【イヌココ】ポイ捨ての話
海辺にある人気のない倉庫。時刻は深夜1時を回っている。穏やかな波が岩に弾けて白い飛沫が黒い海の中に還っていく音だけがゆったりと響いている。その飛沫に紛れて凍った小さな肉片がボチャボチャと落ちた。
「終わりました」
赤黒く染まった軍手を外しながらひとりの男がそう短く報告をする。九井は彼に一瞥することもなく手をひらりと挙げた。
「解散」
男は自分の上司である彼の背中に頭を下げると、スタスタと車に乗り込んで他の数人と一緒に倉庫から出た。
九井は、波に揉まれ氷が溶けて生肉に戻りつつあるその欠片を眺め、ポケットにしまっていた煙草を取り出して咥えた。ジッポライターのフリント・ホイールを親指で強く擦る。しかし、3回ほど繰り返しても火花を散らすだけで火が灯らない。どうやら中のオイルが切れてしまっていたらしい。小さく舌打ちをすると、そのすぐ隣がぼうっと明るくなった。
「ん」
青宗が自分のライターを点けて九井の方に寄越すと、彼は煙草の先を近づけた。その先が赤く染まったのを確認して体を起こすと、青宗も自分の煙草へ火を点ける。煙を吸い込む度に赤くなる二つの火種が暗闇にぼんやりと浮かんでは煙に霞んだ。
「……いいヤツだったんだけどなぁ」
「そう思わせるのが目的だろ」
魚につつかれて小さくなっていく肉片を目を細めて見送る。
昨日まで自分の部下だった男。気が利いて、よく何もないところで躓くような、何で反社なんてやっているのか分からないくらい人畜無害な、優しい目をした男だった。今でも彼が「九井さん」と呼ぶ声が聞こえてくる気さえする。
「稀咲が言ってたラット、まさかココの部下だったとはな」
「どこに潜んでるかなんて分かんねぇもんだな、ほんと」
九井は短くなった煙草を地面に落としてぐしゃりと踏み潰した。そのまま自分たちの車に乗り込もうと海に背を向けて数歩足を進めたところで、青宗の方を振り返った。
「イヌピー? 何してんだ」
「ココ、ポイ捨てしたらダメだ」
青宗はしゃがみ込んで九井の捨てた吸い殻を摘まんでいた。顔に似合わないその言動に思わず吹き出す。
「ポイ捨てって……人殺してるようなヤツに今さら何そんな小学生みたいなこと、」
「ココは殺してないだろ」
半笑いの九井に反して青宗は至極真剣な表情で食い気味に返した。
これまで九井が葬ってきた命は数え切れないほどある。だが、そのどれもこれも、九井が直接手を下したことはない。たいていは部下の誰かがやるか、もしくは対象者が勝手に死ぬかのどれかだ。
まぁ、族をやっていた頃から相手を自死に追い込んでいたような男だ。どちらかと言えば後者の方が得意かもしれない。勝手に死んでくれた方が楽だから、という理由が大きいが。
「ココはまだ綺麗なままだ」
「汚ぇことしかしてきてねぇよ」
金を稼ぐために人道に悖ることをたくさんやってきた。たとえ人を殺していないとしても綺麗とは言い難い人生だ。
「オレはたくさん人を殺したから、多分天国には行けねぇ。だから、ココにはオレの分まで天国に行ってもらわなきゃ困る」
そう言って寂しそうに優しく微笑む青宗に彼女の面影が重なる。この期に及んで天国に行けるなどと考えたことはない。行きたいと思ったこともない。それなのに、そんな顔でそんなことを言われると、それを叶えてやらないといけない気になってしまう。
「なんだそれ」
「ココが悪いことしなきゃなんねぇ時は全部オレがやる。ココの喧嘩はオレが買うし、ココの邪魔してくるヤツはオレが殺してやる。だからココは綺麗なままでいろ」
青宗は立ち上がって携帯灰皿に2本分の吸い殻をしまうと、九井の隣に並んでその肩を抱いた。大きくて骨張った、男の手だ。
「それに、ポイ捨てはダメだって、アイツも言ってた」
車の前まで来ると青宗は助手席の扉を開けて九井に乗るよう目配せする。九井は自傷気味に短く息を吐くと車に乗り込んだ。
「……じゃあ、ポイ捨てやめるわ」
「おう」
扉を閉めて反対側の運転席に回り込む青宗を目で追いながら、九井は暗い窓の外を眺め眉間に皺を寄せた。
ポイ捨てひとつやめたところで天国に行ける保証などどこにもない。そんなことで天国に行けるなら随分ずさんな神様だと思う。それに、こんな汚れきってしまった自分に綺麗なままでいろと言うのは無茶苦茶な話だ。天国があるかなんてのも分からないのに。
変に優しくして、勝手に救った気になっているのだろうか。こんなところまで一緒に生きておいて、今さら天国に行けだなんて。
こんなにイラついてしまうのは、きっと……本当は、一緒に地獄に堕ちようと言ってほしかったからなのかもしれない。
車のエンジンがかかり、海から遠ざかる。波の音が消え、二人の間には沈黙だけが残った。
「終わりました」
赤黒く染まった軍手を外しながらひとりの男がそう短く報告をする。九井は彼に一瞥することもなく手をひらりと挙げた。
「解散」
男は自分の上司である彼の背中に頭を下げると、スタスタと車に乗り込んで他の数人と一緒に倉庫から出た。
九井は、波に揉まれ氷が溶けて生肉に戻りつつあるその欠片を眺め、ポケットにしまっていた煙草を取り出して咥えた。ジッポライターのフリント・ホイールを親指で強く擦る。しかし、3回ほど繰り返しても火花を散らすだけで火が灯らない。どうやら中のオイルが切れてしまっていたらしい。小さく舌打ちをすると、そのすぐ隣がぼうっと明るくなった。
「ん」
青宗が自分のライターを点けて九井の方に寄越すと、彼は煙草の先を近づけた。その先が赤く染まったのを確認して体を起こすと、青宗も自分の煙草へ火を点ける。煙を吸い込む度に赤くなる二つの火種が暗闇にぼんやりと浮かんでは煙に霞んだ。
「……いいヤツだったんだけどなぁ」
「そう思わせるのが目的だろ」
魚につつかれて小さくなっていく肉片を目を細めて見送る。
昨日まで自分の部下だった男。気が利いて、よく何もないところで躓くような、何で反社なんてやっているのか分からないくらい人畜無害な、優しい目をした男だった。今でも彼が「九井さん」と呼ぶ声が聞こえてくる気さえする。
「稀咲が言ってたラット、まさかココの部下だったとはな」
「どこに潜んでるかなんて分かんねぇもんだな、ほんと」
九井は短くなった煙草を地面に落としてぐしゃりと踏み潰した。そのまま自分たちの車に乗り込もうと海に背を向けて数歩足を進めたところで、青宗の方を振り返った。
「イヌピー? 何してんだ」
「ココ、ポイ捨てしたらダメだ」
青宗はしゃがみ込んで九井の捨てた吸い殻を摘まんでいた。顔に似合わないその言動に思わず吹き出す。
「ポイ捨てって……人殺してるようなヤツに今さら何そんな小学生みたいなこと、」
「ココは殺してないだろ」
半笑いの九井に反して青宗は至極真剣な表情で食い気味に返した。
これまで九井が葬ってきた命は数え切れないほどある。だが、そのどれもこれも、九井が直接手を下したことはない。たいていは部下の誰かがやるか、もしくは対象者が勝手に死ぬかのどれかだ。
まぁ、族をやっていた頃から相手を自死に追い込んでいたような男だ。どちらかと言えば後者の方が得意かもしれない。勝手に死んでくれた方が楽だから、という理由が大きいが。
「ココはまだ綺麗なままだ」
「汚ぇことしかしてきてねぇよ」
金を稼ぐために人道に悖ることをたくさんやってきた。たとえ人を殺していないとしても綺麗とは言い難い人生だ。
「オレはたくさん人を殺したから、多分天国には行けねぇ。だから、ココにはオレの分まで天国に行ってもらわなきゃ困る」
そう言って寂しそうに優しく微笑む青宗に彼女の面影が重なる。この期に及んで天国に行けるなどと考えたことはない。行きたいと思ったこともない。それなのに、そんな顔でそんなことを言われると、それを叶えてやらないといけない気になってしまう。
「なんだそれ」
「ココが悪いことしなきゃなんねぇ時は全部オレがやる。ココの喧嘩はオレが買うし、ココの邪魔してくるヤツはオレが殺してやる。だからココは綺麗なままでいろ」
青宗は立ち上がって携帯灰皿に2本分の吸い殻をしまうと、九井の隣に並んでその肩を抱いた。大きくて骨張った、男の手だ。
「それに、ポイ捨てはダメだって、アイツも言ってた」
車の前まで来ると青宗は助手席の扉を開けて九井に乗るよう目配せする。九井は自傷気味に短く息を吐くと車に乗り込んだ。
「……じゃあ、ポイ捨てやめるわ」
「おう」
扉を閉めて反対側の運転席に回り込む青宗を目で追いながら、九井は暗い窓の外を眺め眉間に皺を寄せた。
ポイ捨てひとつやめたところで天国に行ける保証などどこにもない。そんなことで天国に行けるなら随分ずさんな神様だと思う。それに、こんな汚れきってしまった自分に綺麗なままでいろと言うのは無茶苦茶な話だ。天国があるかなんてのも分からないのに。
変に優しくして、勝手に救った気になっているのだろうか。こんなところまで一緒に生きておいて、今さら天国に行けだなんて。
こんなにイラついてしまうのは、きっと……本当は、一緒に地獄に堕ちようと言ってほしかったからなのかもしれない。
車のエンジンがかかり、海から遠ざかる。波の音が消え、二人の間には沈黙だけが残った。
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