序章
真っ白な世界に、悪魔は立っていた。
たった一人で立ち尽くす悪魔は顔を上げ、虚空を見据えている。
そこには白い太陽が存在していた。
眩しくて目を逸らすと、いつの間にか悪魔はこちらを見つめていた。
血のような真紅に染まった瞳に捉えられ、その美しさに身動きが取れなくなる。
悪魔は微笑み、こう囁いた。
『美しい天使様。そんな薄着では、風邪を召してしまわれますよ。
こんな冷たい世界にいないで、あたたかな空の国へどうぞお帰りなさい』
キラリ、と銃口が光を反射する。
悪魔はますます笑っていた。
「兄貴、起きてくだせえ。もうすぐ着きやすぜ」
「……」
弟分の声で男はゆっくりと覚醒する。
世界を埋め尽くしていた白はどこにもなく、闇がすべてを支配していた。
「珍しいですね、兄貴が居眠りだなんて……お疲れならクライアントには俺だけで会ってきますぜ?どうせブツを受け取るだけの簡単な仕事だ、ジンの兄貴がわざわざ出向くまでもねえ」
「……フ、おまえに心配されるとはな……オレもずいぶん焼きが回ったらしい」
「え?い、いや、なにもそこまでは……」
口が過ぎたかと焦る弟分に冗談だと告げてやることもせず、男は正面を見据える。
確かに目的の店はもうすぐそこまで迫っていた。
「……」
久しぶりに夢を見た。
いつから見始めたのかさえもう憶えてはいないが、懐かしくも見知らぬ光景を映し出す夢を男は若い頃からよく見えていた。
ここ暫くは夢さえ見ていなかったが、どれだけ久しくともそれだけはなにひとつ変わらない。
すべてを埋め尽くす白い雪と、悪魔のような赤い眼をした女の夢。
弟分の言う通り、疲れでも溜まっていたのか。
そんな己を一笑に付した。
「着きましたぜ、兄貴」
「ああ」
エンジン音が止まり、男は弟分とともに愛車から降りる。
ドアを閉めるために伸ばした腕にひとつ、白い雪が舞い落ちた。男の黒いコートにじわりと解けて消えていく。
まるで命の灯火が掻き消えるかのように、あっけなく。
「兄貴……?何かありましたかい?」
「……いや、なんでもない。行くぞウォッカ」
「ヘイ」
訝しむ弟分を引き連れて男はクライアントの待つ店に入っていく。
その背の向こうでまたひとつ、雪が男の愛車に舞い落ちて儚く消えていった。
END.
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