開幕
「はあ…はあ…」
キノは走っていた。理由は言わずもがな、追われているからだ。
運動神経はいいほうだが、日頃授業も体育祭もサボっていたキノ。しかも部活は帰宅部で、運動とまったく縁のない生活を送っていただけに、まさか今になって全力疾走するハメになるとは思わなかった。
「しくじった…」
最初は傍にいたモモ達も、散り散りになってしまい、現在キノは孤立状態。背後からは数人の若い男女が迫っており、進行方向に追跡者がいないのが、せめてもの救いだった。撒こうにも一本道で、ただただ前に走り続けるしかない。
しばらく走り続けたその時、前方に曲がり角を発見し、勢いよく飛び込むようにまがる。だが、
「……………!!」
キノは愕然とした。前には小綺麗なアパートが両側に隣接しており、その先は…………
「い、行き止まり…」
走る事を忘れ、立ち尽くすキノ。背後からバタバタと足音がする。
絶体絶命……。キノは植え込みに力無く座り込む。
と、その時、
グイ!
「!!」
何者かに腕を捕まれ、植え込みの中へ引っ張り込まれる。逃れようともがいていると、背後にいる者に抱きしめられる。
「静かに…。見つかるよ」
キノの耳元で囁く声が。心地好い低いテノール。キノは何故か、その声に従いもがくのをやめる。
しばらくすると数人の足音が、キノが隠れている植え込みのすぐ前を走り抜けていった。
しかし、通り過ぎてもがっちりとホールドされたまま離してくれない。不思議に思い、少し首を回し背後の人物を見る。
若い青年と目があった。少し日に焼けた肌と、赤いメッシュが所々入った、黒い短髪。ひどく整った顔がキノの顔を見つめている。しかもどアップで。その瞬間キノは今の自分の状況を理解し、ふたたびもがきだす。しかし、がっしりした腕は、緩む事無くキノを抱きしめたまま。痺れを切らしたキノは、後ろの青年を見て呟く。
「ちょ…離して…」
しかし返ってきた答えは、
「やだ」
それを聞いたキノは、腕を振りほどこうとするものの、逆にさらにギュッと抱き着かれる。そして、さらに密着した青年は再びキノの耳元で囁く。
「まだダメだよ。忘れたのか?この先は行き止まりだ。じきにあいつらが戻って来る。今出ていったら確実に捕まるぜ。だからもう少し我慢…な?」
「っ………分かった…」
青年の言う通り、今出ていけば捕まる事は確実。キノは再び大人しくなった。すると少ししてから、またバタバタと足音が通り過ぎた。…大通りのほうに向かったようだ。逃げ切れた…とキノは詰めていた息を吐いた。同時に腕の力も緩まると、キノは思い出したように青年の手から逃れる。そして植え込みから這い出ると、自分を見つめている青年を一瞥して一言、
「…ありがと…」
と言い目を反らす。先ほどの状況を思い出し落ち着かない。異性に抱きしめられるなんて経験のないキノ。どういう顔をして、彼を見たらいいのか分からない。顔に熱が集まり、相手を直視出来ない。
すると、青年はキノを見つめたままフッと笑うと、
「あんたかキノか。確か逃走側の大将だったよな。俺はクロ。中立って立場だ」
よろしくと出された手を、キノは遠慮がちに握る。自分でもビックリだ。初対面の、しかも男に握手を求められ、嫌悪感を感じない自分。もしかしたら、彼…クロの飾り気のない、優しい雰囲気がそうさせるのかもしれなかった。握手を交わし、少しキノが落ち着いたところで、クロは話を切り出した。
「キノは『祭』は初めてなんだろ?色々決まり事とかあるけど、知ってるか?」
「あ、うん。大体はユカに聞いたから」
「ユカ?」
「私の……親友……?」
「な、なんで疑問形?もしかして、同じ逃走側なのか?」
「うん…」
「ふーん…」
クロは視線を落とし、何か考えるそぶりをした後、またキノを見た。
「なあ、あんたの仲間にしてくれないか?」
「は?な、なんで?」
「あんた素人なんだろ?俺は何度も参加してるし、色々知ってる奴が傍にいたほうが何かと便利だろ?だから……それに俺、あんたを支えたいんだ。迷惑か?」
キノは呆気にとられた表情でクロを見る。聞き方によれば口説き文句にも聞こえなくもない台詞を受け、キノは考える。
確かに、クロの言い分は最もだ。自分は今年初めて参加したズブの素人。いくらユカが詳しいとしても、彼女だって参加は初めてだ。それにユカの情報が、すべてとは限らない。マニュアル通りには行かない、そんなゲームなのだ、これは。ここはクロを仲間に迎えたほうがいいかもしれない。
「…分かった」
キノがコクリと頷くと、クロは太陽のような眩しい笑顔を見せた。
「よし!これからよろしくな!大将!」
「……大将は止めて…」
彼―クロとの出会いが、キノに大きな影響を与える事になるのは、まだまだ先の話。
――‐
夕方になり、キノとクロは人の波がいくらか治まった商店街を抜け、路地裏に身を隠していた。
とりあえず10時を回れば、追跡側は追い掛けては来ない。それまでは出来るだけ人目を避けて、下手に動かないほうがいい。キノはクロがコンビニで買ってきた、カレーパンと缶コーヒーをご馳走になりながら、クロから色々と『鬼ごっこ』について聞いていた。やはり、ミカの情報と被る部分も多々あるが、知らなかった事も多い。
「…協力者?」
「ああ。今年から中立者や一般の人達を協力者として仲間に出来るんだよ」
「でも、一般の人達を巻き込んじゃダメって…」
「一般や中立の連中は、追うとか追われるとかは決まってないけど、自由に祭に参加出来るし、役割があるんだ。例えば……『監査』や『技工士』、あと『策士』他にも色々いるみたいだけど、俺が把握してんのはこれくらいだ」
クロはそこまで言うと、残っていた缶コーヒーを飲み干し、キノに笑いかける。キノはその顔を見て、思わず目を逸らし、所在なさげに視線を泳がせながら俯く。
……先程から、なぜか落ち着かないのだ。ここに来る際にも、手をしっかり繋がれたり、抱きしめられたり。異性に免疫のないキノには些か刺激が強い。しかも、当の本人は当たり前のように平然としているため、嬉しいというか恥ずかしいというか、なんというか………複雑な思いが渦巻く。
(慣れてるみたいだし、別にこの人にとっては、特別なことじゃないんだ…)
キノは少し落ち込んでいる自分に驚いた。いつもなら無関心を貫き、別になんとも思わないのに、クロに優しくされたり、名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が締め付けられる。だが、経験のないキノはこのもどかしい気持ちがなんであるか、皆目検討がつかなかった。
「キノ?疲れたのか?大丈夫?」
「あ、え?う、ん……少しだけ…」
「今は…9時か。もう少し休むか?」
「ううん。もう大丈夫」
「そうか…じゃあ、そろそろキノの仲間たちと落ち会うか」
クロはそう言うとキノに手を差し出す。キノが戸惑っていると、クロはキノの手を掴み立たせる。勢いあまったキノは、クロの胸に飛び込むようなかたちになってしまい、キノは恥ずかしさにワタワタと真っ赤になりながら、クロの腕の中から離れる。そして、
「は、早く行こう…」
とだけ言うと、すたすたと早歩きで歩き出す。そんな彼女は愛おしむように見つめているクロの視線にキノは気付くはずもなかった。
キノは走っていた。理由は言わずもがな、追われているからだ。
運動神経はいいほうだが、日頃授業も体育祭もサボっていたキノ。しかも部活は帰宅部で、運動とまったく縁のない生活を送っていただけに、まさか今になって全力疾走するハメになるとは思わなかった。
「しくじった…」
最初は傍にいたモモ達も、散り散りになってしまい、現在キノは孤立状態。背後からは数人の若い男女が迫っており、進行方向に追跡者がいないのが、せめてもの救いだった。撒こうにも一本道で、ただただ前に走り続けるしかない。
しばらく走り続けたその時、前方に曲がり角を発見し、勢いよく飛び込むようにまがる。だが、
「……………!!」
キノは愕然とした。前には小綺麗なアパートが両側に隣接しており、その先は…………
「い、行き止まり…」
走る事を忘れ、立ち尽くすキノ。背後からバタバタと足音がする。
絶体絶命……。キノは植え込みに力無く座り込む。
と、その時、
グイ!
「!!」
何者かに腕を捕まれ、植え込みの中へ引っ張り込まれる。逃れようともがいていると、背後にいる者に抱きしめられる。
「静かに…。見つかるよ」
キノの耳元で囁く声が。心地好い低いテノール。キノは何故か、その声に従いもがくのをやめる。
しばらくすると数人の足音が、キノが隠れている植え込みのすぐ前を走り抜けていった。
しかし、通り過ぎてもがっちりとホールドされたまま離してくれない。不思議に思い、少し首を回し背後の人物を見る。
若い青年と目があった。少し日に焼けた肌と、赤いメッシュが所々入った、黒い短髪。ひどく整った顔がキノの顔を見つめている。しかもどアップで。その瞬間キノは今の自分の状況を理解し、ふたたびもがきだす。しかし、がっしりした腕は、緩む事無くキノを抱きしめたまま。痺れを切らしたキノは、後ろの青年を見て呟く。
「ちょ…離して…」
しかし返ってきた答えは、
「やだ」
それを聞いたキノは、腕を振りほどこうとするものの、逆にさらにギュッと抱き着かれる。そして、さらに密着した青年は再びキノの耳元で囁く。
「まだダメだよ。忘れたのか?この先は行き止まりだ。じきにあいつらが戻って来る。今出ていったら確実に捕まるぜ。だからもう少し我慢…な?」
「っ………分かった…」
青年の言う通り、今出ていけば捕まる事は確実。キノは再び大人しくなった。すると少ししてから、またバタバタと足音が通り過ぎた。…大通りのほうに向かったようだ。逃げ切れた…とキノは詰めていた息を吐いた。同時に腕の力も緩まると、キノは思い出したように青年の手から逃れる。そして植え込みから這い出ると、自分を見つめている青年を一瞥して一言、
「…ありがと…」
と言い目を反らす。先ほどの状況を思い出し落ち着かない。異性に抱きしめられるなんて経験のないキノ。どういう顔をして、彼を見たらいいのか分からない。顔に熱が集まり、相手を直視出来ない。
すると、青年はキノを見つめたままフッと笑うと、
「あんたかキノか。確か逃走側の大将だったよな。俺はクロ。中立って立場だ」
よろしくと出された手を、キノは遠慮がちに握る。自分でもビックリだ。初対面の、しかも男に握手を求められ、嫌悪感を感じない自分。もしかしたら、彼…クロの飾り気のない、優しい雰囲気がそうさせるのかもしれなかった。握手を交わし、少しキノが落ち着いたところで、クロは話を切り出した。
「キノは『祭』は初めてなんだろ?色々決まり事とかあるけど、知ってるか?」
「あ、うん。大体はユカに聞いたから」
「ユカ?」
「私の……親友……?」
「な、なんで疑問形?もしかして、同じ逃走側なのか?」
「うん…」
「ふーん…」
クロは視線を落とし、何か考えるそぶりをした後、またキノを見た。
「なあ、あんたの仲間にしてくれないか?」
「は?な、なんで?」
「あんた素人なんだろ?俺は何度も参加してるし、色々知ってる奴が傍にいたほうが何かと便利だろ?だから……それに俺、あんたを支えたいんだ。迷惑か?」
キノは呆気にとられた表情でクロを見る。聞き方によれば口説き文句にも聞こえなくもない台詞を受け、キノは考える。
確かに、クロの言い分は最もだ。自分は今年初めて参加したズブの素人。いくらユカが詳しいとしても、彼女だって参加は初めてだ。それにユカの情報が、すべてとは限らない。マニュアル通りには行かない、そんなゲームなのだ、これは。ここはクロを仲間に迎えたほうがいいかもしれない。
「…分かった」
キノがコクリと頷くと、クロは太陽のような眩しい笑顔を見せた。
「よし!これからよろしくな!大将!」
「……大将は止めて…」
彼―クロとの出会いが、キノに大きな影響を与える事になるのは、まだまだ先の話。
――‐
夕方になり、キノとクロは人の波がいくらか治まった商店街を抜け、路地裏に身を隠していた。
とりあえず10時を回れば、追跡側は追い掛けては来ない。それまでは出来るだけ人目を避けて、下手に動かないほうがいい。キノはクロがコンビニで買ってきた、カレーパンと缶コーヒーをご馳走になりながら、クロから色々と『鬼ごっこ』について聞いていた。やはり、ミカの情報と被る部分も多々あるが、知らなかった事も多い。
「…協力者?」
「ああ。今年から中立者や一般の人達を協力者として仲間に出来るんだよ」
「でも、一般の人達を巻き込んじゃダメって…」
「一般や中立の連中は、追うとか追われるとかは決まってないけど、自由に祭に参加出来るし、役割があるんだ。例えば……『監査』や『技工士』、あと『策士』他にも色々いるみたいだけど、俺が把握してんのはこれくらいだ」
クロはそこまで言うと、残っていた缶コーヒーを飲み干し、キノに笑いかける。キノはその顔を見て、思わず目を逸らし、所在なさげに視線を泳がせながら俯く。
……先程から、なぜか落ち着かないのだ。ここに来る際にも、手をしっかり繋がれたり、抱きしめられたり。異性に免疫のないキノには些か刺激が強い。しかも、当の本人は当たり前のように平然としているため、嬉しいというか恥ずかしいというか、なんというか………複雑な思いが渦巻く。
(慣れてるみたいだし、別にこの人にとっては、特別なことじゃないんだ…)
キノは少し落ち込んでいる自分に驚いた。いつもなら無関心を貫き、別になんとも思わないのに、クロに優しくされたり、名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が締め付けられる。だが、経験のないキノはこのもどかしい気持ちがなんであるか、皆目検討がつかなかった。
「キノ?疲れたのか?大丈夫?」
「あ、え?う、ん……少しだけ…」
「今は…9時か。もう少し休むか?」
「ううん。もう大丈夫」
「そうか…じゃあ、そろそろキノの仲間たちと落ち会うか」
クロはそう言うとキノに手を差し出す。キノが戸惑っていると、クロはキノの手を掴み立たせる。勢いあまったキノは、クロの胸に飛び込むようなかたちになってしまい、キノは恥ずかしさにワタワタと真っ赤になりながら、クロの腕の中から離れる。そして、
「は、早く行こう…」
とだけ言うと、すたすたと早歩きで歩き出す。そんな彼女は愛おしむように見つめているクロの視線にキノは気付くはずもなかった。