📘1冊目「No name yet」2作




HACK - into you - (試し読み)



人の頭部とは、意外に重いものなのだなと光は思う。

横たわる友人の、頭と背を支えて少し起こすと、風がそっと枕を抜き、替わりの枕を手際よく差し入れた。
白い絹の、簡素でありながら品のある寝衣に身を包み、ただ静かに寝息を立てるその姿は、光が言うとおり『眠り姫』のようだ。


海がすっかりと瞼を閉じてから既に二週間、セフィーロに来訪してからは五日が経っていた。



海が目を覚まさない。
海の母親から連絡を受けた日、光と風は飛ぶように海の自宅へと向かった。久々に会う海の両親は、笑顔で光たちを出迎えたもののその憔悴は隠しきれていなかった。それでも海の身の回りは清く整えられており、手厚い看病のほどが伺えた。

父親の、越権にも近い手配によって各分野の名医達が海を診た。しかし、海の眠りは医者達の知るどの〝昏睡〟とも異なり、皆一様に匙を投げたという。医者のうち一人が、海の症状を『眠り病』と呼んだ。しかし、海の両親をはじめ光と風も、その名称は一度も使わなかった。病という陰鬱な音が、海をさらに眠りの中へと閉じ込めてしまう気がしたからだ。

「海ちゃんね、時々うわごとを言うの」
海の母親がポツリと言った。
「外国人のお友達なんていたかしら」と。


その言葉を聞き、光と風はハッと目を合わせた。
「少しだけ、三人にしていただけますか?」
口にしたのは風だったが、同じ瞬間、同じことを光も思う。

海を目覚めさせることができる者は、『この世界』にはいない、と。




それは、全くの偶然に。セフィーロ城の中庭、剣技の鍛錬を終え木陰で少し休もうかという時、まばゆい光と共に少女たちが現れた。
恋焦がれた少女との再会を喜ぶ間も、また、「どうやってここへ」という問いを投げる間もなく、とにかくランティスは海を横抱きに抱え、導師の部屋へと向かう。人を抱えながらとはいえ、その長身の体躯が走れば、光と風はほとんど全力で走らなければ追いつけないほどだった。


それから五日。海の状況は何一つ変わっていない。代わりに、看病と心労によって疲弊した光達と、彼女たちよりもさらに疲弊したクレフの姿があった。

寝具の交換を終え、光達が海の体を拭く。
その頃クレフは、寝室の隅、御簾の向こう側で衣擦れの音を立てていた。魔法で行えばたやすいこれらの行為を、人の手そして自分の手で行うことは、それ即ち、彼の魔力の消耗を示していた。


「こっちはもういいよ」
光の合図を受けると、着替えを終えたクレフがずぶ濡れの髪を拭きながら寝台へと近づく。光が席を一つずらし、海の枕元に最も近い丸椅子を空けた。クレフは光に小さく礼を言うと、空いた丸椅子へ腰掛け、横たわる海の寝顔に視線を落とした。

『私たちがあんまり落ち込んでたら、海ちゃんも起きにくいよね』
以前に光が言った言葉は、もっともな気がした。しかし気を抜くとこうして重くため息が零れてしまう。「すまない」と、誰に向けるでもなく呟き、自身の眉間を親指でぐいと押して寝不足の瞼をわずかに開いた。

「相変わらず、ウミの魔法は目が覚める」
クレフが寂しげに微笑めば、光も風も、わずかに口角を上げた。




***
五日前のこと。
自室の扉が荒々しく開かれ、何事かと見れば、ランティスの腕の中で眠る少女の姿に、クレフはこれ以上ないほどに目を見開いた。

「ウ…ミ……?」

名を呼んだその瞬間だけは、その瞳に海以外は映っていなかった。しかし、それもつかの間、クレフは本来の厳格な表情を取り戻すと、全員を連れ自室の寝室へと移動した。
ランティスが、寝台の端へ海を慎重に寝かせる。光と風が口々に状況を説明する中、クレフは、海の瞼に触れ血色を見、手首に触れ脈を取り、「失礼」と言って胸元に耳を寄せ、そして心音を聞いた。それからいくつかの魔法をかけたが、効果がないことは彼女の深い寝息が物語っていた。

「他に、何か気が付いたことはないか? そちらの医者の見立てでもお前たちの見解でもなんでも良い」

クレフの問いに、光たちはうーん、とうなった。二人は目を合わせ、それから光は、ランティスのほうをおずおずと上目遣いで見た。ランティスが「少し外そう」と、言って早足に退室すると、光は重々しく口を開いた。

「海ちゃんの母様に聞いたんだ。海ちゃん、眠りながら時々、泣くんだって。それに……」
口ごもる光を、クレフが視線で促した。より一層ためらいがちに、光が言った。
「泣く時は、名前を…呼んでるって」
「名前?」
光と風が顔を見合わせる。
「クレフさん、あなたの名ですわ」
***




侵入ハックを行う」


セフィーロ来訪の翌日、光と風、それから眠る海に向けてクレフが言った。

寝室に置かれた円卓には本が山積みになり、大量の羊皮紙も散らばっている。昨日はなかった長机の上には、何十もの陶器やすり鉢のような器、それに蔦を巻いた草木や乾燥した花のようなものが並んでいる。いずれの品も、寝室に相応しくないものばかりだ。

クレフの手はインクやら染色された薬品やらで、本来の美しさを失っていた。「寝ていらっしゃらないんですか?」という風の問いには答えず、クレフが提案したのは「侵入ハック」という魔術だった。

心の中に潜り、内部から海の覚醒を促すという手段を、まずは光と風が試すことになる。侵入ハックの有用性、それから、初手を光達に任せる理由をクレフはあれこれと述べたが、彼女たちにとってはそんなことは瑣末なことだった。
何か手立てがあるのなら、それを実行するまで。そんな覚悟を、二人はしていた。


「良いか。ウミの中に入ると、まず扉が無数にある空間に出る。扉以外には何も無い虚無の空間だ。運が良ければ、その空間、つまり扉の外側にウミはいる」
「海ちゃんを見つけたらどうすればいいんだ?」
「何もするな」
「何もしないのに探すんですの?」
「そうだ。今日のところは侵入ハック実践テストができればそれでよい。無理に覚醒を促せば、『拒絶』、つまり心から強制的に追い出されることもある。『拒絶』が侵入者に与える精神的負荷は軽くはない。侵入者はあくまで自分の意思で帰って来ることが肝要なのだ」
「わかりました」

「先の通り、ウミが扉の外の空間にいれば良いが、しかし、ほとんどの場合、扉の中にいるだろう。扉は全て『記憶の断片』だ。幼少期から現在に至るまで全ての記憶がそこにある。しかし、ここまで昏睡するほどとなると……」
「やはりセフィーロでの記憶なのでしょうか」
「その可能性は非常に高い。現に、お前たちは再びセフィーロこちらへ来た。この国がウミを目覚めさせる手掛かりに違いない。それに……」

クレフが言いよどむ。
おそらく、自分の名を呼んだという点が引っ掛かっているに違いなかった。その様子を感じ取ったか、光が「とにかく行ってみるよ!」と、声のトーンを一つ上げ、言った。

「ああ。とにかく深追いはするな。焦りは禁物。先の通り、今日のところは行って帰ってくることができればそれで良い。覚醒は徐々に進める」

それはすなわち、この侵入ハックが何日にもわたって行われることの示唆でもあった。クレフが一通りを説明し終えると、光と風は手を握り合い、そして空いた手でそれぞれ海の手を握った。目を閉じ、意識を海のほうへと集中する。

クレフが何か短い言葉を詠唱すると、二人の体がぐらりと揺れ、そのまま寝台に突っ伏した。





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本編は約16,000字あります。
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