The Name of Vampire
chapter 03.What a Wonderful World
― クレフが渇望するような瞳で海を見つめ、青い髪を梳くのが食事の合図だった
奇妙な共同生活が始まった。
「これを渡しておく」
クレフが海に手渡したのは銀色のネックレスだった。3センチほどの拳銃のようなチャームがついている。
「なにこれ、ださ……」
今どき小学三年生でもこんなの欲しがらないわよ。海がネックレスチェーンを指にぶら下げながら言った。
「まあそう言うな」
クレフは苦笑いし、海の指からネックレスを指ですくい取った。チェーンからチャームを外すと、拳銃は手のひら大に大きさを変えた。持ち運べば銃刀法違反に抵触しそうなリアルさがある。
「これを肌身離さず持っていろ。私以外の者に吸血されそうになったら、迷わず撃て。殺すことはできないが、しばらく動きは止められる」
「本物!? ていうか、私、銃なんて撃ったことないわよ!?」
「食事中の吸血種は、本能的に極めて弛緩した状態になる。至近距離で撃てば素人でも当たる」
「そんなこと言ったって…、弛緩……?、え?それってあなたもそうなの?」
「まあ、な」
「こんなもの持たせて、食事中の弱点まで教えて、私があなたを撃つとは思わないわけ?」
「撃つ理由がない」
「わからないわよ。噛まれるのが、嫌になっちゃうかも」
嫌になっちゃうは困ったな、とクレフは海の言葉を反復して可笑しそうに笑った。しかし、すぐに笑みを消し真剣な顔で言った。
「お前は、私を信じた。だから、私もお前を信じる。それだけだ」
そのまっすぐな瞳に海はたじろいだ。頭がクラクラするほどのこの夢物語のような状況が、現実として海の中に入ってくるのは、彼のまっすぐすぎる蒼い瞳の力によるところが大きかった。
クレフがチェーンを通せば、拳銃は再び小さなチャームへと姿を変えた。どうやらチェーンに触れているかどうかで大きさが決まるようだ。
「当たるのは食事中のみ。相手に銃口を見られた時点でまず当たらんと思え」念を押すように言いながら、海の首の後ろに手を回し、ネックレスの留め具をとめた。突然目の前に近づいたクレフの肩口に、海の心臓は飛び跳ねた。昨夜、目の前の人物が自分の首筋に吸い付き、その舌を這わせた事実を思い出し、海の頬は紅潮した。
いい匂いがする。なにか、これだと形容できそうなものがあった気がするが思い出せない。
顔の熱をごまかすように拳銃のチャームに指で触れた。
「それにしてもださいわね」
―――
同居にあたり、海の部屋のカーテンは全て遮光性のものに取り替えられた。「経費で落とす」と嫌に現実的なクレフの言葉に、海は苦笑いした。それならばあの夜道端でなくしたイヤホンも、と海が言うとクレフは無視した。
日中でも暗い部屋には、最初の頃こそ多少辟易としたもの、それ以外にはさほど窮屈感のない共同生活だった。海が仕事を終え、最寄りの駅に着く頃クレフが迎えに来る。家に着くと、彼は東京の見回りと雑食探しに出かけた。留守中に万が一雑食やイーグルが来襲した時の対策として、毎日家に結界を張ることも欠かさなかった。そして、日が出る前には帰宅し、リビングのソファで休む。海が起床しリビングで朝支度をするタイミングで一度起き、海と二、三の会話をしてから、出かける彼女を見送り、家の中で休むかセフィーロと連絡を取り合う。そんな日々だった。
クレフの食事は、海が寝入った時間に行われた。彼の言うとおり〝虫に刺されるようなもの〟なのか、海は吸血されていることに気付くことなく眠り続けた。雑食やイーグルによる襲来は無く、生活は平穏そのものだった。クレフの働きによるところか、そもそも狙われてなどいないのか。多少の貧血症状を除いては、海にとってメリットの多い共同生活だった。
「私、吸血鬼ってもっとこう、悪魔っぽい見た目かと思ってたのよ。黒いマントに赤いベストを着て、目なんか真っ赤っ赤で」
朝食のパンにバターを塗りながら海が言った。朝だと言うのに日光の入らない部屋にも、わずかばかり慣れてきた頃だ。
「でもクレフはいつもその格好じゃない? イーグルも、この前クレフのかわりに駅まで迎えに来てくれた吸血鬼さんだって普通の格好だったし」
「吸血〝種〟」
クレフが苦々しげに言った。海の向かいに座り、テーブルに頬杖をついている。朝に食事を取るのは海だけだ。
「あれでうろついていたら目立って仕方ないだろう」
手元で鉄剤飲料の瓶をくるくると転がしながらクレフは言った。
「しかし、人間が描き残しているあの装束姿はあながち間違っていない。おそらく画家か何かを吸血していた者がやらかしたのだろうな」
「ねえ、クレフはあの格好しないの?」
「私とて、魔力を大いに使う場合には纏ったこともある。もう昔の話だがな」
「そうなの!? 見たい! その服持ってきてないの?」
海が言うと、クレフはフと吹き出した。
「お前、まさか我々があの装束を常に持ち歩いて必要に応じていそいそと着替えているとでも思っているのか?」
「違うの?」
「あれも一種の魔法だ。必要な時に纏うものであって、こういった衣服とは本質が異なる」
言いながら、クレフは自分のカッターシャツの襟をつまんだ。
「そもそも、魔力が必要となるような場面でそんな流暢なことをしていられないだろう」
海が食事を終えると、クレフは手元の瓶のキャップをパキと回し開け、海に手渡した。
第一印象こそ最悪であったこの男は、意外にもよく笑う人物であることがわかってきた。そして、その笑顔がもたらす心地よさを、海は気に入ってきてもいた。とはいえ、その口の悪さと失礼さで足して割れば、「性格難あり」の判定が大きく覆ることはなかったが。
ある夜、迎えにくるはずのクレフがいつまでも駅に現れないので、明るい道を選びながら一人で帰った日があった。もしかしたら多忙で代わりの吸血種を寄越す余裕もなかったのかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、自宅からほどない道端で、海は思わぬ光景を目にした。
クレフと警察官がなにやら話し込んでいる。
(なに? 事件!?)
海がそろりと近づくと、こちらに気付いたクレフが自分を呼んだ。クレフは嫌にニコニコとした作り笑顔で、一方警察官は困ったような不機嫌そうな顔をしている。
「ね、言ったとおりでしょう。彼女を迎えに出るだけなので、手ぶらだったんですよ」
なんなら家に戻って身分証を持ってきますよ、と白々しく足した。
あげく「迎えに行けなくてすまないね」と肩に手まで回してきたので海は少なからずうろたえた。
「お巡りさん、かわいい彼女が冷えてしまうのでそろそろいいですか?」とクレフが言うと、警官はぶつくさと「結構ですよ」と言った。
警察官の姿が見えなくなると「誰が彼女よ」と、海がクレフの手を払った。
「嘘も方便、というやつだ」
「職質される吸血鬼だなんて聞いたことないわ。しかもなんだかいやに慣れてたじゃない」
「慣れているものか。この国のIDを所持していないので非常に焦った」
呼び名を訂正する余裕もないクレフの様子に、海の口角が少し上がった。その時、ふいに海の右手がひんやりとしたものに包まれた。
「な、な、なに?」
クレフが、自分の手を握ったのだということに気付くと、海の顔色は一気に赤へとかわった。その時、背後からシャーと鳴る走行音と共に、先ほどの警察官が自転車で通りすぎて行った。
そういうことね、と海が言った。
そういうことだ、とクレフが言った。
繋いだ手がするりと解かれる。そこはかとない気まずさに間が持たなくなり、海が取り繕うように口を開いた。
「セフィーロに身分証を用意してもらったら?」
「手配はしているが、あちらもばたついているのでな。早急に作るようかけあわねば」
「作れるんだ……」
冗談で言った言葉にまさかの返答をされ、海は呆れたように瞬きを繰り返した。
「東京の警官は少々勤勉すぎる」
クレフがあまりに真剣な顔で言うので、また、海の頬が緩んだ。
―――
イーグルは身を潜めているようだった。
海が初めて彼と出くわした時のように路上でやみくもに女性を狙うことは止めたのか、そういった報告は入っていない。不審死の情報があれば駆けつけても、どれも取り越し苦労に終わった。不審死の場所や件数、状況から見るに、イーグルではなくほかの雑食の仕業である可能性が高かった。しばらくはイーグル以外の雑食をセフィーロへ送還する日々だと聞く。
毎夜睡眠時に行われていた吸血は、クレフの出動前、つまり、海が帰宅した後に行われることも増えてきた。食べてから出勤するか、帰宅してから食べるか。自分だったらどちらがいいかと海は想像を巡らせたが、吸血鬼と人間では仕組みが違うだろうと思いいたり、それ以上は考えるのをやめた。
クレフが血を必要とするタイミングが、彼の体調によるところなのか、魔力の消耗具合によるところなのか、あるいはその日の任務内容によるところなのか、海にはわからない。
しかし、これだけはもはや習慣と呼べた。クレフが渇望するような瞳で海を見つめ、青い髪を梳く。それが食事の合図だった。言葉はない。
食事を前に喉がコクリと鳴るのはクレフだけではなかった。首筋に触れる冷たい唇は、最初の夜とは比較にならないほど優しく、こそばゆい。いつの間にか、海にとっても、クレフの食事は心地の良いものになってきていた。
そんなある夜のことだった。
「おい、なんだこれは」
「あらクレフ、ごみ捨てありがとう」
クレフの手には、ごみ箱から回収したごみ袋が握られている。
「これはなんだ、と聞いている」
「何って、ごみでしょう」
クレフが持つ半透明のごみ袋の中には、ゼリー飲料やブロック食の空き箱がどっさりと透けて見えている。気まぐれに一個二個食べたという数ではない。無いよりはましだろうと買ったサラダの空き容器も複数あった。
「最近血の味が悪いと思えば」
「な、ひどい言い草ね。年末は仕事が忙しくてお夕飯を作る気力が湧かないのよ。仕方ないでしょ」
「道理で血色も悪いと思っていた。食欲のなくなる顔色だ」
「ほんと失礼な人ね!年が明けたら仕事も落ち着くわ。それまでは味の悪い血で我慢するのね」
クレフは、年が明けたら…と呟きながら、カレンダーを見やった。十二月三十一日までは優に一週間ある。クレフは大げさにため息をつき、言った。
「血は力だと何度も言っているだろう。今は特に目立った雑食の動きがないから良いものの、有事の際にこんなことでは困る」
「そんなこと言われたって」
「言い訳無用だ。少し待っていろ。そうだ、先に風呂にでも入っておけ」
一体何を待てと言うのか。それに、このままクレフに従うのも釈然としない。しかし、これ以上同じ空間にいても喧嘩が激化するだけだと思い、海は浴室へと向かった。
「なんなのよ、もう」
入浴剤の溶けた湯を指で弾く。すっかり湯が恋しい気候になってきた。最近は忙しさにかまけてシャワーで済ませる日も増えていただけに、全身を湯に包まれる心地良さはなお一層身に染みる。日本人で良かったと、柑橘の香りを吸い込み、思った。
「なにこれ……」
湯上りの海をテーブルの上で待ち受けていたのは、彼女の大好物だった。赤い赤いトマトソースのかかったそれは、紛うことなきミートソーススパゲティであった。ご丁寧に、溶けたチーズの乗った焼き野菜と、ベーコン入りのコンソメスープまで付いている。クルトンなど常備していない。わざわざパンを焼いたのだろうか。魔法で作ったのかとも思ったが、それにしてはキッチンが使われた痕跡がある。
あなた料理できるの? どうして人間の食事を作れるの? 味見はどうしたの? その真っ白なシャツでトマトソースを扱ったの? そういえばあの時もアーリオオーリオがどうだと言っていたわね?
泉のように激しく疑問が湧き上がり、どれから聞こうかと口をパクパクとさせていると、クレフが椅子を引いた。
「いいから早く食べたらどうだ」
「は、はい!」
言われるがまま着席し、手を合わせた。
スパゲティを一口巻き取り口へ運ぶ。
「…おいしい……」
「それは良かった 」
いつものように、クレフが海の正面へ座り頬杖をついた。
食べながら、先ほど沸いた疑問を矢継ぎ早に問いかけると「長く生きていると色々あるのだ」とクレフは言った。
「答えになってないわよ」
「とにかく、お前の食事は私の食事に直結する。少しは気を使え」
釈然としない。しかし、焼き野菜もスープもどれも普通に、と言ってはなんだが、本当に普通においしかった。
「それから、この際だから言っておくが、あまり夜更かしはするな。あと、面倒でも湯に浸かれ」
食器類をキッチンに運ぶ海に、クレフが言った。
「ママみたいなこと言ってる」
食器を洗いながら、海が言った。
「とにかく、あまり不摂生はするな。わかったな」
「ねえ、もしかして私の体を心配してくれてるわけ?」
「冗談を言うな。すべては私と、任務のためだ」
「はいはい、わかってますよ」
スープ皿を水切りかごに入れて皿洗いは終了した。シンクに散った水滴を布巾で拭き取る。思いがけないクリスマスディナーを頂いてしまった。顔が勝手ににやけてしまう。なんとなく、クレフのいるテーブルに戻りにくくなり、キッチンの掃除に少し時間をかけた。
―――
年を越してしばらく。いつものようにクレフが合図を送ると海は小さく頷いた。梳いた髪がソファの背もたれへ流れ落ちる。二人の喉の小さく鳴る音が互いの耳に入るほどに、静かな夕暮れ時だった。首筋に冷たい唇が触れる。クレフが海の頭を抱え込むようにそっと撫で、海が白いシャツの胸元をそっと握った。それは「食事中、手のやり場がなくて困る」とどちらかが言い出し、どちらともなく始めた行いだった。
クレフの唇が静かに離れる。海の首筋に残る痕は、もはや恋人が残すそれとほとんど同じに赤黒い。
まだ寒い日は続くからマフラーや首丈の長い服でごまかせるだろう、と海は思う。春先までなら、去年の秋クレフと出会った頃のようにストールで対応できる。問題は、夏だ。首筋に絆創膏など貼れば『いかにも』と言う風貌になってしまう。それは避けたかった。
(あれ……?)
胸がチクリと痛んだことに、海は戸惑った。
― クレフ、いつまでここにいるんだろう
結果から言えば、夏の心配は不要だった。
そのことを、まだ、海は知らない。
― クレフが渇望するような瞳で海を見つめ、青い髪を梳くのが食事の合図だった
奇妙な共同生活が始まった。
「これを渡しておく」
クレフが海に手渡したのは銀色のネックレスだった。3センチほどの拳銃のようなチャームがついている。
「なにこれ、ださ……」
今どき小学三年生でもこんなの欲しがらないわよ。海がネックレスチェーンを指にぶら下げながら言った。
「まあそう言うな」
クレフは苦笑いし、海の指からネックレスを指ですくい取った。チェーンからチャームを外すと、拳銃は手のひら大に大きさを変えた。持ち運べば銃刀法違反に抵触しそうなリアルさがある。
「これを肌身離さず持っていろ。私以外の者に吸血されそうになったら、迷わず撃て。殺すことはできないが、しばらく動きは止められる」
「本物!? ていうか、私、銃なんて撃ったことないわよ!?」
「食事中の吸血種は、本能的に極めて弛緩した状態になる。至近距離で撃てば素人でも当たる」
「そんなこと言ったって…、弛緩……?、え?それってあなたもそうなの?」
「まあ、な」
「こんなもの持たせて、食事中の弱点まで教えて、私があなたを撃つとは思わないわけ?」
「撃つ理由がない」
「わからないわよ。噛まれるのが、嫌になっちゃうかも」
嫌になっちゃうは困ったな、とクレフは海の言葉を反復して可笑しそうに笑った。しかし、すぐに笑みを消し真剣な顔で言った。
「お前は、私を信じた。だから、私もお前を信じる。それだけだ」
そのまっすぐな瞳に海はたじろいだ。頭がクラクラするほどのこの夢物語のような状況が、現実として海の中に入ってくるのは、彼のまっすぐすぎる蒼い瞳の力によるところが大きかった。
クレフがチェーンを通せば、拳銃は再び小さなチャームへと姿を変えた。どうやらチェーンに触れているかどうかで大きさが決まるようだ。
「当たるのは食事中のみ。相手に銃口を見られた時点でまず当たらんと思え」念を押すように言いながら、海の首の後ろに手を回し、ネックレスの留め具をとめた。突然目の前に近づいたクレフの肩口に、海の心臓は飛び跳ねた。昨夜、目の前の人物が自分の首筋に吸い付き、その舌を這わせた事実を思い出し、海の頬は紅潮した。
いい匂いがする。なにか、これだと形容できそうなものがあった気がするが思い出せない。
顔の熱をごまかすように拳銃のチャームに指で触れた。
「それにしてもださいわね」
―――
同居にあたり、海の部屋のカーテンは全て遮光性のものに取り替えられた。「経費で落とす」と嫌に現実的なクレフの言葉に、海は苦笑いした。それならばあの夜道端でなくしたイヤホンも、と海が言うとクレフは無視した。
日中でも暗い部屋には、最初の頃こそ多少辟易としたもの、それ以外にはさほど窮屈感のない共同生活だった。海が仕事を終え、最寄りの駅に着く頃クレフが迎えに来る。家に着くと、彼は東京の見回りと雑食探しに出かけた。留守中に万が一雑食やイーグルが来襲した時の対策として、毎日家に結界を張ることも欠かさなかった。そして、日が出る前には帰宅し、リビングのソファで休む。海が起床しリビングで朝支度をするタイミングで一度起き、海と二、三の会話をしてから、出かける彼女を見送り、家の中で休むかセフィーロと連絡を取り合う。そんな日々だった。
クレフの食事は、海が寝入った時間に行われた。彼の言うとおり〝虫に刺されるようなもの〟なのか、海は吸血されていることに気付くことなく眠り続けた。雑食やイーグルによる襲来は無く、生活は平穏そのものだった。クレフの働きによるところか、そもそも狙われてなどいないのか。多少の貧血症状を除いては、海にとってメリットの多い共同生活だった。
「私、吸血鬼ってもっとこう、悪魔っぽい見た目かと思ってたのよ。黒いマントに赤いベストを着て、目なんか真っ赤っ赤で」
朝食のパンにバターを塗りながら海が言った。朝だと言うのに日光の入らない部屋にも、わずかばかり慣れてきた頃だ。
「でもクレフはいつもその格好じゃない? イーグルも、この前クレフのかわりに駅まで迎えに来てくれた吸血鬼さんだって普通の格好だったし」
「吸血〝種〟」
クレフが苦々しげに言った。海の向かいに座り、テーブルに頬杖をついている。朝に食事を取るのは海だけだ。
「あれでうろついていたら目立って仕方ないだろう」
手元で鉄剤飲料の瓶をくるくると転がしながらクレフは言った。
「しかし、人間が描き残しているあの装束姿はあながち間違っていない。おそらく画家か何かを吸血していた者がやらかしたのだろうな」
「ねえ、クレフはあの格好しないの?」
「私とて、魔力を大いに使う場合には纏ったこともある。もう昔の話だがな」
「そうなの!? 見たい! その服持ってきてないの?」
海が言うと、クレフはフと吹き出した。
「お前、まさか我々があの装束を常に持ち歩いて必要に応じていそいそと着替えているとでも思っているのか?」
「違うの?」
「あれも一種の魔法だ。必要な時に纏うものであって、こういった衣服とは本質が異なる」
言いながら、クレフは自分のカッターシャツの襟をつまんだ。
「そもそも、魔力が必要となるような場面でそんな流暢なことをしていられないだろう」
海が食事を終えると、クレフは手元の瓶のキャップをパキと回し開け、海に手渡した。
第一印象こそ最悪であったこの男は、意外にもよく笑う人物であることがわかってきた。そして、その笑顔がもたらす心地よさを、海は気に入ってきてもいた。とはいえ、その口の悪さと失礼さで足して割れば、「性格難あり」の判定が大きく覆ることはなかったが。
ある夜、迎えにくるはずのクレフがいつまでも駅に現れないので、明るい道を選びながら一人で帰った日があった。もしかしたら多忙で代わりの吸血種を寄越す余裕もなかったのかもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、自宅からほどない道端で、海は思わぬ光景を目にした。
クレフと警察官がなにやら話し込んでいる。
(なに? 事件!?)
海がそろりと近づくと、こちらに気付いたクレフが自分を呼んだ。クレフは嫌にニコニコとした作り笑顔で、一方警察官は困ったような不機嫌そうな顔をしている。
「ね、言ったとおりでしょう。彼女を迎えに出るだけなので、手ぶらだったんですよ」
なんなら家に戻って身分証を持ってきますよ、と白々しく足した。
あげく「迎えに行けなくてすまないね」と肩に手まで回してきたので海は少なからずうろたえた。
「お巡りさん、かわいい彼女が冷えてしまうのでそろそろいいですか?」とクレフが言うと、警官はぶつくさと「結構ですよ」と言った。
警察官の姿が見えなくなると「誰が彼女よ」と、海がクレフの手を払った。
「嘘も方便、というやつだ」
「職質される吸血鬼だなんて聞いたことないわ。しかもなんだかいやに慣れてたじゃない」
「慣れているものか。この国のIDを所持していないので非常に焦った」
呼び名を訂正する余裕もないクレフの様子に、海の口角が少し上がった。その時、ふいに海の右手がひんやりとしたものに包まれた。
「な、な、なに?」
クレフが、自分の手を握ったのだということに気付くと、海の顔色は一気に赤へとかわった。その時、背後からシャーと鳴る走行音と共に、先ほどの警察官が自転車で通りすぎて行った。
そういうことね、と海が言った。
そういうことだ、とクレフが言った。
繋いだ手がするりと解かれる。そこはかとない気まずさに間が持たなくなり、海が取り繕うように口を開いた。
「セフィーロに身分証を用意してもらったら?」
「手配はしているが、あちらもばたついているのでな。早急に作るようかけあわねば」
「作れるんだ……」
冗談で言った言葉にまさかの返答をされ、海は呆れたように瞬きを繰り返した。
「東京の警官は少々勤勉すぎる」
クレフがあまりに真剣な顔で言うので、また、海の頬が緩んだ。
―――
イーグルは身を潜めているようだった。
海が初めて彼と出くわした時のように路上でやみくもに女性を狙うことは止めたのか、そういった報告は入っていない。不審死の情報があれば駆けつけても、どれも取り越し苦労に終わった。不審死の場所や件数、状況から見るに、イーグルではなくほかの雑食の仕業である可能性が高かった。しばらくはイーグル以外の雑食をセフィーロへ送還する日々だと聞く。
毎夜睡眠時に行われていた吸血は、クレフの出動前、つまり、海が帰宅した後に行われることも増えてきた。食べてから出勤するか、帰宅してから食べるか。自分だったらどちらがいいかと海は想像を巡らせたが、吸血鬼と人間では仕組みが違うだろうと思いいたり、それ以上は考えるのをやめた。
クレフが血を必要とするタイミングが、彼の体調によるところなのか、魔力の消耗具合によるところなのか、あるいはその日の任務内容によるところなのか、海にはわからない。
しかし、これだけはもはや習慣と呼べた。クレフが渇望するような瞳で海を見つめ、青い髪を梳く。それが食事の合図だった。言葉はない。
食事を前に喉がコクリと鳴るのはクレフだけではなかった。首筋に触れる冷たい唇は、最初の夜とは比較にならないほど優しく、こそばゆい。いつの間にか、海にとっても、クレフの食事は心地の良いものになってきていた。
そんなある夜のことだった。
「おい、なんだこれは」
「あらクレフ、ごみ捨てありがとう」
クレフの手には、ごみ箱から回収したごみ袋が握られている。
「これはなんだ、と聞いている」
「何って、ごみでしょう」
クレフが持つ半透明のごみ袋の中には、ゼリー飲料やブロック食の空き箱がどっさりと透けて見えている。気まぐれに一個二個食べたという数ではない。無いよりはましだろうと買ったサラダの空き容器も複数あった。
「最近血の味が悪いと思えば」
「な、ひどい言い草ね。年末は仕事が忙しくてお夕飯を作る気力が湧かないのよ。仕方ないでしょ」
「道理で血色も悪いと思っていた。食欲のなくなる顔色だ」
「ほんと失礼な人ね!年が明けたら仕事も落ち着くわ。それまでは味の悪い血で我慢するのね」
クレフは、年が明けたら…と呟きながら、カレンダーを見やった。十二月三十一日までは優に一週間ある。クレフは大げさにため息をつき、言った。
「血は力だと何度も言っているだろう。今は特に目立った雑食の動きがないから良いものの、有事の際にこんなことでは困る」
「そんなこと言われたって」
「言い訳無用だ。少し待っていろ。そうだ、先に風呂にでも入っておけ」
一体何を待てと言うのか。それに、このままクレフに従うのも釈然としない。しかし、これ以上同じ空間にいても喧嘩が激化するだけだと思い、海は浴室へと向かった。
「なんなのよ、もう」
入浴剤の溶けた湯を指で弾く。すっかり湯が恋しい気候になってきた。最近は忙しさにかまけてシャワーで済ませる日も増えていただけに、全身を湯に包まれる心地良さはなお一層身に染みる。日本人で良かったと、柑橘の香りを吸い込み、思った。
「なにこれ……」
湯上りの海をテーブルの上で待ち受けていたのは、彼女の大好物だった。赤い赤いトマトソースのかかったそれは、紛うことなきミートソーススパゲティであった。ご丁寧に、溶けたチーズの乗った焼き野菜と、ベーコン入りのコンソメスープまで付いている。クルトンなど常備していない。わざわざパンを焼いたのだろうか。魔法で作ったのかとも思ったが、それにしてはキッチンが使われた痕跡がある。
あなた料理できるの? どうして人間の食事を作れるの? 味見はどうしたの? その真っ白なシャツでトマトソースを扱ったの? そういえばあの時もアーリオオーリオがどうだと言っていたわね?
泉のように激しく疑問が湧き上がり、どれから聞こうかと口をパクパクとさせていると、クレフが椅子を引いた。
「いいから早く食べたらどうだ」
「は、はい!」
言われるがまま着席し、手を合わせた。
スパゲティを一口巻き取り口へ運ぶ。
「…おいしい……」
「それは良かった 」
いつものように、クレフが海の正面へ座り頬杖をついた。
食べながら、先ほど沸いた疑問を矢継ぎ早に問いかけると「長く生きていると色々あるのだ」とクレフは言った。
「答えになってないわよ」
「とにかく、お前の食事は私の食事に直結する。少しは気を使え」
釈然としない。しかし、焼き野菜もスープもどれも普通に、と言ってはなんだが、本当に普通においしかった。
「それから、この際だから言っておくが、あまり夜更かしはするな。あと、面倒でも湯に浸かれ」
食器類をキッチンに運ぶ海に、クレフが言った。
「ママみたいなこと言ってる」
食器を洗いながら、海が言った。
「とにかく、あまり不摂生はするな。わかったな」
「ねえ、もしかして私の体を心配してくれてるわけ?」
「冗談を言うな。すべては私と、任務のためだ」
「はいはい、わかってますよ」
スープ皿を水切りかごに入れて皿洗いは終了した。シンクに散った水滴を布巾で拭き取る。思いがけないクリスマスディナーを頂いてしまった。顔が勝手ににやけてしまう。なんとなく、クレフのいるテーブルに戻りにくくなり、キッチンの掃除に少し時間をかけた。
―――
年を越してしばらく。いつものようにクレフが合図を送ると海は小さく頷いた。梳いた髪がソファの背もたれへ流れ落ちる。二人の喉の小さく鳴る音が互いの耳に入るほどに、静かな夕暮れ時だった。首筋に冷たい唇が触れる。クレフが海の頭を抱え込むようにそっと撫で、海が白いシャツの胸元をそっと握った。それは「食事中、手のやり場がなくて困る」とどちらかが言い出し、どちらともなく始めた行いだった。
クレフの唇が静かに離れる。海の首筋に残る痕は、もはや恋人が残すそれとほとんど同じに赤黒い。
まだ寒い日は続くからマフラーや首丈の長い服でごまかせるだろう、と海は思う。春先までなら、去年の秋クレフと出会った頃のようにストールで対応できる。問題は、夏だ。首筋に絆創膏など貼れば『いかにも』と言う風貌になってしまう。それは避けたかった。
(あれ……?)
胸がチクリと痛んだことに、海は戸惑った。
― クレフ、いつまでここにいるんだろう
結果から言えば、夏の心配は不要だった。
そのことを、まだ、海は知らない。