花咲く(3Z)
もう夕刻だというのに、鳴き止まぬ蝉の声。グラウンドに響く運動部の掛け声や物音。
「お疲れさんじゃったの」
労いの言葉と共に、数学準備室の窓が閉められた。
そうすると、全ての音が遠くなる。いや、暮れゆく最後の陽光に照らされた数学教師・坂本の声だけが身近に響いて、桂はドキリとした。今、狭い準備室に二人きりなのだということを、改めて意識する。
「すまんかったな。他のクラスの委員長ながやきに、片付けまで手つとおて貰って」
「いえ。補習組は殆どうちのクラスの生徒ですし、それに……」
「うん?」
坂本は片付けの手を止めて、続く言葉を待つ。その瞳は優しく穏やかであったが、桂はそっと視線を外した。
三年に進級した春の初めに「好きです」と告白したものの、こうして時々手伝いをするぐらいしか接点は無いまま。
気持ちを受け入れて貰えたけれど、付き合うというはっきりとした答えは返して貰えなかった。
だから……
(こうして、先生と二人でいたいです)
そんな言葉を、返してしまっていいのか分からない。
同じ男で、教師と生徒。気持ちを伝えられただけで、満足しなければいけないのかもしれない。こうして、傍に居られる時間があるだけ幸せだと思わないと。
「俺は、皆みたいに夏祭りに行く予定も無いので」
補習が終わった途端、飛び出して行ったクラスメートの事を口にする。出来る事なら、先生と一緒に行きたかった。
でも、それは無理な願い。誰かに見られてはいけない、秘密の恋には叶わぬ事。
「夏祭り? ああ、ありゃあ今日じゃったがか! ほれこそ、すまなかった。そがな日に、こがな遅くまで」
「いえ、人混みは苦手なので」
申し訳ながる坂本に、桂は笑顔を返す。少しの期待を込めて、一歩足を踏み出した。
「花火だけ、見られればいいです」
祭り会場の近くで、打ち上げ花火もある。それを、ここ数学準備室の窓から坂本と見物出来れば良いのだと伝えたかった。それぐらいの細やかな願いは、叶えて貰えるのではないだろうか?
桂の言葉に、坂本が腕時計を見る。
「うん。ほれじゃーここは、はやえいよ」
そう言って、準備室の鍵を手に取り桂を急かし出す。
「あの、でもッ」
「えい、えいよ、なんちゃーがやない。残りは、明日の補習前に片付けるき。花火が見たいんやお?」
どうやら、願いは通じなかったらしい。桂は、肩を落として鞄を手に取った。背中を押されて、数学準備室を出る。
坂本の手が、背中に宛がわれたままなのに気持ちは沈む。
掌の温もりは暖かなのに、心は熱を失くしていった。
(花火の事など、言わなければ良かった……)
そんな後悔が胸に広がる。言わなければ、もう少しだけ二人の時間を引き伸ばせていられたのにと。
カチッと施錠の音がして、振り返ると坂本も廊下へと出て来ていた。
「……先生?」
「職員室に、鍵を返さんとのぉ」
指で摘まんだ鍵を桂の目前で振って見せ、隣に並んでポンと背中を叩き歩くよう促す。
職員室まで行く間だけ、さよならの時間が延ばされた。
もう誰も歩いていない無人の廊下を、二人は歩く。窓の外はすっかり暮れて、グラウンドの向こう側でポツポツ街灯が点り始めている。
闇を照らしてくれる明かりは普段なら心和ませるのに、今夜は違った。その遠さが、淋しさだけを募らせる。
ふと見た窓ガラスに映り込む自分の姿は、なんだか消えてしまいそうなぐらい暗く沈んで見えた。
そして視線を、上方向へと転ずる。そこには、隣を歩く坂本の横顔が写っていると思った。
こっそりと盗み見るつもりで上げた視線は、何故かガラス越しにピタリと合ってしまう。
「……先生?」
「めったぜよ」
坂本が癖の強い髪を掻き回して、小さくそう呟いた。
「え?」
時々方言が強過ぎて、何を言っているのか分からない時がある。けれど、この言葉は何度か聴いて知っていた。
困った。と、言う意味だ。
(自分は、何か先生を困らせる様な事をしたのだろうか?)
そんな思いから、首を傾げて坂本を仰ぎ見た。
突然、肩を抱かれて階段へと導かれる。その性急な様子から、困ったという内容は自分には関係無い事なのだろうと推測した。急いで帰らなければならない用事でも、思い出したのだろう。
数秒でも一緒にいられる時間が縮まるのは切ないが、こんな事で駄々を捏ねるような子供に思われたくは無い。
坂本の大股な歩調に合わせて、桂も急ぎ足になった。
十分急いでいるのに肩から腕は離れなくて、鼓動が跳ねる。心の熱が、徐々に高まってゆく。
永遠に廊下が続けばいいのにとさえ、願ってしまった。
だが現実はあっけなく、行く先の階段を突き付ける。
ここを降りれば、職員室まですぐに着く。
後はもう「さよなら」と挨拶して、生徒用の昇降口と職員用の昇降口に別れてしまうだけ。
見えてしまった先に、階段を前にした足が止まる。
(まだ、帰りたくない。先生と一緒にいたい)
そう、言えたら……
でも、言ってしまったら先生は俺の事を?
今のあやふやな関係でさえ、失くすのは嫌だから。
無理矢理に、足を進めようとした。
「違うぜよ、こっちじゃ」
肩にかかっていた腕が、腰まで下ろされ抱えるように方向転換させられる。下りでは無く、上りの方角へ。
「先生? 職員室は?」
「ちっくと、寄り道じゃ」
桂から離れ、先に階段を一段上って手を差し出す。
「ほれ、行くぜよ」
「はいっ」
どこへとは、聞かなかった。差し出された大きな手に、手を預ける。その手に包まれるだけで幸せで、一緒にいられる時間が延ばされた事が嬉しい。
大きく返事を返した桂の瞳は、さっきまでの暗く沈んでいた色が消え、溌剌とした輝きが戻っていた。
(まっこと、めった……)
今度は、桂にも気付かれない様に心の中で嘆息する。
まだ子供、しかも男子生徒の表情一つに、これほど心揺さぶられているなどと。認めたくは無かったが、もう認めるしかない。せめて、あと半年。桂が卒業するまでは、この曖昧な関係でいようと耐えていたが……
理性の糸は、もう切れかけていた。
***
階段を上がって辿り着いたのは、校舎の最上階。
屋上に続く鉄扉を開けると、熱を孕んだ夜風が吹き込んで来る。坂本の後に続いて出て来た桂の長い黒髪が、風に煽られて舞った。
あっ。と、小さく声を上げて髪を抑える。
風に弄ばれる毛先を見ていた坂本の視線は、その押さえる腕へと引かれる様に動く。
夜空の下、開襟シャツの袖口から日焼けしていない腕の裏側が露わになっていた。その白さが、坂本を固まらせる。
「……?」
ジッと凝視されていることに気付き、桂もまたどうしてよいか分からず固まった。
広い屋上の上で、二人の間に緊張と戸惑いの空気が流れる。何か言わなければ、そう思うのに互いに言葉が出ない。
その沈黙の時間は数分の事だったが、酷く長く感じた。
何かきっかけをと願う二人の耳に突然、風切音が響く。
ヒュルルッと甲高い音が天空でドンッと爆発し、華やかな火の花弁を広げる。赤や黄の大輪の華が次々と、闇夜に美しく咲き誇ってゆく。
「先生! 花火です!」
桂が歓声を上げた。天を指差して坂本に笑顔を見せる。それは、極上の微笑み。二人で見たいと思っていた願いが叶ったのだ。
「おん、始まったか」
より近くで見ようと、呪縛が解けたように身体が動く。
「先生、早く!」
いち早く屋上の鉄柵に取り付いた桂が、坂本を手招きした。両手で柵を掴み、遥か上空を見上げる。
桂の長い髪も、楽しげに風に遊ぶ。サラサラと靡くさまに、坂本は触れたいという誘惑が込み上げてきた。
再び、花火が夜空を彩る。
空を見上げたまま、桂は隣に立つ坂本の方へ身を寄せた。
けれど、視線を合わせるのは気恥ずかしくて、横を向いたまま話しかける。
「俺、好きです……綺麗ですよね、花火。坂本先生と一緒に、花火が見られて嬉しいです」
もう一度、先生が好きだと伝えたくて。けれど、はっきり拒絶されるのも怖い。
結局、言葉をうやむやにしてまった。代わりの様に、そっと坂本のシャツの端を指先で握り締める。
「わしも、好きじゃよ……きれえじゃと思う」
僅かにシャツの端が引き攣れるのを感じながら、坂本も曖昧に答えを返す。
だがその瞳は、隣に立つ桂の方をちゃんと捉えていた。
花火を見詰める輝く瞳、夜目にも分かる上気した頬、あどけなく開かれた唇。子供でも無く、大人にも成り切れていない細い肢体。
「わぁああっ! 先生、あれっ! 花火の中心が、金魚の形になりましたよ! ほら、ほらっ」
隣にいられる幸福な時間に満足し見詰められている事など気付かない桂は、夜空に繰り広げられる花火の見事な造形に心奪われていた。
「ほら、先生。見て下さ……」
返ってこない反応に、語尾を濁らせる。遅まきながら、坂本の様子がいつもと違う事に気が付いた。
「坂本先生?」
小首を傾げ、問う様に上目遣いになる。楽しそうに輝いていた瞳が、再び陰りを帯びた。憂い惑う視線と間近に感じる体温に、坂本の理性は切れた。
「ほがな目は、反則ちや……」
「せん、っ」
坂本の手が、桂の頬を撫でる様に包む。知らぬ間に腰に手が回されて、気が付いた時にはもう坂本の腕の中に納まっていた。
「好きじゃよ」
耳元で囁かれても、不意打ち過ぎて言葉が返せない。
いや、返せたとしても声を発することは出来なかった。
唇を塞がれてしまっていたのだから。
桂は緊張から鉄柵を強く握り締め、目を閉じた。
突然の告白、初めてのキスに、思考が追い付かない。
ただ唇を触れ合わせるだけの事なのに、ドキドキと鼓動は早くなり花火の音さえ遠くなった。
見えなくなった天空の華の代わりに、チカチカと頭の中で花が咲く。
これは恋の見せる、心の中の花だろうか?
それとも、花火の残像か?
パニックになった頭が考え出した問いが過ぎたのは一瞬で、じわじわと喜びが湧いてくる。
(先生が、俺を好きだって!)
夢ではないだろうかと思った所で、唇が離された。
続いて頬から離されそうになる手を、咄嗟に掴む。
「先生、本当に? 俺の事……」
もう一度聞かせて欲しいと、潤む瞳が訴える。
「まっこと、桂小太郎君が好きぜよ」
坂本のきっぱりとした言葉に、桂の表情は蕾が綻ぶように輝いた。
「けんど、こりゃ秘密の関係になってしまうが……おんしは、ほれでえいがか?」
神妙な顔をする坂本に、桂は頷く。
「はい、構いません。だから、もう一度」
好きだと、囁いて欲しい。そう言おうとした。
「うん、はや一回」
桂を引き寄せると、ちゅっと軽く唇を合わせてからすぐに解放する。
「ち、違いますっ! 俺は、好きって!」
顔を真っ赤にして抗議する桂の様子が可愛らしくて、坂本の目尻は下がりっぱなしになった。
「好きじゃよ」
頭を撫で希望通りの言葉を囁くと、喜びに輝く瞳が見詰め返してくる。
「俺も、先生が大好きです」
蕩ける様な笑顔は、本当に花が咲いたよう。
了
2016.9.13
「お疲れさんじゃったの」
労いの言葉と共に、数学準備室の窓が閉められた。
そうすると、全ての音が遠くなる。いや、暮れゆく最後の陽光に照らされた数学教師・坂本の声だけが身近に響いて、桂はドキリとした。今、狭い準備室に二人きりなのだということを、改めて意識する。
「すまんかったな。他のクラスの委員長ながやきに、片付けまで手つとおて貰って」
「いえ。補習組は殆どうちのクラスの生徒ですし、それに……」
「うん?」
坂本は片付けの手を止めて、続く言葉を待つ。その瞳は優しく穏やかであったが、桂はそっと視線を外した。
三年に進級した春の初めに「好きです」と告白したものの、こうして時々手伝いをするぐらいしか接点は無いまま。
気持ちを受け入れて貰えたけれど、付き合うというはっきりとした答えは返して貰えなかった。
だから……
(こうして、先生と二人でいたいです)
そんな言葉を、返してしまっていいのか分からない。
同じ男で、教師と生徒。気持ちを伝えられただけで、満足しなければいけないのかもしれない。こうして、傍に居られる時間があるだけ幸せだと思わないと。
「俺は、皆みたいに夏祭りに行く予定も無いので」
補習が終わった途端、飛び出して行ったクラスメートの事を口にする。出来る事なら、先生と一緒に行きたかった。
でも、それは無理な願い。誰かに見られてはいけない、秘密の恋には叶わぬ事。
「夏祭り? ああ、ありゃあ今日じゃったがか! ほれこそ、すまなかった。そがな日に、こがな遅くまで」
「いえ、人混みは苦手なので」
申し訳ながる坂本に、桂は笑顔を返す。少しの期待を込めて、一歩足を踏み出した。
「花火だけ、見られればいいです」
祭り会場の近くで、打ち上げ花火もある。それを、ここ数学準備室の窓から坂本と見物出来れば良いのだと伝えたかった。それぐらいの細やかな願いは、叶えて貰えるのではないだろうか?
桂の言葉に、坂本が腕時計を見る。
「うん。ほれじゃーここは、はやえいよ」
そう言って、準備室の鍵を手に取り桂を急かし出す。
「あの、でもッ」
「えい、えいよ、なんちゃーがやない。残りは、明日の補習前に片付けるき。花火が見たいんやお?」
どうやら、願いは通じなかったらしい。桂は、肩を落として鞄を手に取った。背中を押されて、数学準備室を出る。
坂本の手が、背中に宛がわれたままなのに気持ちは沈む。
掌の温もりは暖かなのに、心は熱を失くしていった。
(花火の事など、言わなければ良かった……)
そんな後悔が胸に広がる。言わなければ、もう少しだけ二人の時間を引き伸ばせていられたのにと。
カチッと施錠の音がして、振り返ると坂本も廊下へと出て来ていた。
「……先生?」
「職員室に、鍵を返さんとのぉ」
指で摘まんだ鍵を桂の目前で振って見せ、隣に並んでポンと背中を叩き歩くよう促す。
職員室まで行く間だけ、さよならの時間が延ばされた。
もう誰も歩いていない無人の廊下を、二人は歩く。窓の外はすっかり暮れて、グラウンドの向こう側でポツポツ街灯が点り始めている。
闇を照らしてくれる明かりは普段なら心和ませるのに、今夜は違った。その遠さが、淋しさだけを募らせる。
ふと見た窓ガラスに映り込む自分の姿は、なんだか消えてしまいそうなぐらい暗く沈んで見えた。
そして視線を、上方向へと転ずる。そこには、隣を歩く坂本の横顔が写っていると思った。
こっそりと盗み見るつもりで上げた視線は、何故かガラス越しにピタリと合ってしまう。
「……先生?」
「めったぜよ」
坂本が癖の強い髪を掻き回して、小さくそう呟いた。
「え?」
時々方言が強過ぎて、何を言っているのか分からない時がある。けれど、この言葉は何度か聴いて知っていた。
困った。と、言う意味だ。
(自分は、何か先生を困らせる様な事をしたのだろうか?)
そんな思いから、首を傾げて坂本を仰ぎ見た。
突然、肩を抱かれて階段へと導かれる。その性急な様子から、困ったという内容は自分には関係無い事なのだろうと推測した。急いで帰らなければならない用事でも、思い出したのだろう。
数秒でも一緒にいられる時間が縮まるのは切ないが、こんな事で駄々を捏ねるような子供に思われたくは無い。
坂本の大股な歩調に合わせて、桂も急ぎ足になった。
十分急いでいるのに肩から腕は離れなくて、鼓動が跳ねる。心の熱が、徐々に高まってゆく。
永遠に廊下が続けばいいのにとさえ、願ってしまった。
だが現実はあっけなく、行く先の階段を突き付ける。
ここを降りれば、職員室まですぐに着く。
後はもう「さよなら」と挨拶して、生徒用の昇降口と職員用の昇降口に別れてしまうだけ。
見えてしまった先に、階段を前にした足が止まる。
(まだ、帰りたくない。先生と一緒にいたい)
そう、言えたら……
でも、言ってしまったら先生は俺の事を?
今のあやふやな関係でさえ、失くすのは嫌だから。
無理矢理に、足を進めようとした。
「違うぜよ、こっちじゃ」
肩にかかっていた腕が、腰まで下ろされ抱えるように方向転換させられる。下りでは無く、上りの方角へ。
「先生? 職員室は?」
「ちっくと、寄り道じゃ」
桂から離れ、先に階段を一段上って手を差し出す。
「ほれ、行くぜよ」
「はいっ」
どこへとは、聞かなかった。差し出された大きな手に、手を預ける。その手に包まれるだけで幸せで、一緒にいられる時間が延ばされた事が嬉しい。
大きく返事を返した桂の瞳は、さっきまでの暗く沈んでいた色が消え、溌剌とした輝きが戻っていた。
(まっこと、めった……)
今度は、桂にも気付かれない様に心の中で嘆息する。
まだ子供、しかも男子生徒の表情一つに、これほど心揺さぶられているなどと。認めたくは無かったが、もう認めるしかない。せめて、あと半年。桂が卒業するまでは、この曖昧な関係でいようと耐えていたが……
理性の糸は、もう切れかけていた。
***
階段を上がって辿り着いたのは、校舎の最上階。
屋上に続く鉄扉を開けると、熱を孕んだ夜風が吹き込んで来る。坂本の後に続いて出て来た桂の長い黒髪が、風に煽られて舞った。
あっ。と、小さく声を上げて髪を抑える。
風に弄ばれる毛先を見ていた坂本の視線は、その押さえる腕へと引かれる様に動く。
夜空の下、開襟シャツの袖口から日焼けしていない腕の裏側が露わになっていた。その白さが、坂本を固まらせる。
「……?」
ジッと凝視されていることに気付き、桂もまたどうしてよいか分からず固まった。
広い屋上の上で、二人の間に緊張と戸惑いの空気が流れる。何か言わなければ、そう思うのに互いに言葉が出ない。
その沈黙の時間は数分の事だったが、酷く長く感じた。
何かきっかけをと願う二人の耳に突然、風切音が響く。
ヒュルルッと甲高い音が天空でドンッと爆発し、華やかな火の花弁を広げる。赤や黄の大輪の華が次々と、闇夜に美しく咲き誇ってゆく。
「先生! 花火です!」
桂が歓声を上げた。天を指差して坂本に笑顔を見せる。それは、極上の微笑み。二人で見たいと思っていた願いが叶ったのだ。
「おん、始まったか」
より近くで見ようと、呪縛が解けたように身体が動く。
「先生、早く!」
いち早く屋上の鉄柵に取り付いた桂が、坂本を手招きした。両手で柵を掴み、遥か上空を見上げる。
桂の長い髪も、楽しげに風に遊ぶ。サラサラと靡くさまに、坂本は触れたいという誘惑が込み上げてきた。
再び、花火が夜空を彩る。
空を見上げたまま、桂は隣に立つ坂本の方へ身を寄せた。
けれど、視線を合わせるのは気恥ずかしくて、横を向いたまま話しかける。
「俺、好きです……綺麗ですよね、花火。坂本先生と一緒に、花火が見られて嬉しいです」
もう一度、先生が好きだと伝えたくて。けれど、はっきり拒絶されるのも怖い。
結局、言葉をうやむやにしてまった。代わりの様に、そっと坂本のシャツの端を指先で握り締める。
「わしも、好きじゃよ……きれえじゃと思う」
僅かにシャツの端が引き攣れるのを感じながら、坂本も曖昧に答えを返す。
だがその瞳は、隣に立つ桂の方をちゃんと捉えていた。
花火を見詰める輝く瞳、夜目にも分かる上気した頬、あどけなく開かれた唇。子供でも無く、大人にも成り切れていない細い肢体。
「わぁああっ! 先生、あれっ! 花火の中心が、金魚の形になりましたよ! ほら、ほらっ」
隣にいられる幸福な時間に満足し見詰められている事など気付かない桂は、夜空に繰り広げられる花火の見事な造形に心奪われていた。
「ほら、先生。見て下さ……」
返ってこない反応に、語尾を濁らせる。遅まきながら、坂本の様子がいつもと違う事に気が付いた。
「坂本先生?」
小首を傾げ、問う様に上目遣いになる。楽しそうに輝いていた瞳が、再び陰りを帯びた。憂い惑う視線と間近に感じる体温に、坂本の理性は切れた。
「ほがな目は、反則ちや……」
「せん、っ」
坂本の手が、桂の頬を撫でる様に包む。知らぬ間に腰に手が回されて、気が付いた時にはもう坂本の腕の中に納まっていた。
「好きじゃよ」
耳元で囁かれても、不意打ち過ぎて言葉が返せない。
いや、返せたとしても声を発することは出来なかった。
唇を塞がれてしまっていたのだから。
桂は緊張から鉄柵を強く握り締め、目を閉じた。
突然の告白、初めてのキスに、思考が追い付かない。
ただ唇を触れ合わせるだけの事なのに、ドキドキと鼓動は早くなり花火の音さえ遠くなった。
見えなくなった天空の華の代わりに、チカチカと頭の中で花が咲く。
これは恋の見せる、心の中の花だろうか?
それとも、花火の残像か?
パニックになった頭が考え出した問いが過ぎたのは一瞬で、じわじわと喜びが湧いてくる。
(先生が、俺を好きだって!)
夢ではないだろうかと思った所で、唇が離された。
続いて頬から離されそうになる手を、咄嗟に掴む。
「先生、本当に? 俺の事……」
もう一度聞かせて欲しいと、潤む瞳が訴える。
「まっこと、桂小太郎君が好きぜよ」
坂本のきっぱりとした言葉に、桂の表情は蕾が綻ぶように輝いた。
「けんど、こりゃ秘密の関係になってしまうが……おんしは、ほれでえいがか?」
神妙な顔をする坂本に、桂は頷く。
「はい、構いません。だから、もう一度」
好きだと、囁いて欲しい。そう言おうとした。
「うん、はや一回」
桂を引き寄せると、ちゅっと軽く唇を合わせてからすぐに解放する。
「ち、違いますっ! 俺は、好きって!」
顔を真っ赤にして抗議する桂の様子が可愛らしくて、坂本の目尻は下がりっぱなしになった。
「好きじゃよ」
頭を撫で希望通りの言葉を囁くと、喜びに輝く瞳が見詰め返してくる。
「俺も、先生が大好きです」
蕩ける様な笑顔は、本当に花が咲いたよう。
了
2016.9.13
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