Hard Days, Holy Night

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スマートフォンがポケットの中で震えるたびに気がそれるので、サイレントモードに設定する。
「すまない」と、数分前に送ったメッセージと同じ言葉を吐いて、デスクに向かう。

年末の繁忙期。二十二時をとっくに過ぎていた。
いつの間にかフロアから人が減っていることに驚く。さすがは社会人の先輩とでも言うべきか。
皆、忍のように、音もなくひっそりと退社するスキルを持っているらしい。

そんなスキルを持たないクレフは無事課長につかまり、さして急ぎでもない―というのはあくまで就職一年目のしがない新卒社会人の判断であって、かの課長にとっては大至急らしい―仕事を押し付けられ、その処理に追われている。

デスクライトに吊り下げたペンギンのキーホルダーがこちらをじっと見ている。
一昨年、葛西臨海公園で海と交換で買いあった物だ。
〝焦るなよ〟と、彼―クレフはこのペンギンをオスとしている―は言っているようだった。


初めて海と臨海公園に行ったのは、三年前のちょうどこの時期だった。
イチョウが金色に色づくキャンパスで、クリスマスデートに誘ったことを彼女は〝手口〟だと言っていた。思い出すと笑みが湧いてくる。それからは毎年、クリスマスの時期は二人で件の水族園に通っているのだけれど、その記録更新も今年で途絶えた。

一足先に社会人になった海は、職種と職場に恵まれ、昨年は平日にして〝イヴデート〟が叶った。
不思議なもので、海にとっては二十四日にデートをすることそのものが大切らしく、観覧車に乗るために一時間以上も寒空の下で待たされることにはなんの抵抗もないようだった。それから二人して海のマンションへ帰り、それなりに恋人らしいことをして、翌朝はなんでもないように毅然と出勤する海のバイタリティにはクレフも驚いた。
よほど院を自主休校しようとも思ったが、そんな海を前にして一人のんびりと休むわけにもいかない。



前世で生涯を添い遂げ、記憶を頼りに探し続けた〝運命の女性〟は、それなりに我儘で気も強かった。
「仕事と私とどっちが大事なの」などと言ってのけるので、ある意味で感動すらした。
そんなセリフを本当に吐く人間がいるとは思ってもいなかった。模範解答はなんだっただろうか。おそらく、そんなものはない。
言わせてしまった時点で自分の負けなのだから。

「ではお前はどうなんだ」と戯れに尋ねて返してみれば「クレフ!」と間髪を入れず答が返ってきたことも思い出す。
それは超が付くほどのホワイト企業に勤め、いつでも自由に有給休暇を取れるお前だから言えることなのだ。とは言わなかった。

新人が年末の繁忙期に休みは取れないし、むしろ残業必至なので別の日に何か特別なことしよう、とクレフは提案したが海は首を縦に振らなかった。先日の通話のことだ。
「じゃあ、お仕事終わるまで待ってる」 と、瞳を潤ませて子供のように拗ねる顔を見てしまってはこちらが折れるほかない。


手洗いに行くふりをして電話をかける。こそこそと廊下の隅に隠れ、消火栓の上にスマートフォンを立てかけた。
通話をつなぐと、こんな時間だというのに海がいつものルームウェア姿ではないことにクレフは驚いた。初めて見る服だ。
もしかしたら今日の日のために新調したのかもしれない。真白のニットが、海の首元までを温かそうに包んでいる。
隠されれば余計に剥きたくなる。そんな狩猟本能をくすぐられるが、クレフは今自分がいる場所と、そして置かれた状況を思い出し、首をふるると振った。

拗ねる海に両手を合わせ「まだ遅くなる」と平謝りをする。
海は泣きそうな顔で「早く帰ってきて」と言った。今すぐ画面の中に飛び込んで抱きしめたくなる。

かわいい。
どう考えてもかわいい。

けれど、どれほど海がかわいかろうとこの残業に与える効果は一つもない。

「かわいい彼女が待っていますから」
そんなことを、どんな顔で課長に言えばいいのか。


フロアに戻り、一件二件と仕事を片付けていく。
短針がほぼ真上に近づいた頃「今日はもういいよ」と課長が言った。
タクシー代を出すとなると経理課がうるさい。そんな魂胆が見える。大至急はどうした。
課長はゴワゴワした野暮ったいコートを着込み、とっくに身支度を終えていた。
「鍵よろしく」と言い残し、フロアにはクレフ一人となった。
内心腹立たしいが、まあいい。急いで帰り支度を始める。

〝お前も大変だな〟とペンギンが言った。



結局、終電には間に合わなかった。
幸い、駅に一台のタクシーが戻ってきたところだったので急ぎ乗り込み、行き先を伝える。

車内に流れるラジオではイヴのカウントダウンが終わり、二十五日クリスマスを祝った。
定番のクリスマスソングが流れ、CMとジングルを挟んだ後、「こちらはホワイトクリスマスにはなりませんでしたが」と放送局の地名を挙げながらパーソナリティが言った。次いで、リスナーからのメッセージをいくつか紹介し始めた。

『イヴは彼氏と過ごします。翌日は家族と…でも正直そっちは消化試合みたいなものです』と笑いながら読み上げた後、「じゃあ今この放送絶対聴いてないじゃん!」と大きな声で言い、ブースの笑いを誘った。
そして、「やっぱりイヴの日は好きな人と過ごしたいですよねえ」と、メッセージを読み上げたのか自分の発言なのか、曖昧な口調で言った。


果たして、女とはなぜこうもイヴに厳しいのか。
「そんなに大切な日なら、祝日にするべきだと思わないか」
クレフはそんな毒を吐き、車窓は流れる。
すると、運転手が「あ」と声を上げた。クレフも外を見て目を瞬かせる。
「雪だ!」と言ったのは、ラジオのパーソナリティだった。
「スタジオの窓! 真っ白です!」それは、心から漏れ出る歓声のようだった。
放送をそっちのけで「わあ!」と声を上げている。

この季節に東京では非常に珍しい。突然の降雪に、しばらく無法地帯のまま放送は進んだが、ブースの向こうから放送作家の声が飛ぶと一転、パーソナリティはまじめな声色で交通情報センターに声をかけた。

雪の影響ではない。年末の混雑が、ラジオからは伝えられる。
「そんなこと言われなくてもわかってるよ」 と、運転手が苦々しく言った。



残業代がタクシー代に消える。
幸い路面はまだ無事で、クレフはほとんど全速力で歩道を走る。降りて正解だった。
クレフの疾走は、渋滞する車たちを追い越すばかりで、追い越されることはない。
頭や肩に冷たい雪が積もるが構っていられない。はらったところでまたすぐに積もる。

すれ違いに見知らぬカップルが「速っ」と、揶揄に近い言葉を放ったが、クレフは意にも介さない。
今のクレフにとっては、拗ねているはずの恋人を抱きしめて甘やかし、泣いていれば涙をぬぐい怒っていれば機嫌を取る、それから、悩みに悩んだプレゼントのお返しには美しい髪に顔をうずめ甘い香りをかがせていただき、あわよくば――というところが全てだった。


海の住むマンションの前に着いた頃には、辺りはすっかり雪景色となっていた。
立派なホワイトクリスマスだ。
いかにも海が喜びそうだな、と思う。


マンションのエントランスを入ると、こんな時間だというのに二台のエレベーターはどちらも上階のほうでノロノロとしていた。
エレベーター横の鉄製のドアノブは灼けるように冷たい。

外階段を駆け上がる。

白い息が、弾む。
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