💎💎💎初恋(完結)
2.泉
フューラも、アスコットの魔物 も、フェリオの鳥も助けてはくれない。
一日に二回も空から落っこちるなんてどうかしてるわ。
頭からまっすぐ泉に落ち、数秒のパニックのあと、私はすぐに体の力を抜いた。
幸い泉は凪いでいて、不思議と心が落ち着いた。少なくとも、エテルナの泉に落ちた時のようにもがき苦しむことはなかった。
むやみに動いてはいけない。
大丈夫、水面は見えている。
体内に残った空気が、きっとあの上へ私を連れて行ってくれるはずだ。
あと少し。
薄手の夏服がとても重く感じる。靴は、だめだ。脱げない。
手足がしびれて、視界が黒く欠けて狭くなってくる。
水面には明るい光が揺らめいている。
もうすぐなのに。
(嘘……ちょっと…間に合わないかも……)
視界が、ぜんぶ、くろになった。
子供の頃、夏休みには決まって家族で金沢へ遊びに出かけた。自然豊かなコテージエリアに立ち並んだログハウスのうちの一つが龍咲家の別荘だった。
ログハウスのテラスでバーベキューを終えた後は、パパがデザートにマシュマロを焼いてくれた。虫が出ることだけが難点の露天風呂にママと入って、夜には二階のダブルベッドに三人で詰めて、天窓から夏の星座を眺めた。
サンルーフを開けっ放しにしているから雨が入る。
顔が濡れて冷たい。
パパ、窓を閉めてよ。雨が入ってくるじゃない。
パパは何も言わない。
閉めてってば。
ママも何も言わない。
いいわよ! 私が閉めに行くから!
目を開くと、私がいたのは金沢の別荘でもダブルベッドでもなかった。最初に視界に入ったのは素朴な木の壁だった。寝返りを打てば同じく、木の天井。
「小屋?」
そこは、まごうことなき小屋だった。ある意味ログハウスとも言えるかもしれない。
部屋には爽やかな木の香りと、お砂糖のような甘い匂いがまじりあっている。木の香りはともかくとして、甘い香りはなぜだか自分の口の中からした。この味を私は知っていた。なつかしい甘さに、どこかほっとする。二つの香りの中で寝ていたのだから、道理であんな夢を見るわけだ。
雨が降っているのに星が見えている時点でどこか変だった。
私は一人用のこじんまりとしたベッドに横になっていた。濡れた髪の毛をタオルがつつみ、タオルを通り越して、枕までもが濡れていた。
ベッドを抜け、床に足を下ろす。裸足の爪先に木の床が触れてきしと鳴った。見れば、私の体は見たことのない服に包まれていた。いや、見たことはある。たしかセフィーロの村人たち―たとえばミラの家族とか―が、これに近い服を着ていた気がする。
セフィーロ城で用意されていた上質な服とは違う、麻のような素材だった。けれど簡素な見た目に反して着心地は悪くない。少し落ち着かないのは下着を身に着けていないからだった。
寝室と思しきこの部屋は、圧倒的にものが少なく、壁際に小さなチェストが一つ置かれているくらいのものだった。ベッドサイドにはニ、三冊の本と溶けかけの蝋燭、それから小さな火打石のようなものが置かれていた。
寝室の扉をそっと開けるとそこはダイニングだった。
「すみません」
声をかけても何の反応もない。ダイニングは寝室より少しは賑やかで、木製のダイニングテーブルにイス、棚などの家具類もいくつか有った。
天井付近を渡る麻紐には、野草や干し肉のようなものが吊るされている。壁には生成り色の布でぐるぐる巻きにされた何か棒のようなものが立て掛けられていた。
カウンターキッチンには小さなすり鉢の中が置かれていた。気になって中身を覗いてみる。すりつぶされた香草は私の口の中と同じ甘い香りがした。
ダイニングテーブルの近くでは暖炉の火がパチパチと音を立てている。その近くで私の夏服が物干し台に綺麗に干してあった。触れてみると、まだ着られるほど乾いていないようだった。物干し台を見て、思わずぎょっとする。
制服の隣に私の下着が干してあったからだ。
幸いこちらは乾いていたので、一度寝室へ戻りこそこそと下着を身に着けた。
ダイニングの窓からは、さっき私が落ちたと思われる泉が遠目に見えた。水面がきらきらと白色に輝いている。湖にも近い大きな泉は、向こう岸がかすんで見えるくらいだった。
すると、泉のほとりに一人の女性が見えた。どうやら手桶に水を汲んでいるようだ。私と同じような村人の服装を着ていて、淡い色の綺麗な髪を背中の中ほどあたりで細く結っていた。
桶を持ち、その人がこちらに向かって歩いてくるので、私は裸足のまま外に飛び出した。こんな時なのに足の裏に触れる芝生が心地良いと感じた。
「あの!」
口の周りに手のひらで覆いを作り、大声で叫んだ。
彼女は私に気づき、一瞬足を止めた。
「あなたが助けてくれたんですか!?」
女性は再びこちらに向かって歩き出した。
「あ、…あの……私ウミ、龍咲海! 怪しい者じゃないんです! 信じてもらえないかもしれないけど、人を探していて飛んでいたらこの泉に落ちちゃって―」
駆け寄りながら、支離滅裂なことを早口に言った。
走りながら話すのですっかり息が切れて、私は両膝に手をついてかがみこんだ。はあはあと息を整えていると、芝生の上の木靴が何歩か私に近寄った。
「助けてくれてありがとう」
言いながら、私は顔を上げた。
淡い色の前髪が長く伸びて顔がよく見えない。
「え?」
泉のほうから強く風が吹いた。
前髪の隙間から青い瞳が覗いて、私の体は完全に固まった。
背丈も髪も服も、全然違う。
違うのに―
「誰?」
『そう』だとしても、『そう』でないとしても、ずいぶん無礼な言葉だ。けれど、そう言わずにはいられないほど私は混乱していた。
呆ける私を見て、その人はふふと吹き出した。
「随分薄情ではないか、私のことを忘れてしまうとは」
心臓がドクンと大きく脈打って、死にそうになる。
女性などではない。深く低い声に、体中の血液が一滴残らず熱くなった。
「久しぶりだな、ウミ」
彼が、クレフが、私の名前を呼んだ。
「な、な、な、なんで!?」
「なぜはこちらの台詞だ、一体どうしてこんな所へ―」
「だって、その体……! 髪……! 服……!」
クレフの言葉をさえぎって私は叫んだ。
クレフはうっとおしそうに前髪をかきあげながら言った。
「時が経てば、髪くらい伸びるだろう」
「か、髪はそうかもしれないけど! 身長はそんなに伸びないわよ!! なんなの! セフィーロの人たちは、どうしてそう筍みたいにスクスク育っちゃうわけ!? 服だって! 村人Aかと思っちゃったもの! そんなの、気づけるわけないわよ!」
薄紫の淡い柔らかさ。
心に響く深い声。
最後は結局、言えなかった言葉。
忘れるわけ、ないじゃない。
息を切らしながら言うと、クレフは「変わっていないな」と言って苦笑いをした。
近くで見れば、違和感だらけだった。
服装は完全に村人だ。けれど、髪や肌の艶は高貴そのもので、まるで貴族が面白半分にお忍びで村人のコスプレでもしているようなちぐはぐさがあった。
遠目にみれば女性かと見間違えるほどの繊細さは健在。
けれど、手が、違った。
私の知っている彼の手はもっと小さかった。すべすべで細くてふっくらとした、子供のような手だった。
今、目の前にいるこの人の手は、インクや薬草で少し汚れていて、皮膚を押し上げる骨と血管によって、少し筋張って見える。
男の人の手だ、と思った。
風に前髪がそよぐ。青い瞳には映った私の顔は真っ赤で、とんでもなく間抜けな顔をしていた。
「まあ」
クレフが肩をすくめ、親指で小屋のほうを指さした。
「立ち話もなんだから」
そんな所帯じみた言葉を、この人が言うなんて思ってもいなかった。
フューラも、アスコットの
一日に二回も空から落っこちるなんてどうかしてるわ。
頭からまっすぐ泉に落ち、数秒のパニックのあと、私はすぐに体の力を抜いた。
幸い泉は凪いでいて、不思議と心が落ち着いた。少なくとも、エテルナの泉に落ちた時のようにもがき苦しむことはなかった。
むやみに動いてはいけない。
大丈夫、水面は見えている。
体内に残った空気が、きっとあの上へ私を連れて行ってくれるはずだ。
あと少し。
薄手の夏服がとても重く感じる。靴は、だめだ。脱げない。
手足がしびれて、視界が黒く欠けて狭くなってくる。
水面には明るい光が揺らめいている。
もうすぐなのに。
(嘘……ちょっと…間に合わないかも……)
視界が、ぜんぶ、くろになった。
子供の頃、夏休みには決まって家族で金沢へ遊びに出かけた。自然豊かなコテージエリアに立ち並んだログハウスのうちの一つが龍咲家の別荘だった。
ログハウスのテラスでバーベキューを終えた後は、パパがデザートにマシュマロを焼いてくれた。虫が出ることだけが難点の露天風呂にママと入って、夜には二階のダブルベッドに三人で詰めて、天窓から夏の星座を眺めた。
サンルーフを開けっ放しにしているから雨が入る。
顔が濡れて冷たい。
パパ、窓を閉めてよ。雨が入ってくるじゃない。
パパは何も言わない。
閉めてってば。
ママも何も言わない。
いいわよ! 私が閉めに行くから!
目を開くと、私がいたのは金沢の別荘でもダブルベッドでもなかった。最初に視界に入ったのは素朴な木の壁だった。寝返りを打てば同じく、木の天井。
「小屋?」
そこは、まごうことなき小屋だった。ある意味ログハウスとも言えるかもしれない。
部屋には爽やかな木の香りと、お砂糖のような甘い匂いがまじりあっている。木の香りはともかくとして、甘い香りはなぜだか自分の口の中からした。この味を私は知っていた。なつかしい甘さに、どこかほっとする。二つの香りの中で寝ていたのだから、道理であんな夢を見るわけだ。
雨が降っているのに星が見えている時点でどこか変だった。
私は一人用のこじんまりとしたベッドに横になっていた。濡れた髪の毛をタオルがつつみ、タオルを通り越して、枕までもが濡れていた。
ベッドを抜け、床に足を下ろす。裸足の爪先に木の床が触れてきしと鳴った。見れば、私の体は見たことのない服に包まれていた。いや、見たことはある。たしかセフィーロの村人たち―たとえばミラの家族とか―が、これに近い服を着ていた気がする。
セフィーロ城で用意されていた上質な服とは違う、麻のような素材だった。けれど簡素な見た目に反して着心地は悪くない。少し落ち着かないのは下着を身に着けていないからだった。
寝室と思しきこの部屋は、圧倒的にものが少なく、壁際に小さなチェストが一つ置かれているくらいのものだった。ベッドサイドにはニ、三冊の本と溶けかけの蝋燭、それから小さな火打石のようなものが置かれていた。
寝室の扉をそっと開けるとそこはダイニングだった。
「すみません」
声をかけても何の反応もない。ダイニングは寝室より少しは賑やかで、木製のダイニングテーブルにイス、棚などの家具類もいくつか有った。
天井付近を渡る麻紐には、野草や干し肉のようなものが吊るされている。壁には生成り色の布でぐるぐる巻きにされた何か棒のようなものが立て掛けられていた。
カウンターキッチンには小さなすり鉢の中が置かれていた。気になって中身を覗いてみる。すりつぶされた香草は私の口の中と同じ甘い香りがした。
ダイニングテーブルの近くでは暖炉の火がパチパチと音を立てている。その近くで私の夏服が物干し台に綺麗に干してあった。触れてみると、まだ着られるほど乾いていないようだった。物干し台を見て、思わずぎょっとする。
制服の隣に私の下着が干してあったからだ。
幸いこちらは乾いていたので、一度寝室へ戻りこそこそと下着を身に着けた。
ダイニングの窓からは、さっき私が落ちたと思われる泉が遠目に見えた。水面がきらきらと白色に輝いている。湖にも近い大きな泉は、向こう岸がかすんで見えるくらいだった。
すると、泉のほとりに一人の女性が見えた。どうやら手桶に水を汲んでいるようだ。私と同じような村人の服装を着ていて、淡い色の綺麗な髪を背中の中ほどあたりで細く結っていた。
桶を持ち、その人がこちらに向かって歩いてくるので、私は裸足のまま外に飛び出した。こんな時なのに足の裏に触れる芝生が心地良いと感じた。
「あの!」
口の周りに手のひらで覆いを作り、大声で叫んだ。
彼女は私に気づき、一瞬足を止めた。
「あなたが助けてくれたんですか!?」
女性は再びこちらに向かって歩き出した。
「あ、…あの……私ウミ、龍咲海! 怪しい者じゃないんです! 信じてもらえないかもしれないけど、人を探していて飛んでいたらこの泉に落ちちゃって―」
駆け寄りながら、支離滅裂なことを早口に言った。
走りながら話すのですっかり息が切れて、私は両膝に手をついてかがみこんだ。はあはあと息を整えていると、芝生の上の木靴が何歩か私に近寄った。
「助けてくれてありがとう」
言いながら、私は顔を上げた。
淡い色の前髪が長く伸びて顔がよく見えない。
「え?」
泉のほうから強く風が吹いた。
前髪の隙間から青い瞳が覗いて、私の体は完全に固まった。
背丈も髪も服も、全然違う。
違うのに―
「誰?」
『そう』だとしても、『そう』でないとしても、ずいぶん無礼な言葉だ。けれど、そう言わずにはいられないほど私は混乱していた。
呆ける私を見て、その人はふふと吹き出した。
「随分薄情ではないか、私のことを忘れてしまうとは」
心臓がドクンと大きく脈打って、死にそうになる。
女性などではない。深く低い声に、体中の血液が一滴残らず熱くなった。
「久しぶりだな、ウミ」
彼が、クレフが、私の名前を呼んだ。
「な、な、な、なんで!?」
「なぜはこちらの台詞だ、一体どうしてこんな所へ―」
「だって、その体……! 髪……! 服……!」
クレフの言葉をさえぎって私は叫んだ。
クレフはうっとおしそうに前髪をかきあげながら言った。
「時が経てば、髪くらい伸びるだろう」
「か、髪はそうかもしれないけど! 身長はそんなに伸びないわよ!! なんなの! セフィーロの人たちは、どうしてそう筍みたいにスクスク育っちゃうわけ!? 服だって! 村人Aかと思っちゃったもの! そんなの、気づけるわけないわよ!」
薄紫の淡い柔らかさ。
心に響く深い声。
最後は結局、言えなかった言葉。
忘れるわけ、ないじゃない。
息を切らしながら言うと、クレフは「変わっていないな」と言って苦笑いをした。
近くで見れば、違和感だらけだった。
服装は完全に村人だ。けれど、髪や肌の艶は高貴そのもので、まるで貴族が面白半分にお忍びで村人のコスプレでもしているようなちぐはぐさがあった。
遠目にみれば女性かと見間違えるほどの繊細さは健在。
けれど、手が、違った。
私の知っている彼の手はもっと小さかった。すべすべで細くてふっくらとした、子供のような手だった。
今、目の前にいるこの人の手は、インクや薬草で少し汚れていて、皮膚を押し上げる骨と血管によって、少し筋張って見える。
男の人の手だ、と思った。
風に前髪がそよぐ。青い瞳には映った私の顔は真っ赤で、とんでもなく間抜けな顔をしていた。
「まあ」
クレフが肩をすくめ、親指で小屋のほうを指さした。
「立ち話もなんだから」
そんな所帯じみた言葉を、この人が言うなんて思ってもいなかった。