セイレーン(WEB版)
Dream3.
セイレーン
イーグルはセイレーンを寝室へ送り届けるとすぐにリビングに戻って来た。
しかし、クレフ達が座るダイニングテーブルには向かわず、彼らに背をむけるようにして壁のほうへと歩いて行った。
「クレフ、あなた視力は?」壁をまっすぐに見たまま、イーグルが尋ねた。
「両目とも1.2だ、それがどうした」
「うらやましい限りです」それだけあれば十分でしょう。呟きながら、イーグルは壁面からデスクを引き出し、その上で端末機を開いた。
「AZR dw R1012 セイレーンっと」
イーグルは、わざとらしく声を出しながらタイピングをした。彼は何かを検索しているようだった。
「なるほどなるほど、この方が彼女の雇い主ですか」
さらに演技がかった声でイーグルが言った。
「一体なんなんだ」
クレフがイーグルの端末を遠目に覗き込む。
モニターには、何やら男性のプロフィールらしきものが映し出されていた。
クレフの周りにはいないタイプの人間だった。
五十代くらいだろうか。小太りの体、ぜい肉と目がいやらしく垂れ、けれど顔に刻まれたシワからは少なくはない数の社会的修羅場を老獪にくぐり抜けてきたことがうかがえた。
「貿易商のお役人様。あの個体を個人が買えるくらいには潤っているようですね。ただの成金に買える額ではないですから。生粋の富豪と言っていいかも」
イーグルが、またわざとらしく言った。
ザズがクレフに耳打ちをする。「雇い主の情報は一応部外秘だからさ、俺たちはあくまで勝手に覗いた
ザズはと言えば、ゴーグルの望遠機能を使ってイーグルの端末を覗き見ていた。
「少なく見積もっても彼女の失踪から四時間。やはり、捜索願は出ていないようですね」
クレフ達に背を向けたまま、イーグルが言った。
「やはり? どういうことだ? そこまで貴重なアンドロイドならば、普通は必死に探すだろう」
端末を閉じ、イーグルがこちらに戻ってくる。
ダイニングチェアを引き、クレフの向かいに腰かけた。
少しの沈黙の後、ザズと目を合わせると、イーグルが苦い顔をして言った。
「彼女、虐待を受けています」
にわかに、クレフが表情を険しくした。
「性的虐待かと思われます。彼女の大腿……足の付け根に手形のようなひどいあざがありました。一度や二度ではああはなりません」
「普通、あざがつくほど負荷がかかれば、セーフティがかかるはずなんだ」ザズが言った。
「アンドロイド法で決まってるんだよ」と。
「セーフティ?」クレフが尋ねる。
「普通は通報システムとか、あるいは催眠ガスで一時的に意識を失わせる、とかですね」
穏やかではない単語にクレフは目を丸くした。
イーグルは苦笑いと共に言った。
「最近はアンドロイド人権団体も力を付けてきていますから。そのあたりはかなり厳しくなってきているんですよ」
「アンドロイド人権団体……」
クレフはいよいよ頭を抱えた。今この場で全てを理解することは諦めた。
「話を進めてくれ」
「彼女、そのセーフティが外されてたんだ」ザズが言う。
「つまり、どれほど嫌がっても抵抗できないようになっていたんです」
「……最悪だな」
こみ上げる嫌悪感と共にクレフが舌を打った。
「いえ、事態はもっと最悪ですよ」
イーグルが言った。クレフは「ならもう聞きたくない」という表情を隠しもしなかった。
イーグルは顔の下で組んだ指に顎をあずけ、そしてクレフをじっと見て尋ねた。
「彼女が、なぜ嫌がると思います?」
「なぜ? 当たり前だろう。あんなじいさんの相手など誰だって嫌に決まっている」
「でも彼女、アンドロイドなんですよ?」
イーグルの言い含めたような物言いに、クレフはハッとした。
「あの外見からして、最初からそういう目的で作られたことは間違いありません。それはもちろん合法。だからドリームウィーバー社もきちんと、型式に社名を入れています。けれど、彼女は少しおかしい。本来あのタイプのアンドロイドに性的行為に対する忌避感は無いはずなんです」
「まさか……」
クレフにも、そのことは直観的にわかった。
職業柄、悪意に触れることが多いせいもあるのかもしれない。
「忌避回路が意図的に組み込まれてたんだ」
ザズが言った。
「つまり、わざと嫌がらせた上で無理やりコトに及んでいるということです」
イーグルが、嫌な答え合わせを終える。クレフはほとんど吐き気をもよおしていた。
「さっきザズが言った通り、大量に潤滑液を入れ替えた影響もありますけど、セーフティの解除や回路の改ざんによって、機能が少し低下しているのかもしれません。あるいは見た目どおり少女のような幼い性格に仕立て上げている可能性も」
「救えんな」
クレフは無意識に懐を探った。煙草の箱に指が触れ、この完全禁煙の研究所を恨んだ。
「それで回路がショートして逃走。混乱ゆえの自殺未遂というわけじゃないでしょうか」
「さて、クレフ刑事殿」
重々しい空気を開くようにイーグルが一つ声を高くして言った。
「本署に連絡します?」
それは、質問の形をした脅迫だった。
翌朝、セイレーンは昨夜の患者服ではなく、シンプルな白色のワンピースに身を包んでリビングに現れた。
「すみません、我が家にはこの服しかなくて」
イーグルが申し訳なさそうに言うと、セイレーンは首を横に振った。
「朝ごはんにしましょう」
アンドロイドが食事をとるのか? と、クレフがいよいよ尋ねると、イーグルはやはりあきれたように答えた。
「摂食行動をとることができる型式は、もう何年も前からいますよ」
一緒に食事をとりたいという需要は多いのだという。
セイレーンは促されるまま、空いたイスにちょこんと腰かけた。
目の前のクロワッサンやスクランブルエッグ、オレンジジュースをしずしずと口に運んでいく。その所作は非常に洗練されていた。
「なあ、女の子が食べてるところをそんなにじっと見るもんじゃないぜ?」
ザズが苦言を呈した。それでクレフは初めて、自分がセイレーンの食事姿をじっと見つめていたことに気がついた。
親父は本当にデリカシーがないんだから。
ザズが言うと、セイレーンは食事の手をピタリと止めた。
「お父さん?」
ザズを見、クレフを見、セイレーンは首を傾げた。
クレフは愕然として、食べかけのパンを皿の上にポトリと落とした。
「そんな歳に見えるのか?」
ザズとイーグルが大笑いをするので、セイレーンはきょとんと目を瞬かせた
。ザズが目じりをこすりながら肩を震わせて言った。
「違うよ、セイレーン。親父っていうのはこの場合、そうだな……ボスとか先生とかそういう意味。父親って意味じゃないんだ。俺は昔からこの人に世話になってるからそう呼んでるだけで」
「おやじ……」
セイレーンが興味津々に呟く。
「だめだめ! そんな言葉を覚えちゃあ」
ザズが、よけいに肩を震わせながら言った。
朝食を終えた後、「念のため確認なんですが」とイーグルが言った。
「雇い主のところへ帰る気はない、でいいですよね?」
イーグルが尋ねると、セイレーンの手が震え、カップの中のコーヒーが小さく波立った。
「大丈夫だよ」ザズが彼女の肩にそっと手を置いた。
「つらいとは思います。けれど、あなたの気持ちを聞いておきたいんです。どうでしょう、話せそうですか?」
しばらくすると、セイレーンはコクリと頷き、カップに残ったコーヒーをぐいと飲み干してから息をついた。
吸って、吐いて、それから覚悟を決めたように口を開いた。
「私がなんのためのアンドロイドか、もう知ってるでしょ?」
三人の小さな反応を見て、セイレーンは続けた。
「最初は平気だったの。何をされてもなんにも感じなかった。これが仕事だったし快も不快も好きも嫌いもなかった。でも先々週、屋敷に研究者たちがたくさん来て……。―いいえ、ドリームウィーバー社じゃなかったわ。それで、私、施術を……。施術が終わって目が覚めたらひどい吐き気がして、今までのこともこれからのことも気持ち悪くて全部が嫌になってたの。
でも、嫌がれば嫌がるほどあいつは楽しそうで、それからますます悪趣味でひどいことをされるようになって……。
それで、隙をついて屋敷から逃げたの。でも私行くところもないし。遅かれ早かれいつかは連れ戻されるのかなって考えたら……頭が変になって。気づいたら道に飛び出してた。その後はあんまり覚えてない。車の中であなたとお話したのはなんとなく覚えてる」
セイレーンはクレフを見て言った。
クレフは何も言わなかった。
車は駄目になったし、モバイルだって。
職務規定にも背いてしまった。
昨夜のあの〝大事件〟が、彼女にとっては「なんとなく」で済んでいたことを嘆きも怒りもしなかった。
ただ一つ、昨夜自分の中に芽生えた覚悟を、今一度確かめていた。
「突然ですが」ダイニングの湿った空気を変えるように、イーグルが明るく言った。
「ここからセフィーロの外洋を超えた先に、僕とザズの故郷があります」
「国の名前は〝オートザム〟」
その名に、セイレーンがぴくりと反応を見せ、「 Andy's Heaven」と、呟いた。
「さすが、物知りなんですね」
「一度
「それはすごい! それでね、昨日三人で相談していたんですが、セイレーン、あなたオートザムへ行きませんか?」
「えっ?」
人工毛とは到底思えない長いまつげが上下に激しくパチパチと揺れ動いた。
クレフは、セイレーンの瞳に期待の色をした輝きが宿るのを見た。
幼い、見た目の年齢に相応しい反応。
キラリと光る眼差しは、子供のそれだった。
「あそこならヒューマノイドに対する偏見はありません。その名の通り、アンドロイドにとっては天国でしょう」
「そうね、たしかにオートザムなら私一人でも生きていけるかもしれない」
と言った後、輝きを宿していた瞳が曇り、セイレーンの表情が沈んだ。
「でも無理よ」彼女は寂しそうに言った。
「私、国を越えられないもの」
セイレーンは悔しそうにスカートの裾をぎゅうと握った。
握った白いワンピースにしわが立つ。
手の甲に血色のよい筋が浮き出るのを見てクレフは静かに驚いた。
これも、彼女のセクサロイドとしての機能の一つなのかもしれない。共感などしたくもないが、彼女を見て劣情を抱く男としての性を、理解できなくもなかった。
「雇い主と一緒でないと、飛行機にも乗れないの」
セイレーンの言葉には、悔しさがにじみ出ていた。
「私が連れて行く」
クレフが言うと、セイレーンは驚嘆の眼差しを彼に向け、それから半ばなじるように食って掛かった。
「何言ってるの!? あなた話を聞いてた!?」
「行くなら、港町がなんかいいんじゃないですかね。僕の古い友人が近くに住んでいるので連絡をつけておきますよ」
「船もだめなんだってば」
イーグルにすら、セイレーンは苛立ったように言った。
その口調は自分の境遇を恨んでいるようでもあった。
スカートの裾はすっかりしわになっている。
失望のやり場無く、セイレーンは両手で目元を抑えながら呟いた。
「私は、一人じゃどこへも行けないの」
「一人ではない」
クレフはおもむろに立ち上がるとセイレーンの真後ろにつかつかと歩み寄った。
「きゃっ」と彼女が悲鳴を上げたのは、自分の体が今までに経験のない高さと浮遊感の中にあったためだった。
「な、なにこれ!」未知の感覚に怖気立ち、クレフの首に腕を回す。
自分がクレフに横抱きにされ、白いタイル床から1メートルほどの高さでふわふわと浮遊していることを理解すると、セイレーンはますます顔色を青くした。
「親父! 急にそんなことしたらびっくりするだろ!」とザズがわめいた。
「降ろして! 降ろしてってば!」
「こら、暴れるな」
足をばたつかせるセイレーンの耳元でクレフが囁いた。
単調なコマンド。体の力が抜け、セイレーンはクレフの首元をぎゅうと抱いた。
姿勢が安定したのを確認すると、クレフは彼女の体を一度抱えなおし、さらに高く跳ね上がった。
イーグルとザズが、「おー」と声を上げて二人を見上げる。ほとんど天井付近まで浮き上がると、そのままビジョン邸リビング内を隅まで飛んでいく。
旋回し、元いた場所へと舞い戻る。セイレーンの腰を支え、爪先からそっと床に立たせるとクレフは言った。
「見た目より重いな」
ザズが「親父!」と怒声を上げた。
「潤滑液は血液よりも比重が重いんだよ!」
かばっているのかなんなのかわからないことをザズがわめきたてている。
一方でセイレーンは怒った様子は見せなかった。
彼女は怒るかわりに、薄水色のまつげを震わせながら尋ねた。
「空も……飛べるの……?」
「ああ」
「本当に、連れて行ってくれるの……?」
「ああ」
髪色よりも随分色の濃い青藍色。
それがセイレーンの瞳の色だった。
「だが喜ぶのは早い。今すぐには無理だ。外洋を超えるほどの飛空となると数か月は力をためる必要がある。それまでは大人しく待っていろ」
青藍の輝きをまっすぐに見つめクレフは言った。
「私がお前を、オートザムへ連れて行く」