The Name of Vampire









chapter 01.Wake Me Up, When September Ends
―痛みを感じる夢など聞いたことがない






ローヒールのパンプスを床にカランと起き、執務室用の靴から履き替える。仕事はまだ残っている。週をまたげば効率が悪くなることもわかっている。しかし、今日はもうこれ以上粘っても進捗は望めないと判断して無理やり切り上げてきた。月曜日の自分に恨まれる覚悟は、出来ている。

エレベーター内のディスプレイを見ると、美容のことを考えればもう夕飯を食べないほうがいい時刻になっていた。ワイヤレスイヤホンを耳にかけ、携帯電話を操作する。出勤時に聴いていたポップスを続きから再生した。

駅まで歩き、改札をくぐり、そこそこに混雑した電車に乗り、改札をくぐり、駅から歩く。ほとんど同じ日々の繰り返しだ。特別幸せということもなければ、不満だらけというわけでもない。
しいていえば、お腹が減っている。それから、今抱えている案件がつつがなく終わってほしい。久しく会っていない親友たちに会いたい。イヤホンがバッテリー不足を知らせる音がうるさい。それから、そろそろ彼氏が欲しい。意外にたくさんあるな不満、と道すがら苦笑いした。
まったくモテないわけではない、と思う。ありがたいことに少なくはない人数から告白を受け、何人かは付き合ったこともある。が、交際を進め、相手が欲望を満たそうとする段になるとどうしても先に進めず、数日後何かものすごく薄っぺらな綺麗事と共に振られる、というのがパターン化していた。二十代も半ばになろうかという歳で未だ経験がないというのは若干のコンプレックスにもなっていて、それが余計に私を男っ気のなさの負のループに陥らせていた。

家まで数分、というところでイヤホンが落ちた。物理的に落下したのではなく、電池切れによってその機能を逸した。外すのも面倒でそのまま歩き続ける。その時、
「あのーすみません」
突然後方から声が聞こえ、肩が震えた。
男性の声だ。声質は慇懃で穏やか。しかし、こんな時間にこんな場所で声をかけるなど、少し普通ではない。後ろに人がいるなどまったく気が付かなかった。決して危ない道ではないけれど、それでも、完全に油断して歩いていた自分を心の中で叱り、そして大通りまでの最短ルートを脳内で思案し、深呼吸した。

「あの」
急に近づいた声に、再び肩が震えた。いつの間にこんなに近くまで来たのか。足音も、気配すらもなかった。しかし、男の姿を見て、力が抜けた。人を見た目で判断してはいけないことくらい十分にわかっている。しかし、目の前の、穏やかを絵に書いたようなその若い男性が不審者や痴漢のたぐいだとは、どうしたって思えなかった。

「はい?」と気の抜けた返事をすると、男性はほっとしたように笑顔を返した。街灯の光がその銀髪に反射している。黒のスラックスに、薄手の黒のタートルネックを一枚着ただけのシンプルすぎる服装でありながら、その細身の長身はさながら俳優かモデルのようでもあった。口元にどこか違和感を覚える。けれどそれすら彼の美形を助長していた。

「こんな夜分に申し訳ないです、もしよろしければ」
男性は、道に迷った程度の困った笑顔を見せた。
「なんでしょう?」真顔以上笑顔未満の曖昧な表情を返す。彼も、もう一度ニコリと笑った。もしこれがナンパなら、十人中十五人はついて行ってしまうだろう。そんな、柔和な笑顔だった。
「よろしければ、少し血を吸わせていただけませんか?」
「は?」
反射的に駆け出した。大通りまではそう遠くない。全力で走れば追いつかれないはずだ。今日はローヒールにしておいて良かった。元運動部を舐めないでほしい。
彼は、何と言った? 血を? 献血の係員などでは到底ないだろう。とにかく、今すぐ逃げたほうがいいことだけは確実だった。
しかし、駆け出した瞬間、まるで私の動きを予測していたかのようにパシと腕を捕まれた。イヤホンが地面に落下し、息だけの悲鳴が出た。
「大人しくしていただければ、すぐに済みますので。女性に手荒なことはしたくありません」

もう片方の腕も掴まれ、鞄がドサリと落ちた。強く掴まれているわけではないのに、振りほどこうと力をこめれば、するりと再び掴まれる。流れる水に遊ばれているような、不思議な感触だった。
とにかく、こうなってしまっては人を呼ばなければ。しかし、息を吸っても声が出ない。喉に何かが張り付いたように乾燥している。

(何か、言わなきゃ。人を―)

「イーグル!」

聞こえたのは、自分でも銀髪の彼のものでもない、誰かの声だった。どこからか音がすれば無意識に上を探してしまうのは人間の習性ではあるものの、それにしても二人ともが頭上を見上げたのは、その声が本当に そちらから降って来たからだった。

そして、『それ』は私の目の前に降ってきた。あまりに素早い動きに事態の把握が遅れ、人の形をした『それ』が人であるとはにわかに理解できなかった。
『降ってきた人』がそうしたのか、銀髪の男に掴まれていた手はいつの間にか外されていた。かわりに、『降ってきた人』に手首をぐいと掴まれ後ろに引っ張られたので、少しよろけた。

その青年は、まるで見えない壁で銀髪の男から遮るかのように、右腕を私の眼前に伸ばした。銀髪の青年ほどの背丈はないが、彼もまた恵まれた体躯をしていた。薄紫色の髪の毛が街灯に照らされて輝いている。東京の、ごく一般的な住宅街の、何の変哲もない街灯ですら、彼を照らすためのスポットライトと化しているようだった。

『イーグル』と呼ばれた銀髪の男は、不敵に微笑んだままユラリと立っている。「やあやあ驚かせてすみません、今演劇の練習中なんです」と言われれば、なあんだと納得してしまうほどに現実離れした光景だった。思わず撮影班を探したくなる。

薄紫色の青年に再び目をやれば、左手には見たことも無い不思議な物体、しいて言えば杖のようなものを持っている。その細い柄で支えきれるのかというくらいに大きな装飾は、禍々しくもなぜか目を惹かれた。恐竜の頭骨のようなものが天頂に鎮座しており、ほどこされた大きな水晶とリボンのような絹紐がきらめき、そして揺れていた。
芸術品のようなその杖は、しかし、彼の白のカッターシャツと黒いスラックス姿には全く似合っていない。左手から先だけが、少々気の早いハロウィンのようだった。

「雑食も大概にしろ、イーグル」
杖の青年が、たしなめるような口調で言った。
「そうは言っても、少々お腹が空きまして」
「知ったことか。もう十分に吸っただろう。いいから早くセフィーロへ帰れ」
演劇の練習にしては手がこみすぎているその光景を、私はただ見ていることしかできなかった。杖の青年の伸ばした手が、私を守ろうとしていることは直感で知れた。下手に逃げるよりもこの人のそばにいるほうが安全だと、本能が教えていた。

「相変わらず手厳しい。まあ、もとより口で解決するとは思っていませんから」
イーグルはそう言って両腕を前に伸ばし、手の平を広げると何かを口ずさんだ。空気がビリとしびれて肌が震える。反射的に、目の前の青年の背中に手を伸ばした。見ず知らずの男性にすがるなど、今までしたことがない。けれど、そんなことを言っている場合ではなかった。強烈な静電気のような刺激が全身を包み思わず悲鳴が出る。

「イーグル!やめろ!」
青年は叫び、杖をグッとかかげた。杖にほどこされた水晶が、電池切れのおもちゃのように力なく発光している。イーグルが空気を震わせているのなら、杖の青年は絶え絶えにそれを抑えているようだった。立ち並ぶ一軒家のガラス窓が、カタカタと音を立てて細かく震えている。屋内からは、いくつかの小さな悲鳴が聞こえた。

「あなたともあろう方がこの程度で精一杯とは。こちらへ来てから『お食事』されていないんですね」
イーグルは、からかうように雑に腕を下ろした。それと同時に、空気の震えは収まった。食事?こんな時に何をのんきなこと。そう思った瞬間、
「ひゃ…!」
自分の口から情けない悲鳴が漏れる。突然の浮遊感に、思わず青年の腕にすがった。
浮遊感の正体は、大きなシャボン玉のような物体だった。シャボン玉は私達二人を包んだまま急速に上昇していく。耳が詰まり、本能的に喉がゴクリと音を立てた。見慣れた街が、見慣れない高度からの風景へと変わっていく。
「なに……これ……?」
その時、青年がガクッと膝を付いた。連動するようにシャボン玉も大きく揺れ、「ひっ」と短い悲鳴が漏れる。
「ちょっと、大丈夫!? っていうか、なんなのよこれ!」
夢でも見ているのかと疑いたくなる。本来ならば、シャボン玉が揺れた振動でビクンと体が震えて目を覚ましそうなところだけれど、そうはならない。
「説明している時間はない」
青年は杖を支えに膝を付いたまま、息を荒くしている。水晶の光は、ほとんど消えかけていた。下を見ると、もう一つのシャボン玉がこちらへ向かってきている。イーグルだ。

「ちょっと! 追ってきてるわよ!」
「追わせている。あんな場所でやり合うわけにはいかん」
「一体なんなのよ!?」
「説明はあとだ」
杖の青年は、こちらをちらりと見た。

「聞くが、お前生娘か?」
「は?」
「男の経験はあるのか、と聞いている。さっさと答えろ」
それで私は、ああやっぱりこれは夢か、と確信した。少し働きすぎだ。いつの間に眠ったのだろうか。どこからが夢かはわからない。道端で、モデルのような銀髪に血を分けろと言われ、シャボン玉で空を飛び、次は薄紫色にコンプレックスを突かれる。これが夢でなくてなんなのか。
そう考えると気が少し楽になった。

「そうよ、悪い?」と、捨て鉢に返事をした。
こういうの明晰夢っていうんだっけ。そんなことを考える。
私の返事を聞くと、杖の青年は満足そうに「いや」と言った。普通なら、ただただ悪質なやり取りだ。けれど、彼が言うとなぜかそうは感じなかった。顔が良いというのは本当に得だな、とのんきことを思う。

「お前、死にたくなければ少し血を分けろ」
「またそれ!?なんなのよ、さっきのイーグルって人といいあなたといい。私、吸血鬼の夢でも見てるってわけ?」
「ふざけている場合ではない。私はこの様だ。このままでは二人とも死ぬ。ここで訳もわからぬまま死ぬか、私に血を分け一縷の望みを見出すか、お前が決めろ」

まっすぐに私を見つめるその顔は、イーグルと呼ばれた男に負けず劣らず整っていた。息の荒れた表情ですら、どこか妖艶さを感じさせる。
青年が咳きこみ、シャボン玉が再びガクンと揺れた。やはり目は覚めない。死ぬ夢というのは吉夢であるとは聞く。しかしそれでも、あの寝起きの悪さをせっかくの土曜の朝に味わうのはごめんだった。

「いいわよ。わけてあげる」
ブラウスのボタンを一つ外し、髪をかきあげ、襟元をぐいと広げた。
「どうせここから吸うんでしょ」とは言わないまでも、私の態度は言葉以上にそれを示していたと思う。わざわざ首を右方向に傾げて首筋を晒してやった。笑みすら浮かんでいるはずだ。

青年は一瞬目を見開いた。自分で頼んでおいて一体なにを面食らっているのか。
「悪くない」
ニヤリと口の端を上げたその表情を見て、イーグルと彼に共通する違和感の正体を見出した。

(そうか、吸血鬼だから犬歯がこんなに尖っているのね)

青年の顔がこちらへ近づいてくる。柔らかな髪が私の耳と頬をくすぐった。首筋に触れた唇の冷たさに、糖度の高い吐息が漏れてしまった。
(ちょっと、そんなに欲求不満じゃないわよ私)
こんな夢を見せている自分自身の脳に苦笑いする。

瞬間、吐息は悲鳴に変わった。
「痛っ…!」

見ずとも、あの尖った犬歯が刺さったのだろうということが容易にわかる。
そして、ちゅうと首筋を吸い上げられる感覚。滴った血液を飲み残さないためか、冷たく湿った舌が鎖骨から首筋を這い、再び吐息が漏れた。

青年の唇が離れてなお、首筋に冷えた熱を感じる。痛みを感じる夢など聞いたことがない。しかも、唇と舌を這わされた時に覚えたあの甘い感覚はなんだったのか。パニックを超えた混乱に陥る。脳がキュルキュルと高速回転した後、情報処理を諦め、静かに機能を止めていくのを感じた。目の前の青年は、なぜか笑っている。
私は、ここで、意識を失った。

―――

男もまた、戸惑っていた。口内を満たす血の味は、歓喜にも近かった。しかし、その味に目を見開き固まったのは数秒たらず。男はうっとりと目を細めて微笑むと、血液を嚥下し自身の唇を舌で舐め取った。その妖艶な光景は、混乱を解消するべく回り続ける海の脳にとどめをさした。

男の荒れた息は収まり、その瞳に輝きが宿る。消えかけていた杖の水晶はぼんやりと光り出し、シャボン玉の浮遊が安定しだした。後方を見れば、イーグルが追ってきている。
「娘、この辺りに開けた場所はないか?」

海は既に意識を失い、その眉を苦しげによせていた。
「無理もないか」
クレフは小さく舌を打ち、目に入った河原へとシャボン玉、もとい浮遊殻を移動させた。







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