💎💎💎初恋(完結)
切ったばかりの毛先が気になるのか、彼は額の上でくすぐったそうに髪をはらった。前髪の隙間から青い瞳が覗いて、時々目が合う。そのたびに私が慌てて視線を外すので、クレフは不思議そうに眉根を寄せた。
木の実を絞った赤いジュースはすっかり飲み干して、二つの木製マグは空になっている。
言わなければいけない。
好きです、と。
なのに私はあと一ミリの勇気を出すことが出来ずにいた。
「初恋」
1.幻
見えたという事実にきっと意味がある―
神様がそんなことを言ったかどうかは知らない。
けれど、彼女たちはそうした。
三人で手をつなぎ輪になる。お遊戯のようなこの行為も、ここではさほど目立つことはない。観光客は窓の外の景色に夢中だし、思い思いのポーズで撮影を楽しんでいる人たちも多い。
彼女たちは「見るために」目を閉じた。
窓の外に浮かんだ美しい景色。
あの国の、新しい物語を。
たとえそれが幻でも。
「やるだけやってみようよ」
光の言葉に、二人も続いた。
そして、三度目の召喚は成された。
ひるがえる夏服のスカートを誰が見るでもなしに手でおさえ、もう片方の手を顔にやり風圧に耐える。
再びこの地を訪れることのできた喜びもそこそこに、海達は一つの戸惑いを覚えはじめていた。
「ねえ……これってまずいんじゃないの?」
「たしかに、そろそろお迎えがあってもいいころなのですが」
「このままだと――」
戸惑いは焦りへ。
焦りは恐怖へ。
波立つ海が、みるみる近づいて来る。遠目に見れば青くきらめいていたはずの海は、近づけば波を巻いて底黒く見えた。
落ちればきっとただではすまない。
恐怖は、諦めと覚悟へ。
三人はぎゅうと目をつぶり、各々の体勢で着水に備えた。
その瞬間、全身の血が浮き上がる感覚に心臓がそわりと縮む。強制的に作られた無重力の浮遊感に、喉の奥で「ひ」と悲鳴が鳴った。
「ギリギリセーフだったな」
緑の髪をたなびかせ、いつのまに覚えたのか異国の言葉でフェリオが言った。三人をさらったのは四枚羽を持つ白色の巨大な鳥、それから半鳥人型の魔物だった。
巨大鳥と魔物が海上をすべるように駆けると、海面から舞い上がった水しぶきが顔に跳ねた。
「もう少しでウミが海に落ちちゃうところだった」
アスコットが魔物の背を撫でバランスを取り持ちながら言った。
「じょ……冗談言ってる場合じゃないわよ!」
海が顔を青くして叫ぶ。
魔物が揺れて姿勢がくずれ、海は反射的にアスコットの服をつかんだ。落下するかもしれなかった海面を見ながら、海は顔をこわばらせている。なので、アスコットが顔をにわかに赤くしたことには気が付かなかった。
「久しぶりだな、お前たち」
「助かったよ! ありがとう二人とも!」
光が、弾けるような笑顔で言った。そして膝元の白い羽毛を撫で「ありがとう」と、もう一度言った。
飛空が安定し、海が服から手を離すとアスコットは少し残念そうな顔をしたが、そんな彼の様子もつゆ知らず、海は心配そうにあたりを見回した。
「ウミ、どうしたの?」
アスコットが尋ねる。
「ねえ、フューラは? どうしていないの?」
海が問うとアスコットとフェリオは目を見合わせ、それから気まずそうに顔を伏せた。
「元気……なはずだよ」
「はず?」
「とにかくお城へ行こう。みんな待ってる」
見れば、アスコットもフェリオも以前よりも少し清閑な顔立ちになっているように思えた。けれどそんな変化も、海の不安をほんの少しだけまぎらわせるに過ぎなかった。
城の大広間では見慣れた面々が海たちを出迎えた。手を取り合い、抱擁をかわし、互いの無事と再会を喜び合う。
歓喜の渦の中、海は早々に気づいた。
広間に入って一番先に探した人物。
クレフがいない。
賑わいから抜け出し、きょろきょろとあたりを見回していると、プレセアが歩み寄って来て言った。
「導師は、城を出て行かれたの」
「え?」
「あの時、あなたたちがデボネアとの戦いに赴いてくれた時、導師も
プレセアが尋ね、海は神妙に頷いた。
「あの時、導師は魔力を使いすぎてしまったの。魔導を使えない自分が城にいても何も役には立てないからと。これも良い機会だとおっしゃっていたわ」
言いながら、プレセアは笑顔を見せたが表情からは寂寥が隠しきれていなかった。
すると光と風が駆け寄って来て、プレセアは二人にももう同じ説明をした。
「では、クレフさんは今どこに?」
風が尋ねる。
プレセアがそっと首を横に振った。彼女は、もはや笑顔を作ることもしなかった。
クレフが城を去ったことは、プレセアや城の者たちにとって小さくはない出来事のはずだった。けれど、彼を不在としても尚この城は健在だ。フェリオたちが少し清閑な顔立ちになっていたのは、クレフの隠居ときっと無関係ではないのだろう。
もしかしたら、今は彼の不在に少しずつ慣れ、ようやく落ち着いてきた頃だったのかもしれない。そこへ自分たちの召喚によって再び波紋を投じた気がして、海たちは申し訳なさそうにうつむいた。
魔導を持たないクレフが、今どこで何をしているのか。
疑問や戸惑いがわきあがる。もちろん寂しさも。
広間がしばしの沈黙に包まれる。光の腕の中でじゃれていたモコナですら、寂し気に「ぷぷ」と小さな声を漏らした。
「まったく! しょうがないわね!」
ふさいだ顔を一番先に上げたのは海だった。
「ご隠居生活だなんてクレフってば本格的におじいちゃんって感じね!」
誰が聞いても無理をしているとわかる、そんな上辺の明るさを乗せた声で海は続けた。
「もしかしたら、今ごろ外でお嫁さんでも作って案外楽しくやってるかもしれないわよ?」
海は指を立ててアハハと笑った。乾いた笑いが痛々しく響く。沈黙よりもよほど寒々しい空気が広間を満たした。
その時、「海さん」と風が呼んだ。
「なによ」と海が返すと、風は穏やかに言った。
「私が東京タワーで何を願ったか、聞いてくださいませんか?」
「え? 何って、セフィーロに来て……フェリオに会いたい、じゃないの?」
海がとびきり小さな囁き声で尋ねる。風は小さく首を横に振った。
「それもまったく願わなかったと言えば嘘になります。でもね、海さん」
突然、風は背伸びをして海の背に両腕を回した。強がりな友人はきっとその顔を見られることを恥ずかしがるだろうから。
「私、海さんが心を曇らせる原因がここにあるのなら、それを解決したいと、そう願いました」
友人の急な抱擁と思わぬ言葉に海がたじろぐ。
背伸びをしたつま先がぐらつき、よろける風の体を海はとっさに支えた。すると今度は背中のほうからもう一人が抱きついてきた。身長が少々足りないので「抱きつく」というよりも「しがみつく」に近い。とにかく、光は海にしがみついたまま、言った。
「私もだよ、海ちゃん」
前方には風、後方には光。彼女たちの温かい抱擁と言葉に、鼻の奥からツンと涙の予感がこみ上げる。
海が人知れず涙をぬぐった後、ふわりと三人の抱擁はとけた。海と目を合わせた風が、いたずらっぽく笑顔を見せ言った。
「ですから、海さんがそんなふうにもやもやなさったままですと、私たち東京に帰れないかもしれません」
「風……」
「行こうよ! 海ちゃん!」
「え? 行くって、どこに?」
「もちろん。クレフさんを探しに、ですわ」
「でも場所がわからないんじゃ……それに、会ったところで私―」
その時、モコナが短い手で自分の胸元をドンと叩いた。(実際には素材の吸音性ゆえ、何の音も鳴りはしなかったが)
三日月のように細い目を閉じ、したり顔で「ぷう!」と一鳴き。この仕草には既視感がある。モコナは「任せろ」と言わんばかりに、今度は低い声でぷうぷうと鳴いた。
「ちょっと待って……まさかとは思うけど」
海は怪訝な顔でモコナを指さし、光の表情をうかがう。
「ついて来いって言ってるみたい」
光が言うと、モコナは無い首を何度もおおきく縦に振った。
「さすが信頼と実績のモコナさんですわ」
風が手を合わせる。モコナの自信たっぷりの鳴き声が広間に響いた。
「知っているならどうして教えなかったのよ!」そんな怒りの言葉が聞こえてきそうなものだが、それはない。いつの間にか退室していたのかプレセアが広間の扉を背中で押しながら入室して来た。顔が隠れそうな高さまで両手いっぱいに紙の束を抱えている。
一歩二歩進むたびにその束がくずれそうになるので三人は慌てて駆け寄った。
四人がかりで分けて持っても尚どっさりと重量のある紙の束を前に、プレセアが言った。
「これはね、全部導師宛てのお手紙なの」
「これ、全部か?」
「そう。私たちでも対応できるものはしているのだけれど、親展や私的なものは開けられなくて困っていたのよ」
プレセアが、にこと微笑んだ。
「伝えてきてほしいの。この手紙のことを。少々滞っています、と」
言い含めたような言葉だった。
「ただ城へ戻って来てほしい」と言うよりも、こんな言い回しのほうが効くだろう。それをわかっているからこその言葉選びな気がした。
プレセアは、クレフのことを理解している。
海は複雑な想いで彼女の目を見た。
金色の美しい瞳の強さは、迷う自分とは対照的だった。
黙ってただ頷くことだけが、この時海にできるたった一つのことだった。
「久しぶりですわねえ、この乗り物も」
晴れ渡る空と澄み切った空気は、城で感じた
するとモコナが、浮遊船の縁に飛び乗り、下を見ろと鳴いた。三人は、縁に手をかけ言われた通り眼下を覗く。
しばらく続いていた
「見て! 泉だよ!」
草原の一角を指さし、光が声を上げた。
指さす先には、エテルナとは比較にならない、湖とも思えるほどの大きな泉が鏡のようにきらめいていた。
「まさかあの泉も横から見たら線になってたりして」
「まあ! 伝説の泉がそう何個もあるものでしょうか?」
そんな冗談を言い合っていると、突然、浮遊船が大きく傾いた。
あやうく船の外へ放り出される寸前で、見えない壁が光と風を支えた。透明の壁にポンと弾かれ二人が船内へ放り返された瞬間。
海の体は、船の外にあった。
「海ちゃん!!!」
光が反射的に手を伸ばす。とても間に合わない。
船外に投げ出された海の体は、悲鳴と共にどんどん小さくなっていく。
すると浮遊船は、元来たほうへとゆったりと進み始めた。
「モコナ! だめだ! 降ろして!」
モコナはぷるぷると首を振った。慌てている様子はない。あげく、のんきに鼻歌まで歌いだしたモコナに風が尋ねた。
「モコナさん、海さんは大丈夫なんですの?」
信頼と実績のモコナさん。つい先ほどそう言ったのは自分だった。モコナの様子を見るに、それは間違いなさそうだった。
風と光の目には、泉の跳ねる大きなしぶきが映った。