The Name of Vampire

―洗いたてのシャツは、彼のひんやりとした匂いを思い出すことすら、許してはくれなかった





あの日より泣いた日はない。

クレフが、溶けるように腕の中から消えた後、東京は色と音を取り戻した。私は、タワーのふもとにしゃがみこみ、自分の腕を抱いて声も抑えずに泣いた。観光客や道行く人に、大丈夫ですか? と次々に声をかけられ、いよいよ騒ぎになりかけた頃、ようやく立ち上がりフラフラと歩いて帰った。すれ違う人達が、何ごとかと振り返ったけれど、構わず泣いた。

家に帰ってから、白い花 非常食を見て泣いて、いつの間にかカレンダーに小さく書き添えられていた「25」の文字を見て泣いて、白いシャツを抱いて泣いた。洗いたてのシャツは、彼のひんやりとした匂いを思い出すことすら、許してはくれなかった。

あれから、息を吸って吐いてどうにか生きた。

三月は、ほとんど無心で仕事をこなした。見かねた上司が四月からの転部を薦めてきた。事実上閑職への左遷だったけれど「少しゆっくりしろ」と言った上司の心配は心からのものであるように思えたので、ありがたく応じた。

それから、信じられないことに、しばらくミートソーススパゲティが食べられなかった時期があった。それは、五月連休に実家へ帰った際、母親が出してくれたスパゲティを前に大泣きしてしまった時からだ。大好物を前に号泣する娘に、さぞ困惑しただろうと思う。心配をかけたくなかったので、なにか理由を、と、思っていたらその言葉が口をついた。「失恋した」と言うとママはそっと私を抱きしめてくれた。

再びそれが食べられるようになったのは、久しぶりに親友二人が家に来てくれた時。病気でもなしに「お見舞い」と言って食材やらフルーツやらを買ってきてくれた。ゼリー飲料とブロック食のゴミの山と、やつれた私を見て二人は目を丸くし、「なにか食べないと」とキッチンで悪戦苦闘していた。
出されたミートソーススパゲティを前に、私は「みんなして、どうして人の大好物ばっかり」と泣きながら笑った。二人は顔を見合わせて、それから、私の背中を撫でてくれた。

それから少しずつ。息を吸って吐いて、食事をして、少し笑って、また泣いて、生きた。

そして、また三月三日になった。
部署を変わってからは、この時期で言えば夕暮れの時間には帰ってくることができている。気まぐれに、駅前の花屋で白いバラを一本買って帰った。

あれから、ベランダにはあまり出ないようにしていた。それが気に入って決めた物件だったのにもかかわらず、私はこの一年間、自宅から東京タワーをほとんど見ていなかった。
なんとなく取り替えられずにいる厚手のカーテンを開く。空を深い紫色に染めた夕闇が、夜へと逃げていくようだった。

外履きを履き、手すりにもたれる。買ってきたバラをつまんでくるくると回しながら、小さな声でバースデーソングを歌った。「dear UMI」と自分で歌うのが虚しくて、かえって笑えてきた。

あの時、クレフが去った時。泡になったとしても、連れて行ってもらえばよかった。今でも時々、そう思う。けれど今となってはどうしようもない。それに、私がそう言ったところで、彼はやはり連れて行ってはくれなかっただろう。

最初から最後まで勝手な人だった。意地悪で口が悪くて優しくて人の心配ばかりして。どうしようもなく好きになっていた。
血をあげるとは約束したけれど、心まで奪われるなんて聞いていない。

―出会わなければよかった

(あの言葉だけでも否定しておくんだったな)

突然、人差し指に鋭い痛みが走った。花屋さんがトゲを切りそびれたのか、指先から少し血が出ている。人差し指をくわえると、わずかに鉄の味がした。

「味が悪い」

彼の口真似をすると、虚しくて笑えて、涙が花びらに落ちた。
「こんなもの、おいしいのかしら」
口を開いて花びらをかじろうとした時だった。

「やめておけ」
口真似はしていない。

思わず、上を見る。「それ」は人間ばなれした動きで、私の目の前に降ってきた。
『降ってきた人』は私の手元からバラを取りあげ、「観賞用を食べる奴があるか」と言った。そして取り上げたバラのかわりに、一抱えの白い花を差し出してきた。セフィーロの花だ。数えなくてもわかる。二十六本あるはずだ。
「誕生日おめでとう」

花を抱えて夕闇のベランダに降り立つ、こんな真似が出来る人は、他にない。
唇が震え、時間差で、涙がボロボロと溢れた。
「もっと早くに約束を果たしに来るつもりが、遅くなってしまった」
「や…く、そく?」
こみ上げてくる涙と嗚咽が邪魔で、うまく話せない。クレフは悪戯っぽく笑い、そして、少し緑がかった薄茶色のガラスボトルを小さく揺らした。

痺れた脳は、壊れたように涙を排出する指示を出し続けている。このままだと、あの日、人生で一番泣いた日を更新するかもしれない。

「それから」と言ってクレフは、カッターシャツの胸ポケットを探った。
「イーグルから預かっている」
差し出されたものを見て私の涙は引っ込んだ。手のひらの上のワイヤレスイヤホンを見て、私も笑った。

―――

ソファの前のローテーブルには、クレフが持ってきたお酒、二人分のワイングラスとチェイサー。それに、お迎え代理の吸血種さんがついさっき配達してくれたセフィーロのおかしやおつまみが少しずつ並べられている。我が家のリビングには、『再会と誕生日を祝う会』が出来上がっていた。ここに置いては危ないと言って、二十六本のバラはクレフがキッチン前のダイニングテーブルに移した。

「それにしたって…!」
セフィーロ産のお酒は、なぜか地球のワインとほとんど同じ味がした。セフィーロにもぶどうがあるのか、そういえばなぜあのときクレフがミートソーススパゲティを作れたのか。酩酊しかけている私は同じ質問を繰り返していた。

クレフが呆れたような顔で笑っている。「飲みすぎだ」と言って水の入ったグラスを差し出してきた。私は構わずワインボトルを手酌で傾ける。そして、今日最初から言いたいと思っていた文句にも似た訴えをぶつけた。

「それにしたって、また会えるんなら先に言っておいてよね! あんな、今生の別れみたいなこと言って、勝手に消えちゃって…」
私がこの一年どれだけ寂しい思いをしていたか。
言葉にすると、改めて涙がにじんでくる。半分やけになってワインボトルに手を伸ばせば、ボトルはテーブルの上をスーと逃げて行く。魔法はずるいと思う。けれどよく見れば、クレフが自分の手を使って私からボトルから遠ざけただけだった。

「すまない。正直あの時は消耗しきって朦朧としていたし、それに……色々あってな」
「色々ってなによ」とむくれる私に、クレフは「聞きたければ飲め」と言って、水の入ったグラスを渡してきた。渡されたグラスを半分ほど空け、テーブルにトンと置いた。

イーグルは約束を果たしてくれているらしく、雑食の活動は沈静化しているとのことだった。今はセフィーロ総出で、雑食が人間の血をでたらめに吸わずに済むようなプログラムを施策しているらしい。

そして、クレフがセフィーロにおいてやんごとない立場であることを、この時初めて知った。様付けで呼ばれていたのは冗談ではなかったらしい。直接的には言わなかったけれど『魔力と権威が比例する』セフィーロはそういう国だと、彼の話しぶりから読み取れた。
「あなた偉い人だったのね」と言うと、クレフは「いや」と言って困ったように笑った。

「セフィーロの統制も後継に任せてきた。いつまでも私がのさぼるわけにもいかないし、彼らのためにもならない。その準備に時間がかかってな。さっき言った『色々』というのはそういうことだ。案の定、こんなに遅くなってしまった」
「どういうこと?」
クレフが残り半分の水を飲むように促してきた。私がグラスを全て空けると、クレフは口を重くして言った。
「……最初の夜、我々の弱点の話をしたな」
『弱点』という単語を聞き、私の頭には『日光、笑えない吸血鬼ジョーク、クレフの動きを止めた銃』それらが昨日のことのように蘇った。けれど話が見えない。私が酔っているせいかとも思ったけれど、おそらく、違う。
「吸血種には、死にも勝る弱点がある」
「え?」
直感で、その話は聞きたくないと感じた。それを聞けば、また一緒にいられなくなってしまうような気がした。弱点なんて教えてくれなくていい。クレフが強くても弱くてもいい。ただそばにいてほしい。収まっていた涙が、またにじんできた。
すると、クレフの指がまぶたに触れ、私の涙をぬぐった。ひんやりとした指。けれどそれとは対照的な熱い眼差しに視線を絡み取られ、わずかにも目が離せなくなった。

「海」

クレフの唇が冷たいことは知っていた。あれだけ何度も首筋に触れられてきたのだから。けれど、唇でそれを受ければ、むしろ私のほうが溶かされそうだった。心の準備もなしにいきなり唇を奪われ、反射的に息を飲む。唇の隙間からひんやりとした舌が入りこんできた。「待って」と懇願する声すら飲み込まれる。後髪を細い指が絡める感触に、全身がぞくりと泡立った。

クレフの唇と舌がしばらく執拗に私の舌を追い求めるので、恐る恐る舌を伸ばしてみる。たしかこれで良いはずだ。クレフはわずかに息を飲み、私の舌をとらえた。彼の尖った犬歯に舌が触れると、去年までこの犬歯を当たり前のように受け入れていた首筋のあの感触を思い出し、甘く切ない熱が体を巡った。思わずクレフのシャツを指でつまむ。

すると、クレフは、私の舌の先端に軽く歯を立てた。なにごとかと思う間もなく、舌にビリとした痛みが走る。少し遅れて血の味が広がる。舌がジンと痺れ、噛まれたのだと、時間差で理解した。
文句を言いたくとも、頭を強く抑え込まれ、抵抗など無駄だと思い知らされる。出血した舌を思いきり吸われ、唇の端からくぐもった声が漏れた。クレフはこくりと喉を鳴らし、そしてようやく唇を解放した。

「なん…なの…?舌を、噛む……、なんて…」
乱れた呼吸の合間にどうにか訴える。クレフはうっとりとした瞳で自分の唇を舌で舐め取った。文句の言葉も飲み込まざるを得ない妖艶さだった。

「許せ。これで最後だから」
そう言ってクレフは笑った。頭を殴られたかのような衝撃のあと、脳から血がサーと引いていくような目眩を感じる。
「最後……?」
また会えるようになったのではないのか、そう勝手に思い込んでいた私の希望が、さっくりと断ち切られた思いだった。
「ああ」とクレフが言った。そして、私の頬にもう一度触れ、私を引き寄せた。お別れのキスだとでもいうのなら御免だ。余計につらくなるというのに、けれど力の抜けたこの体では、もう抗うことなどできなかった。

「お前の血の味も、これで本当に最後」
クレフの唇は、先程よりもずっと熱を持っていた。何度も何度も唇をはまれると、崩れ落ちそうなくらいに力が抜けていく。クレフの唇が、私の舌を軽くはみ、そして口内へと導いた。

情欲的とは違う、何か目的があるようなクレフの唇の動きに戸惑う。ほとんど脱力してくてんとなった体をクレフに預け、導かれるまま舌を彼の口内にさし入れた。
ふいに感じた違和感。クレフの目的の片鱗を見つけ、目を大きく見開く。薄紫色の長いまつげが眼前に揺れている。なんて美しいのだろう。けれど、今はそれどころではない。
体の火照りよりも強い探求心が働く。
今度は意図を持ってクレフの口内へ舌を滑らせた。こんなことは、他の男の人にはしたことがない。くぐもる吐息も、口の端から溢れ出る唾液にも構わず、探し物でもするかのように、彼の歯列を中央から順番に舌でなぞった。

そして、
目で見ずともわかった。
明らかに鋭さを失っている犬歯に。

それはもはや、人の―

再び目を見開くと、眼前にはニコと微笑むクレフの瞳があった。ゼロ距離のその笑顔に、体が飛び跳ねる。瞬発力でクレフの肩を押しのけた。
言葉を失う。

私が、異様な回数の瞬きを繰り返していると、
「なかなか大胆なことをする」とクレフが言った。
怒る余裕もない。

「クレフ……?歯、が…??」
クレフは私の口の端に親指を滑らせ唾液を拭い、そしてこう言った。

「吸血種は、人の舌から滴る血を吸うと人間に変化してしまう。寿命は縮み魔法を失い、当然セフィーロにも帰れない。だから我々は人間との口付けを何よりも恐れる。死にも勝る、これが最大の弱点だ」
そしてクレフは、あの時突き飛ばして悪かったな、と言った。

クレフは自分の舌で犬歯をチロリと触った後、手のひらを握っては広げを繰り返し、自分の体の変化を確かめているようだった。私と自分のうなじや額をそれぞれ触れたりしている。その手は、もうひんやりとはしていなかった。

「この体では、もうあのタワーには連れて行ってやれないな」
クレフは、眉尻を下げて笑った。
人間じみた、笑顔だった。ずるい。ずるすぎる。この人はいつだってそうだ。

「それでもこの街は良い街だ。お前がいる。終の棲家にするには悪くない」

本当に。なんて、勝手な人なのだろう。

どうしようもないくらいに涙が溢れる。しゃくりあげ震える体をクレフが抱きしめてくれた。
愛してる、というようなことを言ってくれたような気がするけれど、それよりもずっとずっと嬉しい言葉が私の耳元に降ってきたので、人生で一番泣いた日は今日、更新された。



「ただいま、海」






6/9ページ