セイレーン(WEB版)





Dream4.



モーテル「クラウドナイン」の店主は、カウンターの上にドサリと置かれた金貨袋を前に目を丸くした。
店主がカウンターの引き出しから鑑定眼鏡を取り出そうとしたので、「偽造品ではない」と言ってクレフは彼を言葉で制した。

「冗談ですよ、旦那」
人懐こい笑みを浮かべ、引き出しから鑑定眼鏡の代わりに白手袋を取り出して両手にはめ、金貨をつまんではコインケースに几帳面に揃えていく。
クレフと共に枚数を三度も確認して、それからクレフの背後に隠れるセイレーンの姿をちらりと見た。けれど、フードの中身までは覗き込もうとしない。
それが、このモーテルがクレフ達にとって「隠れ家」と言える理由の一つ目と二つ目だった。


あの朝食の後、イーグルたちは「うちを使ったらいいのに」とセイレーンを引き留めたが、クレフの直感と経験がそうしなかった。
「かくまうにはもっとふさわしい場所がある」
このモーテルの名前を出すと、二人とも納得をした。


「何も聞かずに、これでしばらく彼女を泊めてやってくれ」
「また捜査がらみですかい?」店主が尋ねた。
「何も聞くなと言っている。セキュリティはFoxtrot」
「 Foxtrot? これはまた」
店主はカウンターの上のコインケースをクレフのほうへ向けて見せ「 Foxなら一列で一月(ひとつき)ですな」と言った。
コインケースには、先ほど二人で数えた通り、五列と十五枚が詰まっている。クレフが一瞬渋い表情をしたのを見て「Waltsなら半額ですよ?」と店主は言った。

「いや、これでいい」クレフがコインケースを店主のほうへ押し戻す。
「旦那とレディが泊まるんなら一番良い部屋を用意しなきゃ」
いいながら、店主がカウンター奥の壁際を探り始めた。
「私は泊まらん」とクレフが言ったが、店主はキーボックスを開けるためのキーを探しているところだったので、その言葉が耳に入ったかどうかはわからなかった。

クラウドナインは、モーテルであるのに三階建てという風変わりな建物だった。一階に四部屋、同じ間取りで二階にも四部屋。そして最上階が301号室だ。302~304号室は存在せず、全部で九部屋。
だからクラウドナインなんだと数年前に、聞いてもいないのに店主が教えてくれた。


最上階301室のキーを受け取り、クレフたちは階段を上がる。
三階についたすぐ先が301号室だった。
四部屋分をまるごとぶち抜いたスイートルームのような作りをしているが、その内装は一般的なスイートとは程遠い。
全体的に地味なブラウンばかりを基調としたどこか野暮ったい雰囲気の部屋だった。
カーペットもカーテンもラグも家具も、全てどことなく古臭い。
ダイニングリビングに置かれたムードオルガンからは、店主の趣味か、聞いたこともないシャンソン曲がローファイ音質で流れていた。

「一番良い部屋、ね」
ムードオルガンの再生ボタンを切り、クレフが嫌味たらしい口調で言った。
窓を開け空気を通す。それで埃っぽさが薄れることはないが、少しはましだ。

クレフを真似てセイレーンが部屋の反対側の窓を開けた。日の光が一気に入る。
日光に照らされると、室内は思いのほか綺麗だった。
地味なブラウンも少しは華やいで見える。
カーペット敷きの床にシミがついていることもなければ、カーテンが破けていることもないし、壁や柱に恋人同士の名前が落書きされていることもなかった。

部屋は広いし、最低限の清掃はされている。
以前に宿泊した(せざるをえなかった)202号室よりは随分いい。
あそこは本当に最悪だった。隣の部屋からは営みの声が漏れ聞こえるし、カビ臭さもこんなものではなかった。

二部屋分を使った広いダイニングリビングには、テーブルやチェアをはじめ、ソファ、書記版、ドレッサーに、簡単な調理台まであった。

クレフはダイニングチェアに腰をかけると、テーブルの上の灰皿を指で手引き寄せた。灰皿の中のマッチには、ご丁寧に「CLOUD NINE」と印刷されている。

セイレーンは部屋をあちこちと歩き回り、物珍しそうにあれこれと物色していた。
ムードオルガンに手を触れようとしたので「やめておけ」と制する。
セイレーンの視線を得たついでに、クレフは煙草をくわえ、これ見よがしにケースからマッチをちぎった。が、あのうっとおしいプリセットの文言を言ってくる気配がない。
これ幸いと、クレフは遠慮なしにマッチを擦った。
焦げたリンと辛みのある煙の香りが混じって漂う。
雇い主は煙草を嗜まない人間だったのか、セイレーンはクレフのその一連の流れをじっと興味深そうに見ていた。

「高級スイートでも用意すると思ったか?」
クレフが尋ねると、セイレーンは首を横に振った。
「街でここより安全な場所はない。しばらくは我慢しろ」
「私、ここに住んでいいの?」
クレフが「ああ」と返事をすると、セイレーンは「素敵」と言って瞳を輝かせた。
アンドロイドも嫌味もしくはお世辞を言えるのかとクレフは少し感心した。

「ただし、外出はするな。必要なものは明日以降届ける。夜勤のない日は仕事終わりに様子を見に来る。知らない奴が来ても鍵は開けるな。物品も私たち以外からは受け取ってはいけない。念の為部屋に防除の結界も張っておくが、いいか? くれぐれも外には出るなよ?」

「 Thank you, Sir.」
もはや聞きなれたその言葉を言うと、セイレーンはクレフの手を引き、弾む足で寝室のほうへと連れた。

ダブルサイズのふんわりとしたベッドにクレフを座らせ、くわえていた煙草を指でつまんでベッドサイドの灰皿にたどたどしく押し付ける。
そしてセイレーンはクレフの腰元のベルトに手をかけた。

「何を!?」
慌てて肩を押しのけると、セイレーンはたおやかに笑って言った。
「Sirクレフ、私はあなたの従順な恋人」

すぐにわかった。
プリセット言語だ。
そして、セイレーンがこの部屋を本来の役割で使おうとしているのだということが。

「そういうことか……」
クレフは、同情とも憐憫ともつかない表情を浮かべ、押しのけたばかりの細い肩にそっと手を置いた。

「セイレーン、そんなことはしなくていい」
体勢を整えセイレーンをベッドの縁に座らせる。
乱れた衣服を整えてやると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「もうこんなことはするな、という意味だ」
「なぜ?」
「なぜ……だと? いや、理由などない。とにかくするな。イーグルにもザズにも、もちろん雇い主にもだ。こういうことは本来、その……なんだ、想いを通わせた相手とするものなのだ。わかるか?」

はたしてアンドロイドにこんな感情的な訴えが通じるのだろうか。
クレフは少しの躊躇いの中、言葉を続けた。

「アンドロイドの仕組みも規約も精神も私は知らん。だが、そんなことは関係ない。自分の体は大切にしろ。易々と男に開いたり、ましてや車に飛び込むなど、もう二度とするな」

クレフが言うと、セイレーンは目を閉じた。
思案をしている。少なくともクレフにはそう見えた。
セイレーンが目を閉じたのは、視覚情報を遮り、混乱を軽減するためだった。
つまり、セイレーンは混乱していた。


正規の手順を踏まずにプログラムを書き換えることは禁忌とされている。
けれど彼女は自分の脳が静かに更新され始めていることを感じていた。
潤滑液の半分が入れ替わり、思考が変わり始め、まるで生まれ変わったかのような感覚の中に、彼女はいた。

セイレーンはゆっくりと目を開け、そして頷いた。
青藍色の瞳が細く弧を描く。

桜色の唇の口角が優しく上がり、セイレーンはふわりと微笑んだ。
クレフは、ドキと高鳴った胸の音に一瞬戸惑った。
にわかに表情を硬くした彼を案じ、セイレーンが顔を覗きこんだ。
「Sir?」
「……いや、なんでもない。それから、その呼び方もやめろ。クレフでいい」
「Sirクレフ?」
「Sirはよせ。敬称はいらない。クレフと呼べと言っている。Call me Clef. わかるか?」
「クレフ?」
「そう、いいこだ」

幼い子供か、下手をすれば飼い犬に接しているような気分にもなる。
ここにきて、ようやくまともなコミュニケーションが取れたことにクレフは思わず顔をほころばせた。

それから少し時間をかけて、モーテルの使い方を教えたり、当面の暮らし方についてを話し合った。
セイレーンは、キッチンや狭い脱衣所、バルコニーの物干しに至るまで、あらゆるものに目を輝かせた。彼女は、生活力の高いアンドロイドとは言えなかった。
聞けば、元いた屋敷では幾数人のアンドロイドや使用人が雇われていて、家事や雑用をほとんどやったことがないという。

オートザムに着いた後は、当面は自分や港町のジェオが面倒を見ることができるが、最終的には彼女が一人で暮らせるようにならなくてはいけない。
出発までに準備が必要だとクレフは考えた。

アンドロイドの特性なのかセイレーンの性格なのか、彼女はとにかく学習が楽しい様子だった。理解と覚えは早く、クレフの言うことをセイレーンは次々と飲み込んでいった。

ダイニングテーブルの灰皿を指さして「私もマッチを擦りたい」と子供のようにごねだしたのにはクレフも驚いた。
やり方を教えてやると、二度三度でセイレーンは着火を覚えた。
すると突然、セイレーンが「う」と小さくうめいた。
頭を押さえ、苦しそうな表情を浮かべている。

『治した回路が完全に凝固すると、痛覚信号が刺激されちゃうんだ。かわいそうだけど、少し痛むと思う。その時はこれを使って』
ザズがセイレーンにと手渡したプラスチックカプセルを取り出し、ザズの説明通りにこめかみに内容物を打ち込んだ。

「大丈夫か?」
空になったカプセルがカーペット敷きの床にぽとりと落ちる。セイレーンは尚も頭を抑えている。クレフが背をさすってやると、彼女はうめくような声で言った。

「その名前、大嫌い」
「名前?」

セイレーンは落ちた空カプセルを指差し睨みつけた。
彼女の名が刻まれたカプセルを。

「あいつが私につけたの。男を惑わせる海の女神の名前だって」

雇い主のことなど、思い出したくもないのだろう。
彼女の表情は怒りと悔しさと失望に満ちていた。

子供だ。
マッチの着火で喜ぶ、好奇心の塊のような子供。
そんな子供が、売春婦まがいのようなことをさせられていたのだ。

何が合法だ。何が忌避回路だ。
クレフの胸が怒りに痛んだ。

「すまない。こんな時、どんな言葉をかけてやったらいいのか私にはわからない」

同情するだけなら簡単だ。だから昨夜、覚悟を決めたのではないか。

「だが、ひとつだけ教えてやれることがある」
クレフが言った。

「セイレーンは女神ではなく怪物の名前だ」
「……怪物?」
「ああ。男を食い殺して骨の山を作る。歌で船乗りを惑わせるという逸話のほうが有名だが、本来のセイレーンはそういう怪物だ」
クレフが言うと、セイレーンがフフッと吹き出した。
「ねえ、じゃああいつ、私のことをずっと怪物の名前で呼んでたってわけ?」
セイレーンは、ケラケラと声を出して笑った。
その年相応の様子に、クレフの心はどこかほっとした。
「海の……女神か」クレフが呟く。

そして、


「ウミ」



そんな言葉がクレフの口から零れた。


「うみ?」セイレーンが首をかしげる。
「気に入らないか? 短いほうが呼ぶのも楽でいい」
言いながら、クレフは床に落ちた空のカプセルをつまみ上げた。
「嫌いなのだろう? この名前が」

指先に力をこめるとプラスチックはいとも簡単にパキンと割れた。
〝 Seirazein〟の文字は見る影もなく、粉々に砕けて床に散らばる。

彼女は〝そのこと〟にようやく気づき、ハッと息を飲んだ。
自分の顔を指差しながら躊躇いがちに尋ねる。
「ウミ?」
クレフが頷いた。

少女は「ウミ」と、かみしめるように自分の名を呟いた。

「ありがとう、クレフ」
ウミが、笑った。



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