【クレ海】ショート作品

海にとってフェリオはあくまで「友人の恋人」であったし、フェリオにとっても海は、その言葉をそのままひっくり返した存在であった。

所用で食事を取り損ねた。
遅めの昼食を取るべく向かった城の大食堂でばったりと出くわした時には「どうしたものか」と目を合わせ、しばらくの間が開いた。が、結局は、「ご一緒しましょうか」という流れになり、〝変な空気〟になるどころか、むしろ会話は弾んだと言えた。

俗世的かつノーブルな面をあわせ持つ二人のウマは、異様に合った。食事を進めるうちにすっかりと打ち解け、ランチプレートを食べ終えるころには互いの恋模様まですっかり打ち明ける仲となっていた。

近い間柄だからこそ言えないこともある。
この微妙な距離感だからこそできる会話は、想いを抱え込んだ二人にとっては気楽で、ある意味解放感すらあった。

「クレフって」

海は、もはや想い人の名を伏せることもしなかった。
「人の頭をポンポン撫でるわよね。特にお弟子さん」

海がムスっとした顔で言った。
「老若男女かかわらず。ぽんぽんぽんぽこぽんぽんと」

フェリオなんてしょっちゅう撫でられてるじゃない!

海が恨みがましく言うと、フェリオは「俺に言われてもなあ」と苦笑いを零した。
「私なんて、荷物運びを手伝っても、教えてもらった氷の魔法を披露しようと思って氷菓子を作ってあげても、頭を撫でてもらったことなんて一回もないんだから!」
「そんなに撫でてほしいならそう伝えたらいいじゃないか」とフェリオが返した。
「そんなこと言えるわけないでしょ!」

海は、フェリオの顔をビシっと指さした。からかいに対する模範解答のような反応が海から返ってきたので、フェリオは面白そうに笑い、言った。
「まあ、たしかにあのお方は〝みんなの導師様〟だから。難攻不落ではあるかもな」
「そんなこと……わかってるわよ」

先ほどまでの勢いを無くし、海はテーブルに頬をぺたんとついて体を伏せた。

少しからかいすぎたか。フェリオは声をかけようとして、言葉を止めた。見れば、海がなにやら不思議な動きをしている。右手を枕にして突っ伏したまま宙に持ち上げた自分の左手を眺めているのだ。「何してるんだ?」とフェリオが尋ねる。
「一度だけ、触れてくれたの」

と、海は小さく呟いた。



何度思い出しても、擦り切れることはない。

それどころか思い出すたびに磨かれて、キラキラひかる愛しい思い出。

―あの時はセフィーロが大変だったからそれどころじゃなかったけど。

思い返せば、あの夜、少しだけ特別になれた気がしていた。

―あんなことされて、好きになるなっていうほうが無理よ。


「……でも、きっとあんなこと誰にでもしてるのね」
「触れたのはどっちの手だ?」
「え?」

フェリオは尋ねた。
「左手なのか?」

海が体を起こし「そうだけど」と答えた。

目頭を抑え、怖いほどの真顔になったフェリオに海は不安を覚える。
「フェリオ?」
「……いや、なんでもない」
「ちょっと! 何よ! そんな反応されたら気になっちゃうじゃない!」
「お前、口が軽そうだから言いたくない」
「ひどい! これでも結構口は固いほうなんだから!」
「そんなこと信じられるか」

フェリオが、取っ掛かりもなくそう返した。

海はブウブウとひとしきり文句を言った後、ボソリと呟いた。
「……レモンパイ」

フェリオが、あからさまにぴくりと反応を示した。
「この前、随分とお気に召されていたみたいじゃない?」
「……どうだったかな」
「来週のお茶会、皆の分とは別で作ってきてあげてもいいわ」
「食べ物で釣るなんてみっともないぞ」
「ワンホール」

言いながら、海は6号サイズほどの直径を手の形で作る。そしてそのまま右ひじをテーブルにつき、腕相撲の要領で右手の平を広げた。

フェリオも同じ要領で手の平を広げ、そして海の手の平をパシンと軽く叩いた。

握手未満のハイタッチ。交渉成立だ。
「フウには言うなよ?」

海が頷く。


「この国では、女性の左手は気安く触れていいものではないんだ」

とフェリオが言った。
「そうなの? 何かタブー的な……触れるとまずいってこと?」
「いや、そういうわけじゃない。日常生活で触れないなんてほぼ無理だしな。古い習わしだから、今じゃそんなことを律儀に守る者のほうが少ない」
「話がよく見えないんだけど。じゃあクレフだって、私の左手に触……れたのも別に普通のことなんじゃないの?」

恥じらうような咳ばらいを混ぜながら、海が尋ねた。
「たしかに軽視されつつある古い習わしではある。だが」

導師ほどのお方なら。

フェリオの続けた言葉に、海はハッとした。たしかに、クレフはそういった習わしを〝律儀に守るタイプ〟の人間だ。
「た、タブーじゃないなら、一体なんなのよ」

尋ねる海を一瞥し、フェリオは一つ呼吸をしてからこう言った。
「この国において、左手に触れるという行為はある深い意味を持つ」
「深い意味?」
「ああ。触れた相手を生涯守り、愛する。そんな約束を秘めた行為。だから大昔は、女性は常に左手を隠していたらしいぜ?」

フェリオは腕を組み、思案しながら言葉を続けた。
「導師が風習をないがしろにするというのは少し考えにくいが……まあ言っても軽く触れた程度だろ? おい、ウミどうした?」

フェリオが言葉を止める。海が、顔をこれ以上ないほどに真っ赤にして俯いていた。
「あの……」

ひっくり返りそうな声で海は言う。
「たぶん……軽く…ではなかった気がするわ」気がする。海は語尾を強調するように繰り返した。けれど、そんな言い回しをしたところで、忘れるわけがない。

あの日から毎日のように思い出していたのだから。
「こ、これが私の手だとして」

海は、テーブルの上に魔法を発動した。

心の揺れが、水を乱す。

けれど海はどうにかそれを形にした。

テーブルの上には、海の手と全く同じ形、左手をかたどった水の塊が浮遊している。ほう、と感心するフェリオをよそに、海は自分の両手を水の左手に近づけた。
「こんな感じ……」

海の両手が、水の手に触れる。
〝軽く触れる〟とはほど遠い。

水の左手を包む海の仕草を見て、今度はフェリオの顔が赤くなった。ガタンと椅子を鳴らし、食事のトレーを手に持ち立ち上がった。
「もうお前たち付き合え!」

言い捨て、フェリオは足早に去って行く。
「いいか! 今の話、フウには絶対言うなよ!」

混乱と赤面の海を置いて、フェリオは大食堂をあとにした。



自分もそうした。

フウが差し出したのは、左手だった。

習わしをないがしろにしたわけじゃない。

さんざん教えられてきた。
「国をつかさどる者として。古来からの文化や風習は尊べ」と。



―張本人が、一体なにをやってんだ。



怒ったらいいのか、笑ったらいいのか。

フェリオは百面相をしながら、一人、城の回廊を行く。
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