💎💎💎初恋(完結)
3.髪
ピーラットが、クレフの肩から飛び立った。私の無事を城へ知らせるためだ。
泉へ落ちた経緯を端折って短く伝えると、クレフは目を丸くしていた。
モコナの無茶ぶりに驚いているようにも見えたし、クレフを探しに来たことに驚いているようにも見えた。
ダイニングチェアに向かい合わせに腰掛け、出されたお茶をいただく。制服はまだ濡れていた。クレフが淹れてくれたお茶は、あの時城で出された宝玉と金で装飾されたカップなどではなく、木製の素朴なスープマグのようなものに入っていた。
「客人などめったに来ないから」
すまない、とクレフは少し照れくさそうに言った。
「めったに、というのは少し見栄を張ったな。この暮らしを始めてからは初めてだ、人がここへ来たのは」
木製のマグに口を付ける。あの時の薬湯と少しだけ味が似ていた。
私の体が冷えないように、気を失っている間にこれの原液を飲ませてくれたのだそうだ。
やっぱり、甘くて懐かしい味だった。
「城で聞いただろう。この通り魔力をなるべく使わない生活をしている」
クレフが言うので、私はこくこくと頷いた。
少し変だなとは思っていた。
濡れたままの髪の毛、制服。
それだけじゃない。
人が泉に落ちてくる「異常事態」なんて、クレフならすぐに察知できるはずなのに。
「ほんとに、魔法が使えなくなったのね」
私が言うと、クレフはこともなげに返した。
「そう悲観することでもない。時が来ればまた以前のように使えるようになるはずだ。髪が濡れたままで寝かせてしまったのは悪かったが―」
その時、椅子がガタンと大きな音を立てた。
急に立ち上がった私を見て、クレフは目を丸くしている。
「どうしたウミ?」
「こ、こ、この服……」
魔法が使えないとしたらこの服は一体どうやって私に着せたの? 制服は? 暖炉には下着まで干してあった。
私は、泉に落ちた時よりもよほどパニックになっていた。単語すらまともに言えていないのに、クレフは私の言わんとするところを理解したのか、あきれたようにため息をついた。
「まったく、溺れたばかりだというのに心配するのはそんなことか」
「そ、そんなことって!」
「お前の着替えは精獣たちに任せた。その間私は席を外していたし、お前が心配するようなことは何も起きていない」
クレフの言葉に、私はすとんと座り込んだ。
「あの…ありがと……」
消え入る声でお礼を言うと、クレフは不機嫌そうに「いいから飲め」と言った。
おなかがぽかぽかと温かい。顔がずっと熱いのもきっとこのお茶のせいだ。
お茶を飲み終えるといよいよ手持無沙汰になり、私は部屋中に置かれている品々をあれは何これは何? と聞いて回った。それで壁に立てかけられている、布でぐるぐる巻きにされた物体がクレフの杖だということを知った。
「魔法が使えなくて不便じゃないの?」
「いや全く」
クレフは首をそっと振った。
「果実を取り、魚を釣り、時々調合した薬膳を売りに出て、必要なものは街で買い揃える。最初こそ少し苦労はしたが慣れればなんということはない」
「すごい……ほんとにご隠居生活なのね」
私が感心していると、クレフは「不便と言えば」と言って苦笑いを浮かべた。
「この髪くらいか」
「髪?」
「ああ、魔法を封じてからは見ての通りこの様だ。街へ行くたびに切ろうとは思うのだが、どうも気が向かなくてな」
言いながら、クレフは自分の髪を戯れにクルクルともてあそんだ。この人が、こんな風に髪に触るなんて知らなかった。女の人かと見間違えたほどの長い髪。思わずぽうっと見とれてしまってから我に返る。
「ね、じゃあ私が切ってあげましょうか?」
「ん?」
「髪の毛、切ってあげるわよ」
「断る」
「大丈夫! これでもうまいのよ私。前髪はいつも自分で切ってるし」
「いや、結構だ。そんなに一直線にされては困る」
「一直線って……やあね、こんなふうには切らないわ。その髪じゃ邪魔でしょ? 助けてくれたお礼に切らせて? ね?」
何をここまで必死に食らいついているのか自分でもわからなかった。
髪に触れたいとか、一緒にいる時間を作りたいとか、そんな感情とはまた別の。ひんやりとしたほの暗い感情が湧いていることに、私は驚いた。
「ほんとにうまいから私。光の髪だって時々アレンジしてあげてるの。ねえいいでしょ?」
半ば強引にクレフを外に連れ出す。ハサミと椅子と、ケープがわりの布を持って。
クレフが貸してくれた木靴で芝生を踏みしめれば、足元でサクサクと面白い音が立った。すばらしい土地だということがわかる。この泉だって溺れさえしなければ素敵な泉だ。
泉のほとりに椅子を置くと、クレフは観念したように腰をかけた。このくらいの位置に顔があるほうが、見慣れているし、少し安心する。
ケープ代わりの白い布にくるまれたクレフは子供みたいで、けれど大人の人だった。服装が、見知ったあの服に近づいたことで、変わってしまったんだなあということが、よりいっそうはっきりと感じられた。
『ひんやり』の正体を見つけそうで、私は慌てて手を動かした。
まずは前髪を何段かにわけて留める。
クレフの小屋にはヘアクリップなんてなかったので、薬膳の袋を止めるための金具を借りた。
くすぐったいのか、綺麗なおでこの真ん中で眉間が何度か震えた。
「目をつぶっていてね」
ハサミを入れてしばらくして、クレフが尋ねた。
「なぜここへ来た」
「なぜって。さっき言ったとおりよ。モコナの乗り物に振り落とされて」
「違う」
「違うって、何がよ」
「なぜ、セフィーロへ来た」
「そんなの……みんなに会いたかったからよ。どうしてそんなこと聞くの?」
私は自分の気持ちがこれ以上ざわつくのが怖かった。
「髪が口に入るわ。ちょっと喋らないでいて」
前髪をあらかた切り終え、クレフの後ろ側に回る。後ろ髪を細く束ねていた皮紐を見て、私は尋ねた。
「ねえ、これどうやって取るの?」
少し引っ張ってみたけれど、ゴムのように伸びるわけでもない。強引に取っていいものなのかわからなかった。「切っていい」とクレフが言った。
「しばらく必要なくなるだろうから」と。
心の『ひんやり』が少し溶けたのと同時に、私はいよいよ自分の浅はかさを自覚してしまった。
変わってしまったクレフが寂しい。
そんな利己的でひとりよがりな思いが自分の中にほの暗くうずまいていたのだと思うと、今すぐ泉に飛び込んで禊でもしたい気分だった。
ふる、と首を横に振って雑念をはらう。
気合を入れてハサミを入れると、皮紐がパチンと弾けて、淡い色の髪が白地の布の上にパサリと広がった。
「綺麗」
思わず口にした言葉を、私はあまり恥ずかしく思わなかった。
泉が綺麗、空が綺麗。
それと同じ次元で、クレフの髪は綺麗だった。
なんの抵抗もなくブラシが通っていく。
お風呂上りに長い長い時間をかけてケアをしている私の髪よりもよほど、クレフの髪は艶々としていた。
後ろ髪にハサミを入れる。
淡い紫が空気に溶けていく。
なんだか少しもったいないな。
そんなことを考える。
恐る恐る手鏡を除いたクレフが、目を瞬かせた。
「うまいものだな」と彼は言った。
「サークレットがないからイメージがちょっとむずかしかったけど」
「いや、大した腕だ。驚いた」
「アシンメトリーもちゃんと再現してみました」
おどけて言ってみせると、クレフが不思議そうな顔で首を傾げた。
「お似合いです、ってこと」
わかっているのかいないのか、クレフは鏡の前で前髪をつまみながら「ありがとう」と曖昧に言った。
小屋へ戻り、片付けを終えるとクレフは暖炉の前へ向かった。そして私の制服に手を伸ばし、触れる寸前で手を引っ込めた。
「触れてはまずかったか」とクレフが小さな声で呟いたのが聞こえた。
初めて会ったあの日、クレフが光の制服を突然つかんだので私が怒鳴ったことを思い出したのかもしれない。
クレフは顎に手を当て、何か考えこんでいる様子だった。
そして「少し見て回るか?」と唐突に言った。
私は首を傾げる。
結局、クレフは制服には触れなかった。
ピーラットが、クレフの肩から飛び立った。私の無事を城へ知らせるためだ。
泉へ落ちた経緯を端折って短く伝えると、クレフは目を丸くしていた。
モコナの無茶ぶりに驚いているようにも見えたし、クレフを探しに来たことに驚いているようにも見えた。
ダイニングチェアに向かい合わせに腰掛け、出されたお茶をいただく。制服はまだ濡れていた。クレフが淹れてくれたお茶は、あの時城で出された宝玉と金で装飾されたカップなどではなく、木製の素朴なスープマグのようなものに入っていた。
「客人などめったに来ないから」
すまない、とクレフは少し照れくさそうに言った。
「めったに、というのは少し見栄を張ったな。この暮らしを始めてからは初めてだ、人がここへ来たのは」
木製のマグに口を付ける。あの時の薬湯と少しだけ味が似ていた。
私の体が冷えないように、気を失っている間にこれの原液を飲ませてくれたのだそうだ。
やっぱり、甘くて懐かしい味だった。
「城で聞いただろう。この通り魔力をなるべく使わない生活をしている」
クレフが言うので、私はこくこくと頷いた。
少し変だなとは思っていた。
濡れたままの髪の毛、制服。
それだけじゃない。
人が泉に落ちてくる「異常事態」なんて、クレフならすぐに察知できるはずなのに。
「ほんとに、魔法が使えなくなったのね」
私が言うと、クレフはこともなげに返した。
「そう悲観することでもない。時が来ればまた以前のように使えるようになるはずだ。髪が濡れたままで寝かせてしまったのは悪かったが―」
その時、椅子がガタンと大きな音を立てた。
急に立ち上がった私を見て、クレフは目を丸くしている。
「どうしたウミ?」
「こ、こ、この服……」
魔法が使えないとしたらこの服は一体どうやって私に着せたの? 制服は? 暖炉には下着まで干してあった。
私は、泉に落ちた時よりもよほどパニックになっていた。単語すらまともに言えていないのに、クレフは私の言わんとするところを理解したのか、あきれたようにため息をついた。
「まったく、溺れたばかりだというのに心配するのはそんなことか」
「そ、そんなことって!」
「お前の着替えは精獣たちに任せた。その間私は席を外していたし、お前が心配するようなことは何も起きていない」
クレフの言葉に、私はすとんと座り込んだ。
「あの…ありがと……」
消え入る声でお礼を言うと、クレフは不機嫌そうに「いいから飲め」と言った。
おなかがぽかぽかと温かい。顔がずっと熱いのもきっとこのお茶のせいだ。
お茶を飲み終えるといよいよ手持無沙汰になり、私は部屋中に置かれている品々をあれは何これは何? と聞いて回った。それで壁に立てかけられている、布でぐるぐる巻きにされた物体がクレフの杖だということを知った。
「魔法が使えなくて不便じゃないの?」
「いや全く」
クレフは首をそっと振った。
「果実を取り、魚を釣り、時々調合した薬膳を売りに出て、必要なものは街で買い揃える。最初こそ少し苦労はしたが慣れればなんということはない」
「すごい……ほんとにご隠居生活なのね」
私が感心していると、クレフは「不便と言えば」と言って苦笑いを浮かべた。
「この髪くらいか」
「髪?」
「ああ、魔法を封じてからは見ての通りこの様だ。街へ行くたびに切ろうとは思うのだが、どうも気が向かなくてな」
言いながら、クレフは自分の髪を戯れにクルクルともてあそんだ。この人が、こんな風に髪に触るなんて知らなかった。女の人かと見間違えたほどの長い髪。思わずぽうっと見とれてしまってから我に返る。
「ね、じゃあ私が切ってあげましょうか?」
「ん?」
「髪の毛、切ってあげるわよ」
「断る」
「大丈夫! これでもうまいのよ私。前髪はいつも自分で切ってるし」
「いや、結構だ。そんなに一直線にされては困る」
「一直線って……やあね、こんなふうには切らないわ。その髪じゃ邪魔でしょ? 助けてくれたお礼に切らせて? ね?」
何をここまで必死に食らいついているのか自分でもわからなかった。
髪に触れたいとか、一緒にいる時間を作りたいとか、そんな感情とはまた別の。ひんやりとしたほの暗い感情が湧いていることに、私は驚いた。
「ほんとにうまいから私。光の髪だって時々アレンジしてあげてるの。ねえいいでしょ?」
半ば強引にクレフを外に連れ出す。ハサミと椅子と、ケープがわりの布を持って。
クレフが貸してくれた木靴で芝生を踏みしめれば、足元でサクサクと面白い音が立った。すばらしい土地だということがわかる。この泉だって溺れさえしなければ素敵な泉だ。
泉のほとりに椅子を置くと、クレフは観念したように腰をかけた。このくらいの位置に顔があるほうが、見慣れているし、少し安心する。
ケープ代わりの白い布にくるまれたクレフは子供みたいで、けれど大人の人だった。服装が、見知ったあの服に近づいたことで、変わってしまったんだなあということが、よりいっそうはっきりと感じられた。
『ひんやり』の正体を見つけそうで、私は慌てて手を動かした。
まずは前髪を何段かにわけて留める。
クレフの小屋にはヘアクリップなんてなかったので、薬膳の袋を止めるための金具を借りた。
くすぐったいのか、綺麗なおでこの真ん中で眉間が何度か震えた。
「目をつぶっていてね」
ハサミを入れてしばらくして、クレフが尋ねた。
「なぜここへ来た」
「なぜって。さっき言ったとおりよ。モコナの乗り物に振り落とされて」
「違う」
「違うって、何がよ」
「なぜ、セフィーロへ来た」
「そんなの……みんなに会いたかったからよ。どうしてそんなこと聞くの?」
私は自分の気持ちがこれ以上ざわつくのが怖かった。
「髪が口に入るわ。ちょっと喋らないでいて」
前髪をあらかた切り終え、クレフの後ろ側に回る。後ろ髪を細く束ねていた皮紐を見て、私は尋ねた。
「ねえ、これどうやって取るの?」
少し引っ張ってみたけれど、ゴムのように伸びるわけでもない。強引に取っていいものなのかわからなかった。「切っていい」とクレフが言った。
「しばらく必要なくなるだろうから」と。
心の『ひんやり』が少し溶けたのと同時に、私はいよいよ自分の浅はかさを自覚してしまった。
変わってしまったクレフが寂しい。
そんな利己的でひとりよがりな思いが自分の中にほの暗くうずまいていたのだと思うと、今すぐ泉に飛び込んで禊でもしたい気分だった。
ふる、と首を横に振って雑念をはらう。
気合を入れてハサミを入れると、皮紐がパチンと弾けて、淡い色の髪が白地の布の上にパサリと広がった。
「綺麗」
思わず口にした言葉を、私はあまり恥ずかしく思わなかった。
泉が綺麗、空が綺麗。
それと同じ次元で、クレフの髪は綺麗だった。
なんの抵抗もなくブラシが通っていく。
お風呂上りに長い長い時間をかけてケアをしている私の髪よりもよほど、クレフの髪は艶々としていた。
後ろ髪にハサミを入れる。
淡い紫が空気に溶けていく。
なんだか少しもったいないな。
そんなことを考える。
恐る恐る手鏡を除いたクレフが、目を瞬かせた。
「うまいものだな」と彼は言った。
「サークレットがないからイメージがちょっとむずかしかったけど」
「いや、大した腕だ。驚いた」
「アシンメトリーもちゃんと再現してみました」
おどけて言ってみせると、クレフが不思議そうな顔で首を傾げた。
「お似合いです、ってこと」
わかっているのかいないのか、クレフは鏡の前で前髪をつまみながら「ありがとう」と曖昧に言った。
小屋へ戻り、片付けを終えるとクレフは暖炉の前へ向かった。そして私の制服に手を伸ばし、触れる寸前で手を引っ込めた。
「触れてはまずかったか」とクレフが小さな声で呟いたのが聞こえた。
初めて会ったあの日、クレフが光の制服を突然つかんだので私が怒鳴ったことを思い出したのかもしれない。
クレフは顎に手を当て、何か考えこんでいる様子だった。
そして「少し見て回るか?」と唐突に言った。
私は首を傾げる。
結局、クレフは制服には触れなかった。