セイレーン(WEB版)
クラウドナインの301号室は、先ほどの騒がしさが嘘のように静かだった。
暗がりの中、古ぼけたモーテルの天井を眺め、また目を閉じる。
窓の外からは小降りになった雨がサアサアと鳴る音が聞こえてくる。
皆は濡れずに帰れただろうか。
隣が寝返りをうったので横目に覗くと、人形のように整った寝顔の頬に、薄水色の髪がくすぐったそうに垂れていた。指で髪をよけてやり、それからそっと撫でた。
別れの日は近い。全てが順調だ。
力は十分に溜まってきている。
ザズやタータたちはきっと泣くだろうな。そんなことをぼんやりと考える。
娘、いや妹か。皆が彼女のことをそんな風に思っている。
自分も例には漏れない。だから彼女のことを愛おしく思う感情そのものについては、特段不思議に思わなかった。
なので髪を撫でた後、眠る額に唇を落としたのには、自分でも驚いた。
戸惑い。そして、唇と手を静かに離す。
ウミのまぶたがわずかに震えた。
Dream1.
考えうる限り最悪の帰路
随分な仕打ちではないか。
ハンドルに額を当て、それからクレフは車の外に飛び出した。
高ぶった神経は、その数瞬の間に異常な量の思考をクレフの脳に巡らせる。
最悪だ。
だから嫌だったんだ。車なんてものは。
遅いし、不便だし、人をはねる。
いや、そもそも悪いのは私か?
急に、本当に急に飛び出して来たのだ。
こちらが車でなければ10対0であちらの過失だ。
けれど、この鉄の箱をまとった途端、その比率は逆転する。
車道に横たわる女性を抱き起こす。
意識はない。小柄で幼く細い体だった。キャミソール型の薄いワンピースしか身に着けておらず、黒い肩紐から覗く華奢な肩は、春先の小寒さに冷え切っていた。
首筋に触れる。ぞっとした。
脈がない。
ただちに少女の体中に手をかざし気配を探る。外傷が見つからない。
「なんなんだ、一体」
クレフは舌を打ち、今度は心肺蘇生を試みた。こんなもので息を吹き返すのか。とにかくやるしかない。幸いにして、何度か胸を押し込むと、少女の目がすっと開いた。
「おい君、大丈―」
「Thank you, Sir. Thank you, Sir.」
少女は、壊れたラジオ(というのは電波を利用した大昔の放送手段であると、クレフは親しい研究者から聞いて知っていた)のようにそんな言葉を繰り返している。
息を吹き返してくれたのは本当に良かった。けれど楽観はできない。
彼女の異様な言動。
まず確実に頭を打っていることを確信する。
そこでクレフはようやくモバイルを取り出した。
「責任を」
突然、少女がクレフの腕をつかんだ。
決して強いわけではない。けれど腕に食い込む力は本気 だ。
「大丈夫だ。今救急を呼ぶ。痛みは? どこを打った? 吐き気はないか?」
問いながら短い番号を入力する。本署にかけるか救急にかけるか一瞬悩んで、後者にした。
すると、発信ボタンを押す直前、少女がモバイルをパシンと叩いてはじいた。
「おい! 何をする!」
「責任を」
「だから今救急を呼ぼうと!」
少女は痛みにうめくこともせず、ただ「責任を」と繰り返す。
軽傷ではすまない怪我を負っているだろうに、何度も同じ言葉を放つ冷たい眼差しがどこか不気味だった。そしてその不気味さはクレフを少しだけ冷静にした。
「責任……まさか治療費のことを言っているのか? 賠償は必ずする。その前にまず救急を呼ばなければ」
青髪の少女は尚も首を振った。
クレフは狐につままれたような気持ちで少女を見た。それからトレンチコートの内ポケットを探り、小さな手帳を取り出すと少女の眼前に突き付けるように掲げた。
「見えるか? 私はあいにくこういう立場で、この件を煙に巻いたりすることは決してない。責任は必ず取る。安心しろ。とにかく救急に―」
開かれた手帳の紙面の上を、少女の視線がなぞる。たった今はねられたとは思えないほどに落ち着いた眼差しだった。
「クレフ……」
印字された名を、少女が呼ぶ。
クレフの顔写真の上には、手帳からはみ出しそうなほどに大きなスタンプが、因縁がましく捺 されていた。スタンプの文字を見て、少女は首をかしげた。
「特異者?」
信じられないことに、本当に外傷はないようだった。
内臓破損どころか内出血の反応もない。
何度体に手をかざしても傷が見つからないのだ。たとえ自分が治癒の力を持っていたとしても、ない怪我は治せない。
少女が「歩ける」と言うので、わけもわからずとにかく車内に連れた。
「Sirクレフ」
助手席の少女がまっすぐにクレフを見て言った。
車内の灯りの下で見れば、少女は驚くほど整った顔をしていた。
十代前半か半ばといったところか。
人形のようにすべらかな肌、瞳、鼻筋、唇にいたるまで一部の隙もない。薄水色の長い髪が、華奢な肩と背中にサラサラと美しく流れていた。
親はどうした。なぜ飛び出した。体は本当に大丈夫なのか。
そんなクレフの疑問をすべて無視して、青髪の少女は言った。
「ちゃんと轢 いてくれたらよかったのに」
「は?」
「責任を取って」
ようやくつながった。
少しだけ、そんな予感はしていた。
車の恐ろしさを知らない子猫ですらあんな飛び出し方はしない。少女の行為は、世を儚み至ったものであると察しがつく。クレフは奥歯をギリと噛み締めた。
「とにかく、事故は事故だ。本署に報告をする」
ぞんざいに言いながらも脳の別の箇所では、知人のヒーラーのことを考えていた。あとで連絡を取ることになるかもしれない。
クレフがもう一度モバイルを取り出した時だった。バチッと嫌な音と共に、左手にしびれるような痛みが走った。電源を消失した携帯端末がシートの上に落ちる。モバイルを落とした自分の左手、彼女の指先。わずかに雷電の波動を感じた。
その瞬間、クレフが少女のこめかみに銃を当てたのは、彼の、警察官としての本能だった。
「お前、逃走アンドロイドか」
クレフが尋ねる。少女は少しほっとした表情を見せ、自らこめかみを銃口に押し付けた。
「お願い」
「は?」
「撃って」
「お前、何を言っている……」
「責任を」少女はまたその言葉を口にした。
クレフは大きくため息をつき、銃を懐へとしまいこんだ。
「一体なんなんだ。私は悪い夢でも見ているのか」
急ブレーキをかけた時の首の痛みだけが、これが夢でないことを教えていた。
警戒する気力も尽きていた。パワーウィンドウを開け、上着の胸ポケットに手を突っ込む。
「家はどこだ? なぜ逃げた? どうして自さ……飛び出したりしたんだ?」
ハンドルに煙草を落とす。葉が十分に詰まったところでシガーソケットに触れようとした寸前、アンドロイドはにこりと笑い「煙草はおやめになったほうがいいですよ」と言った。
「肺がん、心筋梗塞、気管支炎。様々な健康被害のリスクがあります」
柔和で自愛に満ちた聖母のような表情がかえって嘘くさい。
内蔵 の言語であることは明らかだった。クレフは構わず火をつけた。
「この状況で吸わないストレスのほうがよほど体に悪い」
息を吸い、吐けば、可視化された白い呼吸が窓の外にまっすぐに流れる。
アンドロイドは先のクレフの問いに一つも答えず、かわりにこう言った。
「私のパーツは先ほどの衝撃で六か所の損傷を受けました」
「自業自得だ」
クレフが投げ捨てるように言うと、青髪のアンドロイドは続けた。
「Sirクレフ。私が通報すればあなたは監獄行きでしょうか?」
質問と言う名の脅迫を、このアンドロイドはしてきた。
美女の冷たい視線は脅迫行為を行うのに最も適している気がした。けれど、クレフは言った。
「好きにしてくれ。監獄ならもう既に入っているようなものだ」
アンドロイドは不思議そうに首をかしげた。先ほどの冷たい雰囲気が抜け、見た目相応の少女らしい仕草だった。
希死念慮のあるアンドロイドなど聞いたことがない。
アンドロイド法には明るくない。管轄外だ。
ただ、たしか車対アンドロイドでも過失責任は対人とのそれと変わらなかったはずだ。
いらだちが湧いてくる。車もアンドロイドも大して変わらないではないか。
が、一方で〝人間でなくてよかった〟と思う自分がいた。ヒーラーへの連絡も、不要だろう。
最後の灰をはじき、そのまま火を揉み消す。ウィンドウを閉め切った後にクレフは言った。
「とにかく、体が無事なら家まで送る。責任も賠償もそれからだ。雇い主が届を出せばお前は逃走の罪に問われるだろうが……あいにく私の担当外だ。そこは雇い主とうまいことやってくれ。お前、住所は?」
クレフの言葉に、少女がびくりと体を震わせた。アンドロイドが、まるで人間のようにブルブルと震えたのだ。その様子は、迷子の猫などよりもずっとずっと弱弱しかった。
「……帰りたく、ない…」
助手席のシートに赤黒い液体が漏れ出ているのが見えた。
「Sirクレフ……」
アンドロイドの瞳が、みるみるうつろになっていく。
「助けて」
意識を失う直前、彼女はそう言った。
暗がりの中、古ぼけたモーテルの天井を眺め、また目を閉じる。
窓の外からは小降りになった雨がサアサアと鳴る音が聞こえてくる。
皆は濡れずに帰れただろうか。
隣が寝返りをうったので横目に覗くと、人形のように整った寝顔の頬に、薄水色の髪がくすぐったそうに垂れていた。指で髪をよけてやり、それからそっと撫でた。
別れの日は近い。全てが順調だ。
力は十分に溜まってきている。
ザズやタータたちはきっと泣くだろうな。そんなことをぼんやりと考える。
娘、いや妹か。皆が彼女のことをそんな風に思っている。
自分も例には漏れない。だから彼女のことを愛おしく思う感情そのものについては、特段不思議に思わなかった。
なので髪を撫でた後、眠る額に唇を落としたのには、自分でも驚いた。
戸惑い。そして、唇と手を静かに離す。
ウミのまぶたがわずかに震えた。
Dream1.
考えうる限り最悪の帰路
随分な仕打ちではないか。
ハンドルに額を当て、それからクレフは車の外に飛び出した。
高ぶった神経は、その数瞬の間に異常な量の思考をクレフの脳に巡らせる。
最悪だ。
だから嫌だったんだ。車なんてものは。
遅いし、不便だし、人をはねる。
いや、そもそも悪いのは私か?
急に、本当に急に飛び出して来たのだ。
こちらが車でなければ10対0であちらの過失だ。
けれど、この鉄の箱をまとった途端、その比率は逆転する。
車道に横たわる女性を抱き起こす。
意識はない。小柄で幼く細い体だった。キャミソール型の薄いワンピースしか身に着けておらず、黒い肩紐から覗く華奢な肩は、春先の小寒さに冷え切っていた。
首筋に触れる。ぞっとした。
脈がない。
ただちに少女の体中に手をかざし気配を探る。外傷が見つからない。
「なんなんだ、一体」
クレフは舌を打ち、今度は心肺蘇生を試みた。こんなもので息を吹き返すのか。とにかくやるしかない。幸いにして、何度か胸を押し込むと、少女の目がすっと開いた。
「おい君、大丈―」
「Thank you, Sir. Thank you, Sir.」
少女は、壊れたラジオ(というのは電波を利用した大昔の放送手段であると、クレフは親しい研究者から聞いて知っていた)のようにそんな言葉を繰り返している。
息を吹き返してくれたのは本当に良かった。けれど楽観はできない。
彼女の異様な言動。
まず確実に頭を打っていることを確信する。
そこでクレフはようやくモバイルを取り出した。
「責任を」
突然、少女がクレフの腕をつかんだ。
決して強いわけではない。けれど腕に食い込む力は
「大丈夫だ。今救急を呼ぶ。痛みは? どこを打った? 吐き気はないか?」
問いながら短い番号を入力する。本署にかけるか救急にかけるか一瞬悩んで、後者にした。
すると、発信ボタンを押す直前、少女がモバイルをパシンと叩いてはじいた。
「おい! 何をする!」
「責任を」
「だから今救急を呼ぼうと!」
少女は痛みにうめくこともせず、ただ「責任を」と繰り返す。
軽傷ではすまない怪我を負っているだろうに、何度も同じ言葉を放つ冷たい眼差しがどこか不気味だった。そしてその不気味さはクレフを少しだけ冷静にした。
「責任……まさか治療費のことを言っているのか? 賠償は必ずする。その前にまず救急を呼ばなければ」
青髪の少女は尚も首を振った。
クレフは狐につままれたような気持ちで少女を見た。それからトレンチコートの内ポケットを探り、小さな手帳を取り出すと少女の眼前に突き付けるように掲げた。
「見えるか? 私はあいにくこういう立場で、この件を煙に巻いたりすることは決してない。責任は必ず取る。安心しろ。とにかく救急に―」
開かれた手帳の紙面の上を、少女の視線がなぞる。たった今はねられたとは思えないほどに落ち着いた眼差しだった。
「クレフ……」
印字された名を、少女が呼ぶ。
クレフの顔写真の上には、手帳からはみ出しそうなほどに大きなスタンプが、因縁がましく
「特異者?」
信じられないことに、本当に外傷はないようだった。
内臓破損どころか内出血の反応もない。
何度体に手をかざしても傷が見つからないのだ。たとえ自分が治癒の力を持っていたとしても、ない怪我は治せない。
少女が「歩ける」と言うので、わけもわからずとにかく車内に連れた。
「Sirクレフ」
助手席の少女がまっすぐにクレフを見て言った。
車内の灯りの下で見れば、少女は驚くほど整った顔をしていた。
十代前半か半ばといったところか。
人形のようにすべらかな肌、瞳、鼻筋、唇にいたるまで一部の隙もない。薄水色の長い髪が、華奢な肩と背中にサラサラと美しく流れていた。
親はどうした。なぜ飛び出した。体は本当に大丈夫なのか。
そんなクレフの疑問をすべて無視して、青髪の少女は言った。
「ちゃんと
「は?」
「責任を取って」
ようやくつながった。
少しだけ、そんな予感はしていた。
車の恐ろしさを知らない子猫ですらあんな飛び出し方はしない。少女の行為は、世を儚み至ったものであると察しがつく。クレフは奥歯をギリと噛み締めた。
「とにかく、事故は事故だ。本署に報告をする」
ぞんざいに言いながらも脳の別の箇所では、知人のヒーラーのことを考えていた。あとで連絡を取ることになるかもしれない。
クレフがもう一度モバイルを取り出した時だった。バチッと嫌な音と共に、左手にしびれるような痛みが走った。電源を消失した携帯端末がシートの上に落ちる。モバイルを落とした自分の左手、彼女の指先。わずかに雷電の波動を感じた。
その瞬間、クレフが少女のこめかみに銃を当てたのは、彼の、警察官としての本能だった。
「お前、逃走アンドロイドか」
クレフが尋ねる。少女は少しほっとした表情を見せ、自らこめかみを銃口に押し付けた。
「お願い」
「は?」
「撃って」
「お前、何を言っている……」
「責任を」少女はまたその言葉を口にした。
クレフは大きくため息をつき、銃を懐へとしまいこんだ。
「一体なんなんだ。私は悪い夢でも見ているのか」
急ブレーキをかけた時の首の痛みだけが、これが夢でないことを教えていた。
警戒する気力も尽きていた。パワーウィンドウを開け、上着の胸ポケットに手を突っ込む。
「家はどこだ? なぜ逃げた? どうして自さ……飛び出したりしたんだ?」
ハンドルに煙草を落とす。葉が十分に詰まったところでシガーソケットに触れようとした寸前、アンドロイドはにこりと笑い「煙草はおやめになったほうがいいですよ」と言った。
「肺がん、心筋梗塞、気管支炎。様々な健康被害のリスクがあります」
柔和で自愛に満ちた聖母のような表情がかえって嘘くさい。
「この状況で吸わないストレスのほうがよほど体に悪い」
息を吸い、吐けば、可視化された白い呼吸が窓の外にまっすぐに流れる。
アンドロイドは先のクレフの問いに一つも答えず、かわりにこう言った。
「私のパーツは先ほどの衝撃で六か所の損傷を受けました」
「自業自得だ」
クレフが投げ捨てるように言うと、青髪のアンドロイドは続けた。
「Sirクレフ。私が通報すればあなたは監獄行きでしょうか?」
質問と言う名の脅迫を、このアンドロイドはしてきた。
美女の冷たい視線は脅迫行為を行うのに最も適している気がした。けれど、クレフは言った。
「好きにしてくれ。監獄ならもう既に入っているようなものだ」
アンドロイドは不思議そうに首をかしげた。先ほどの冷たい雰囲気が抜け、見た目相応の少女らしい仕草だった。
希死念慮のあるアンドロイドなど聞いたことがない。
アンドロイド法には明るくない。管轄外だ。
ただ、たしか車対アンドロイドでも過失責任は対人とのそれと変わらなかったはずだ。
いらだちが湧いてくる。車もアンドロイドも大して変わらないではないか。
が、一方で〝人間でなくてよかった〟と思う自分がいた。ヒーラーへの連絡も、不要だろう。
最後の灰をはじき、そのまま火を揉み消す。ウィンドウを閉め切った後にクレフは言った。
「とにかく、体が無事なら家まで送る。責任も賠償もそれからだ。雇い主が届を出せばお前は逃走の罪に問われるだろうが……あいにく私の担当外だ。そこは雇い主とうまいことやってくれ。お前、住所は?」
クレフの言葉に、少女がびくりと体を震わせた。アンドロイドが、まるで人間のようにブルブルと震えたのだ。その様子は、迷子の猫などよりもずっとずっと弱弱しかった。
「……帰りたく、ない…」
助手席のシートに赤黒い液体が漏れ出ているのが見えた。
「Sirクレフ……」
アンドロイドの瞳が、みるみるうつろになっていく。
「助けて」
意識を失う直前、彼女はそう言った。