The Name of Vampire
chapter 02.I Will Always Love You
―その吸血鬼ジョーク、全然笑えないわよ
一生ここにいたいと思うほどの寝心地に、今日が土曜日であることを心から感謝した。
(なんだかどっと疲れる夢だったわ)
自室のベッドの枕元に置いた時計は四時少し前を指していた。スイと音もなく秒針が進む。あと一時間もすれば日が昇る頃だろう。
メイクも落とさず通勤着のまま寝てしまったのはさすがにいただけなかった。ベッドを抜け出し、軽く伸びをする。ベッドサイドにあるはずのスリッパがない。よほど疲れていたのか。
洗面所へ向かおうと、リビングへ向かう寝室のドアを開けた。その瞬間、「きゃ」という悲鳴が自分の口から反射的に上がった。
「起きたか」
夢の中の登場人物が、そう言った。杖の青年だ。フローリングの上に座って、ソファにもたれかかっている。白いカッターシャツは土埃かなにかで汚れていて、少しやつれた様子だ。顔に怪我も見える。
銀髪の男もどこかに隠れているのではないかと左右に大きく首を振りその姿を探すが、この部屋には私と彼の二人きりのようだった。それはそれでまずいのだけれど。
青年は、害意がないことを示すように軽く両手を上げた。
「驚かせてすまない。危害を加えるつもりはない」
リビングのテーブルの上には、昨日落としたはずの私の鞄が置かれていた。鍵を漁ったのだろうか。
「な、信じるわけないでしょ!警察を呼ぶわよ…!」
「その前に話を。お前も、昨夜何が起きたか、知りたくはないか?」
思わずぐうと声がもれる。たしかに、知りたいか知りたくないかで言ったら圧倒的に知りたい。今を逃せば、昨日起きた夢物語の真相を知ることは二度とできないだろう。
「い、言っておくけど、私はあなたの顔、しっかり覚えたし、マンションには防犯カメラと警備だってついてるんだから! 変なことしようなんて思わないでよね!」
まくし立てながら、青年から最も距離を取れる部屋の対角線上にすり足で移動した。威勢の良い言葉とは裏腹に、子犬のようなたどたとしい威嚇の格好となってしまい、青年がゆるく笑うのでほんの少し気が抜けた。気の抜けたついでに、濡れタオルと消毒液と絆創膏をテーブルに置く。青年は、礼を言ってタオルだけを手に取り、再び床に座った。
青年は、傷口にタオルを当て、そしてゆっくりと語り出した。
いつまでも聞いていたいと思うような、穏やかな声だった。内容が内容でなければ。
「その話を信じろっていうの?」
「無理もない」
不信感をみじんも隠さない私に、クレフと名乗った青年は苦笑いをしている。
「しかし、昨日お前は現実に体験し、見ただろう。イーグルも、魔法も、吸血種も、たしかに存在することを」
「じゃあ、あなたもイーグルって人も異世界から来た吸血鬼で、あなたはあいつが悪さをしないように、東京をパトロールしてるってわけ?」
「吸血〝種〟だ」
「なんだって同じよ」
クレフの話はこうだ。
吸血種は、セフィーロと呼ばれる異世界にその営みを築いている。普段は自国で穏やかに生活を送っているが、ときおり人間の血を吸う必要がある。『ときおり』は個体によって異なり、年に数回だったり数年に一回だったりとさまざまだ。
また、吸血種は〝混ざり血〟を嫌うため、原則、同じ家系から血液を吸う。これを〝純食〟と呼び、クレフを含むほとんどの吸血種はそれに属する。吸血が必要となる時期に人間界を訪れ、吸血対象を探し出し、その者が眠りについた頃、少量をそっと吸ってセフィーロへ帰る。
「待って、私昨日吸われた時、すごく痛かったんだけど。あんなことされたら誰だって起きちゃうわよ」
「昨日は非常事態だったからな。適切に吸血を行えば虫に刺されたほどにも気づかない」
「そんなこと言って、あなた、吸うのが特別下手なんじゃないの?」
たまにいるのよ注射が下手な看護師さん。私が言うと、クレフは私を一睨みしてから話を続けた。
イーグルをはじめとする〝雑食〟と呼ばれる吸血種は、その名の通り節操なしに人の血を吸って回る。必要以上に血を求め、場合によっては人を死に至らしめるほどの血液を奪うこともある。
「雑食が人間界 で荒れた動きをしていると聞き、私も追ってきたのだ。私の任務は、悪さを働いている雑食を見つけ次第、説得もしくは力ずくでセフィーロへ返すこと。雑食たちを束ねているイーグルさえ送還できればわけはないのだが、それができれば始めから苦労はしない」
昨夜の静電気のような攻撃を思い出し、身が震えた。クレフが止めてくれていなければどうなってたのだろう。しかも、イーグルにはまだ余裕がありそうだった。クレフは苦々しげな表情で言った。
「イーグルの力の付け方は想像以上だ。あれは相当に吸っている。食事のたびに力を増しているのだろう」
「食事?」
「吸血のことだ。吸血は生命維持のほかに魔力にも変換される。イーグルのような雑食は血を吸えば吸っただけ力になる。しかし、純食の我々は、良質な血をいかに純度高く摂取するかが力の要となるのだ」
と言い、クレフは自分の手のひらを恨めしそうに睨んだ。
「端的に言って、いま私は力を消耗している」
私はその時初めて、知った。昨夜気を失った後、クレフとイーグルがもう一度戦ったことを。クレフのシャツが汚れているのはきっとそのせいなのだ。
「それだったら、あなたもイーグルみたいにいろんな人の血を少しずつ吸って強くなったらいいんじゃないの?」
吸血鬼に吸血を勧めるなど、穏やかではない。しかし、閃いてしまったものは口にせずにはいられなかった。クレフはしばし黙り込んだ。なにか見当外れなことを言ったかと気まずくなり、私は肩をすくめた。とはいえ、初対面の吸血鬼の夢物語をここまで真剣に聞いてあげているのだからむしろ感謝してほしいくらいだ。そう思い至り、私はすくめたばかりの肩を戻して背筋を伸ばした。
「あながち間違ってはいない。純食雑食と呼び名は違うが、しょせんは同じ種。お前の言うとおり、イーグルのように多種の血を吸えば結果的に力は付く。しかし、人間には理解しがたいかもしれないが、純食であることは吸血種の矜恃でもあるのだ。それを捨てれば、血を求めるだけの存在……それこそ吸血〝鬼〟になってしまう」
「え!?それじゃあ、あなた昨日私の血を吸ったらまずかったんじゃないの?」
「わかってきたようだな。そうだ。昨日は本当に特例だった。本来は、一家が断絶でもしない限り吸血対象を変えることはしない。それほど、家系の切り替えには慎重になるものなのだ。そして切り替えの一人目は若い生娘の血でなければならない。昨日確認したのもそのためだ。お前も私も、運がよかった」
顔を赤くし、パクパクと口を開閉する私をよそに、クレフは続けた。
「そして、一度家系の切り替えを行えば、しばらく……私で言えば百年ほどは別家系の血を吸うことはできない」
「百年?」
なにを大げさな。
「七百年以上生きて、こんなことは初めてだ」
一体何を言っているのか。七百オーバーで、こんなにきめの細かい肌をされてはたまらない。「若造りで許せる限度を超えてるわよ」と捨て鉢に言う私を、クレフはまた無視した。
「最後に問題がもう一つ。これもまたイーグルだ。あれはまたお前を狙う」
(やっぱり日に当たらないから肌がきれいなのかしら)
クレフの肌の観察に夢中になっていた思考が引き戻された。彼は、少し申し訳なさそうな表情を見せ、言葉を続けた。
「こればかりは説明がつかない。勘にも近い。しかし、昨夜の奴の様子から、なにか執着のようなものを感じた。一度吸い損ねた血というのが大きいかもしれない」
「熊の習性みたいね」
思わず口をついた。あまりに非現実的な話に、頭がクラクラする。
「お前が狙われているという話をしているのだぞ?」
クレフは唖然として言った。
「ちゃんと聞いてるわよ。ねえ、じゃあどうしたらいいの? 私これからずっと十字架を持ち歩いてにんにく料理を食べ続けてないといけないわけ?」
ほかにも何か弱点があったような。考え込んでも思い出せない。
「人間界での吸血種の言い伝えは大半が迷信だ。お前が言った方法は全く意味がない」
なんならこの場でアーリオオーリオでも作ってやろうか、とクレフが皮肉げに笑った。
「その吸血鬼ジョーク、全然笑えないわよ! それじゃあ対策のしようがないじゃない!夜中の間ずっと震えて暮らせっていうの?」
「夜中の間、というのは正解だ。そう、私たちは日光が苦手だ。苦手と言っても、人間が想像するように当たった瞬間に消滅するというようなことはない。著しく活動が鈍り、回復に時間を要する。まあ、日中はまず安全と思って大丈夫だ」
「ちょっと待って! 震えて暮らすのは否定してくれないわけ? 早くそのイーグルってのをやっつけちゃってよ! その、セフィーロ?って所からもっと強い人を呼ぶとか、」
「もちろん、随時増員はする。しかし最終的に私でどうにかできなければ、奴の対処は難しいだろうな」
「……? あなた、そんなに強いの?」
クレフが、虚をつかれたように目を見開いた。そんなことは聞かれたことも無いといった表情だ。
「昨日の私を見れば無理もない」と自嘲気味に小さく笑った。けれどすぐに、今度は口の端を確かに上げ、言った。
「血さえ、あれば」
その妖艶な表情に、思わず息を飲む。昨夜気を失う前にも似た表情を見た気がする。また頭がクラクラしてきた。
「もう一度言うが、私は純食としてこれ以上多種の血を吸うわけにはいかない。しかし、イーグルを送還させるためには、さらなる力、つまり血が必要だ。わかるか?」
「嫌な予感がするわ」
クレフが二、と笑って頷いた。正解しても全然嬉しくないのだけれど。どうやら正解のようだった。
「もちろんタダでとは言わない。夜はお前の身を守る。雑食の監視があるので常時というわけにはいかないが、いないよりはましだろう」
「ボディガードってこと……?」
必然的に、あのあまりにも有名な映画のテーマソングが頭の中を流れた。場違いにもほどがあった。
「そうなるな」
「ちょっと待ってよ。そもそも、そっちの世界の都合で私が危ない目に遭いそうだっていうのに、どうしてそれを交渉材料にされなきゃいけないわけ!?」
マッチポンプにもほどがあるわ。頭の中を流れる『エンダー』を追い出す勢いでまくしたてた。
「それが我々と、お前たちの世界の摂理だ。悪く思うな。私はお前の身の安全を、そしてお前は食事と寝床の提供、これが条件だ」
「摂理って、…勝手すぎるわ! え……? ちょっと待って! 条件がひとつ増えてない? 寝床ってどういうこと!?」
「吸血種は人間界 に滞在するだけでも力を消耗するからな。しばらくはお前から頻回に吸血する必要があるのだ。それに、日中休む場所も必要だろう」
さも当然、と言わんばかりに持論を述べるクレフに、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「待って! まさかうちに住むっていうの!?」
「私が滞在すれば雑食を退ける結界も張りやすくなる。お前にとっても不足はないはずだ」
「そ、そうだとしても! 倫理的にまずいでしょ! 男女が一つ屋根の下で暮らすなんて!」
お嫁に行けなくなっちゃうわ、と私が言うと、クレフは「なんだそんなことか」とバカにしたように吹き出した。
「では聞くが、お前は、このパンに欲情するか?」
細く白い指の先には、明日の朝食べる予定の食パンがある。そういえば、空腹はとっくに忘れていた。
「な…っなんて失礼な人なの!」
「なんだ、欲情してほしかったのか? 生憎、生娘は苦手でね、そうでなくとも、我々吸血種と……」
最低だ変態だとわめく私を、クレフが「まあ聞け」と言って手のひらで制した。
「それから、生活費の心配なら不要だ。なんならイーグルを送還するまではお前の分を含め全額出してもよい。少なからず成功報酬も出るはずだ。悪い話ではないだろう」
「ぜ、全額!?」
頭に登った血が、一気に下りていくようだった。
「や、だめよ、待って。そういう問題じゃ……」
しかし私は、最終的にうなずいた。
生活費全額負担と成功報酬に惹かれたわけでは、決してない。
「交渉成立」
クレフが差し出した手はひんやりとしていて、見た目も触感も高級な陶器のようだった。
レイチェルだって、フランクの顔が良かったから好きになったわけではない。たとえ顔が天下のケビン・コスナーでも性格が『これ』なら好きになる事などなかっただろう。そういえば、私はあの曲のサビしか知らなかったので、無理に追い出さずとも頭の中のホイットニーは勝手に消えて行った。
こうして、私に最低のボディーガードができた。
―その吸血鬼ジョーク、全然笑えないわよ
一生ここにいたいと思うほどの寝心地に、今日が土曜日であることを心から感謝した。
(なんだかどっと疲れる夢だったわ)
自室のベッドの枕元に置いた時計は四時少し前を指していた。スイと音もなく秒針が進む。あと一時間もすれば日が昇る頃だろう。
メイクも落とさず通勤着のまま寝てしまったのはさすがにいただけなかった。ベッドを抜け出し、軽く伸びをする。ベッドサイドにあるはずのスリッパがない。よほど疲れていたのか。
洗面所へ向かおうと、リビングへ向かう寝室のドアを開けた。その瞬間、「きゃ」という悲鳴が自分の口から反射的に上がった。
「起きたか」
夢の中の登場人物が、そう言った。杖の青年だ。フローリングの上に座って、ソファにもたれかかっている。白いカッターシャツは土埃かなにかで汚れていて、少しやつれた様子だ。顔に怪我も見える。
銀髪の男もどこかに隠れているのではないかと左右に大きく首を振りその姿を探すが、この部屋には私と彼の二人きりのようだった。それはそれでまずいのだけれど。
青年は、害意がないことを示すように軽く両手を上げた。
「驚かせてすまない。危害を加えるつもりはない」
リビングのテーブルの上には、昨日落としたはずの私の鞄が置かれていた。鍵を漁ったのだろうか。
「な、信じるわけないでしょ!警察を呼ぶわよ…!」
「その前に話を。お前も、昨夜何が起きたか、知りたくはないか?」
思わずぐうと声がもれる。たしかに、知りたいか知りたくないかで言ったら圧倒的に知りたい。今を逃せば、昨日起きた夢物語の真相を知ることは二度とできないだろう。
「い、言っておくけど、私はあなたの顔、しっかり覚えたし、マンションには防犯カメラと警備だってついてるんだから! 変なことしようなんて思わないでよね!」
まくし立てながら、青年から最も距離を取れる部屋の対角線上にすり足で移動した。威勢の良い言葉とは裏腹に、子犬のようなたどたとしい威嚇の格好となってしまい、青年がゆるく笑うのでほんの少し気が抜けた。気の抜けたついでに、濡れタオルと消毒液と絆創膏をテーブルに置く。青年は、礼を言ってタオルだけを手に取り、再び床に座った。
青年は、傷口にタオルを当て、そしてゆっくりと語り出した。
いつまでも聞いていたいと思うような、穏やかな声だった。内容が内容でなければ。
「その話を信じろっていうの?」
「無理もない」
不信感をみじんも隠さない私に、クレフと名乗った青年は苦笑いをしている。
「しかし、昨日お前は現実に体験し、見ただろう。イーグルも、魔法も、吸血種も、たしかに存在することを」
「じゃあ、あなたもイーグルって人も異世界から来た吸血鬼で、あなたはあいつが悪さをしないように、東京をパトロールしてるってわけ?」
「吸血〝種〟だ」
「なんだって同じよ」
クレフの話はこうだ。
吸血種は、セフィーロと呼ばれる異世界にその営みを築いている。普段は自国で穏やかに生活を送っているが、ときおり人間の血を吸う必要がある。『ときおり』は個体によって異なり、年に数回だったり数年に一回だったりとさまざまだ。
また、吸血種は〝混ざり血〟を嫌うため、原則、同じ家系から血液を吸う。これを〝純食〟と呼び、クレフを含むほとんどの吸血種はそれに属する。吸血が必要となる時期に人間界を訪れ、吸血対象を探し出し、その者が眠りについた頃、少量をそっと吸ってセフィーロへ帰る。
「待って、私昨日吸われた時、すごく痛かったんだけど。あんなことされたら誰だって起きちゃうわよ」
「昨日は非常事態だったからな。適切に吸血を行えば虫に刺されたほどにも気づかない」
「そんなこと言って、あなた、吸うのが特別下手なんじゃないの?」
たまにいるのよ注射が下手な看護師さん。私が言うと、クレフは私を一睨みしてから話を続けた。
イーグルをはじめとする〝雑食〟と呼ばれる吸血種は、その名の通り節操なしに人の血を吸って回る。必要以上に血を求め、場合によっては人を死に至らしめるほどの血液を奪うこともある。
「雑食が
昨夜の静電気のような攻撃を思い出し、身が震えた。クレフが止めてくれていなければどうなってたのだろう。しかも、イーグルにはまだ余裕がありそうだった。クレフは苦々しげな表情で言った。
「イーグルの力の付け方は想像以上だ。あれは相当に吸っている。食事のたびに力を増しているのだろう」
「食事?」
「吸血のことだ。吸血は生命維持のほかに魔力にも変換される。イーグルのような雑食は血を吸えば吸っただけ力になる。しかし、純食の我々は、良質な血をいかに純度高く摂取するかが力の要となるのだ」
と言い、クレフは自分の手のひらを恨めしそうに睨んだ。
「端的に言って、いま私は力を消耗している」
私はその時初めて、知った。昨夜気を失った後、クレフとイーグルがもう一度戦ったことを。クレフのシャツが汚れているのはきっとそのせいなのだ。
「それだったら、あなたもイーグルみたいにいろんな人の血を少しずつ吸って強くなったらいいんじゃないの?」
吸血鬼に吸血を勧めるなど、穏やかではない。しかし、閃いてしまったものは口にせずにはいられなかった。クレフはしばし黙り込んだ。なにか見当外れなことを言ったかと気まずくなり、私は肩をすくめた。とはいえ、初対面の吸血鬼の夢物語をここまで真剣に聞いてあげているのだからむしろ感謝してほしいくらいだ。そう思い至り、私はすくめたばかりの肩を戻して背筋を伸ばした。
「あながち間違ってはいない。純食雑食と呼び名は違うが、しょせんは同じ種。お前の言うとおり、イーグルのように多種の血を吸えば結果的に力は付く。しかし、人間には理解しがたいかもしれないが、純食であることは吸血種の矜恃でもあるのだ。それを捨てれば、血を求めるだけの存在……それこそ吸血〝鬼〟になってしまう」
「え!?それじゃあ、あなた昨日私の血を吸ったらまずかったんじゃないの?」
「わかってきたようだな。そうだ。昨日は本当に特例だった。本来は、一家が断絶でもしない限り吸血対象を変えることはしない。それほど、家系の切り替えには慎重になるものなのだ。そして切り替えの一人目は若い生娘の血でなければならない。昨日確認したのもそのためだ。お前も私も、運がよかった」
顔を赤くし、パクパクと口を開閉する私をよそに、クレフは続けた。
「そして、一度家系の切り替えを行えば、しばらく……私で言えば百年ほどは別家系の血を吸うことはできない」
「百年?」
なにを大げさな。
「七百年以上生きて、こんなことは初めてだ」
一体何を言っているのか。七百オーバーで、こんなにきめの細かい肌をされてはたまらない。「若造りで許せる限度を超えてるわよ」と捨て鉢に言う私を、クレフはまた無視した。
「最後に問題がもう一つ。これもまたイーグルだ。あれはまたお前を狙う」
(やっぱり日に当たらないから肌がきれいなのかしら)
クレフの肌の観察に夢中になっていた思考が引き戻された。彼は、少し申し訳なさそうな表情を見せ、言葉を続けた。
「こればかりは説明がつかない。勘にも近い。しかし、昨夜の奴の様子から、なにか執着のようなものを感じた。一度吸い損ねた血というのが大きいかもしれない」
「熊の習性みたいね」
思わず口をついた。あまりに非現実的な話に、頭がクラクラする。
「お前が狙われているという話をしているのだぞ?」
クレフは唖然として言った。
「ちゃんと聞いてるわよ。ねえ、じゃあどうしたらいいの? 私これからずっと十字架を持ち歩いてにんにく料理を食べ続けてないといけないわけ?」
ほかにも何か弱点があったような。考え込んでも思い出せない。
「人間界での吸血種の言い伝えは大半が迷信だ。お前が言った方法は全く意味がない」
なんならこの場でアーリオオーリオでも作ってやろうか、とクレフが皮肉げに笑った。
「その吸血鬼ジョーク、全然笑えないわよ! それじゃあ対策のしようがないじゃない!夜中の間ずっと震えて暮らせっていうの?」
「夜中の間、というのは正解だ。そう、私たちは日光が苦手だ。苦手と言っても、人間が想像するように当たった瞬間に消滅するというようなことはない。著しく活動が鈍り、回復に時間を要する。まあ、日中はまず安全と思って大丈夫だ」
「ちょっと待って! 震えて暮らすのは否定してくれないわけ? 早くそのイーグルってのをやっつけちゃってよ! その、セフィーロ?って所からもっと強い人を呼ぶとか、」
「もちろん、随時増員はする。しかし最終的に私でどうにかできなければ、奴の対処は難しいだろうな」
「……? あなた、そんなに強いの?」
クレフが、虚をつかれたように目を見開いた。そんなことは聞かれたことも無いといった表情だ。
「昨日の私を見れば無理もない」と自嘲気味に小さく笑った。けれどすぐに、今度は口の端を確かに上げ、言った。
「血さえ、あれば」
その妖艶な表情に、思わず息を飲む。昨夜気を失う前にも似た表情を見た気がする。また頭がクラクラしてきた。
「もう一度言うが、私は純食としてこれ以上多種の血を吸うわけにはいかない。しかし、イーグルを送還させるためには、さらなる力、つまり血が必要だ。わかるか?」
「嫌な予感がするわ」
クレフが二、と笑って頷いた。正解しても全然嬉しくないのだけれど。どうやら正解のようだった。
「もちろんタダでとは言わない。夜はお前の身を守る。雑食の監視があるので常時というわけにはいかないが、いないよりはましだろう」
「ボディガードってこと……?」
必然的に、あのあまりにも有名な映画のテーマソングが頭の中を流れた。場違いにもほどがあった。
「そうなるな」
「ちょっと待ってよ。そもそも、そっちの世界の都合で私が危ない目に遭いそうだっていうのに、どうしてそれを交渉材料にされなきゃいけないわけ!?」
マッチポンプにもほどがあるわ。頭の中を流れる『エンダー』を追い出す勢いでまくしたてた。
「それが我々と、お前たちの世界の摂理だ。悪く思うな。私はお前の身の安全を、そしてお前は食事と寝床の提供、これが条件だ」
「摂理って、…勝手すぎるわ! え……? ちょっと待って! 条件がひとつ増えてない? 寝床ってどういうこと!?」
「吸血種は
さも当然、と言わんばかりに持論を述べるクレフに、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「待って! まさかうちに住むっていうの!?」
「私が滞在すれば雑食を退ける結界も張りやすくなる。お前にとっても不足はないはずだ」
「そ、そうだとしても! 倫理的にまずいでしょ! 男女が一つ屋根の下で暮らすなんて!」
お嫁に行けなくなっちゃうわ、と私が言うと、クレフは「なんだそんなことか」とバカにしたように吹き出した。
「では聞くが、お前は、このパンに欲情するか?」
細く白い指の先には、明日の朝食べる予定の食パンがある。そういえば、空腹はとっくに忘れていた。
「な…っなんて失礼な人なの!」
「なんだ、欲情してほしかったのか? 生憎、生娘は苦手でね、そうでなくとも、我々吸血種と……」
最低だ変態だとわめく私を、クレフが「まあ聞け」と言って手のひらで制した。
「それから、生活費の心配なら不要だ。なんならイーグルを送還するまではお前の分を含め全額出してもよい。少なからず成功報酬も出るはずだ。悪い話ではないだろう」
「ぜ、全額!?」
頭に登った血が、一気に下りていくようだった。
「や、だめよ、待って。そういう問題じゃ……」
しかし私は、最終的にうなずいた。
生活費全額負担と成功報酬に惹かれたわけでは、決してない。
「交渉成立」
クレフが差し出した手はひんやりとしていて、見た目も触感も高級な陶器のようだった。
レイチェルだって、フランクの顔が良かったから好きになったわけではない。たとえ顔が天下のケビン・コスナーでも性格が『これ』なら好きになる事などなかっただろう。そういえば、私はあの曲のサビしか知らなかったので、無理に追い出さずとも頭の中のホイットニーは勝手に消えて行った。
こうして、私に最低のボディーガードができた。