💎アンドロメダ



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「アンドロメダ」 




熱い雫がぼたぼたと髪から流れ落ちる。
それは渦を作って排水口へ流れていく。


当たり前みたいに髪を切った。
この五年間を切り捨てるみたいに。
一度だけ「切らないで」と言われた言葉を、律義に守っていた。
でも最初から、別にあの人のために伸ばしていたわけじゃないし。
切った後は会う人会う人全員に驚かれたけど、二週間も経てばそれも落ち着いてきた。
この髪型を見たらどんな顔するかしら。
そんなことを考える時点で全然吹っ切れてなんかいないんだけれど。


バスタイムだけは泣いていいことにしている。無理に涙をこらえると喉の奥が翌日まで痛くなってしまうし、目を擦ったらまぶたが腫れてひどい顔になってしまうから。
ただ流れるままに涙を流す。私の涙は、渦の中のただ一粒になるだけ。
お湯を止めて、バスルームを出たらその日はもう泣かない。そう決めている。

体にタオルを巻き付けてリビングへ。
水を飲むにも、化粧水をつけるにも、下着をはく時にも考えてしまう。
全ての行動に、彼との思い出が染み付いてしまっている。

ココア生地で模様をつけたアイスボックスクッキーみたいに、私の思考はどこを切り取っても彼になる。
その形は丁寧だったりいびつだったり色々だけど、とにかくもう、私の想いの全てはクレフのものだったし、クレフは私の全てだった。


優しく流れる薄紫色に二、三本の白い髪が混ざっていること。
小さな手の指先は、薬草の苦い香りが染み付いていること。
食事も取れないくらいに忙しい日は、寝息の中にくうくうと小さないびきが混じること。
眠る手に触れれば、まるで赤ちゃんみたいにぬくい体温があること。

それから、魔法なんか使わなくても簡単に心を読めてしまうこと。
そしてそれは私にも移った。
もちろん魔導を教示されたわけじゃない。
だって魔法なんかじゃないんだから。

それは、本当に偶然だった。
盗み見る気なんてなかった。
けれどあの日、私はクレフの心を覗いてしまった。

「私じゃだめなんだ」と思った。

クレフは、優しさで私と恋人同士になってくれていただけだった。
それがわかったら、ただ悲しくて情けなくて。
別れを切り出したのは私だったけど、実質は振られたようなものだった。



ルームウェアを着た後、ベランダに出た。
東京では珍しく、乾いた南風が強く吹いていて、ドライヤーの手間を省けるかもなんて横着なことを考える。そうしたら、今日はクレフのことを考える時間がいくらかは減らせるはずだ。

遠目に小さく見える赤いタワーの、少し上。
一つの明るい星が見えた。
惑星か、シリウスか何か?
乏しい知識を総動員して考えてみる。
東京には、星の名前を教えてくれる人はいない。

一つ星の夜空をぼんやりと眺めていると、どこかから遅めのお夕飯の香りが漂ってきた。
「クレフ、ちゃんとご飯食べてるかしら」
そんな独り言が勝手にこぼれた。





夜の虫がリイリイと鳴く草地にねそべって、クレフはセフィーロの星のことをたくさん教えてくれた。
セフィーロにも東西南北はあったし、それは星の動きを参考にしているということもこの世界と同じだった。

ある夜、一緒に東の空の三角形を見ていた時、横になったままクレフがこちらを振り返った。今度は西の空の星座を教えてくれるのかしら。私の考えはハズレで、あの夜、私たちは初めてのキスをした。
それからもずっと、クレフは私に星を教え続けてくれた。

タワーが滲んで、私は慌てて目を瞬(しばた)かせる。
涙が散って視界が明瞭になる。
気づけばさっきよりもずいぶん星は増えていた。

暗さに目が慣れただけ。
突然星が現れるわけじゃない。
それはずっとそこにあったはずなのに。

私は、一体何を見ていたんだろう。




別れを告げたあの日、クレフは何も言わなかった。
ただ、不思議な仕草を私に見せた。

自分の両目を人差し指と中指で指差し、それから胸に手を当てた。まるで手話のようなその仕草。
『心を、覗いたのか?』
だから私はうなずいて、逃げるように東京に帰ってきた。

また景色が滲む。
自分に課したルールを破って、私は涙を零し続けた。

食事が取れないほど忙しい日も、夜は一緒にいてくれた。
体調を崩した時には特別苦い薬湯を入れてくれた。

― 五年間も

白い髪を見つけられるくらいそばにいたのに。

― 私は何を見ていたの?


私があの日覗いてしまったクレフの心。
それは、あの明るい星みたいに、クレフの心のごく一部だったのかもしれない。

胸がズキンと切なく痛くなる。
遠い遠い場所に落し物をしてきたような気分だった。

「私……」

青ざめそうにすらなって、私はクレフのことを考えた。
これ以上ないくらいに。何度も、何度も。

あの人の優しさのことを。強さのことを。

『心を、見ろ』

もしかして、クレフはそう伝えたかったの?

鼻の奥がツンと痛くなる。私は慌てて部屋の中へ戻った。
鞄を掴んで転がるように玄関に向かう。

タワーの最終入場時間まで、あと40分ある。
ギリギリだ。けれど決して間に合わない時間ではない。

電車に駆け込めば、乗客の視線が痛かった。
ノーメイクで髪は濡れたままだし、ルームウェアとスニーカーに本革のショルダーバッグという出で立ちは、夜の六本木方面へ向かう車内では明らかに浮いている。
けれど、そんなことに構っていられない。
私の頭は、何をどう伝えるか、それでいっぱいだった。

ごめんなさい。
やり直してほしいの。
まだあなたのことが好きなの。

ふさわしい言葉がまるで見つからない。
六本木を過ぎ、麻布十番を過ぎても言葉はまとまらなかった。

扉が開いて、私は全速力でホームを走る。
間に合うかもしれない。
時計の針が私の足を加速させる。

一段抜かしに駅の階段を駆け上がり、点滅する青信号をくぐり抜ける。
急な坂道に息が切れて、肺がズキズキと痛くなっても、私は走るのをやめなかった。
チケットカウンターは、閉業の準備をしていた。
営業終了のプレートをひっくり返したスタッフが、ボロボロと涙を零し息を切らす私を見て、一枚のチケットを発券してくれた。

鏡張りのエレベーターの室内に、ひどい姿が映っている。
乱れた髪を手で撫でつけたくらいではまるで無意味だ。

せめて。
私は、涙をぬぐって背筋を伸ばした。

ただ会いたい。
謝りたい。想いをきちんと伝えたい。

もちろんそれもあるんだけど―


ねえクレフ
夜はきちんと寝れてる?
ご飯、ちゃんと食べてる?


エレベーターの、扉が開く。
皮のショルダー紐を強く握りしめて、私は静かに瞳を閉じた。





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「アンドロメダ」
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