【クレ海】ショート作品
Peace ― 本を読むならこんなふうに(短編)
視界の端、右斜め前から飛んでくる視線を無視する。心苦しくないのかと問われれば否ではあるが、それにしてもあと五頁ほどで読み終えるのだから、このくらいは耐えてほしいところだ。
気分転換に時折出向く馴染みの茶屋。四人がけの長方形の席。今日は隣合わせでも向かい合わせでもなく、斜め向かいに私と海は着席した。
海の隣、つまり私の正面には異世界の文字で綴られた書物が積まれている。海は書物を睨みながら机の上に広げた紙面に何やら熱心に書き綴っていた。「試験勉強」とのことだ。
海の正面、つまり私の右隣には二人分の飲みかけの茶がある。提供された時には柔らかな湯気を放っていた茶もすっかり冷めた頃だ。先程から、海が頬杖をついたりため息をついたりする回数が明らかに増えていた。集中力が失われてきていることは傍目でもわかった。
一方こちらは順調だ。先日、司書に勧められ蔵書室から借りてきた書物。先人たちの残した貴重な記録が、次々に頭に入ってくる。今日は特別に調子が良い。十夜ほどをかけて読み続けた書物なのだ。この集中力のまま読み切ってしまいたい。
あと三頁ほど。ここまで来ると、新たな情報はおそらくもう現れないだろう。それでも、この素晴らしい書物が一体どのように締めくくられるのかという期待と、十日続いたこの本の旅が終わってしまう少しの寂しさのような感情がないまぜになりながらも、とにかく私は目を滑らせた。
そういえば、以前海に聞いたことがある。海の国では、読んだ文書が頭に入ってこない状態、または読みにくさを感じる文章のことを「目が滑る」と表現するらしい。
おかしな言い回しだと思う。「滑るように読み進められるならばそれは良い文章なのではないか?」と聞くと、海は「私に言わないでよね」と小さく唇をとがらせていた。
斜め前を盗み見る。海はその時と同じ唇の形を作っていた。思考が少し逸れそうになり、再び文字に目を落とした。
変わらず海の視線が刺さる。海は、いよいよ何が言いたそうな様子を見せ始めていた。声をかけられればさすがに応えないわけにもいかない。そこで私は、本を支える手のうちの一つを使い、人差し指と中指を立てた。
―あと二頁で済むから待っていろ
そんな想いを、立てた二本の指に乗せる。
視界の端で、海が微笑んだのがわかった。
いや、微笑みというより破顔に近い。
海は突然、筆記具を机の上に置き、私と同じく二本の指を立てた。
同じ指を立てながらも、私と海の手の形は似て異なる。海の手、立てた二本の指以外は、律儀なほどに折りたたまれていた。
その不思議な仕草に、顔を上げ海のほうを見る。ようやく私の視線を得た海は嬉しそうに口角を上げた。立てた二本の指に頬を預け、首などかしげている。
幼い精獣のような仕草に思わず目を惹かれる。
海の表情ならありとあらゆるものを見てきたつもりだった。けれど、まるで作られたようなこのような表情は初めてだった。これはこれで愛らしい。そんなことを思いながらも、今度は顔ごと左を向き視界から海を完全に外す。
千里眼など持ち合わせていないが海の落胆のような、怒りのような感情が視界の外から流れてくる。
あと一頁。視界の端には既に文末の後の余白が見えている。
もうすぐこの本の旅も終わる。本を閉じ「ただいま」のかわりに「待たせた」とでも言えば、海は笑ってくれるだろうか。それともまた唇をとがらせるだろうか。
どちらでも良い。
私の恋人に、愛らしくない表情など一つも存在しないのだから。
集中力はほとんど切れかけている。あと数行。
なるほど、たしかに目が滑る。
『Peace ― 本を読むならこんなふうに』
end
お読みくださりありがとうございました!
✌️ぶい💙ってする海ちゃんかわいすぎかー。
私の中には「読書中のクレフを邪魔したくない海ちゃん」と、「クレフに構ってほしい海ちゃん」が同居しています笑。
アニメの健気海ちゃんは前者っぽいかな?
それでも、お付き合いを重ねていくうえで二人とも少しづつワガママを見せ始められたら素敵だなー💜💙
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