セイレーン(WEB版)



Dream2.
ドリームウィーバー社 第八研究所





最悪だ。最悪も最悪。

車内が、つやつやとした液体で汚染されていく。
アンドロイドのオイル漏れかとも思ったが、どうやら油分ではなさそうだ。
いや、この液体の成分のことは、今はどうだっていい。

今の自分はどう考えても冷静ではない。
今すぐ本署に向かうべきに決まっている。考えるまでもない。
アンドロイドこいつの家がわからない以上、まずは上への報告。それから雇い主への送還だ。
考えるまでもない。
が、考えるまでもないことをこうして迷っている時点で、やはり自分はどこかおかしかった。


全ては、この逃走アンドロイドが気を失う前に言った言葉のせいだった。

―助けて

諦めた瞳、身体の震え様。
クレフはあの瞳を知っていた。


「最悪だな」
今日何度目かの言葉を吐き出し、ハンドルを握る。
職務規定を破ったことは一度もなかった。今、この時までは。




しばらく車を走らせ、街の中心部を離れる。
曲がり角ごとに人が飛び出してくるような気がして、焦る気持ちに反しクレフはノロノロとアクセルをゆるく踏み続けた。

普段なら四十分程で着くそこへおよそ一時間をかけてクレフは到着した。
着いた先は、白い外壁の大きな一軒家だった。
潔癖なほどに白く無機質で、ほとんど直線のみで構成されたその四角い家は、一階部分にだけ灯りがついていた。

少女を肩に抱えて車を降りる。
アスファルトの歩道には、引きずった跡に細く液体の線が残った。触れた感触も漏れ出る液体の生暖かい感触も、まるで人間だ。
大昔の、アンドロイドたちが機械仕掛けだった頃のそれとは、似ても似つかない。
艶消しのされた鈍色のドアの前で、家主を待つ。


機械科学と遺伝子工学を組み合わせているのだと、この家の主は言っていた。量子意識QC細胞死アポトーシスの逆説的利用四細子クワトロン微子ミニモン)

クレフは決して物覚えや頭の回転が悪いほうではない。
それでも、あの日の彼の説明が半分も理解できたかといえば否だった。

「結局、機械とどう違うんだ?」と聞けば、少しあきれた顔で何か不思議なことを言われた気がする。
その言葉を思い出そうとしていると、シルバーのドアが静かに開き青年が顔を覗かせた。
「一体なにごとです?」
クレフ達の姿を見て、青年はその端正な顔を少しだけ崩した。


ドリームウィーバー社は、セフィーロ国内に八つの研究所を持つ。
第一は街の中心部、本社の敷地内に。第二から第四は主要郊外に広く土地を持つ。第五から第七は、災害や非常時用のバックアップラインとして国内各所に点在した。
セフィーロ国内のアンドロイド製作はドリームウィーバー社の、もはや一強とも言える。そして、この第八研究所はこの銀髪の青年イーグルとその助手が二人で暮らす社宅でもあった。

「いやー、驚きました」
ドアを閉じ鍵を閉めるとイーグルが言った。言葉に反し表情と口調はのほほんとしている。
「まさかあなたがこんな時間に女性を連れてくるなんて」
「すまない。私も少し混乱していてな」
「あなたが?」
それは珍しい。イーグルが言った。
夜中の突然の訪問にもかかわらず、イーグルは嫌な顔をしなかった。それどころかむしろ、期待の表情すら見せている。この堅物が女性(しかも目を奪われるほどの美女)を抱えて我が家にやって来たという、なかばゴシップめいた出来事に野次馬心を弾ませているに違いなかった。
廊下を歩きしなクレフが事情を話す。彼女がアンドロイドであることを知るとイーグルは目を丸くした。研究所の人間でも気づけないほどに、このアンドロイドは精工ということだ。

広いリビングを突き抜け、通路を少し行った先に研究ラボの入り口がある。
ラボの扉は白い壁に溶け込みそうにつるんと無機質で、ドア横には認証機器と思われるスキャナが設置されている。イーグルがスキャナに顔を覗かせると、レーザーが瞳の虹彩を読み取り、極厚の扉は音もなく開いた。

ドアが開いた先にはこれまた無機質な真白の部屋があった。
一見手術室を思わせる研究ラボには、アンドロイド用の診察台、モニター、スキャナなどの機器類が整然と並んでいた。

ラボの床に赤い液体が線を引く。
玄関からここに至るまで、クレフたちの後ろを神経質につけてきて、床に流れる潤滑液の赤い跡を拭き取り続けてきた自動クリーナーたちも、ラボの中までは入らないようだった。

イーグルとクレフはアンドロイドを抱え、診察台へ寝かせた。
真白の台に赤い潤滑液が付着したが、イーグルはまるで気にしていない様子だった。
白昼色の照明の真下でも彼女は人間にしか見えなかった。

イーグルはまず、横たわるアンドロイドの髪をかき分け、首の後ろを覗いた。
うなじにタトゥーされた型式コードを読みたいらしいのだが、薄水色の長い髪が邪魔で難儀している。
わざわざ目視で確認せずとも、せっかく完備されている機器をなぜ使わないのだとクレフが尋ねると、イーグルは小さく微笑み「なんだかわけありのようなので」と言った。「一度記録したデータを抹消するのは案外面倒なんですよ」と。どうにか髪をかき上げ、イーグルがその文字列を読み上げた。

「〝 dwAZRR1012 31140303 Seirazein〟……せいら……セイレーン?」
「R1012!?」
子供のはしゃぐような叫び声がラボに響いた。
叫び声の主は診察台に駆け寄ると、アンドロイドの少女をまじまじと眺めた。
「すっげー!」
黒髪の短髪にかぶった帽子には大げさなゴーグルが乗っている。少年はそれを目に当て、今度は頭からつま先にかけてを隈なく凝視した。
「ほんとにいたんだ!」
ゴーグルを外すと、ザズ・トルクはキラキラと瞳を輝かせて言った。
「Rの〝千番台〟は第一でしか作ってないんだ! 俺も本物は初めて見た! EPの結合条件が特殊技術でさ! メインで使ってるストレンジの合成手法なんて実はまだ解明されてないんだぜ!? なのに再現性が確保されてるってだけで使ってる。超クレイジーだろ!?」

ザズは興奮気味に語り続けた。理解しようとする努力を途中で手放したクレフだったが、とにかく、この二人がお目にかかったことのないほどに貴重なアンドロイドなのだということだけは理解できた。

事故とは言え(むしろアンドロイドこいつのせいだ)、そんな〝貴重品〟に車をぶつけたと知られればザズに何を言われるか分かったものではない。
「それにしても、この子一体どうしたんだ? 潤滑液がダダもれだし、パーツが五、いや六はやられてる」
ザズがクレフのほうへずんずんと早足に向かってくる。
「あー、それは……」
言いよどみ、クレフは気まずそうに半歩後ろへ下がった。背面にトンと壁が当たり、そこで後退は行き止まりとなる。
ザズはクレフの目の前まで迫ると、クレフの肩口のすぐ横にある壁面ボタンに手のひらで触れた。壁面から引出棚が静かに出現する。棚から器具を一つ二つ取り出すと、ザズはあちこちと壁際を歩き回り、工具や液体などを次々に集めていった。いつのまにかイーグルも壁を探り、ザズと同じことをしていた。

「少し診るよ。してあげなきゃ。それから食事補給も」
すっかりザズ劇場と化したこの部屋の勢いに、クレフが成すすべもなく飲まれていると、イーグルが淡水色の患者衣を手に持ってこちらをじっと見ていた。イーグルは、横たわるアンドロイドとクレフを交互に見て言った。
「女性ですから」
退室を促されていることに気付き、クレフはその通りにした。



リビングに戻ると「禁煙ですよ」と、潔癖な白い壁紙が、そう言っているようだった。
この家には灰皿どころか、研究職員用の喫煙室もない。

ダイニングテーブルの椅子に腰かけ天上をあおぐ。首が少し痛む。ぶつかった瞬間に反射発動した防御魔法が効いたとも言えたし、数秒間に合わなかったとも言えた。

ヒーラーの所へ飛ばすか。
ビジョン家の浮遊車ホバーカーを借りれば五分もかからないだろう。腕時計を見て、やめる。普通の人間は家でとっくに休んでいる時間だ。
いや、違う。彼女も〝普通の人間〟ではないのだけれど、いつもなぜだかそう思わざるを得ない何かがある。
彼女は本当にうまくやっている。自分などよりもずっと。
あれほど力を公にしても普通の人間ノーマルに慕われ続ける特異者はいない。
たしか明日も医療勤務があるはずだ。そんな彼女の眠りを妨げてまで治す気にはならなかった。
どの道モバイルも壊れている。あとでザズに修理を頼まないといけない。舌打ちだらけだ。

黒いトレンチコートの裾が濡れて色が濃く変わっていた。洗面台を借りて裾を洗う。
流水に赤い液体が溶かし出され、潔癖な排水口へと流れて行った。同じく赤で汚れた助手席を思い、気が重くなる。


それから小一時間ほどしてイーグルが一人でリビングへ戻って来た。
苦い顔をしている。「どうした?」とクレフが尋ねても彼は何も言わなかった。すると、開きっぱなしになっていたドアの向こう、廊下の奥から「 Thank you, Sir」という音声が聞こえた。それは、あのアンドロイドの起動音らしかった。

「痛みはない?」
廊下からザズの声が聞こえる。淡水色の患者衣を着たアンドロイドが、ザズに連れられてこちらへゆっくりと歩いて来た。

彼女がリビングへ辿り着くと、イーグルが「痛みや吐き気はありませんか?」と尋ねた。アンドロイドは眠たそうな表情で、ゆっくりと首を振った。先程の不気味な冷たさは抜け、かわりに年齢本来の少し幼い仕草が彼女を人間の少女然とさせていた。

「少し休みますか?」
イーグルが尋ねても依然アンドロイドはぼうっとしている。
「ここは安全ですから。大丈夫ですよ」
「……安全」
アンドロイドが、イーグルの言葉を遅れて復唱した。

「まだ少し混乱しているようですね」
「ああ。体内の潤滑液を半分以上取りかえたからさ、まだ馴染んでないんだ。明日にはきっと普通に話せるよ」
ザズが言うと、アンドロイドは彼のほうを向いて小さく会釈をした。
「いいよ、礼なんて」とザズが言った。

「セイレーン」と、イーグルが名を呼んだ。アンドロイドがびくりと肩を揺らした。
「すみません。驚かすつもりはなかったんですが」
イーグルが困ったように言い、次いで「休みますか?」と、幼児をあやすような柔らかい声色で言った。アンドロイドが寝るのか? とクレフは疑問に思ったが口にはしなかった。
「僕たちはこの人と大事な話があるので」
イーグルの言葉に少女は首をかしげた。
〝寝室へ行ってほしい〟というイーグルの意図を彼女は理解していない様子だった。
しびれを切らし、クレフが不機嫌そうに言った。
「おい、最新型のアンドロイドというのはこんなに融通が効かないものなのか?」
「誰かさんが車で思いっきりぶつけたからですよ」
それを聞いてザズが怒号とも悲鳴ともつかない声をあげた。

ザズをなだめ、イーグルは「単調な命令コマンドなら聞いてくれるかもしれません」と言った。
イーグルの視線を受けたクレフが小さくため息をつく。
大昔、初めて音声コントロールを使った人間はこんな気持ちだったのかもしれない。
少しの気恥ずかしさをごまかすように、クレフは極めて淡泊に言った。

「セイレーン」
少女は眠気の混じった顔で、少し迷惑そうにクレフを見た。
「さっさと寝ろ」
「…… thank you, Sir 」
イーグルに連れられ、セイレーンはリビングを去って行った。
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