来る事を精一杯やる。
この中庭は頭の部屋に面しているから、特に綺麗にしておきたい。
そんな思いで箒を手に、掃除に励んでいた。
「よし、綺麗になった!」
満足の言葉を漏らして、次は室内の掃除に移る。
井戸から汲んだ冷たい水に雑巾を浸して固く絞り、長い縁側を端から端まで拭き清めてゆく。
勿論、頭の部屋の前は念入りに。
パタパタと軽快な足音を立て懸命に縁側を拭いていると、からりと頭の部屋の襖が開いた。
「朧、こちらにいらっしゃい」
「はい、頭」
頭に呼ばれて手にしていた雑巾を握りしめたまま、拭き掃除していた縁側から頭の私室へと足を踏み入れる。
昨日掃除して綺麗になったはずの文机の上が、もう随分荒れていた。
頭はご立派なのに、少々片付けが苦手なのかもしれない。
チラリと、朧はそんな事を思って一瞬だけ文机に視線を走らせた。
「君は、字が読めますか」
視線を戻した朧に、頭は柔らかな声で尋ねて来る。
それに対して朧は、左右に首を振って俯く。
物心ついた時にはもう商家へ丁稚に出され、寺子屋に通った事も無く、周りに手習いをさせてくれるような大人もいなかった。
一日の大半が労働で、夜は疲れきって眠るだけ。そんな生活の中で、学を身に付ける機会も暇も無かった。
だから字を読めないのも当然で仕方無い事なのに、それを恥ずかしく思う。
命を救ってくれた頭から、助けるのではなかったと、役に立たない子供だとがっかりさせてしまうのが怖かった。
そんな朧の心情を、知ってか知らずか?
俯いてしまった朧の髪を、頭の手が軽く撫でる。
視線を上げる様に促された気がして、朧は頭を上げた。
「そうですか。では君に、この本をあげましょう。今夜から寝る前の1時間は、読み書きの練習をして貰います」
頭は朧に視線を合わせて本を手渡し、笑みを見せる。
その本は分厚い和綴じで、表紙は美しい光沢を見せる和紙が使われていた。
指触りの滑らかさだけでも、高価な物だと知れる。
「いけません! こんなに綺麗なご本、私には勿体無いです!」
本を握る指先が震えた。
人から物品を与えられる事など無かったのに、ましてや敬愛する頭から何かを頂くなど畏れ多い。
それに、どう勉強すれば良いのかも分からないのだ。
申し訳なさに、朧はまた俯いてしまう。
「困りましたね。受け取って貰えないと、私は毎晩言葉だけで君に文字の説明をしなければならなくなります」
俯いた後ろ頭に手が置かれ、指先だけで軽く髪を撫でられる。
「……毎晩? 説明を?」
どういう意味だろうかと、朧は頭を上げた。
上げた視線の先には、頭の優しい笑顔。
「そう、私の部屋で」
「頭が、私に文字を教えて下さるのですか!」
驚きに身は固まったが、嬉しさに頬が薔薇色に染まってゆく。徐々に瞳が輝き出した。
「最初は、文字から。次は算術ですよ。学ぶのに慣れてきたら2時間に増やします」
朧の反応に、頭の瞳も輝きを増す。
共に過ごす時間を持てる事が、二人は嬉しかったのだ。
互いの笑顔を確認し、頷き合う。
「では、今夜から。いいですね?」
「はい!」
こうして、朧は読み書きできるようになり、頭は教える楽しみを知ったのでした。
つづく。
いつもの様に、朧は中庭の掃除をしていた。
幼い自分に出来る事と言えば、掃除や洗濯といった家事に限られる。
命の恩人・頭の役に立つ為には、暗殺の技を覚えるのが一番だと思うのだが、頭はそれを良しとしなかった。
だから、今は出来る事を精一杯やる。
この中庭は頭の部屋に面しているから、特に綺麗にしておきたい。
そんな思いで箒を手に、掃除に励んでいた。
「よし、綺麗になった!」
満足の言葉を漏らして、次は室内の掃除に移る。
井戸から汲んだ冷たい水に雑巾を浸して固く絞り、長い縁側を端から端まで拭き清めてゆく。
勿論、頭の部屋の前は念入りに。
パタパタと軽快な足音を立て懸命に縁側を拭いていると、からりと頭の部屋の襖が開いた。
「朧、こちらにいらっしゃい」
「はい、頭」
頭に呼ばれて手にしていた雑巾を握りしめたまま、拭き掃除していた縁側から頭の私室へと足を踏み入れる。
昨日掃除して綺麗になったはずの文机の上が、もう随分荒れていた。
頭はご立派なのに、少々片付けが苦手なのかもしれない。
チラリと、朧はそんな事を思って一瞬だけ文机に視線を走らせた。
「君は、字が読めますか」
視線を戻した朧に、頭は柔らかな声で尋ねて来る。
それに対して朧は、左右に首を振って俯く。
物心ついた時にはもう商家へ丁稚に出され、寺子屋に通った事も無く、周りに手習いをさせてくれるような大人もいなかった。
一日の大半が労働で、夜は疲れきって眠るだけ。そんな生活の中で、学を身に付ける機会も暇も無かった。
だから字を読めないのも当然で仕方無い事なのに、それを恥ずかしく思う。
命を救ってくれた頭から、助けるのではなかったと、役に立たない子供だとがっかりさせてしまうのが怖かった。
そんな朧の心情を、知ってか知らずか?
俯いてしまった朧の髪を、頭の手が軽く撫でる。
視線を上げる様に促された気がして、朧は頭を上げた。
「そうですか。では君に、この本をあげましょう。今夜から寝る前の1時間は、読み書きの練習をして貰います」
頭は朧に視線を合わせて本を手渡し、笑みを見せる。
その本は分厚い和綴じで、表紙は美しい光沢を見せる和紙が使われていた。
指触りの滑らかさだけでも、高価な物だと知れる。
「いけません! こんなに綺麗なご本、私には勿体無いです!」
本を握る指先が震えた。
人から物品を与えられる事など無かったのに、ましてや敬愛する頭から何かを頂くなど畏れ多い。
それに、どう勉強すれば良いのかも分からないのだ。
申し訳なさに、朧はまた俯いてしまう。
「困りましたね。受け取って貰えないと、私は毎晩言葉だけで君に文字の説明をしなければならなくなります」
俯いた後ろ頭に手が置かれ、指先だけで軽く髪を撫でられる。
「……毎晩? 説明を?」
どういう意味だろうかと、朧は頭を上げた。
上げた視線の先には、頭の優しい笑顔。
「そう、私の部屋で」
「頭が、私に文字を教えて下さるのですか!」
驚きに身は固まったが、嬉しさに頬が薔薇色に染まってゆく。徐々に瞳が輝き出した。
「最初は、文字から。次は算術ですよ。学ぶのに慣れてきたら2時間に増やします」
朧の反応に、頭の瞳も輝きを増す。
共に過ごす時間を持てる事が、二人は嬉しかったのだ。
互いの笑顔を確認し、頷き合う。
「では、今夜から。いいですね?」
「はい!」
こうして、朧は読み書きできるようになり、頭は教える楽しみを知ったのでした。
つづく。