クレ海全年齢




『ピアスと我儘』




「しばらく来られなくなるから」
淡泊な口調に反して、海の声は少し震えていた。
目の前の書籍類に視線を落としたまま、海は次の手をじっと待っているようだった。目が合わない。それは彼女が稀に見せる、緊張を隠すときの仕草。
どうしたものかとクレフはしばし思案して、それからごく当たり前の問いを海に渡した。
「しばらくとは」
「二月くらいまで」と海が答えた。
頭の中で暦を換算しながら、随分先だな、と思う。
心の揺れが手元に現れないよう、クレフは一層の注意力をもって腕の中の薬瓶を棚にニ、三と戻していく。
最後のひと瓶を棚に戻すと、クレフは「なぜ」と尋ねた。

尋ねてはみたが、理由はきっとこれに違いない。
海の目の前にある書物たち。ここしばらくはこちらの世界に来ても派手に遊び回ることはせず、この部屋で勉学に励んでいた。
忍耐力に乏しい娘だとは思っていたが、うーうーとうめき声を上げながらもなんだかんだ熱心に机にかじりついているので、クレフは自室の書棚や円卓が異国の書物で占拠されることも、時折茶くみや菓子の用意に精を出すはめになることも、とっぷりと日が暮れた後で海の腹が盛大に鳴った時には夜食を出してやることすらあったが、それを不満に感じることはなく、むしろ物珍しい海の様子に感心していたし、この時間を心地よいとすら感じていた。

こんな折、クレフが「なぜ」と尋ねたのは――彼が発した二文字には、海が時折不満を示す際に言う「なんでよ」に近い意味合いがあった。
いつもの自分ならば、極力平静に「そうか」と答える程度の反応でやり過ごしたはずだった。それが、彼が今ばかりそうしなかったのは、海の視線が書物から外れ、こちらのほうをしっかりと捉えていたからだ。
海は、自分と目を合わせることを選び――少なからず勇気を要したはずだ――まっすぐにこちらを見ている。

誠意には誠意。本気には本気を。
はぐらかすのは、不誠実な気がした。
海に伝わったかどうかは別として、珍しくクレフが〝会えないなんて嫌だ〟の意思を彼なりに見せたのは、そういった心境によるものだった。

「第一志望の本試験が二月だから、それまでは……」
海が文面通りにクレフの問いに答えた。それはやはり概ね予想通りの回答だった。
海の世界の〝学校〟というものは、よほど勉学を怠けないかぎりは誰でもできる〝進級〟と、今回のように中長期的な努力を必要とする〝進学〟が存在するということは聞いていた。
海は内部進学で高校に進んだため、受験勉強はほぼ6年ぶりだという。
「中学受験と大学受験じゃ中身も大変さも人生への影響度も全然違うのよ」と早口に言っていたことを思い出す。

海は、クレフの言葉をじっと待っていた。膝の上できつくスカートを握りしめていることは見えずともわかった。
海の緊張がじわじわと伝わってくる。
言葉に詰まる。
光や風になら「寂しくなるな」と、呼吸ほどの容易さで言えたはずだ。
そんな簡単な一言を、なぜだか言えない。

二月まで。
長く生きた自分にとっては瞬きのような期間のはず。ところが、海に会えないとなるとまるで永遠のようにも感じられる。この娘は時間の感覚すら変えてしまうのかとクレフは心の中だけで苦く笑った。

「ねえ、なんとか言ってよ! しばしの別れの言葉とか頑張れー! とか。あるでしょ? そういうの」
沈黙に耐え兼ね、海がいつも通りのツンとした声色で言った。
クレフは気まずそうに微笑み、困ったなと、顔を傾いだ。
自分たちの関係に名前をつけずにいること。
我ながら狡いという自覚はあった。
「そんな顔するのずるいわ」
正しいことを言う。
海はうつむき横を向いた。けれどまたすぐにクレフのほうへ顔を上げたのは、彼がゆっくりと海の元へ近づいて来たからだった。
最後の二歩、一歩は本当にゆっくりと。
クレフは気付かれないほどの小さな深呼吸をして、それから海の手にそっと触れた。
「私はここでお前の健勝を願うことしかできない」
クレフは海の手を持ち上げると、いつの日かしたように海の右手を両の手で包み込んだ。
「クレフ……!?」
海がたまらず名を叫ぶ。
クレフは答えない。静かに目を閉じ集中している様子だった。
海も観念し、行き場のない視線を手元に逃がした。
魔法を使っているのなら邪魔をするわけにもいかない。
あと五秒、手を握られたままだったら血液が沸騰していたかもしれない。
そんなタイミングでクレフは手品師が種を明かすようにゆっくりと手を解いた。
「これ……」
「やる」
手のひらの中には金色の美しい装飾品が納められていた。なんの包装もされていないこれのことを、贈り物だと彼は言う。
「私に…?」
「ああ」
それから海は一つのことに気付き、「あ」と声を上げた。
申し訳なさそうに。遠慮がちに。海は言った。
「でも……私、ピアスホールがあいてないの」
「知っている」
言いながら、クレフが海の髪に手を触れた。
髪を耳にかけると、美しい耳の形が露わになり、喉が鳴りそうになるのをどうにか耐え、まずは右の耳に飾りをつけてやった。
薄い耳たぶが金具と金具で挟まれ、ひし形を縦に伸べたような形の金飾りが、重力に任せてシャランと垂れた。
「時々でいい」
「えっ?」
「時々、私のことを想ってほしい」
左の耳にも同じことをしながら、クレフは言った。
とんでもない我儘を言っている気分になる。いや、我儘には違いないのだろうけれど、伝えずにはいられなかった。
「私もそうするから」
せめてもの言葉を足し、海の左耳から垂れた金飾りを指で柔く弾いた。

この国で、女性の耳に飾り物を装着することの意味を海が知らなくてよかった。穴を開けたわけではないので海の〝一生〟をどうこうすると言った誓いの意味合いはないが、それでも、この行為の本意を知られるわけにはいかない。まだ。

「や、やあね! ちょっと大げさよ! またすぐ会えるから! ね?」
照れくささの限界に達したらしい。海がキャンと吠えた。
クレフも、助かった、という様子で微笑んだ。顔が少し熱い気がするが、頬から耳まで真っ赤に染めた海ほどではないはずだ。

海が少し落ち着いたのを見計らって、クレフは指先で輪を描いた。宙に出現した水鏡に、海の顔が映る。
自分の両耳から垂れたそれを見て、海はハッと顔を上げ、今度はクレフの顔を探るように見つめた。
「ねえ、何かに似ていると思ったけど、これってもしかして」
クレフが照れくさそうに顔をそむけた時、彼の頬の横で金色の飾りがシャランと揺れた。
「お揃いね」
「体に気を付けて」




去り際、「邪魔なら外していい」と少しぶっきらぼうな口調でクレフは言った。けれど、耳たぶで揺れる飾りのことを不思議と邪魔に感じない。それどころか身に着けるとキリっと心が引き締まる気がした。

まさか、あの男が選別に装飾品を贈ってくるなんて想像もしていなかった。しかも、赤面モノの言葉まで添えて。

「あんなことされたら期待しちゃうんですけど」
学習机の上、鏡を見る。けれど浮かれるのは受験が無事に終わってからだ。

時は早くも1月下旬。第三志望の私立は危なげなくパスした。第二志望の国公立は惨敗。学部によって偏差値に開きがあるが海の目指す私立の英文系の科としては第一志望とほぼ同じ難易度の大学だった。
〝捨て〟とした小単元がまるまる大問1に出てしまったのだ。セオリーどおり大問2から取り掛かったが、大問1の問題文が頭を離れない。部分点をどこまで取れるか。後半には第一志望の出題傾向となりやすい得意単元の問題も出題されたが活かせなかった。戦略負けだった。メンタルの弱さも知った。

鏡に映った自分の顔が、険しく曇っている。
正直焦っていた。浪人は考えていなかったので第一志望に通らなければ当然第三志望の大学に通うことになる。二者では留学制度の質がまるで違う。それで夢が潰えるということは決してないが、遠回りもしくは後退となることは間違いなかった。
試験日が迫っていた。


渋谷駅を降り、試験会場へ向かう。心配された雪は降らなかった。かわりに、冷たい霧雨が降った。

試験開始一時間半前に会場に到着した。足元が冷えたので途中、母が持たせた靴下に履き替え、講義机の中から「602」番の札が貼られた座席を探す。
〝ローニン〟なんて縁起が悪すぎるのよ。縁起の悪い番号は抜いておいてほしい。そんなことを考えながら講義室の階段を降りていると、自分の座席を見つけた。折り返して隣、「620」番の席には、学生服を着た男子が着席していた。勝手な仲間意識が芽生え、会釈未満に頭を下げながら椅子を引いた。

腰の周りにブランケットを巻き、参考書に目を通す。第二志望の失敗が頭をよぎり、それを振り払うように首を横に振った。その時、海は違和感に気付いた。
「あっ」
思わず声が出てしまう。620番がこちらをちらりと見たので、「すみません」と言って頭を下げる。

まさか、こんな日に。
あたりを探すが落ちていない。講義棟を入口まで戻ったが、無かった。
忘れてきた、ということは絶対にない。毎朝の日課だ。部屋のアクセサリートレーから摘み上げ、両耳に付けた記憶がしっかりある。
あんなに大切なものを落としてしまうなんて。
寂しくなった片耳になぜ気づかなかったのだろう。
とぼとぼと席まで戻る。動揺が収まらない。いつ探しに行こう。まずは試験に集中しないと。なくしたことをクレフが怒ることはないだろう。けれど、そんな問題ではなかった。大切なお守りをなくしてしまったような気持ちだった。
試験前にするべきではない考えがぐるぐると頭の中をめぐり、冷える体に反して額にじりじりと汗が湧き出た。それをぬぐおうと、ポケットからハンカチを取り出した時だった。
椅子の上に、シャリンと軽い物が落ちた。
620番が再びこちらを見た気がしたが、それどころではなかった。

どうして。
自分がアクセサリーをポケットこんなところに入れることはない。
家でだって、トレーに置くか耳に付けるかのどちらかだ。
とにもかくにもピアスを拾い上げ、慣れた手つきで耳に付ける。
金属に耳たぶを挟まれると驚くほど心が落ち着いた。
「ついてきてくれたの?」
飾りに触れ、小さく囁く。

驚くほど落ち着いた気持ちで臨めた。元々が第一志望に絞ったややリスキー気味な勉強スタイルだった自覚はある。捨てとした単元もそのためだった。それがうまくいった。第二、第三よりもずっと手ごたえはあった。
自己採点も申し分なかった。


とはいえ、翌週、掲示板の中に602の番号を見つけると、海は崩れ落ちそうなほどほっと息を付いた。その場に座り込むことはどうにか耐え、ピアスに触れながらぎゅうと目をつむった。顔はにやけてしまっている。構わない。電話越しの母親の声は涙で潤んでいた。

もう一度自分の番号を見て、頬をつねって夢でないことを確認してから帰ろうとした時、一人の男子学生に声をかけられた。
「おめでとうございます」
「え?」
「いきなり、すみません。俺、試験会場で隣の席だった……」
「620番!」
叫んでしまってからとっさに掲示板に目をやる。602から少し飛んで、620の数字があったので海も「おめでとう!」と声をかけた。
「俺のこと覚えててくれたんですか?」
驚きながら620は言った。
〝ローニン番号〟同士だったからとは言いにくく、「まあね」と海は言った。

「先週見た時から綺麗な人だと思って」
「え? ええ、ありがとう」
「次に会ったら絶対声をかけたいと思ってたんです。ちょっと…気持ち悪いかもしれないけど、今日あなたが来るのを待っていました。変な意味じゃなくてあの……よかったらこれから一緒にお祝いしませんか? 学食がやってたら入りたかったんだけど今日は冬休みだから……渋谷あたりで飯でも」

あ、これは。と思う。
けれど、ナンパや声かけに慣れている感じではない。見るからに純朴そうな学生の手元で「620」番の紙はすっかりシワシワになっていた。
不吉な番号同士。元々仲間意識はあった。これから4年ないし6年間はキャンパスで顔を合わせることになる。明確に告白されたわけでもなし、ぞんざいに扱うには該当しない少年だった。お友達でいいならと言いかけて、海は首を横に振った。ピアスが揺れる。
クレフなら、なんて言ったかしら。

この人の勇気には、誠意と本気を示さなければいけない。
なので、海は力一杯微笑んだ。
「ごめんなさい。私、好きな人がいるから!」



言葉にするともうダメだった。
渋谷駅まで人混みを駆ける。

不合格も想定していた。だから、今日は行くつもりがなかった。
おめかしとは程多い恰好。だけど、いいことが一つだけある。
パーカーに合わせてスニーカーを履いてきたので、いつもよりもずっと早く走れる。

白い息が弾む。

合格の報告と、ピアスお守りのお礼。
それから、好きだって伝えなくちゃ。





end


ボス様の素敵パーカー海ちゃん💙


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