序章
「へェ、海賊ですか」
「ああ。驚かないのか?」
「まァそうですね。あんなの見せられたら」
「覇気のことか」
「睨んだだけで人を気絶させられるのは漫画かアニメのキャラクターくらいですよ」
「あにめ?」
「いえこっちの話です」
終電も無くなろうかというような夜の繁華街は賑やかで、少し入り組んだ路地にある屋台のおでん屋で交わす私達の会話に気付きもしない。
三本目の熱燗を手酌でお猪口に注ぎながら私は隣の男をチラリと見遣る。
赤い髪。屈強な体躯。左目には三本の引っ掻き傷。中身のない肩口で縛られた左袖。身の丈はありそうな黒いマント。腰に下げられた西洋の長剣。
こんな男が何故あんなゴミ捨て場でゴミ袋の山に埋もれていたのか。
話は数時間前に遡る。
鬼のような残業にキレて無理やり切り上げた帰り道。土曜日の夜ということで賑わう人混みを掻き分け進み、途中の街頭で流れた今話題のアニメ映画のCMに「私も何のしがらみもなく自由に生きたいわ」と愚痴を零し、どこかで一杯引っ掛けようと思って静かな店か屋台を探していたところ、通りかかったゴミ捨て場に"落ちてきた"この男に出会った。
「えっ!?何っ!?」
驚いたのはゴミ袋の山に埋もれていたことだけじゃない。その男の容姿がどこからどう見ても"異質"だった。
暗い夜でも目立つ赤髪に驚いていると、意識があった男は私に気付いた。
「すまん、お嬢さん。ちょっと手を貸してくれないか?」
イテテ、と頭を摩った男は、少し情けない笑みを浮かべながら申し訳なさそうに私に右手を伸ばしてきた。そこで"左腕がないことに気付き"慌てて手を貸して男を助け起こした。
「大丈夫ですか……?」
「ありがとう、助かったぜ。ところで……」
2メートルはありそうな男はキョロキョロと周囲を見回した後、困り果てた顔で私に言った。
「ここはどこだ?」
私は何と答えたらいいのかわからなかった。
*
何をどう伝えたものかと悩みながらしどろもどろにたった今目撃した状況を説明していると、今時こんなお約束的な展開があっていいのか、見るからにガラの悪い酔っ払いの男達に絡まれた。派手な柄シャツの胸元から覗く刺青が恐ろしい。
「イイ女だな、ちょっと付き合えよ」
なんて使い古されたセリフと共に後ろから手首を掴まれて、抵抗虚しくどこかへ連れて行かれそうになった時(彼らは"目の前の男"が見えていないのか?と違う意味でも恐ろしかった)不意にゾクリと背筋が震え上がった。
「オイ」
先程までの調子の良い声から一変して地を這うような低い声。冷や汗を浮かべて男を見ると"異様な威圧感"を放っていた。
「そのお嬢さんから手を離してもらえるか?彼女はおれの恩人なんだ」
ただ助け起こしただけなのにいつの間にか私は恩人にまで昇格していた。いや、そんなことよりも"たったそれだけのこと"でその場にいた酔っ払いの男達は残らず気絶してしまった。
「なんだ、絡んできたわりには骨のないやつらだな。……怪我はないか?」
「は、はい……ありがとうございます……」
「いや、礼を言うのはおれの方だ。……しかし参ったな。君の話が本当だとすると、どうやって船に戻ったものか……」
目の前の惨状を物ともせずに思い悩み始めた男を私は見守るしかなかった。どうにかしてあげたい気持ちはあるが、その方法はまったく浮かばない。そもそも"この男はどうやってこの世界に現れたのか"がわからなかった。
私はまだ男の口から事情を聞いていない。賢い男も話すつもりはないのだろう。
うーん、と唸った末、男はパッと笑って私に言った。
「なァ、この近くに飯屋はないか?腹が減ってちゃァ考えもまとまらねェからな!」
――そして今に至る。
酒が入ったからか口が軽くなった男は"自分が何者であるか"を簡単にだが教えてくれた。そして私が"驚かずに"頷いたものだから逆に男の方が少し驚いていた。
四皇 "赤髪"のシャンクス。
それが男の正体だった。
「ここの酒もなかなか美味いな」
「日本酒です。米が原料なんですよ」
「米か!なるほどなァ」
「おかわりいりますか?」
「ああ。ありがとう」
手酌が出来ない彼に代わって空になったお猪口に酒を注ぐ。赤ら顔で酒を呷る彼はすっかり上機嫌だった。これでは逆に考えなど纏まらないと思うのだが、楽しそうなところにわざわざ水を差す必要もない。少しくらい現実逃避したっていいだろう。
酒を飲んで、熱々のおでんを食べて、極めつけに〆のラーメンを教えてあげると喜んだ彼は二杯も平らげてしまった。そんなに食べて大丈夫なんだろうか。
「……大丈夫ですか?」
「うっぷ……あんまりにもウマイから少し食べすぎちまった……」
「だから言ったのに……」
二人でラーメン屋を出て、青い顔で口元を押さえる彼は背を丸めていても私より大きく背中を摩ろうにも手が届かない。
水は飲ませた。念の為に二日酔いに効く薬も買っておこう。私も少し飲みすぎた。
ふと、彼の纏う空気が変わった。つられて顔を上げると私達の進行方向の先から複数の警察官の姿が歩いてくるのが見えた。きっと誰かが通報したのかもしれない。巡回中にしては人数が多かった。
「赤髪さん、少し寝たふり出来ますか?」
「……」
彼は何も答えなかったけれど、無言を肯定と取った私は何食わぬ顔で警察の皆さんの対応を買って出た。
「すみません。ちょっとお話よろしいですか?」
「あ、はい。構いませんが……連れが飲みすぎてしまってて……」
「では、手短に。そのお連れの方とはどういったご関係で?」
友人を気遣うような素振りで視線を彼に移せば、警察の人達も酔い潰れていると受け止めたようで単刀直入に聞いてきた。
私は"平然とウソを吐く"ことを選んだ。
「大学時代の友人なんです。実は今日、同じサークルだった仲間達とパーティーをしまして……もしかしなくてもこの格好のせいですかね?」
「ええ、まあ……近所の住民から『妙な格好をした大男が女性を連れ回している』との通報がありまして」
「ああ、やっぱり。だからコスプレはやめた方がいいって言ったんですが、今流行りのキャラだから絶対にウケる!って聞かなくて」
「なるほど……ではその腰に下げている剣のような物もコスプレの道具ですか?……ちょっと見せてもらっても?」
「はい、どうぞ」
反射的に頷いてしまった。けれどここで断れば怪しまれて余計に長引くだけだ。どうか"剣が本物だ"と気付かないでくれ。
平静を装いながら早鐘を打つ心臓の音が身体の内側で大きく響く中、隣で「うぷっ」という声が聞こえた。
「え?」
「………………吐く……」
両頬をパンパンに膨らませた彼の顔は、もはや極限状態の青い顔だった。私の顔も青ざめた。警察の人達にもどよめきが走った。
「ままま待ってくださいもうすぐ私の家に着きますから!!あのッ事情は説明しましたしッもう行ってもいいですか!?」
「は、はい……今回は誤報ということで処理しますが、今後は誤解を招くような行動は慎むようにとお連れの方にお伝えください」
「わかりました!それじゃあ失礼します!巡回お疲れ様です!!」
プライベートでこんなに声を張ったのはいつぶりだろうかなんて考えながら彼を連れて大急ぎで警察の人達の横を通り過ぎていく。
道の角を曲がり、姿が見えなくなったところでようやく私達は足を止め、疲労と緊張感からの解放に私は長い溜息を吐いた。
「ハァァ……すみません、赤髪さん。助け舟を出していただいて」
「……なんだ、やっぱり気付いてたのか」
頭を上げた彼はケロリとした顔でイタズラに成功した子供の笑みを浮かべていた。思っていたよりもノリがいいというか、子供っぽいというか。そういえばどこかで"彼はおとなげない"のだと聞いた気がする。今のは少し違うが。
「本当はその剣に触らせない方がいいと思ったんですが、避ける方法が浮かばなくて」
「あの場は仕方ないさ。それに、おれが怪しまれないように"ウソ"を吐いてくれたんだろう?感謝こそすれ怒る道理はない」
「……ありがとうございます」
おとなげないどころか紳士的なフォローにホッと胸を撫で下ろす。
「あの、先程も言いましたが私の家はこの近くなのでよかったら泊まっていってください。いろいろと状況の把握も必要でしょうし、何よりまた"通報"され兼ねませんから」
姿勢を改めて彼を自宅へと誘う。今更彼を放り出す気はなかったし"彼が帰る方法を探る為にも"それが一番いいと思ったのだ。
私の誘いに彼は目を丸くした後、困惑した顔で頭をガシガシと掻き、そして情けなく笑った。
「――すまん。恩に着る」
*
自宅アパートに着いて彼を部屋に通し、ひとまず常備していた二日酔いに効く薬を手渡して(飲むかどうかは彼に任せた)私は彼の事情を聞くことにした。
彼の船のこと、彼の仲間のこと、彼のお気に入りの子供のこと。そして彼が"この世界に来る直前までの行動"のこと。
「"海に呼ばれた"?」
「ああ。初めは人魚か魚人族の類かと思って海を覗いてみたんだが、声のする方を見ても誰もいなかったんだ。それで首を傾げていたら突然"何かに引きずり込まれるように"海に落ちてしまった」
「落ちて……!?」
簡単に"海に落ちた"と話す彼に肝が冷える。どこの世界でも海は危険だが"彼の世界の海"は危険どころの騒ぎじゃなく"魔の巣窟"みたいなものだ。……それにしてはあの時の彼は"水滴ひとつ付いていなかった"けれど。
「みるみるうちに海の底へと身体が沈んでいき、どうにかこの状況を打破しようと策を捻り出していた時、今度は"急激な浮遊感"に襲われてな。――気が付くと"あの有り様"だ」
「……海に沈んでいたはずが、いつの間にか"空を落ちていた"ということですか?」
「"ウソ"みたいな話だろう?だが事実なんだ。信じられないかもしれないが……」
「いえ、信じますよ」
どこか不安そうな笑みを浮かべながら"躊躇いなく薬を飲んだ"彼を見て私は断言する。あの"覇気"を目の当たりにした時からもう疑ってすらいなかったが、信用も信頼も手に取って見えるものじゃない。
"言葉にして初めて相手に伝わるもの"だ。
彼は私の言葉に再び目を丸くすると、照れ臭そうに笑って「……そうか、ありがとう」と呟いた。
「君は優しいんだな」
「事情が事情ですから、乗りかかった"船"ですよ」
「……だっはっはっ!!そうかこれも"船"か!」
何がお気に召したのか声を上げて笑う彼に不安の色はなく、私も密かに安心して「お風呂を沸かしますね」と立ち上がった。
入浴を済ませ、詳しい事は明日話し合うことにしてひとまず今日は寝ることにした。
彼にベッドを譲ると「女を床で寝かせては男が廃る」とかなんとか言われて、押し問答の末に床にマットレスと敷布団を敷き詰めて雑魚寝をすることになった。
男性用の寝巻きなどあるはずもないので彼には元々着ていた服をもう一度着てもらうことにした。……臭いが凄いから明日は絶対に服を洗濯させよう。
「君にはいろいろと面倒をかけてしまってすまないな。礼を言う」
私に背を向けるようにして横になっている彼は自分の右腕を枕代わりにしている。枕が一つしかないのでせめてクッションを貸すと言ったのだが、柔らかすぎて落ち着かないからと断られてしまった。
「気にしないでください。こういうのは"袖振り合うも多生の縁"と言うんですよ」
「それはどういった意味なんだ?」
「街中でただすれ違った相手とも前世からの因縁がある……どんな小さな出来事も"ただの偶然"ではなく"深い宿縁に因るもの"という意味です」
「つまりおれと君がこうして出逢ったのも"深い縁"によって引き寄せられたというわけか」
「……まあそういうことですね」
「そうかそうか!」
自分で言っておいて何だが改めて言われてしまうと恥ずかしくなる。彼の声が何故だか弾んでいるのも少し気になった。
「そういえば赤髪さんは"海に呼ばれた"って言われてましたよね。どんな風に呼ばれたんですか?」
「ん?そうだな、あれは確か……"いきたい"」
「……え?」
「"私も行きたい"と言っていた」
彼の言葉に一瞬耳を疑う。脳裏を過ぎるのは彼に会う前に私が"人気アニメ映画のCMに向けて呟いた"この世にありふれた愚痴。
『私も何のしがらみもなく自由に"生きたい"――』
思わず固まってしまった私に気付いていないのか彼は無邪気に語る。
「ハッキリとすべて聞き取れたわけじゃないんだが、そう聞こえてな。だからおれは、てっきり誰かがおれ達の仲間に入りたくて呼んでいるんだと思ったんだ。だが周囲を探してみても誰の姿もなかった」
「……」
「するとうっかり海の中に引きずり込まれてしまったわけだ」
「……それをうっかりで笑って済ませられるのは赤髪さんくらいですよ」
「そうか?」
キョトンとした声と共に首を傾げる彼は確かに子供っぽい。それが妙に可笑しくて少し笑ってしまったらいつの間にか彼が肩越しにこちらを振り向いていた。
「どうしました?」
今度は私が首を傾げると、満足げな笑みを満面に湛えていた。
「――いや、なんでもない!」
「?」
何がきっかけで上機嫌になったのかわからないが、更に饒舌になった彼はもっとたくさんの"冒険譚"を話して聞かせてくれた。
決して"この世界では体験することの出来ない"数々の冒険に私は思いを馳せながら目を閉じる。段々と眠気が襲ってきた。ああ、今何時だっけ。
「それでな――もう寝るのか?まだまだ話し足りてないぞ?」
「ん……赤髪さん」
「どうした?」
夢現に思い浮かべる。広い広い大海原を駆け抜けていく"レッド・フォース号"の姿。甲板では彼と彼の仲間達がどんちゃん騒ぎで宴の真っ最中。彼らの行く先々には想像もつかないような大冒険が待ち構えている。
それはきっととんでもなく"自由"なんだろう。
「赤髪さんを"呼んだ"その声の主が誰かはわかりませんが、でも、赤髪さんを呼んだ"理由"なら……少しだけわかります」
私は願う。"私も行きたい"と。
"大海原を自由に生きてみたい"と。
「赤髪さんの話を聞いて、私も思ったから……きっと、その"声の主"も同じように……"いきたい"と……」
無理だと理解しているから、願うのだ。
私は夢の世界へ落ちていく。
寝落ちる直前、彼が寝返りを打ったのがわかった。それから彼に髪を撫でられたような気がするが、無くなってしまった左腕を下に敷くとバランスが取りにくそうだな、などと下らないことを考えているうちにその感覚は遠くなっていった。
「――もしよかったら考えてみてくれ」
彼の声も遠くに聞こえる。
ふわふわとした夢の中でぼんやりと響く。
「おれ達はいつでもお前を歓迎する」
「……赤髪さん……」
うっすらと開かれた視界の中で辛うじて彼の"赤髪"を捉える。笑っているのだろうか。
「大丈夫ですよ……赤髪さんなら、ちゃんと、"元の世界"に……」
帰れますよ――。
*
スヤスヤと小さな寝息を立てて眠ってしまった彼女の最後の言葉に、おれは酷く安堵した。
「……本当に不思議な娘だ」
君がそう言うのなら間違いないのだろう。
仰向けになり、"見たことのない"見知らぬ天井を見つめて仲間達の姿を順番に思い浮かべる。
待ってろよお前達。おれは必ず船に戻るぞ。
*
「――オイお頭!いつまで寝てるつもりだこの野郎!?」
「うおォッ!?」
ラッキー・ルウの怒鳴り声に驚いたシャンクスは飛び起きた。同時に跳ね上がった鼓動を抑えながら己を囲うようにして集まっている仲間達を見回す。"見慣れた光景"が広がっていた。
「お前ら……おれは、いったい……?」
「覚えてねェのかお頭。酔っ払って船から落ちたんだぜ」
「ベック……」
寝起きだからか混乱しているらしいシャンクスにベックマンが声を掛ける。他の仲間達も、酔っ払った上に海で溺れて、それから一晩中も眠り続けていた船長の身を案じている。
シャンクスだけがこの現状に深い安堵を覚えた。
「……本当に戻ってきたのか」
「何言ってんだお頭?まだ酔ってんのかァ?」
安心したことで呆れ顔になったヤソップがシャンクスの呟きを拾う。"アレ"は夢だったのかと疑っていたシャンクスは、ヤソップにまだ酔いが残っているのかと指摘されたことで己の体調に気付く。たらふく飲んだ翌日は大抵二日酔いで苦しんでいたが、今は驚くほどにスッキリしている。頭痛すら感じなかった。
『よかったらこの薬をどうぞ。二日酔いに良く効くんですよ』
彼女の声が、言葉が、表情が、姿が一気に思い起こされた。たった一晩の奇妙な縁。
思えば彼女は(抑えていたとは言え)シャンクスの覇気を"正面から浴びて尚立っていた"!
「"夢"じゃなかった……!」
子供のように瞳を輝かせてシャンクスは歓喜に拳を握る。一人様子がおかしい船長を船員達は「お頭め、まだ酔っ払ってやがる」と呆れて肩を竦め、そしてシャンクスの無事を祝って大声で笑い喜びあった。
「野郎共ォ!宴の準備をしろォ!!おれがおもしれェ話を聞かせてやる!!」
『オォーー!!』
仲間達を引き連れて意気揚々と甲板に出ていくシャンクス。彼が目覚める少し前までの通夜のような空気はすっかり晴れ、いつもの"赤髪海賊団"の姿に戻ったことをベックマンは喜ぶ。
「"あんな思い"をさせるのはこれっきりにしてくれよ、お頭」
副船長の囁かな願いは、明るく笑う船長や船員達の喧騒に掻き消されて男達の耳に届くことはなかった。
――さて、レッド・フォース号にいつもの賑わいが戻ってきた頃。
"彼女"は"見知らぬ場所"で目を覚ました。
「……ここは、どこ……?」
広い広い大海原。帆に風を受けてぐんぐん進む大きな船。ぽつんと立ち尽くす姿は心許なく不安に満ち溢れている。
「誰だお前?」
そんな彼女に声を掛けたのは、"麦わら帽子をかぶった黒髪の少年"だった。
終わり
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