The Name of Vampire
chapter 04. tears
―その予感に、私はそっと目をとじた
年度末はなぜ忙しいのだろう。考えても仕方のないことを毎年思う。今年の誕生日は、どうにか定時帰りを勝ち取った。早く帰ったからと言って何をするわけではないけれど。
クレフと暮らすようになってからしばらく、彼が休日らしい休日を取っているのを見たことがなかった。セフィーロはとんだブラック企業体質なのだと勝手に思い込んでいた。「昼に休んでいるから問題ない」とクレフは言っていたけれど、それは人間が「夜は寝ているので問題ない」と言って土日も無しに毎日働いているようなものだ。
いつだったか、初めて彼の休日にまみえた日には、「休む暇があったらさっさとイーグルを探せと思うかもしれないが」とクレフが居心地悪そうに言ったので吹き出してしまった。「まるで社畜じゃない」と言うとクレフは面食らって、そして苦笑いをしていた。
そして、今日。クレフは珍しく休みだと言っていた。だから定時帰りを勝ち取ったわけではない。
いつものように、駅まで迎えに来たクレフと共に帰宅した。私を部屋で待ち受けていたのは、衝撃の光景と香りだった。リビングに入れば、キッチンに白いバラのような花がうずたかく積まれているのが見えた。甘く清潔な香りが鼻腔をくすぐる。
「嘘…これって、まさか」
口元に両手を当てても、喜びを隠しきれない。まさか、クレフがこんなドラマチックなプレゼントを用意してくれていたなんて。水切りの途中だったのか、水を張ったバケツの中には数本の花が刺さっている。葉も少なからず散乱していた。
もしかしたら、飾って待っていてくれるつもりだったのでは? 私は帰ってくるタイミングを間違えたのかもしれない。あと一時間残業してくるべきだったか。あわあわとその場でうろたえる私をよそに、クレフはスタスタとキッチンへ進んだ。シンクのわきに置いてあったハサミを手に取ると、クレフは水切りの続きを始めた。パチンパチンと小気味の良い音が立ち、積まれた花が減るごとにバケツに刺さる花は一本ずつ増えていく。
「最近お前の帰りが遅かったからな。セフィーロから非常食を取り寄せた」
「え?」
「血の代わりにはならんが、口慰みくらいにはなる。この季節が旬なのだ」
「え、それ食べるの?」
この白いバラのような花が、私へのプレゼントではなかったことへのショックよりも、食用だということへの驚きのほうが大きかった。
クレフは手際よく水切りを進めていく。まるで花屋さんのようだった。突如、頭にスッキリとした感覚がよぎる。このネックレスを留めてもらった時に感じた、クレフの香りの正体。
花屋のショーケースの香りだ。花そのものの甘い香りではなく、少し冷たくて清潔感のあるひんやりした香り。それがクレフの香りだった。
半年ごしにクレフの香りの正体が判明したことに静かに喜びを噛み締めている私を、低い声が現実に引き戻した。
「お前、いくつになった?」
「え?」
「誕生日だろう今日」
「嘘、知ってたの?」
「あんなにこれみよがしに書いてあればな」
と言って、クレフはハサミでカレンダーを指さした。
これみよがし、というほどではないと思うのだけれど。確かに自分で丸印とケーキのアイコンを書いた。知ってほしくて書いたわけではないけれど、目に入ればいいな、とは正直、思っていた。
「に、二十五だけど」
「まだまだ子供だな」
「失礼ね! 私だってもう立派な成人女性よ。選挙権もあるし、お酒だって! 私、結構強いんだから!」
「そうなのか?」
クレフがパチンと花を切る手を止め、こちらを向いた。
「な、なによ?」
「それは良いことを聞いた。今度セフィーロの酒を取り寄せよう。うまいぞ」
「ほんとに!? ワインなら白が好きよ。ぐいぐい飲んじゃうんだから」
「それは頼もしいな」
花を背景にしてほほ笑むクレフは、まるで絵画の一部のようだった。顔が赤くなりそうになる。逃げるように、クレフに背を向け、ダイニングチェアに腰かけた。
花をすべて切り終えたのか、ハサミを置く音が聞こえた。振り返って、ちらと覗く。クレフは、バケツに入っている花の山から、1,2,3……と数えて一抱えほどの花を取り出した。食用と言っていたけれど、まさかあの量を一気に食べるわけではないだろう。そんなことを考えていると、クレフは一抱えの花をまるまる私に渡してきた。
「好きな所に飾っておけ。あくまで食用だから、減っていても悪く思うな」
と言うと、クレフは悪戯っぽく笑った。わけも分からず、差し出されるままに受け取る。なんともなしに本数を数えて、顔が熱くなった。抱えた二十五本の花たちが『そんなに熱い手で握らないでくださいね』と言っている気がする。
「クレフ…、これ…」
思わず立ち上がる。目を瞬かせる私の前に、いつになく真剣な顔をしたクレフが立った。笑顔でも真顔でも整っているなんて、ずるい。クレフの手が私の両肩に触れると、いよいよ心臓が飛び跳ねた。うるさいくらいにどきどきと鼓動している。クレフが、私の瞳を覗き込んだ。濃い蒼色の瞳は私だけを映している。男の人にこんなに熱い瞳で見つめられたことはない。髪を梳かれ、その予感に、私はそっと目をとじた。
「痛っ…」
ですよね。わかってましたよ。
「味が悪い」
口の端を親指でぬぐったクレフが、私をじろりと睨んだ。睨みたいのはこちらのほうだ。
「ごちそうさまくらい言えないの? ていうか、わざと痛くしたでしょ」
「ごちそうだと感じれば言う。急に血色がよくなったのでさぞ旨かろうと頂戴してみれば。なんだこの味は。また不摂生でもしているのか?」
「ほんとに失礼な人ね! 言われた通りちゃんと食べてるわよ! 今は仕事が特に忙しくてストレスが溜まってるの。そんな意地悪なこと言ったら余計にまずくなるわよ!」
「ストレス、か……」
クレフが顎に手をやり何やら考えこんでいる。まさか、今度は誕生日ディナーでも作ってくれるというのか。そんな期待に、お腹が勝手に鳴りそうになった。
「少し付き合え」
クレフは私の手を引き、ベランダのガラス戸を開けた。どうやって隠していたのか、いや、考えるまでもなく魔法だろう。クレフが手をかざすとあの芸術品のような杖が出現した。クレフが杖を一振りすると、私達はあれよという間にシャボン玉に包まれた。悲鳴を上げる間もなく、人生二度目の空中散歩が始まった。
シャボン玉は東京の街をゆっくりと浮上していく。道すがら、いや、空すがらクレフが「少し目を閉じておいたほうがいい」と言うのでそうした。命令でも交渉でもないのに、なぜかその通りにしたくなる深い声だ。
とは言え、この浮遊感を目をつぶったままスリルとして楽しむほどの胆力は無い。シャボン玉の壁面を拠り所なくペタペタと撫でていると、クレフが私の手を取った。「怖いなら掴んでいろ」と言って、何か細く冷たい棒状の物体に触れさせた。それがクレフの杖の柄だと気付くのにさほど時間はかからなかった。彼の魔法に直接触れているような、不思議な感覚だ。細く、一見頼りのないその柄を握れば、体と心に直接安定剤を注がれたように、恐怖は消えていった。
しばらく目を閉じていると、シャボン玉の動きが変わった気がした。横移動が止まり、かわりに少しずつ上昇していくような感覚だ。初めての時のように耳がツンとならないということは、かなりゆっくりと昇っているのだろう。
自分の体がどんどんと上昇していく感覚に、目を開きたくなってまぶたが震えた。それに気付いたのか「閉じていろ」と言って、クレフが私の目を片手でおおった。
上昇は続く。私は、ふと頭をよぎった疑問を口にした。
「ねえ、これ下から見て大騒ぎにならないの?」
「外から見えるとしたらこんなものを安易に使うわけがなかろう」とクレフが言った。それもそうかと納得した瞬間、膝の裏と背に何が触れ、身体がぐいと持ち上げられる感覚に、たまらず目を開く。クレフに横抱きにされたことに気付き、自分の口から悲鳴が上がった。
「すぐ下ろす。暴れるな」
自分の置かれた状況がすぐには理解できなかった。クレフの靴音が、無機質な鉄にカツンと響いたかと思うと、クレフはそっと私を下ろしてそこへ座らせた。ひんやりとした鉄と思しき感触が、スカートごしのふとももに伝わる。
その光景に、私は目を奪われた。
「嘘……」
「綺麗」とか「素敵」とか、そんなかわいらしい言葉は出なかった。眼前には、東京の夜景が視界の限りに広がっている。まるでポストカードのようなその光景に、あんぐりと開いた口がふさがらなかった。
「なかなか良いものだろう」
クレフが、まるで自分がこの夜景を作ったかのような満足気な笑みで言った。
緻密に組まれたこのタワーの、ここはおそらく高所作業者くらいしか立ち入ることのできない場所だろう。無機質で色気のない鉄骨の上に、私たちはいた。足がぶらんとぶら下がる感覚が非常に怖い。私たちのいる場所はいったい地上何メートルなのか。恐る恐る首だけで振り返り見上げれば、てっぺんまでは数十メートルほどだ。333からその数十メートルを引き算しようとしたところで、やめた。
クレフの魔法だろうか、不思議と風はない。
この距離で見る鉄骨や照明機器は非常に工業的で、強いて言えば、夢の国の裏側を見たような気分だった。このタワーは遠目で見てこそ絵になるのだな、と思った。
その代わりに、生まれて初めて見る高さからの東京の夜景は、瞬きすらもったいないほどの美しさで、光の一粒一粒がそれぞれに意味を持っているようにさえ感じた。
「これは、確かにストレスも飛ぶわね」
と言うとクレフも笑った。
「この世界には幾度となく来ているが」
クレフが口を開いた。横目で彼を見てから、その視線の先を追う。レインボーブリッジの上を光の粒が次々と流れていく。左方向に目をやれば、パレットタウンの観覧車の灯りが目まぐるしく模様を変えていった。
「東京は、いい街だ」
クレフが言った。気の利いた言葉が何一つ思い浮かばず、私はただ「そうね」とだけ返した。鉄骨の上に置いた手がクレフの左手に触れそうな距離だった。今更手が触れたところでどうにもならないことはわかっている。けれど、意識しないようにすればするほど、全神経が右手に集まってしまう。
「この街は、私が守る。もちろん、お前も」
ひときわ真剣な顔でクレフが言った。心臓が、どうにかなってしまいそうだった。
「そんなこと…、」
誕生日に歳の数だけバラをもらって、最高の特等席でこんなに綺麗な夜景を見せられて。
「そんなこと言って、私があなたのこと好きになっちゃったらどうするのよ」
顔は、多分笑っていた、つもりだ。
「もしそうだとしたら光栄なことだな」
私は、思わずクレフの顔を見た。期待の色を上手く隠せている自信がない。クレフは、困ったような顔で笑っていた。それもつかの間、その横顔にふいに翳りが差した。
「しかし、吸血種と人間が結ばれることはない。お前、性格はともかく容姿は悪くない。きっといい男が見つかる。この世界で人間の男と幸せになれ」
これは一体どんな魔法なのだろう。夜景が急に滲みだした。光が二倍三倍になって見える。笑ってしまうくらいに綺麗だ。瞬きをすれば滲んだ景色は焦点を取り戻す。けれどまたすぐに、光は膨れあがった。
「そうよ。私、クレフよりかっこよくてやさしくて料理が上手で、血を吸わない人のお嫁さんになるんだから」
「それがいい」
クレフが、そっと笑った。
そんな人、いるわけないじゃない。
いたとしたって、好きにはなれない。
もうとっくに、クレフじゃなきゃ、だめだった。
傷心に導かれるまま、私はクレフの左肩に頭を預けた。このありえない高度がそうさせた。悪質な吊り橋効果だ。それはもう、私としてはこのタワーから飛び降りるくらいの覚悟だったのだけれど。
クレフは、何も言ってくれなかった。
涙は、きっと地表まで届かないだろう。
クレフは、何も言わないでいてくれた。
―――
深夜、クレフが私の寝室に忍び込んで食事をする時、たぬき寝入りをするのは初めてではなかった。
私が寝ている(と思っている)時のクレフの吸血は、普段の口の悪さが信じられないくらいに優しい。それがどうにも心地良くて、寝たフリをして何度か彼をだましていた。
その甘い心地を、体と脳裏に焼き付けたまま、拙い知識で自分を慰めたのは一度や二度ではなかった。
東京タワーから帰った後、お互いろくに話もせず、おやすみとだけ言ってそれぞれの部屋で眠った。
ベッドに横になると、タワーでの行動が頭の中をよぎり、そして冷や汗と共に実感した。本当に、告白などせずに良かった、と。なにせこれからも吸血は続くのだ。
幸い、取り返しはまだ付く。明日起きたら何ごともなかったかのように挨拶をして、たわいのない話をして。なんだったら「昨日のはちょっと夜景に当てられただけだから気にしないで」くらい言ってもいい。そうしよう。そんなことを決心しながら薄目を閉じ、ドアを静かに開ける彼を迎え入れた。
けれど、その夜の吸血は、いつもと少し違った。こんなにも長い時間をかけて首筋に唇を当てられたのは初めてだった。その優しい心地に、せっかくの決心も吹き飛ばされそうになる。
「すまない」
部屋を出る間際、クレフの掠れた声が寝室に響いた。
枕がじんわりと濡れて、私はいつの間にか眠っていた。
―――
それからしばらく、クレフがシャツを汚して帰ってくることが多くなった。イーグルはまだ見つからない。それどころか他の雑食も少しづつ力と数を増やして来ているらしく、易しくはない戦いとなってきていることが伺い知れた。まだ平穏に過ごせているのも、きっと彼や、ほかの吸血種たちの尽力によるところが大きいのだろう。
そんなある日、クレフが目に見えて憔悴して帰ってきた夜があった。
「嘘…っ!クレフ!?大丈夫…!?」
クレフはほとんど倒れるようにベランダへ降りてきた。彼を支え、ベランダに面した私の寝室に担ぎ込む。ベッドへ寝かせ、すぐに彼の口元へ首筋を晒した。弱った子猫のような吸血だった。仰向けの姿勢では吸いにくかったのか、クレフの口の端から血液が一筋零れた。少しでも多く口にしたほうが良いだろうと思い、指で血液をすくって彼の口内へと導いた。
クレフの喉がこくりと鳴る。「すまない」とクレフが囁いた。しばらく見守っていると、飲んだ血が巡ったのか、帰ってきた直後よりは幾分は息が整ってきた。けれど、横になったままのクレフはやはり疲弊を隠しきれていなかった。
「今日であらかたは送還できたから、心配するな」とクレフは言って、少し困ったような笑みを浮かべた。そんなことを心配しているわけではないのに。私は何も言えず、クレフの手を取ったまま、その場を動けなかった。
床にぺたりと座りベッドにつっぷすようにして、いつの間にか私も眠ってしまっていた。相も変わらず日光の入らない部屋では、時計の時刻だけが朝の訪れを教えた。
クレフは静かに眠っている。握っていた手をそっと離し、薄紫色の髪を撫でた。暗がりの中でも、昨夜あったはずの傷がだいぶ消えているように見える。彼が人間ではないことを、あらためて実感する。
― 吸血種と人間が結ばれることはない
結ばれることはない、とは具体的にどういうことなのだろう。セフィーロの司法にかけられ罰せられたりするのだろうか。それとも、キスをした瞬間に泡にでもなって消えてしまうとでもいうのだろうか。
クレフの髪を撫でていた手を止め、両手をシーツの上に置いた。膝立ちのまま足と背を伸ばし、彼の顔を覗き込む。人形のように美しい寝顔だった。静かに唇を寄せようとした時、
「やめろ!」
強い力で肩を押され、私は尻もちを付いていた。
クレフの顔を見れば、驚き、戸惑い、そして恐怖の色すら滲んでいた。あながち、泡になって消えてしまうというのは間違いではないのかもしれない。それほどの怯え様だった。
本当に泡になるというのなら、
私はそれでもよかった。けれど、
クレフは違う。
そんなことはわかっていたのに。
なぜ好きになってしまったんだろう。ただ、胸が痛くて苦しかった。何か吐き出さないと、死んでしまいそうだった。 そして私は、言ってしまった。
クレフは目を見開き、私を見た。けれど、言葉を放った私のほうが、よほど驚いていた。
飛び出すように寝室から出、リビングで最低限の身支度をして、玄関のドアを開けた。
―――
フロアは年度末の喧騒で、五分に一回は漏れてしまうため息を抑える必要がなかったのはせめてもの幸いだった。
業務を終え、駅につくと、案の定というかクレフの迎えはなかった。かわりに待っていてくれたのは、最初のころ代理で迎えに来てくれたことのある吸血種さんだった。クレフは所用で来られないと言う。それが事実なのかクレフの計らいなのかはわからなかった。体はもう大丈夫だと聞いた。「〝血が良いからな〟とおっしゃっていましたよ」と言われ、不覚にも泣きそうになった。
そして、その吸血種さんがクレフのことを様付けで呼んでいたので驚いた。「そんなに偉い人なの?」と聞くと、「偉いなんてもんじゃないですよ」と笑ってはぐらかされた。
帰宅した後も、私はソファにもたれてひたすらに考え事をしていた。
― あなたになんて、出会わなければよかった
あんなこと、絶対に言うべきではなかった。
今日は帰ってくるだろうか。
帰ってこないとしたらどこで日の光を避けるのだろうか。
食事はどのくらい時間を空けてもいいのだろうか。
なんにせよ、帰ってきたらきちんと謝ろう。
……クレフは帰ってきてくれるだろうか。
同じことを何度もループして考えていると、ふいにベランダからガタリと物音が聞こえた。
また怪我でもして帰ってきたのか。私は慌ててガラス戸のほうへ駆け寄り、分厚いカーテンを開けた。
「クレフ……!」
そして、目を見張る。
バチと静電気のような音。クレフが張った結界が破れた音か。
彼は、最初から鍵などかかっていないかのようにベランダのガラス戸をスと開けた。
「こんばんは、いい夜ですね」
慇懃に笑う姿―
そこには、笑みを浮かべたイーグルが立っていた。
―その予感に、私はそっと目をとじた
年度末はなぜ忙しいのだろう。考えても仕方のないことを毎年思う。今年の誕生日は、どうにか定時帰りを勝ち取った。早く帰ったからと言って何をするわけではないけれど。
クレフと暮らすようになってからしばらく、彼が休日らしい休日を取っているのを見たことがなかった。セフィーロはとんだブラック企業体質なのだと勝手に思い込んでいた。「昼に休んでいるから問題ない」とクレフは言っていたけれど、それは人間が「夜は寝ているので問題ない」と言って土日も無しに毎日働いているようなものだ。
いつだったか、初めて彼の休日にまみえた日には、「休む暇があったらさっさとイーグルを探せと思うかもしれないが」とクレフが居心地悪そうに言ったので吹き出してしまった。「まるで社畜じゃない」と言うとクレフは面食らって、そして苦笑いをしていた。
そして、今日。クレフは珍しく休みだと言っていた。だから定時帰りを勝ち取ったわけではない。
いつものように、駅まで迎えに来たクレフと共に帰宅した。私を部屋で待ち受けていたのは、衝撃の光景と香りだった。リビングに入れば、キッチンに白いバラのような花がうずたかく積まれているのが見えた。甘く清潔な香りが鼻腔をくすぐる。
「嘘…これって、まさか」
口元に両手を当てても、喜びを隠しきれない。まさか、クレフがこんなドラマチックなプレゼントを用意してくれていたなんて。水切りの途中だったのか、水を張ったバケツの中には数本の花が刺さっている。葉も少なからず散乱していた。
もしかしたら、飾って待っていてくれるつもりだったのでは? 私は帰ってくるタイミングを間違えたのかもしれない。あと一時間残業してくるべきだったか。あわあわとその場でうろたえる私をよそに、クレフはスタスタとキッチンへ進んだ。シンクのわきに置いてあったハサミを手に取ると、クレフは水切りの続きを始めた。パチンパチンと小気味の良い音が立ち、積まれた花が減るごとにバケツに刺さる花は一本ずつ増えていく。
「最近お前の帰りが遅かったからな。セフィーロから非常食を取り寄せた」
「え?」
「血の代わりにはならんが、口慰みくらいにはなる。この季節が旬なのだ」
「え、それ食べるの?」
この白いバラのような花が、私へのプレゼントではなかったことへのショックよりも、食用だということへの驚きのほうが大きかった。
クレフは手際よく水切りを進めていく。まるで花屋さんのようだった。突如、頭にスッキリとした感覚がよぎる。このネックレスを留めてもらった時に感じた、クレフの香りの正体。
花屋のショーケースの香りだ。花そのものの甘い香りではなく、少し冷たくて清潔感のあるひんやりした香り。それがクレフの香りだった。
半年ごしにクレフの香りの正体が判明したことに静かに喜びを噛み締めている私を、低い声が現実に引き戻した。
「お前、いくつになった?」
「え?」
「誕生日だろう今日」
「嘘、知ってたの?」
「あんなにこれみよがしに書いてあればな」
と言って、クレフはハサミでカレンダーを指さした。
これみよがし、というほどではないと思うのだけれど。確かに自分で丸印とケーキのアイコンを書いた。知ってほしくて書いたわけではないけれど、目に入ればいいな、とは正直、思っていた。
「に、二十五だけど」
「まだまだ子供だな」
「失礼ね! 私だってもう立派な成人女性よ。選挙権もあるし、お酒だって! 私、結構強いんだから!」
「そうなのか?」
クレフがパチンと花を切る手を止め、こちらを向いた。
「な、なによ?」
「それは良いことを聞いた。今度セフィーロの酒を取り寄せよう。うまいぞ」
「ほんとに!? ワインなら白が好きよ。ぐいぐい飲んじゃうんだから」
「それは頼もしいな」
花を背景にしてほほ笑むクレフは、まるで絵画の一部のようだった。顔が赤くなりそうになる。逃げるように、クレフに背を向け、ダイニングチェアに腰かけた。
花をすべて切り終えたのか、ハサミを置く音が聞こえた。振り返って、ちらと覗く。クレフは、バケツに入っている花の山から、1,2,3……と数えて一抱えほどの花を取り出した。食用と言っていたけれど、まさかあの量を一気に食べるわけではないだろう。そんなことを考えていると、クレフは一抱えの花をまるまる私に渡してきた。
「好きな所に飾っておけ。あくまで食用だから、減っていても悪く思うな」
と言うと、クレフは悪戯っぽく笑った。わけも分からず、差し出されるままに受け取る。なんともなしに本数を数えて、顔が熱くなった。抱えた二十五本の花たちが『そんなに熱い手で握らないでくださいね』と言っている気がする。
「クレフ…、これ…」
思わず立ち上がる。目を瞬かせる私の前に、いつになく真剣な顔をしたクレフが立った。笑顔でも真顔でも整っているなんて、ずるい。クレフの手が私の両肩に触れると、いよいよ心臓が飛び跳ねた。うるさいくらいにどきどきと鼓動している。クレフが、私の瞳を覗き込んだ。濃い蒼色の瞳は私だけを映している。男の人にこんなに熱い瞳で見つめられたことはない。髪を梳かれ、その予感に、私はそっと目をとじた。
「痛っ…」
ですよね。わかってましたよ。
「味が悪い」
口の端を親指でぬぐったクレフが、私をじろりと睨んだ。睨みたいのはこちらのほうだ。
「ごちそうさまくらい言えないの? ていうか、わざと痛くしたでしょ」
「ごちそうだと感じれば言う。急に血色がよくなったのでさぞ旨かろうと頂戴してみれば。なんだこの味は。また不摂生でもしているのか?」
「ほんとに失礼な人ね! 言われた通りちゃんと食べてるわよ! 今は仕事が特に忙しくてストレスが溜まってるの。そんな意地悪なこと言ったら余計にまずくなるわよ!」
「ストレス、か……」
クレフが顎に手をやり何やら考えこんでいる。まさか、今度は誕生日ディナーでも作ってくれるというのか。そんな期待に、お腹が勝手に鳴りそうになった。
「少し付き合え」
クレフは私の手を引き、ベランダのガラス戸を開けた。どうやって隠していたのか、いや、考えるまでもなく魔法だろう。クレフが手をかざすとあの芸術品のような杖が出現した。クレフが杖を一振りすると、私達はあれよという間にシャボン玉に包まれた。悲鳴を上げる間もなく、人生二度目の空中散歩が始まった。
シャボン玉は東京の街をゆっくりと浮上していく。道すがら、いや、空すがらクレフが「少し目を閉じておいたほうがいい」と言うのでそうした。命令でも交渉でもないのに、なぜかその通りにしたくなる深い声だ。
とは言え、この浮遊感を目をつぶったままスリルとして楽しむほどの胆力は無い。シャボン玉の壁面を拠り所なくペタペタと撫でていると、クレフが私の手を取った。「怖いなら掴んでいろ」と言って、何か細く冷たい棒状の物体に触れさせた。それがクレフの杖の柄だと気付くのにさほど時間はかからなかった。彼の魔法に直接触れているような、不思議な感覚だ。細く、一見頼りのないその柄を握れば、体と心に直接安定剤を注がれたように、恐怖は消えていった。
しばらく目を閉じていると、シャボン玉の動きが変わった気がした。横移動が止まり、かわりに少しずつ上昇していくような感覚だ。初めての時のように耳がツンとならないということは、かなりゆっくりと昇っているのだろう。
自分の体がどんどんと上昇していく感覚に、目を開きたくなってまぶたが震えた。それに気付いたのか「閉じていろ」と言って、クレフが私の目を片手でおおった。
上昇は続く。私は、ふと頭をよぎった疑問を口にした。
「ねえ、これ下から見て大騒ぎにならないの?」
「外から見えるとしたらこんなものを安易に使うわけがなかろう」とクレフが言った。それもそうかと納得した瞬間、膝の裏と背に何が触れ、身体がぐいと持ち上げられる感覚に、たまらず目を開く。クレフに横抱きにされたことに気付き、自分の口から悲鳴が上がった。
「すぐ下ろす。暴れるな」
自分の置かれた状況がすぐには理解できなかった。クレフの靴音が、無機質な鉄にカツンと響いたかと思うと、クレフはそっと私を下ろしてそこへ座らせた。ひんやりとした鉄と思しき感触が、スカートごしのふとももに伝わる。
その光景に、私は目を奪われた。
「嘘……」
「綺麗」とか「素敵」とか、そんなかわいらしい言葉は出なかった。眼前には、東京の夜景が視界の限りに広がっている。まるでポストカードのようなその光景に、あんぐりと開いた口がふさがらなかった。
「なかなか良いものだろう」
クレフが、まるで自分がこの夜景を作ったかのような満足気な笑みで言った。
緻密に組まれたこのタワーの、ここはおそらく高所作業者くらいしか立ち入ることのできない場所だろう。無機質で色気のない鉄骨の上に、私たちはいた。足がぶらんとぶら下がる感覚が非常に怖い。私たちのいる場所はいったい地上何メートルなのか。恐る恐る首だけで振り返り見上げれば、てっぺんまでは数十メートルほどだ。333からその数十メートルを引き算しようとしたところで、やめた。
クレフの魔法だろうか、不思議と風はない。
この距離で見る鉄骨や照明機器は非常に工業的で、強いて言えば、夢の国の裏側を見たような気分だった。このタワーは遠目で見てこそ絵になるのだな、と思った。
その代わりに、生まれて初めて見る高さからの東京の夜景は、瞬きすらもったいないほどの美しさで、光の一粒一粒がそれぞれに意味を持っているようにさえ感じた。
「これは、確かにストレスも飛ぶわね」
と言うとクレフも笑った。
「この世界には幾度となく来ているが」
クレフが口を開いた。横目で彼を見てから、その視線の先を追う。レインボーブリッジの上を光の粒が次々と流れていく。左方向に目をやれば、パレットタウンの観覧車の灯りが目まぐるしく模様を変えていった。
「東京は、いい街だ」
クレフが言った。気の利いた言葉が何一つ思い浮かばず、私はただ「そうね」とだけ返した。鉄骨の上に置いた手がクレフの左手に触れそうな距離だった。今更手が触れたところでどうにもならないことはわかっている。けれど、意識しないようにすればするほど、全神経が右手に集まってしまう。
「この街は、私が守る。もちろん、お前も」
ひときわ真剣な顔でクレフが言った。心臓が、どうにかなってしまいそうだった。
「そんなこと…、」
誕生日に歳の数だけバラをもらって、最高の特等席でこんなに綺麗な夜景を見せられて。
「そんなこと言って、私があなたのこと好きになっちゃったらどうするのよ」
顔は、多分笑っていた、つもりだ。
「もしそうだとしたら光栄なことだな」
私は、思わずクレフの顔を見た。期待の色を上手く隠せている自信がない。クレフは、困ったような顔で笑っていた。それもつかの間、その横顔にふいに翳りが差した。
「しかし、吸血種と人間が結ばれることはない。お前、性格はともかく容姿は悪くない。きっといい男が見つかる。この世界で人間の男と幸せになれ」
これは一体どんな魔法なのだろう。夜景が急に滲みだした。光が二倍三倍になって見える。笑ってしまうくらいに綺麗だ。瞬きをすれば滲んだ景色は焦点を取り戻す。けれどまたすぐに、光は膨れあがった。
「そうよ。私、クレフよりかっこよくてやさしくて料理が上手で、血を吸わない人のお嫁さんになるんだから」
「それがいい」
クレフが、そっと笑った。
そんな人、いるわけないじゃない。
いたとしたって、好きにはなれない。
もうとっくに、クレフじゃなきゃ、だめだった。
傷心に導かれるまま、私はクレフの左肩に頭を預けた。このありえない高度がそうさせた。悪質な吊り橋効果だ。それはもう、私としてはこのタワーから飛び降りるくらいの覚悟だったのだけれど。
クレフは、何も言ってくれなかった。
涙は、きっと地表まで届かないだろう。
クレフは、何も言わないでいてくれた。
―――
深夜、クレフが私の寝室に忍び込んで食事をする時、たぬき寝入りをするのは初めてではなかった。
私が寝ている(と思っている)時のクレフの吸血は、普段の口の悪さが信じられないくらいに優しい。それがどうにも心地良くて、寝たフリをして何度か彼をだましていた。
その甘い心地を、体と脳裏に焼き付けたまま、拙い知識で自分を慰めたのは一度や二度ではなかった。
東京タワーから帰った後、お互いろくに話もせず、おやすみとだけ言ってそれぞれの部屋で眠った。
ベッドに横になると、タワーでの行動が頭の中をよぎり、そして冷や汗と共に実感した。本当に、告白などせずに良かった、と。なにせこれからも吸血は続くのだ。
幸い、取り返しはまだ付く。明日起きたら何ごともなかったかのように挨拶をして、たわいのない話をして。なんだったら「昨日のはちょっと夜景に当てられただけだから気にしないで」くらい言ってもいい。そうしよう。そんなことを決心しながら薄目を閉じ、ドアを静かに開ける彼を迎え入れた。
けれど、その夜の吸血は、いつもと少し違った。こんなにも長い時間をかけて首筋に唇を当てられたのは初めてだった。その優しい心地に、せっかくの決心も吹き飛ばされそうになる。
「すまない」
部屋を出る間際、クレフの掠れた声が寝室に響いた。
枕がじんわりと濡れて、私はいつの間にか眠っていた。
―――
それからしばらく、クレフがシャツを汚して帰ってくることが多くなった。イーグルはまだ見つからない。それどころか他の雑食も少しづつ力と数を増やして来ているらしく、易しくはない戦いとなってきていることが伺い知れた。まだ平穏に過ごせているのも、きっと彼や、ほかの吸血種たちの尽力によるところが大きいのだろう。
そんなある日、クレフが目に見えて憔悴して帰ってきた夜があった。
「嘘…っ!クレフ!?大丈夫…!?」
クレフはほとんど倒れるようにベランダへ降りてきた。彼を支え、ベランダに面した私の寝室に担ぎ込む。ベッドへ寝かせ、すぐに彼の口元へ首筋を晒した。弱った子猫のような吸血だった。仰向けの姿勢では吸いにくかったのか、クレフの口の端から血液が一筋零れた。少しでも多く口にしたほうが良いだろうと思い、指で血液をすくって彼の口内へと導いた。
クレフの喉がこくりと鳴る。「すまない」とクレフが囁いた。しばらく見守っていると、飲んだ血が巡ったのか、帰ってきた直後よりは幾分は息が整ってきた。けれど、横になったままのクレフはやはり疲弊を隠しきれていなかった。
「今日であらかたは送還できたから、心配するな」とクレフは言って、少し困ったような笑みを浮かべた。そんなことを心配しているわけではないのに。私は何も言えず、クレフの手を取ったまま、その場を動けなかった。
床にぺたりと座りベッドにつっぷすようにして、いつの間にか私も眠ってしまっていた。相も変わらず日光の入らない部屋では、時計の時刻だけが朝の訪れを教えた。
クレフは静かに眠っている。握っていた手をそっと離し、薄紫色の髪を撫でた。暗がりの中でも、昨夜あったはずの傷がだいぶ消えているように見える。彼が人間ではないことを、あらためて実感する。
― 吸血種と人間が結ばれることはない
結ばれることはない、とは具体的にどういうことなのだろう。セフィーロの司法にかけられ罰せられたりするのだろうか。それとも、キスをした瞬間に泡にでもなって消えてしまうとでもいうのだろうか。
クレフの髪を撫でていた手を止め、両手をシーツの上に置いた。膝立ちのまま足と背を伸ばし、彼の顔を覗き込む。人形のように美しい寝顔だった。静かに唇を寄せようとした時、
「やめろ!」
強い力で肩を押され、私は尻もちを付いていた。
クレフの顔を見れば、驚き、戸惑い、そして恐怖の色すら滲んでいた。あながち、泡になって消えてしまうというのは間違いではないのかもしれない。それほどの怯え様だった。
本当に泡になるというのなら、
私はそれでもよかった。けれど、
クレフは違う。
そんなことはわかっていたのに。
なぜ好きになってしまったんだろう。ただ、胸が痛くて苦しかった。何か吐き出さないと、死んでしまいそうだった。 そして私は、言ってしまった。
クレフは目を見開き、私を見た。けれど、言葉を放った私のほうが、よほど驚いていた。
飛び出すように寝室から出、リビングで最低限の身支度をして、玄関のドアを開けた。
―――
フロアは年度末の喧騒で、五分に一回は漏れてしまうため息を抑える必要がなかったのはせめてもの幸いだった。
業務を終え、駅につくと、案の定というかクレフの迎えはなかった。かわりに待っていてくれたのは、最初のころ代理で迎えに来てくれたことのある吸血種さんだった。クレフは所用で来られないと言う。それが事実なのかクレフの計らいなのかはわからなかった。体はもう大丈夫だと聞いた。「〝血が良いからな〟とおっしゃっていましたよ」と言われ、不覚にも泣きそうになった。
そして、その吸血種さんがクレフのことを様付けで呼んでいたので驚いた。「そんなに偉い人なの?」と聞くと、「偉いなんてもんじゃないですよ」と笑ってはぐらかされた。
帰宅した後も、私はソファにもたれてひたすらに考え事をしていた。
― あなたになんて、出会わなければよかった
あんなこと、絶対に言うべきではなかった。
今日は帰ってくるだろうか。
帰ってこないとしたらどこで日の光を避けるのだろうか。
食事はどのくらい時間を空けてもいいのだろうか。
なんにせよ、帰ってきたらきちんと謝ろう。
……クレフは帰ってきてくれるだろうか。
同じことを何度もループして考えていると、ふいにベランダからガタリと物音が聞こえた。
また怪我でもして帰ってきたのか。私は慌ててガラス戸のほうへ駆け寄り、分厚いカーテンを開けた。
「クレフ……!」
そして、目を見張る。
バチと静電気のような音。クレフが張った結界が破れた音か。
彼は、最初から鍵などかかっていないかのようにベランダのガラス戸をスと開けた。
「こんばんは、いい夜ですね」
慇懃に笑う姿―
そこには、笑みを浮かべたイーグルが立っていた。