📘1冊目「No name yet」2作


すき、すき、すき





それはありがちなプロローグと、苛立った男の話


生成り色に塗装されたコンクリートの上に、薄水色の美しい髪が流れている。毛先の一部が池の中へ垂れ下がり、水を吸っている。この時間帯は停止しているが、昼には噴水が出ているはずだ。その噴水池をぐるりと囲むコンクリートの腰掛けの上に、海は横たわっていた。
自宅へ帰りしな、寄るともなしに通りがかった駅前からほどない広場に海はいた。海は、眠っていた。なぜこんなところにという疑問はさておき、眠る頬をぺちぺちと叩く。赤い唇から「あと五分」と、くぐもった声が零れ、怒りの中にも安堵のため息がクレフの口から漏れた。


先頃あたえられた個人用の執務室は、羨む者もいるが、実質は監獄のようだとクレフは思っていた。見目こそ良いが結局はガラス張りの牢獄だ。事実、今夜も取るに足りない職務に追われ、終電を諦めた。
タクシーを呼ぼうとすればスマートフォンには『配車可能な車がありません』と無情な通知が表示された。舌を打ち、通知を指で閉じる。頭の先から爪の先まで自社と関連会社が詰まっているこのビルに、唯一テナントされているコンビニエンスストアはとうに閉店しシャッターが降りていた。

自社ビルから一本出た四車線の通りで待ってみれど、空車は一台も通らない。珍しいことだ。それは、彼女の持つ運ゆえか。あの時、クレフが歩いて帰る判断をしなければ、こうして横たわる姿を見つけることなど叶わなかった。

クレフは、池の中へ垂れ下がる海の髪をすくいあげた。目の覚める様子はない。昼の日差しを浴びたコンクリートは、今もなおぼんやりと熱をもっていて、きっと横たわる体にも伝わっているだろう。彼女はどれくらいの時間ここにいたのか。頬が紅潮している。幸い汗はまだきちんと出ているが、軽い脱水症状には違いない。

街頭が照らす。スカートからスラリと伸びた細い脚が何より目立つ。汗で張り付いた薄水色の前髪は、えも言われぬ色香を放っていた。人目につかない場所とはいえ、よく無事でいたものだ、とクレフは思う。

「海」
名を呼び、再び頬を叩く。
「海」
体をゆすると、海は「あと十分」と声にならない声で呻き、ごろりと寝返りをうった。
さっきより伸びてどうする、クレフは舌をうった。

「龍咲、遅刻だ。起きろ」
クレフの一際低い声に、海はガバと体を起こした。
「すみません! って…あれ? クレフ?」
なんれ? と問う海にクレフは「それはこちらのセリフだ」と言って、額に拳を押し付けた。
ゴツ、と重たい音が響く。

「痛っ」
「『痛い』で済んで良かったな。一体何を考えている。酔っぱらいがこんなところに寝て、何かあったらどうするつもりだ」
「あれ? みんなは?」
「何?」
「みんなー」
呂律の回らない、要領も得ない海の言葉に、クレフは不機嫌そうに眉根を寄せた。

「あ」
と海が言う。
「私がおいはらったんでした」
ヘラヘラと笑いながら、海は続けた。
「おくってこーか? って、百人くらいにいわれて」

酔い過ぎだ。実際は十分の一がいいところか。それでも多いが、まあ彼女ならあり得ない人数ではないとクレフは考える。

「やいやい頭に響くから『パパ』が迎えに来るってウソついたの。そしたらみんなすぐ消えた」
それで、海の言う『みんな』というのが、飲み会に参加した職場の同僚のことであることがほぼ確実になる。彼女の父親が来るとなれば、一同が一様に撤退するのは無理もなかった。だからと言って女性一人を残していくとは。

「そしたらクレフがきた」
端正な顔を崩し、呂律の回らない幼い言葉でヘラヘラとのんきに笑う海の額に、クレフはもう一度拳を当てた。それをきっかけに、海は自分の症状を自覚したのか、額を手で押さえ「頭痛い」と呟いた。

「飲み過ぎだ」
寝るなよ? と言って海を残し、クレフはかけていく。早々に戻ってきたクレフの手には、青地に白の波模様が描かれたペットボトルが握られていた。

「飲む点滴!」と海が言った。
クレフがキャップを開け、海にボトルを手渡すと、海は待ちきれなかったように、半分ほどを一気に飲んだ。CMに出られそうな飲みっぷりだ。

二十四時も過ぎれば、心地よい夏風が涼しく吹き、紅潮した海の頬を少しずつ冷やした。
海はすくと立ち上がり「回復!」と言った。

「ね、これから二人で飲み直しましょ?」
「飲むわけないだろう。さっさと帰れ」
「じゃ、送ってってよ」
「断る」
「……八人」

唐突に、海が言った。
「何?」
「最高記録」
「なんの?」
「酔い醒ましに、浜松町から寮まで歩いて帰った時ナンパされた人数。あーあ、もしかしたら今日はついて行っちゃうかもしれないなー」
「勝手にしろ。男が皆自分の思い通りに動くと思ったら大間違いだ」
と言うと、クレフは背を向けて去って行った。





それはありがちな嘘と、女の強かさの話





(ひっど。ほんとに置いてくなんて)
クレフは、昔から優しいけれど、昔から頑固だ。
こうなったら、きっともうどう粘ったって駄目。

よく知っている。長い付き合いだもの。

十数メートル先、手を挙げるクレフと、そちらに向かってゆっくりとスピードを落とすタクシーが見えた。そういえば、お礼を言い忘れた。クレフがこちらを振り向いたので、バイバイと手を振るとクレフも手を振った。しかし彼の手の振り方は私とは違う。クレフの手は、まるで犬でも呼ぶかのように、来い来いとせっかち気味に動いている。

わけも分からずぼんやりと眺めていると、停止しているタクシーがクラクションを一度鳴らした。声は聞こえないけれど、クレフはおそらく「早く来い」と言っている。小走りで駆け寄り、タクシーに乗り込む。

「三田寮だったな」
先にタクシーに乗り込んでいたクレフが、運転手に行き先を伝えた。クレフが私の分のシートベルトも締めると、車はゆっくりと走り出した。

「外で寝るほど酩酊していた件は理事に報告させてもらうぞ」
「酩酊はしてないんだけどなあ」
私が言うと、クレフはこちらを一睨みした。

会話らしい会話もなく、ただ車窓の明かりは緩慢に流れていく。金曜の夜の街は、通りによって賑やかだったり静かだったり、色々だ。窓の外を眺めていると、この世にはサラリーマンしかいないのではないかと錯覚すらする。

走り出してしばらく、クレフはようやくそのことに気づいたようで、バッとこちらを見た。
「もう四年目か?」
「そうよ」
クレフは額を押さえ、苦々しげに言った。
「なぜ言わなかった」
「なんででしょ」

三田の社員寮は、新入社員向けに用意されたもので、入社三年目までの職員しか住居できない。四ヶ月前に退寮していることを隠した私と、すぐに気付かなかった自分にも腹が立ったのか、クレフは本当に不機嫌そうに、大きくため息をついた。

「どこに越した」
「言わない」
「海、いい加減にしてくれ」
タクシーは、迷いなく三田方面へ進んでいる。
あわよくば、往復共に効率よくメーターを回せると踏んだのだろうか。それに、目的地が変更になったところで、今まで走ってきた料金は変わらないのだから走っておいたほうが得なのかもしれない。
クレフが、座席に置いていた私の鞄をひったくり、中から財布を取り出した。

「どろぼー」
私の財布から免許証を取り出すやいなや、裏面の新住所欄を見た。
「真逆じゃないか」口調は明らかにイラついている。
クレフが運転手に「戻ってください」と言って、行き先を告げた。住所を見ただけでよくそこまで正確に伝えられるなあとぼんやり考える。

「メーターは戻せませんよ」と運転手が言った。ほらね。
「怒った?」
「お前が駅前で寝ていた時から怒っている」
「機嫌直してくれない?」
「無理だな」
「ね、じゃあ、怒ってていいから免許証の写真見てみて」

私がそう言うと、クレフは手にしていた免許証をひっくり返し、おもて面に視線を落とした。思惑通り、クレフがフと小さく吹き出したので、今日初めて見た笑顔に少しほっとする。

「これは、なかなか」
「ぶっさいくでしょ」
「まあ、素材の良さは失われているな」
クレフは、料理評論家みたいなことを言って、もう一度免許証に目を落とた。フフと笑い、それから財布ごと鞄へしまった。そうこうしているうちに、車窓の外が見慣れた風景に変わってくる。

「この辺でいいです」と、私は運転手に言った。目の前のサイネージディスプレイに支払方法が表示されたので、そのうち一つを指で触れた。

「まだ先だろう?」
「寄り道して帰るの」
「だめだ」
「大丈夫、本当にもう酔ってないから」
「酔っぱらいは皆そう言う」
「ほんとなのに」

車が停車し、ドアが開いた後も問答を続けてると、運転手が、レシートはいるのか、と実質の咳ばらいをした。


酔っ払いには少しきつい坂を上がりきる。タクシーを降りて、ガソリンスタンドを通り過ぎたあたりから、もうほとんど人はいなかった。ライトアップはとっくに終わってるし、こんな暗がりのなかこの塔を見上げる物好きは私くらいのものだ。私につられてクレフも目線を上げた。街灯が白い喉元を照らすので思わず目を逸らした。

「海、気が済んだら帰るぞ」
「ね、クレフのお家行きたい」
クレフは「は?」すら言わなかった。都内有数の観光スポットを前に、これだけ不機嫌な顔をできる人も珍しい。

「前はよく遊びに行ったじゃない。またクレフの作ったお味噌汁飲みたいなー。お出汁の効いた熱ーいの」
「何年前の話をしている。頼まれて子供を家に預かるのとはわけが違うんだ。なんにせよ、理事の許可もなしに勝手なことはできない」
「じゃあ理事(パパ)に聞いてみようかしら。クレフならOKしてくれそう」
「嫁入り前の娘を男の家に上げさせる父親がどこにいる」
「二十代で外泊許可とる娘だって存在しないわよ。ね、最近パパと連絡とってる?」

帰る様子のまるでない私に、クレフは色々なことを諦めたのか、硬い表情と声色を少し崩した。

「先月本社に寄ると連絡が来たので、少しだけお会いした」
「パパ来てたの!? 私には何も言わないのにクレフには連絡するなんて! ね、パパ、何か言ってた?」
「来週末、ゴルフに誘われた」
「うわ」
めんどくさそ、と思わず声が漏れる。

「行くの?」
「もちろん」
「もうとっくに秘書じゃなくなったのに。気に入られるのも苦労するわね」
「そうでもないさ、接待無しなら楽しいものだ」
「そういえば、パパ、またクレフに秘書やってほしいって言ってたわ」
「それは光栄だ」
「今じゃクレフも秘書持ちだもんね」
「なんだ、知っていたのか」
「有名だもの。びっくりするくらい綺麗な人が付いたって」
「まあ、仕事はできる」
「ふーん」
「少なくとも酩酊してこんな風に迷惑をかけるような真似はしない」
「…一緒に飲んだことあるんだ?」

たしかに、今日はものすごく迷惑をかけた。
なぜだか、そうしたかった。

「……帰る」
「ぜひそうしてくれ」
あからさまにむくれて見せても、クレフは意にも介さない。そのかわりに、私がタワーに背を向け歩き出すと、あとを追って来た。

「すぐ近くだから、ほんとに大丈夫よ」
「まだ足元がふらついている」
「なあに? じゃあ結局送ってくれるわけ?」
「現状そうなっているだろう」

文句とお説教を言いながらも、なんだかんだで結局クレフはアパートの前まで送ってくれた。


クレフとほとんど同い年のアパートだ。寮を出たらタワーの近くに住みたかった。入社四年目の財力でこの辺りに住むには、色々と妥協が必要だった。オートロック無し、エレベーター無しの五階建て。入居する少し前に改築工事があったらしく、見た目はそこまでオンボロではないけれど、色々と荒は目立つ。何も言わなかったけど、クレフも少しびっくりしていた。

パパには住所しか伝えていない。セキュリティのセの字もないこんなところに住んでるなんて、バレたらどうなることか。「言わないでね、クレフ」なんて言ったら逆に報告されてしまいそうなので何も言わないでおく。やぶ蛇はつつかない。

「いつもあのような酔い方をしているのか?」
「内緒」
二人して、古びたコンクリートの階段を登る。
本日最後のお説教のつもりなのか、クレフの口調は今日一番刺々しかった。けれど、クレフはやっぱり甘い。来週のゴルフの時、パパに渡してほしいものがあると頼んだら、ここまでついて来てくれた。本当に、甘い人だ。

「海、お前ももう大人なのだから、あまり人を困らせるような真似はするんじゃない」
「ごめんね。でも、今日はなんだかクレフを困らせたい気分だったの」
「ならば、大成功だ。良かったな」

嫌味にめげず、乾いた声で「わーい」と返す。
三階まで上がり、自宅ドアの前でキーケースを取り出すと、クレフはドア横の壁にもたれ掛かり「早く取ってきてくれ」と面倒くさそうに言った。


「ね、さっきの話だけど」

言いながら、青いキートップの鍵を鍵穴に差す。

「なんの話だ?」
「秘書さんのこと」
「彼女がどうした?」
「付き合ってるの?」

ドアノブに手をかける。
クレフが「いやまさか」と言った。
そのまま、私がクレフの袖を掴んでくいと引くと、クレフは怪訝そうな表情で私を見た。

こんなの、振り解けばいいのに。
本当に、本当にあまい人。
そんなだから、つけこまれちゃうのよ。
つけこんだ本人が言うのもなんだけど。

もう一度、クレフの腕をグイと引く。
数秒遅れて、ドアがバタンとしまった。
暗がりの玄関は、慣れている分だけ私のほうが少し有利だ。
クレフの腕をドアに押さえつけ、踵を上げる。

「クレフ、今好きな人いる?」

クレフは何も言わなかった。私はそれをNoと捉える。

「よかった、私も」

奪った唇の隙間から強引に舌を差し入れれば、クレフは少し戸惑ってから、けれど応えた。

それが嬉しくもあったし、怖くもあった。
そして少し後悔もした。クレフも結局は男の人なのだと思うとそれが少しだけ寂しかった。

手元からキーケースがチャリンと落ちる。それから鞄も落ちて、ペットボトルが転げ出る鈍い音が聞こえた。
乱暴にシャツをはだけされられ、スカートをまくりあげられる。両膝がフローリングに擦れて痛い。

「ク、レ…っ…待っ、…靴、」






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