💎💎💎初恋(完結)




6.風



まずは天候から。ついで、食事、文化、言語、少し踏み込んで、道徳、法にいたるまで。あらゆる雑談を小一時間ほどした後、風が改めて背筋を伸ばしたのでクレフは「いよいよか」と身構えた。

風は「海さんと何かありました?」などとは聞かなかった。

かわりに「私、姉がいるんです」と雑談の続きを始めた。
クレフはわずか肩の力を抜き、それから頬杖をついて風に言葉の続きを促した。

「上の兄弟がいると、光さんのように大変純朴に育つか、私のように少々したたかに育つか分かれるものですわ。を見て色々と学習しながら育ちますから」
少々自嘲的な風の言葉に、クレフの口の端が少しあがる。

「海さんは典型的な一人っ子ですわね。ある意味光さんよりもずっと素直と言うか不器用というか」

ここにきてようやく出たその名前にも、クレフが表情を乱すことはなかった。あらかじめ頬杖をついておいてよかった。指の甲と頬が触れ合う感触に意識を向け、急激な表情の変化を防ぐ。それは彼の老獪さゆえの精神的な回避行動でもあった。

「クレフさんも、もしかしてご兄弟がいらっしゃらないんじゃないですか?」
「当たりだ、フウ。まるで占い師のようだな」
クレフが笑えば風も笑顔を返す。

「この前は、随分とお帰りが遅かったですわね」

眼鏡の奥の眼差しが、クレフをとらえようとしていた。

「思い出を作るなんて、あんまりじゃありませんか」

クレフの思考が一瞬止まる。数日前、泉の小屋で過ごした時間が洪水のようにクレフの脳内に駆け巡った。

「あの日、なぜ海さんに声をかけたんですか?」

次には時系を揺さぶられ、感情と思考が乱れる。
小屋での出来事を言及していたはずの風は突然、「あの日」つまり三人がセフィーロを去った日へとクレフの思考を導いていた。

頬杖の腕は崩さず、指だけを動かし額に当てる。
目元を隠すその仕草は、風ほどの策士を相手にすれば敗北を示す仕草でもあったのだけれど、クレフはそうせざるを得なかった。

これは負け試合になるかもしれない。
クレフは額に手を当てたまま、重く口を開いた。

「教え子はみな等しくいとおしい。誰を区別するつもりもない」

それは正しすぎる模範解答で、風にも予測できる返答だった。

「だが」

だからそのあとに続いた言葉に、風はおおいにたじろいだ。

「ウミは特別だ」

頬が熱くなる。
自分が告白を受けた時よりもよほど緊張しているかもしれない。風はそんなことを思った。

「ウミは特別だ。それは否定できない」

クレフが椅子から立ち上がる。

その恰好で城内を歩かれるのは困ります、とたしなめられ官女たちに用意された濃紺色のローブを身にまとう姿は、色恋など受け付けない、聖人のような存在。
そんなふうにも見えた。

そのまま数歩進んで風に背を向け、クレフは言った。

「この想いの扱いが、私にはまるでわからん」
クレフが続けた。
「いや、違うな。わかっているのだ、封じるべきだと」

風が「なぜ?」と尋ねた。
「なぜ封じる必要があるのです?」
風は少し険しい顔つきを見せた。

「考えるまでもない。おかしいだろう。異世界の、七百も年の離れた男と恋仲になってどう幸せになるというのだ。それに、ウミはきっと自分の気持ちを勘違いしている。あのような窮地……国を守る戦いという異例の状況下で刹那的に感じた想いを、恋慕だと勘違いしているのだ。私ですら最初は区別がつかなかった。どちらを答えにするか、その違いだ。海はまだ幼い。正しい判断ができていないだけだ」
せきを切ったようにクレフが言った。

風の目は、なおも怒りを宿らせている。
「それで?」
彼女にしてはあまりに冷ややかな声だった。

クレフは少しの落ち着きを取り戻し、静かに言った。

「……最初から、交わることなどないのだ。私と……ウミの想いは。ならば、なかったことにするのがいい。無理に手を取ったところで、互いに傷つくだけだ」

そうですか、と風が呟いた。

重々わかってはいた。
これは二人の問題だと。
自分などが口をはさむべき問題ではないと。
それでも、ここへ来た。

エゴかもしれない。
何より大切な友人が心を曇らせるのは嫌だった。
それに― 

「クレフさん」
温もりと穏やかさを取り戻した声色で、風が言った。

「もし私が千と十五歳だとしたら、あなたは私とフェリオのことを反対なさいます? 幸せになれるはずがない、と。そんな想いはただの勘違いだと」

風の言葉にクレフが息を飲む。言葉に詰まり、掠れた声が口の端から漏れた。
「いや、すまない……そんなつもりでは―」

言いよどむクレフの顔をまっすぐに見て、風がにこりと笑った。
交渉事に用いるしたたかな笑みではない、彼女本来の柔らかな微笑みを携え、風は言った。

「フェリオって」

「いびきがとってもうるさいんです」

表情を崩したクレフに構わず、風は続けた。
「それに、あんなに大きな魔物は倒せるというのに、お部屋に小さな虫さんが出るとそればもう大騒ぎするので、害虫さんの退治は主に私の役割で」
風の意図がつかめず、クレフは言葉の続きを待つほかなかった。

「過ごした時間は決して長くはありませんが、それでもフェリオの苦手なものやちょっと情けないところが少しずつ見えてきました。これからもきっと見えてくるでしょう。それはもちろんお互いに」

こんなことを言うのは縁起でもないですが、と前置きをして風は続けた。
「たとえばそういったことの積み重ねで恋人同士が別れたり、婚姻を結んでいたって離縁する方もいらっしゃいますわ」

「けれど、クレフさんはまだスタートラインにも立っていらっしゃらないじゃないですか。もし、あなたが海さんのことをお嫌いだとか、異性としては見られないということであれば、それはもう仕方ありません」

「ですが、クレフさん」

「年齢とか住む世界の違いとか、そんなつまらないことを理由に海さんと向き合わないというのなら―」

風がもう一度、にこと笑った。柔らかさとしたたかさを半々に混ぜたようなどっちつかずの笑みだった。

この先は言わずともわかりますね、と目が語っている。
クレフはその視線を受け流すことはせず、受け止め、それから静かにゆっくりと視線を外した。


風は、今すぐにでも大きく息をつきたい気持ちでいっぱいだった。
やれることはすべてやった。これ以上の言葉をもう自分は持っていない。

おせっかいなのはわかっている。
それでも、大切な友人が心を曇らせるのは嫌だった。



それに、それだけではない―。



数日前に帰城してからずっと表情を曇らせていることに風は心を痛めていた。
セフィーロに召喚されて以来、ずっとずっと自分たちを助け続けてきた、恩師のようなその人が。


海や光と同じくらい大切な存在である、クレフが。


―クレフさん、私はあなたにも幸せになってほしいんです


そう言葉にするのはたやすい。
けれど、この人物がそんな直球の言葉で動くとは到底思えなかった。

だから風は、クレフを攻めた。
クレフさん、あなたが幸せになる道を避けようとなさるなら、私だって怒りますよ、と。


しばらくの沈黙のあと、クレフは細く長いため息をつき、そしてゆっくりと風のほうを見た。

「一体、どうしろというのだ」

その言葉は投げやりなものではなく、穏やかな笑みが含まれている。
少し、安心したような声色ですらあった。
風は、それが嬉しかった。

「そうですね。まずはそのもやもやを吹き飛ばさなくては」

涙ぐみそうになるのをこらえ、風は人差し指を立てた。

「私たちの国には禊と言う儀式があるのですが」
「セフィーロにもある」
「では、それをなさっては?」

ぺこりと頭を下げ、風は部屋を去って行った。





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