言の葉

とある、一軒家の縁側。
午前の明るい日差しを招き入れるように、障子が開け放たれていた。
その障子を擽るような微風が、縁側から居間へと流れ込み、初夏の花の香りを運ぶ。
ほんのり甘く上品な芳香は、樟の花の香だろうか?
桂は、卓袱台に落としていた視線を、少しだけ上げた。
そのタイミングに合わせるように、坂本が後ろから声を掛ける。

「小太郎?こたろー?わしが、悪かった。
ほれ、この通りじゃ。謝るから、機嫌を直してくれ」

坂本の宥める声にも、桂は振り向かず、再び手元の書類に視線を落とす。
一見、静かに書類を読んでいるようだが、その実 内容は一つも頭に入っていない。
ただ視線が、字面の上を滑ってゆくのみ。
実際、怒りは既に収まっている。が、子供じみた怒りの理由に、引っ込みがつかないでいた。
そろそろ、いつもの様に『こた』と、甘さだけの響きで名を呼んで、振り向かせて欲しいのだが……

辰馬の声が、好きだ。
低くて男らしい、そのくせ甘さを忍ばせている。
快活なのに、穏やかに話す。
その速度が耳に心地好く、心に沁みた。
『小太郎』と、呼ばれるのは嬉い。
ヅラじゃないと、訂正せずに済む。
『こた』と、囁き声で呼ばれれば、その優しい響きに心が震えた。
或いは、含まれる色を帯びた甘さに、体温が上昇する。

だが……
ほんの些細な事で、『こた』呼びを禁じてしまった。
馬鹿な事をと後悔したが、未だに『もう、怒っていない』との一言が告げられぬ。

***

たまたま坂本が早起きし、良く晴れた気持ちの良い朝だったから。
菖蒲が見頃と聞いていたので、二人で散歩がてら早朝の公園まで出掛けた。
早い時間だけあって、人影は疎ら。
花見以外に目的も無いそぞろ歩きは、朝の爽やかな空気も相俟って、気持ちを浮き立たせた。
訪れた公園内には、人工の小さな川が造られ、その川辺りを取り囲む様に菖蒲が植えられている。
しっとりと落ち着いた花の色を楽しめるように、川を横切る小さな橋が架かっていた。
「やはり、エリザベスも連れてくれば良かった」
欄干から菖蒲を愛でながら、桂が呟く。
「……辰馬?」
返事が無い事に、隣を見れば……
傍らを歩いていた筈の、連れの姿が見当たらない。
大きく振り返って探せば、橋に一番近いベンチの前で、手を振る姿が見えた。
「小太郎、こっちじゃ!」
大声で呼ばうその片手には、缶飲料が握られている。
飲物の調達に、離れたようだった。
「ほれ、来い。こた、こた、こぉーたっ」
こた、こた、と、犬でも招くように、両手を広げて呼びかけて来る。
いくら人影疎らとは言え、恥ずかしくて素知らぬ振りを決め込んだ。
「おわっ!」
そっぽを向いていた耳に突然、坂本の驚きの声がして振り返る。

「なんじゃ、おんし?んっ、どこの子じゃあ?」
ベンチに座り込んだ坂本の膝に、真っ白な小型犬が乗っていた。
ペロペロと、坂本の顔や手を嘗め回している。
急襲しペロペロ懐く姿は、まるでペロリスト。
チワワだろうか?白くてふわふわな可愛らしさに、自分も撫でたい、ペロられたいと、桂は急ぎ足で近付いて行った。
犬の肉球に、触れるだろうかと期待して。
「たつ…」
ベンチ前に、あと数歩の距離で後ろから、呼吸を乱した女性の声がした。
「すみま…せ…んっ。うちの子が……」
振り返ればそこに佇んでいるのは、おっとりとした着物美人。
胸に、白い小型犬を抱いている。
坂本の膝にいる子より、小さめか。
赤いリボンを着けているので、女の子だろうか?
どちらの子も、くりっとした黒い瞳が愛らしい。
頼めば、抱かせて貰えるだろうか?
桂が期待に胸を膨らませ、頼もうと決意した瞬間。
「こた、止めなさい!」
女性の、叱責の声がした。

「「こた?」」

坂本と桂が、同時に言葉をなぞる。
「あ、その子の名前なんです。コタローだから、こた」
女性のふんわりとした笑顔での説明に、坂本も微笑んだ。
桂の気持ちを置き去りに、膝のチワワを撫でながら話し掛ける。
「おんしも、小太郎か。すまんのぉ、わしが呼んだのは別の小太郎じゃ。勘違いさせて悪かった」
チワワのコタローが、坂本の優しい声に尻尾を振って応える。
膝の上が気に入ったのか、一向に降りる様子も無い。
坂本も無心に甘えて来るコタローに、目尻を下げていた。
そんな微笑ましい光景では、女性が勘違いしても仕方無いと言うものだろう。
「あら、同じお名前のわんちゃんを?」
胸に抱いていた子を下ろして、コタローのリードと合わせ確り掴み直して、そう尋ねた。

「わんちゃん……?」

一瞬、固まった坂本の膝から、何か感じたのだろう。
コタローが、飛び降りて女主人の元へ擦り寄る。
「あー、散歩の途中で離れて……」
「まぁ!じゃあ、迷子になる前に探さないと!あの、私。お手伝いします。何色のどんな子ですか?」
女性の心配そうな様子と言葉より、その傍らでヤキモキと話しの流れに気を揉んでいた桂の困り顔に、悪戯心を擽られた坂本はスラスラと会話を続けた。
「小太郎って名前で、こたって呼きます。艶々でサラサラの黒い毛で、瞳も黒。クリッとした目が、可愛いうてー雄ながやきに美人顔で、鳴き声がまた可愛らしうて、抱くとアンア……」
「坂本ッッッ!!」
とんでもないことを言い出した坂本に、桂がキレた。
突然の怒鳴り声に、女性の視線が移る。
「小太郎、ほがな大声……ぁりゃ」
「こたろ…う…!?」
「この、馬鹿本ッッッ!!」
各々が、坂本の失言に顔色を変えた。
特に女性の表情は、言葉を必要としないほど、ハッキリと変化が分かる。
訝しげに眉根を寄せ、それから視線が動く。
桂の髪を、瞳の色を、そして顔全体から下に視線が下りていった。
一瞬、納得したように軽く頷いた後、薄く頬を染める。

「ぁ……私、わんちゃんなんて、勘違いを……ご免なさい」
桂に向かい、頭を下げた。
後ろで束ねられていた長い髪が、流れ落ちるほど深々と。
「あ、いえ、その、頭を上げて下さい。悪いのは、調子に乗ったそこの馬鹿者です」
桂に睨まれて、坂本がもじゃもじゃの頭を掻いて詫びる。
「まっことにすみやーせん。悪ふざけが過ぎちゅう。このとおり、許しておおせ」
「あ、いえ」
「誠意が、足りぬ!」と、坂本の頭を押さえ、深々と下げさせた。
「もう、本当に。そもそも、こちらが勝手に勘違いしたのが……」
返って恐縮する女性に、桂が柔らかく微笑みかけた。
「では、お互い様という事で、許して頂けますか?」
思わず見蕩れてしまうような笑顔に、女性もまた柔らかく「はい」と笑み返す。

二言、三言の短い言葉を交わした後、散歩の続きをねだるチワワ達の動きに、女性が会釈して別れを告げた。
最後の別れ際、抱き上げるまでの贅沢は言わないが、せめて白くてふわふわの頭を撫でさせて欲しいと、申し出るつもりでいた桂の横を、チワワのコタローがすり抜ける。
神妙な顔をして立つ坂本の足元にお座りして、撫でてと言うような瞳で見上げながら、尻尾を振った。
クリクリとした愛らしい瞳に、坂本が笑み崩れる。
しゃがみ込み「こた」と名を呼んで撫でれば、前足を坂本の膝に置きお別れの挨拶代わりと、再びペロリストした。
「コタロー、行きますよ」
女主人の声に ひと吠えして返事し、桂の伸ばしかけた手の下を掻い潜り戻って行く。
では、と、散歩に戻る女性の後ろ姿を、二人で見送った。


「ほれ、飲むか?」
撫でる形のまま行き場を無くした手に、坂本が缶飲料を押し付ける。
「いらぬっ!」
缶ごと坂本の手を払い除け、キツい眼差しで睨み据えた。
「こた……」

突然の怒りに驚くものの、鎮めようと呼んだ名前。
だが、その呼び方が余計に桂の怒りを煽った。
「煩い!俺は、犬ではないぞっ! 今後、その呼び方は禁止だッッッ!」
確かに、恥ずかしい思いをさせられた故の怒りから出た言葉だったが、それ以上に悔しい思いの八つ当たり。
あの白いふわふわに、触れることが叶わなかった。
そして、嫉妬。
容易く動物に好かれる坂本が、羨ましかった。

もう一つ。
認めたくは無いが「こた」と呼び蕩ける笑みを、己以外に向けた事がチクリと胸に痛かった。
犬相手の事なのに……

下らない、子供じみた怒りを抱えたまま、家路に着いた。

***

その怒りも、謝り続ける坂本の態度に、すっかり解けていたのだが、引っ込みがつかず途方に暮れる。
素直に「すまぬ」と、ただ ひと言。
「こた」と、呼んで欲しいと。


字面を眺めることすら放棄した書類に、影が落ちた。
大きな手の、影が。
それは直ぐに、実体を伴い書類を押さえ付ける。
桂の手が書類を放すと、その手も離れた。
その手が、もう片方の手と協力して、桂の身を坂本に相対させる。

「怒ってても構わんから、せめて顔を見て謝らせてくれ」

大きな掌が、桂の両頬を包み込む。
覗き込んで来る蒼い瞳に、視線を捕らわれる。
捕らえた黒い瞳に、怒りの色が無い事を感じ取ったのか、坂本の口元が安堵に緩む。
そして、禁じられていないもう一つの愛称を、上らせた。
きっと可愛い反応が、返ってくると確信して。

「ヅラ」

「ヅラじゃないっ!」

条件反射のような、否定の後。

「……こた…だ…っ」

合わせていた視線を、下方にさ迷わせながら小さく呟いた。
包んだ掌から、熱が伝わって来る。

「こた」

甘さを込め、お許しの出た名を呼ぶと、逸らされた視線が戻って来た。

「こた、ふざけて悪かった。許してくれんか?」

黙って頷けば、坂本の嬉しそうな笑顔。

再び「こた」と、呼ぶ。

『愛しい』と、いう気持ちを、言の葉に乗せて。


そして、仲直りの口づけは甘く―




2012.7.17














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