💎💎💎初恋(完結)



7.禊



朝露をはじく芝草。梢に隠れた東雲の日の光。
鶏鳴が響く爽やかな早朝。彼女たちがもたらしてくれた新しい世界だ。美しくないわけがない。
けれど、そんな爽やかな朝の気配さえ、クレフの心を晴らしはしなかった。

風はなぜ禊などと。
それに従う自分もどうかしている。

城の裏手からしばらく歩く。たどり着くころには鳴く鳥の声も変わっていた。霊峰にみなぎる木々たちの力を、絹糸のように細く運ぶ。青々とした聖泉は、力強い自然の生彩をたたえていた。

水面に爪先から触れる。裸足の足が砂利に触れ、禊着が水を吸った。冷えた聖泉の水はたしかにクレフの身を引き締めた。
明瞭になった頭で考えるのは、それでもやはり海のことだった。
いや、いい。無理に頭の中から追い出すことはしない。
今日は、考えに来たのだから。

息を吸い、水を蹴って泉にスイと浮かぶ。
視界のほとんどが空色になる。
禊の作法には反するが、それももはやどうでもいい。
目を閉じれば、水の揺らぎはクレフをからかうようにその身を揺らした。

耳に水が出入りし、ちゃぷんと鳴る水音と、水中のこもった様な音が交互に聞こえる。
水を吸った後ろ髪が水中でたなびき、流れる水の感触が頭皮に伝わった。
人に髪を切らせたことなど、もう記憶にないほどに昔のことだった。

あと数時間で海達は帰る。
自分も、数日後にはあの小屋へ戻る。

海達はまたセフィーロへ来てくれるだろうか。
いや、セフィーロに来たところでもうあの家へは来ることはないだろう。

また来てほしいと願うことすらおこがましい。
突き放すことすらしなかった。できなかった。

そんな考え事をしていると、芝生を足早に踏みしめる足音。それから、どぷんと何かが水に沈む鈍い音が聞こえた。
泉の力がにわかにざわつく。
クレフは慌てて体を起こした。わけも分からず水をかいたので水中でバランスを崩しそうになる。足の方向へ反動をつけて、なんとか立ち泳ぎの姿勢を取った。

誰かが、こちらへ泳いでくる。
魚のような速さとしなやかさで。あっという間に自分の元へたどり着いたその少女は、クレフの背面から腕を回し、水中を引きずるように岸のほうへと泳ぎ出した。

「待て! 私はおぼれてなどいない!」

顔に水を浴びながらクレフが叫ぶと、海はびくりと震え、それから腕を離した。

泉にぷかぷかと浮かんでいる互いの異様な光景を笑い合うような状況ではない。海は、驚きと困惑と戸惑いと怒りを混ぜた表情でクレフを見た。クレフもほとんど同じ表情で海を見た。怒りの感情をのぞいて。



太い幹の真反対で、濡れた髪をしぼり、それぞれ持参してきた服に着替える。聞けば、海もクレフと同じ目的でこの泉へ来たという。そこで水中に浮かぶクレフを見つけ、慌てて飛び込んだのだと。

もっとも彼女の場合、溺れっぱなしでセフィーロを去るわけにはいかないというおかしなプライドのようなものもあったのだけれど、クレフはそれを呆れたり笑ったりたしなめたりすることはなかった。

火をくべた薪にあたりながら、海は「もー」とか「びっくりした」とか、さんざんに文句の言葉をぶつけた。クレフはただ平謝りすることしかできなかった。
あらかたの怒りを発散し終えると、海は「オフィーリアにでもなっちゃったかと思ったわ」と声を落として呟いた。
「オフィーリア?」
クレフが尋ねる。海はその架空の人物について手短に説明した。



「私が入水じゅすいなどするわけないだろう」
「だってこんな時間にこんな所でぷかぷか浮いているんだもの! 誰だってそう思うわよ。クレフがそんなことするわけないってわかってるけど……でもあなたずっと元気がなかったし」
海が言うと、クレフは押し黙った。結局は謝ることしかできない自分に嫌気が差してきてもいた。

水蒸気の行き場をなくした薪がぱちんと弾ける。気づけばすっかりと日もあがり、木の梢からは日差しが覗き始めていた。朝鳥の声はすっかり止んでいた。

「お昼には帰るから」
「ああ」
それからしばらくして「すまなかった」とクレフが言った。
「もういいってば」
「いや、違う。そうではなく―」
薪の織り成す温かな空気が、ピリと凍り付いたような気配があった。
「先日の、小屋でのことだ」
「なんのこと?」
「お前の気持ちをないがしろにするつもりはなかった」
海の肩が震えた。かかえた膝に頬を当て、クレフとは反対のほうを向き、海はこの時が過ぎるのをただ待った。

「別れ際、何か言おうとしていただろう」

小屋でのことではない。
クレフもまた、海の意識を『あの時』にいざなった

「けれどお前は言わなかった。言葉を、胸に秘めた」

「私はあの時……」

「どこか安心した」

クレフがぽつりぽつりと言葉をこぼすごとに、海の胸はちくんと棘の痛みを覚え―

「忘れてほしいとすら思っていた」

― 大きくずきんと鳴った。

膝に涙が伝って、鼻を小さくすする。
もはや、泣いていることを隠す手段も必要もない。

「忘れるのも忘れないのも、私の自由よ」
海は涙ぐんだ声で、せめてもの意地を見せた。
「そうだな」とクレフは少し困ったような声で言った。

「そのくせ、私はずっと忘れられずにいた。会いたいのか会いたくないのか、それすらわからなかった」
「なによそれ」
「いや、年寄りの妄言だ。忘れてくれ」
「だから、それは私の自由だってば」
海が顔をあげ、つんと唇を尖らせて言った。

そして、すくと立ち上がるとクレフのほうを振り返った。
「この前、髪を切ってる時。なぜ来たって私に聞いたでしょ?」
「あ、ああ」

「会いたかったからよ、クレフに」

そう言って、海は笑って見せた。

「やっぱり、それしかないわ」
もう会うこともないかもしれない。
だからこそ、振られて泣きべその顔を見せるのは、どうしても嫌だった。

風になびき、青い髪が宙に流れる。
綺麗だ、とクレフが思うのと同時に海は微笑み、そして言った。



「正直、つらかったわよ。この恋は」


「でも、よかった」




「私、あなたを好きになってよかった」












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次回最終回です。
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