松朧(IF村塾多数)
「……久々に、やってしまいましたね」
松陽の小さな呟きは、深夜の静まり返った和室の中で意外と大きく響いてしまった。
それが寝言だったとしても、反応して目を覚ましてしまいそうな朧が今夜は全く反応しない。
松陽の隣で、泥のように寝入っていた。いや、眠りというよりも失神に近いかもしれない。
「ごめんなさい、反省しています」
朧が反応しないのを良いことに、松陽は声を潜めるのを止めた。
汗で額に張り付いた柔らかな銀髪を、指で掬って整えてやる。
「今夜の君が可愛過ぎて、手加減ができませんでした」
松陽は目を細め、朧の寝顔を覗き込む。
白皙の額に通った鼻筋、そこを無残に横切る傷跡も松陽から見れば皮膚を飾る装飾にしか見えず、閉じられた瞼の下にある隈には色香さえ感じた。
誘惑を受けたように、松陽の唇が朧の目尻に吸い付く。
鼻腔には汗の匂いが広がり、舌先には涙の味が染みる。
「我慢しないで、たくさん鳴き声を上げてくれて嬉しかったのですよ」
いつも快楽に身を任せるのを恐れるように声を殺して耐えていた朧が、今夜は快楽に身悶えて啜り泣いたのだ。
それが本当に嬉しい。
身を繋げることで、愉悦を感じていたのが自分だけではない。
朧も感じてくれているのだと、求められていると思えたのがとても嬉しかった。
彼が自分に向けてくれる愛情を、疑っていた訳ではない。
ただ、言葉ではなく体でも語って欲しかったのだ。
自分が求められていると、彼に同じだけの情愛を与えられていると確信したかった。
そんな理由で、彼の恥じらいや遠慮を打ち砕く情熱を込めた抱き方をしたと知ったら怒るだろうか?
「ごめんなさい」
今度は囁き声で、朧の耳元に声をかける。
きっと、彼は怒らないだろう。悲しげに目を伏せ、自身の至らなさを詫びるに違いない。
何も悪くないのに、己自身を責めるのだ。
どうすれば、どう伝えたら、君は自ら私を求めてくれますか?
私は、君を心の底から愛しいと想っているのです。
私は、君に愛されたいと切望しています。
朧。きみの隣で恋人として、いつまでも睦まじく過ごしたいと願っているのです。
胸に湧き上がる愛しさを込めて、眠る朧に口づけた。
今度は反応が無いのが淋しくて、自分の身勝手さに苦笑する。
「おやすみ、朧」
ようやく訪れてきた睡魔に、朧を抱き込んで目を閉じた。
***
真ん中バースデーですか?
そのような物があるとは、存じませんでした。
年に二回も……
でしたら、来年も先生とその日を迎えたいです。
そんなことを話していた後の記憶が無い。
記憶の最後の方で耳に残っていたのは、先生の熱情を孕んだ声音。
『なんて、君は可愛いことを言うのですか』
抱き寄せられて、唇を交わして、それから……
優しく甘い記憶は微睡みの中だけで、窓から差し込む朝日は覚醒を促し、体は目覚めよと痛みを訴えた。
全身の倦怠感と腰から下半身にかけてズキズキとする痛み、窄まりはヒリつき熱感がある。
朧は痛みと不快感に眉間を顰めて目を開けたが、隣で眠る松陽の寝顔が瞳に映った途端、ふっと柔らかな微笑みを口元に浮かべた。
(先生、おはようございます)
気持ちよさそうに寝息を立てている松陽の眠りを妨げてはいけないと、心の中だけで朝の挨拶をする。
端正な目鼻立ちと、優しいカーブを描く唇。長い睫が影を落とす頬から顎にかけてのラインは、思わず触れたいと思わせる魅力があった。
朧はそっと手を伸ばそうとしたが、思い止まる。
身動きを遮ったのは、腰に感じる温もりと重み。
松陽の腕が、朧の腰に回されたままだった。
動いたら師を起こしてしまうかもしれないと、松陽を見詰めるだけにする。
穏やかな寝顔を眺めていると、胸の中が何か暖かいもので満たされてゆく。
師に出会う前、目覚めて最初に目にするのは汚い古ぼけた天井だった。
薄い布団に、粗末な食事。朝から晩まで働いて、幸も不幸も感じなかった。
天導衆の襲撃が無ければ、師に出会わなければ。
ただ寝て起きて、呼吸をしている。それだけの人生だっただろう。
目覚めてすぐ、瞳に映るのは愛する人の姿。体温を感じ、寝息の安らかさに心癒される。
こんな幸せな朝を迎えられる日が来るなど、想像もしなかった。
幼い頃に喪われかけていた命を、繋ぎとめて頂けただけで十分だったのに。
救われたご恩に感謝し、この身を捧げると心に誓った。生涯かけて尽くすのだと。
こんな俺を、先生は一番弟子だと言ってくださった。
身に余る光栄で、嬉しくて誇らしくて、幸せで、これ以上の喜びなどこの世には無いと思っていたが……
成長してゆくにつれて、いつしか望んではいけない想いが生まれ、密かに育っていった。
それでも、隠し通せると思った。知られさえしなければ、大丈夫だと。
日々が過ぎるにつれて、先生の隣で気持ちを偽っているのが辛くなった。
愛されたいと、心の奥で望んでしまった。だからもう、先生の隣にはいられない。
隣にいるのが恐ろしくなった。
この恋情を知られるくらいならば、去ろうと決意した矢先。
先生から同じ想いを告げられるという、奇跡が起こった。
(松陽先生。俺は、今もこの幸せが受け止めきれないのです……)
幸せ過ぎて、怖くなる。叶うことなどないと思っていたからこそ、余計に恐ろしい。
もしも、失ってしまったら?
そう思うと、自ら想いを確かめるために手を伸ばすことが出来ない。
いつまでも意気地の無いままなんて情けないと思いはするが……
もう少しだけ、時間が欲しい。
先生の隣に並んでも恥ずかしくないくらいの自信がつくまで。
せめて、この幸せを恐れず受け止められるようになるまで。
「あっ」
するりと、腰にあった重みが消える。松陽が寝返りを打ったのだ。
規則正しい寝息のままなので、まだ目覚める様子は無い。
朧は音を立てないよう気を付けて、身を起こす。
「今の、私の精一杯です」
ほとんど口の中に籠るような囁き声を漏らした後、眠り続けている松陽の頬に指を添える。
おずおずと顔を近づけてゆき、掠める様に口づけを落とす。
刹那の触れ合いからサッと身を立て直し布団から抜け出ると、足腰の痛みを黙殺して寝室から廊下へと飛び出した。
慌てて廊下に出た朧は、目を閉じたままの松陽の口角が上がっていたことに気づかなかった。
了(2022.5.30 松朧真ん中バースデーによせて)
松陽の小さな呟きは、深夜の静まり返った和室の中で意外と大きく響いてしまった。
それが寝言だったとしても、反応して目を覚ましてしまいそうな朧が今夜は全く反応しない。
松陽の隣で、泥のように寝入っていた。いや、眠りというよりも失神に近いかもしれない。
「ごめんなさい、反省しています」
朧が反応しないのを良いことに、松陽は声を潜めるのを止めた。
汗で額に張り付いた柔らかな銀髪を、指で掬って整えてやる。
「今夜の君が可愛過ぎて、手加減ができませんでした」
松陽は目を細め、朧の寝顔を覗き込む。
白皙の額に通った鼻筋、そこを無残に横切る傷跡も松陽から見れば皮膚を飾る装飾にしか見えず、閉じられた瞼の下にある隈には色香さえ感じた。
誘惑を受けたように、松陽の唇が朧の目尻に吸い付く。
鼻腔には汗の匂いが広がり、舌先には涙の味が染みる。
「我慢しないで、たくさん鳴き声を上げてくれて嬉しかったのですよ」
いつも快楽に身を任せるのを恐れるように声を殺して耐えていた朧が、今夜は快楽に身悶えて啜り泣いたのだ。
それが本当に嬉しい。
身を繋げることで、愉悦を感じていたのが自分だけではない。
朧も感じてくれているのだと、求められていると思えたのがとても嬉しかった。
彼が自分に向けてくれる愛情を、疑っていた訳ではない。
ただ、言葉ではなく体でも語って欲しかったのだ。
自分が求められていると、彼に同じだけの情愛を与えられていると確信したかった。
そんな理由で、彼の恥じらいや遠慮を打ち砕く情熱を込めた抱き方をしたと知ったら怒るだろうか?
「ごめんなさい」
今度は囁き声で、朧の耳元に声をかける。
きっと、彼は怒らないだろう。悲しげに目を伏せ、自身の至らなさを詫びるに違いない。
何も悪くないのに、己自身を責めるのだ。
どうすれば、どう伝えたら、君は自ら私を求めてくれますか?
私は、君を心の底から愛しいと想っているのです。
私は、君に愛されたいと切望しています。
朧。きみの隣で恋人として、いつまでも睦まじく過ごしたいと願っているのです。
胸に湧き上がる愛しさを込めて、眠る朧に口づけた。
今度は反応が無いのが淋しくて、自分の身勝手さに苦笑する。
「おやすみ、朧」
ようやく訪れてきた睡魔に、朧を抱き込んで目を閉じた。
***
真ん中バースデーですか?
そのような物があるとは、存じませんでした。
年に二回も……
でしたら、来年も先生とその日を迎えたいです。
そんなことを話していた後の記憶が無い。
記憶の最後の方で耳に残っていたのは、先生の熱情を孕んだ声音。
『なんて、君は可愛いことを言うのですか』
抱き寄せられて、唇を交わして、それから……
優しく甘い記憶は微睡みの中だけで、窓から差し込む朝日は覚醒を促し、体は目覚めよと痛みを訴えた。
全身の倦怠感と腰から下半身にかけてズキズキとする痛み、窄まりはヒリつき熱感がある。
朧は痛みと不快感に眉間を顰めて目を開けたが、隣で眠る松陽の寝顔が瞳に映った途端、ふっと柔らかな微笑みを口元に浮かべた。
(先生、おはようございます)
気持ちよさそうに寝息を立てている松陽の眠りを妨げてはいけないと、心の中だけで朝の挨拶をする。
端正な目鼻立ちと、優しいカーブを描く唇。長い睫が影を落とす頬から顎にかけてのラインは、思わず触れたいと思わせる魅力があった。
朧はそっと手を伸ばそうとしたが、思い止まる。
身動きを遮ったのは、腰に感じる温もりと重み。
松陽の腕が、朧の腰に回されたままだった。
動いたら師を起こしてしまうかもしれないと、松陽を見詰めるだけにする。
穏やかな寝顔を眺めていると、胸の中が何か暖かいもので満たされてゆく。
師に出会う前、目覚めて最初に目にするのは汚い古ぼけた天井だった。
薄い布団に、粗末な食事。朝から晩まで働いて、幸も不幸も感じなかった。
天導衆の襲撃が無ければ、師に出会わなければ。
ただ寝て起きて、呼吸をしている。それだけの人生だっただろう。
目覚めてすぐ、瞳に映るのは愛する人の姿。体温を感じ、寝息の安らかさに心癒される。
こんな幸せな朝を迎えられる日が来るなど、想像もしなかった。
幼い頃に喪われかけていた命を、繋ぎとめて頂けただけで十分だったのに。
救われたご恩に感謝し、この身を捧げると心に誓った。生涯かけて尽くすのだと。
こんな俺を、先生は一番弟子だと言ってくださった。
身に余る光栄で、嬉しくて誇らしくて、幸せで、これ以上の喜びなどこの世には無いと思っていたが……
成長してゆくにつれて、いつしか望んではいけない想いが生まれ、密かに育っていった。
それでも、隠し通せると思った。知られさえしなければ、大丈夫だと。
日々が過ぎるにつれて、先生の隣で気持ちを偽っているのが辛くなった。
愛されたいと、心の奥で望んでしまった。だからもう、先生の隣にはいられない。
隣にいるのが恐ろしくなった。
この恋情を知られるくらいならば、去ろうと決意した矢先。
先生から同じ想いを告げられるという、奇跡が起こった。
(松陽先生。俺は、今もこの幸せが受け止めきれないのです……)
幸せ過ぎて、怖くなる。叶うことなどないと思っていたからこそ、余計に恐ろしい。
もしも、失ってしまったら?
そう思うと、自ら想いを確かめるために手を伸ばすことが出来ない。
いつまでも意気地の無いままなんて情けないと思いはするが……
もう少しだけ、時間が欲しい。
先生の隣に並んでも恥ずかしくないくらいの自信がつくまで。
せめて、この幸せを恐れず受け止められるようになるまで。
「あっ」
するりと、腰にあった重みが消える。松陽が寝返りを打ったのだ。
規則正しい寝息のままなので、まだ目覚める様子は無い。
朧は音を立てないよう気を付けて、身を起こす。
「今の、私の精一杯です」
ほとんど口の中に籠るような囁き声を漏らした後、眠り続けている松陽の頬に指を添える。
おずおずと顔を近づけてゆき、掠める様に口づけを落とす。
刹那の触れ合いからサッと身を立て直し布団から抜け出ると、足腰の痛みを黙殺して寝室から廊下へと飛び出した。
慌てて廊下に出た朧は、目を閉じたままの松陽の口角が上がっていたことに気づかなかった。
了(2022.5.30 松朧真ん中バースデーによせて)