The Name of Vampire

chapter 05. last resort
―私はこの人のことが嫌いだ。







浮遊するシャボン玉に乗ったのは人生で三度目だ。乗り心地もなにもないけれど、やはりどう考えたって怖い。扱う主が信頼できない男ならなおさらだ。

抵抗する術は、なかった。
恐怖のスカイドライブの末たどり着いたのは、つい先日来たばかりのタワーだった。
メインデッキの上、展望台フロアの天面を床にするように降ろされた。足をぶら下げずにべったりと座れる分、鉄骨よりもだいぶ安定する足場だった。

イーグルは、私を吸血することも拘束することもなく、ただ隣に立って、遠くを見ている。手にしている杖は、クレフの物とはだいぶ違う形状だった。装飾は天頂についた藤色の水晶それのみで、シンプルな銀色の棒と言ってしまえばそれまでだが、なにか洗練されたものを感じた。

「ねえ、私の血、吸わないの?」
もちろん吸って欲しいわけではない。けれど、何もされないのもかえって不気味で、そう聞いた。
イーグルはにこりと笑って言った。
「あなたここから逃げられます?」
吸おうと思えばいつでも吸える。そういうことだろう。余裕たっぷりの笑顔が癪に障る。
「飛び降りられると血がもったいないので大人しくしていてください。あの人が来るまでは、あなたの命は保証します」
たしかに、ここから飛び降りれば痛いと思う間もなく頭の上に天使の輪を乗せることとなるだろう。てい良く人質にとられてしまったわけだ。不思議なことに、イーグルは私が人質として成り立つと、私以上に確信しているようだった。
「あの人に教えてあげないと。純食では力に限りがあるってこと」
イーグルの、わずかに囁く声が風に乗って耳へ届いた。その口ぶりになにか違和感を感じた。彼は自分が雑食であることに自信を持っていそうだった。けれど、自分に自信があるように見えるかといえば、否だった。

私はこの人のことが嫌いだ。急にこんな所へ連れ去られ、怖いし怒っているし、もう一度言うと、嫌いだ。けれど「吸血種は純食であることに誇りを持つものなんじゃないの?」とか「どうして雑食なんて」とか、説教じみたことを言う気には、とてもなれなかった。
そして、この違和感だ。彼から漂う、何か独特の空気。説明はつかない。私だから、そう感じたのかもしれない。
「ね、もしかしてあなたクレフのこと、」

私の言葉がそれ以上続くのを拒否するかのように、イーグルが言った。
「ナイト様がお見えですよ」

流れ星のような速度で、それはたしかにこちらへ向かってきた。
「クレフ……!」
クレフはメインデッキの天面、つまり私たちのいる場所へ降り立つと、ちらと私のことを一瞥し、すぐにイーグルを見た。

「イーグル」
今までに聞いたことのない低い声だった。怒りというよりも、それは悲しみのようにも感じ取れた。

「だいぶ吸ったな」
「少しずつつまみ食い程度ですよ。数は、まあ覚えていないくらいですけど」
「悪いが説得で帰すつもりはない。今のお前に手加減をする余裕もない」
「僕は始めからそのつもりです」

イーグルの杖の先端に、バチバチと光の塊のようなものができている。球体のそれは、光と呼ぶにはあまりに禍々 まがまがしい。黒い雷のような塊だ。

クレフが、舌打ちと共に杖を掲げた瞬間、静寂がキンと耳に刺さった。反射的に両耳を手でふさぎ、きゅうと目をつぶる。ほどなく目を開くと、そこには信じがたい光景があった。
東京の街から色と音が消えている。氷漬けされたようなモノクロの東京の風景に、思わず悲鳴が漏れた。
自分の口から発せられたその声は、耳鳴りと静寂の中、実際の音量以上に響いた。

イーグルは「は」とつまらなそうに笑うと、黒い雷の球体を投げつけるかのように、乱暴にクレフのほうへ放った。
当てる気があるのかないのか、クレフがよけずとも球体は彼の横をかすめ、後方のビル群へと落ちて行った。ドウンという爆発音が響く。その音の大きさからは想像がつかないほど、ビル群は原型を保っている。クレフの頬には、小さな赤い線が静かに走った。

「街ごと守るとは。随分と余裕ですね」
イーグルは再び黒い雷を杖に宿らせている。穏やかではないイライラとしたその声が、整ったその顔から発せられているものだとは、にわかには思いがたかった。
「僕はあなたのそういうところが、」
先ほどの黒い球体が、イーグルの杖の周りに無数に集まっている。

「大嫌いなんですよ!」
イーグルが杖を振ると、今度は全弾がクレフへ向かっていった。残像を残すほどの速さの光を、クレフはなんなく杖で弾き、返す杖で何かを唱えると白い雨のような光がイーグルに降り注いだ。

雨の中から短い悲鳴が聞こえる。しかし、クレフもまた、まるで自分が痛みを受けているかのような表情を浮かべていた。

魔法を使った戦闘など見たことがない。人間の喧嘩ですら見たことがないのだ。けれど、なんとなく、わかった。クレフは躊躇いながら攻撃をくわえている。にもかかわらず、クレフのほうがイーグルを圧倒的に上回っていた。

(クレフってほんとに強かったんだ……)
目の前で繰り広げられている非現実的な光景は、そんな的外れなことを私に思わせた。

「さすがですね」
白い雨があがると、イーグルの顔と体には無数の出血があった。しかし、その笑みにはどこか余裕すら浮かんでいる。

「でもね」
クレフと私の目が見開かれたのはほぼ同時だった。
初めて彼と遭遇した時のように、イーグルは気配も音もなく、まるで瞬間移動のように私の目の前まで来ていた。

「やめろ! イーグル!」
クレフの声が耳に届いた時には、私の両の手首はイーグルによって掴まれていた。

「清いままでは、大切な人ひとり守れませんよ」
腕はぴくりとも動かない。女性に手荒な真似はしないのではなかったのか。彼はもう、別人のようだった。
イーグルの犬歯が覗く。
まぶたすら動かすことができず、〝諦める〟という選択肢がよぎったその時。
ビリとした振動が体を伝い、全身に寒気が走った。恐ろしいほどの突風に体をあおられ、今自分がいる場所の高度をふいに思い出す。体がぞわりと震え、私の手首をつかむ無粋な腕ですら頼りにしたくなるほどだった。

風の吹いた元を見、
鳥肌が立った。

シャボン玉は消失し、その体のみで浮遊している。
その姿は、私が以前に想像していた吸血鬼の姿そのものであって、私の知っているクレフの姿ではなかった。

闇夜の猫のように見開かれた瞳の色は、元の彼のそれではない。黒々とした瞳に、瞳孔は赤く光り血走っている。
黒色のマントは、彼の怒りに共鳴するかのようになびいていた。瞳がユラユラと揺れ、赤く光る軌道を描いている。
意思とは別に口の端が震え引きつった。
怖くて美しい。そんな感覚を覚えた。

「手を放せ。それは私の食事だ」

クレフの声が宙に響く。

「光栄ですね」
イーグルの視界に、もはや私は入っていない。私の腕を解放したイーグルは、クレフのほうを見、どこか嬉しそうに笑っていた。

そして、クレフの姿に呼応するかのように、イーグルもまた黒い装束へと姿を変えた。痛いくらいに、ビリビリとした空気の振動が肌に伝わってくる。堪らず地に四つん這いになり身体を支えた。

それは、もはやぼんやりとした風景のようで、一つ一つの動きを目で追うことは不可能だった。モノクロの東京を背景に、黒い雷と白い雨がただ閃滅している。どちらが有利でどちらが不利なのかもわからない。わずかに目が慣れてくると、ほんの時折見える彼らの顔と体に、少しずつ流血が増えていくことがかろうじてわかった。

戦火を交えながら、彼らがぐんぐんと遠ざかっていく。見ようによっては、クレフがなかば逃げる態勢を取りながらイーグルの攻撃を受け流しているようだった。しばらくして、それはきっと東京タワーから、私から離れたいというクレフの思惑なのだろうと気付いた。人の心配をしている場合か、と怒りたくなった。それは自分への怒りでもあった。

今更に心が痛んだ。後悔が先にできればどれほど良いだろう。こんなことなら、もっと労わって、血だってもっとたくさんあげればよかった。そして、心にもないことを言ってしまったあの朝のことを、酷く悔やんだ。今そんなことを考えてもどうしようもないのはわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

彼らの姿が小さくなっていく。じっと見つめていると、二人の動きに変化を感じた。目をこらす。
何かがこちらへ迫ってきている。
イーグルだ。クレフは、競り負けたのか。様子がよく見えない。
とは言え、距離がある分〝準備〟の時間はあった。二度も三度も黙って立ち尽くしたまま待っているほどお人好しではない。しかし、私が準備するよりも先に、目の前に現れたのはクレフの背中だった。イーグルの移動が、〝まるで〟瞬間移動のようであるのなら、クレフのそれは、比喩ではなく、正真正銘の瞬間移動だった。

クレフが、イーグルから遮るように私の前に腕を伸ばした。奥には、わずか遅れて追いついたイーグルがゆらりと立っている。期せずして、最初に彼らに出会ったころと同じ構図となった。二人の息は、これ以上ないほどにぜえぜえと荒れている。無言の対峙も束の間、黒い雷を切欠に、振り絞るような攻防が再開した。


― 消えてしまいたいと思った。

私をかばいながら戦うクレフは、どう見ても防戦一方の不利な状況だった。下手に動けばかえって足でまといになるのは明白だった。今度こそ私は、立ち尽くすことしかできなかった。

その時、雷に弾かれたクレフの杖が宙を舞い、展望台の天面をカランカランと滑って行った。
イーグルがニコリと微笑み、ゆっくりとこちらへ向かってくる。クレフは手のひらをこちらへ向け、またあのシャボン玉を出現させた。それは私一人だけを弱々しく包んだ。

「この期に及んでまだ人の心配ですか」
イーグルが放った黒い雷は、クレフには当たり、私には当たらない。黒い雷を受け、シャボン玉は弾けた。弱々しいなどとんでもない。この殼は防除の役割をしっかりと果たしていた。

イーグルが肩で息をしながら再び杖に黒い雷を集めている。クレフが私をちらりと見、そして囁いた。
「隙を作る、逃げろ」


一瞬の出来事だった。
クレフの体が消えたかと思うと、イーグルの懐に入り込み、その両腕を掴んだ。そして、むき出しになったイーグルの首筋に歯を立てた。
そのまま、二人はぴたりと静止した。なぜかはわからない。ただ、クレフから言い知れぬ躊躇いのようなものを感じた。

「でしょうね」
イーグルが杖をだらりと下ろすと黒い雷もパチンと霧散した。

纏った 今のあなたに血を吸われれば、僕はおそらく死にます。しかし、共食いは禁忌。しかも僕の血は混ざりすぎている。そんなことをすれば、あなたは雑食よりも酷悪な存在となるでしょう」
イーグルは笑っている。まるでこうなるのを望んでいるかのようだった。
「それしか……今のお前を止める術はない。私の負けだ」
イーグルは光悦にも似た表情で、だらりと腕を垂らしている。
クレフが口を開く。
犬歯がギラリと光った。

「…だめ……!!」

タン、と乾いた音が響いた。
イーグルが一瞬呆けた隙をつき、クレフの元へ全力で駆け寄る。膝から崩れるのとほとんど同時に、私はクレフを抱きとめた。
「な……ぜ…、?」
腕の中で、クレフの赤い目が私を見た。

「お願いイーグル! もうやめて! クレフにこんなことさせないで!」
左腕でクレフを支えたまま、右手に持った銃をイーグルに向けた。
「無駄ですよ。わかっているからこそ彼を撃ったんでしょう? 食事中でもない吸血種にそんな弾が当たるわけがないと」

「…み…、逃げ、ろ」
絶え絶えの息でクレフが言った。再び防除殻を出現させようとしているのか、ほとんど動かないであろう右手がピクリと震えた。

「どうしてそんなことを?」
イーグルが言った。そんなに彼を雑食にさせたくないですか、と。
「初めて会った時も、さっきだって…私のこと……殺そうと思えば、いつでも殺せた。でも、……そうじゃなくて、あなた…どこか、クレフに認めてほしいみたいに……見えた…」
恐怖と昂りで、自分の声が震えているのがわかる。戦ってもいないのにこれだけ怖いのだから、クレフ達は、どれほどの想いで戦っていたのだろうと、涙が出そうになった。泣けば負ける気がした。なんとか息を整え、イーグルの目をしっかりと、見た。
「……あなたも、クレフのことを好きなんじゃないかって思ったから。そんな人を、クレフに殺させるなんて絶対にできない」
イーグルはパチリと目を見開いた。そして、ふ、と笑った。一歩こちらへ近づくと、片膝を地につき、私の右手を取った。銃が無防備にゴトリと落ちる。

理由はつかない。
逃げる必要はない。そう思った。
私だけでなく、クレフも同じことを思ったのだろう。腕の中のクレフからは力が抜け、私と同じくイーグルをじっと見ていた。黒い装束はそのままに、イーグルの瞳の色はいつの間にか元に戻っていた。

痛みは全くなかった。手の甲にキスでもされたほどの、ふんわりとした吸血だった。このくらいで済むのなら、最初に出会った日に少しくらい吸わせてあげてもよかった、とすら思えた。

「この味は……、なるほど」
イーグルは立ち上がり、笑った。初めて見る、無垢な笑顔だった。
「お嬢さんに、大きな借りができましたね」
「イーグル……」
クレフが彼の名を呼んだ。
「雑食の統括はしきりなおします。しばらくは末端が迷惑をかけるかもしれませんが、向こう千二百年は人間界に過度の干渉をしないことを約束します」

イーグルが、杖を拾い上げた。
「クレフ、僕は先にセフィーロへ戻りますね。その体だ、あなたも早く帰ったほうがいい」
イーグルの姿が、溶けるように見えなくなっていく。
「ありがとう、お嬢さん。あなたの血、もっと早くに吸いたかった」
そう言うと、イーグルの姿は完全に消失した。
耐えた涙が、なぜだか今、零れた。


―――


「怪我は?」
クレフが言った。私は彼を抱きかかえたまま、ふるふると首を横に振った。クレフの瞳の色もまた、元の蒼色に戻っていた。

「無事で、よかった」
「クレフが助けてくれたから……」
「助けられたのは私のほうだ。すまなかった」
「そんな…、ね、クレフ、早く血を」
クレフを抱き起こし、顔を私の首筋へ乗せるように支える。

「あの日、初めてお前の血を吸った日、」
クレフが、私の肩口にもたれかかり言った。
「七百年生きて、あんなに優しい味は初めてだった。思えば、私はあの時から、」
クレフが言いよどみ、しばらく沈黙が漂った。その先を聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか、私にはわからなかった。

「いや、なんでもない。最後の食事だと思うと感傷的になっていかん」
クレフは少し眉を下げて困ったように笑った。
「最後だなんて言わないで……! 血だってなんだって、全部あげるから……!」
ほとんど叫ぶように言った。クレフは柔らかく微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。

それは、ひんやりと、胸が切なくなる抱擁だった。
吸血のために抱きしめるのか、抱きしめるために吸血するのか、どちらでも良かった。
その吸血は、いつものようにひんやりと優しくて、けれど今までで一番痛くて。まるで「忘れないで」と言っているようだった。
犬歯が静かに抜ける感触がした。そしてクレフは名残惜しそうに私の首筋から唇を離した。

「別れがたくなる。そろそろ行く」

―嫌だ、行かないで、ずっとそばにいて

叫ぶ想いは喉に詰まって声にならない。
黒いマントの肩口に、頬から零れ落ちた雫が広がり続ける。

「お前に出会えてよかった」
クレフが笑った。
そして、慈しむように、私の首筋へもう一度唇を寄せた。

「ありがとう、海」

クレフは初めて私の名前を呼んだ。
そして、初めてこう言った。




「ごちそうさま」
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