【イヌココ+春ココ】命のやりとりをしよう
*アテンション*
・梵天軸のイヌココと春ココ
・イヌココも春ココも別に付き合ってない
・死ネタ
・バッドエンドが大丈夫な人向け
◇
時刻は深夜。
九井はかつてボーリング場だった廃ビルに来ていた。
昔は不良たちの溜まり場として栄えていた場所だ。
今はその面影もなく閑散としているが、塗装の剥げた椅子や塵に埋もれているレーンがボーリング場の名残を思わせる。
そして、ここは佐野万次郎と花垣武道が一緒に死んだ場所でもあった。飛び降り自殺だったらしい、ということしか聞いていない。だが、万次郎はともかく、花垣は恋人との結婚を間近に控えたタイミングであったことや、体に弾痕があったこと、そして何より、飛び降りた人を助けようとしていたというギャラリーの証言から、その真相はある程度予想がつく。
九井の知る彼は、本当に、漫画に登場するヒーローみたいにかっこいい男だ。それなのに、泣き虫で喧嘩は誰よりも弱くて、かっこ悪い男だ。
こんな時間にひっそりとこの場所に来た理由。
それは、三途からの短い電話。数時間前にあった連絡はこの廃ビルへの呼び出しだった。
万次郎を失って間もない不安定な状態の彼が何をしようとしているのかはわからない。最後に見た時の彼は今にも死にそうだった。ガラにもなく心配している自分がいることに気づいて苦笑した。
コツコツと乾いた音を立ててコンクリートがむき出しになった長い階段をのぼる。そして目的の階に踏み入れた時、九井は目前に広がる光景に我が目を疑った。
「なんで……」
小さな呟きは静寂の中ではっきりと響く。その声に反応した三途は口元の傷を歪ませて九井を振り返った。
「よぉ。来たか」
「どういうことだ、三途」
動揺を隠しきれない九井を見て楽しそうに目を細め、足元に転がるそれをつま先で少し強めに転がす。
小さな呻き声と共に縛られて横倒れになっていた体がごろんと仰向けになる。長い金髪に隠れていた顔があらわになった。少しばかり土と埃で汚れてはいるものの、目立った外傷はなく綺麗なままだ。
元からあるその大きな火傷の痕を除いて。
「命のやり取りをしよう」
三途は床に一丁のリボルバーを置くと蹴って九井の足元へ滑らせた。黒い鉛の塊はカツン、と軽い音を立てて九井のつま先に当たる。
「これはゲームだ。掛け金はオレの命。オマエはコイツの命を掛けろ」
「……イヌピーは関係ねぇだろ」
「できないならここでコイツを殺す」
三途の手に握られたリボルバーの銃口が青宗の頭に突き付けられた。朧気な意識のまま低く唸る彼を感情のない目で見下ろしている三途から、これは脅しでも何でもない、本気で殺すと言っているのだと確信する。ゲームは避けられない。けれど、青宗の命は賭けられない。
「……賭けるならオレの命だ」
張りつめた緊張の中、九井が意を決したようにそう言うが三途は冷ややかにリボルバーの撃鉄に指をかけた。
「じゃあ死んでもらうしかねぇな」
「ッ、わかった! わかったからそれを下ろせ。……何をすればいい?」
九井の焦った抑止の言葉を聞いて、三途は素直に腕を下ろした。にんまりと屈託のない笑顔を浮かべる。
「ルールは簡単だ。オマエに渡した銃とオレが今持ってるコレに一発ずつ弾が入ってる。それを同時に撃ち合って先にぶっ放せた方が勝ちだ」
「ふざけるな……そんなことできるわけないだろ……!」
文字通り、命を賭けたゲームだ。どちらかが勝った瞬間にどちらかが確実に死ぬ。俗に言うロシアンルーレットと呼ばれる、情けなどない人道に反する遊び。
「ゲームに勝てばいいだけの話だ。そうすれば厄介者のオレは死ぬし、晴れてオマエは自由の身。この犬っころと一緒にどこでも行けばいい」
「こんなことしなくても、オレは梵天から逃げる気はねぇ。今までもそうだっただろ!」
「マイキーという首輪がなくなった今、コイツという餌が目の前に出されてもオマエは飛びつかねぇっつー確証があるのか?」
確かなものが欲しい。
約束なんてものはいつでも破れる。
そうやって何度も裏切られて、何度も人を殺してきた。
人は一度死なないとわからない。逆に言えば、死ぬまでわからないものだ。
誰が誰を裏切るかなんてわからない。血の繋がった家族でさえも簡単に敵になるのだから。
「オレはコイツが死なねぇと安心できねぇ。だからコイツを殺したい。でも、オマエはコイツを生かしたい。つまり、オマエはオレを殺さねぇとなんねぇ。オレたちが命を賭ける理由は十分だろ」
「……マイキーがいなくても、例えイヌピーがオレを迎えに来ても、オレはオマエと一緒に地獄まで行く覚悟がある。そう言っても、オマエはオレを信じらんねぇか?」
「オレは口約束より契約書より、相手の小指切り取った方がよっぽど信じられるからな」
抑揚のないその声に、九井は冷や汗を流しながら拳に力を込めた。必死に考えを巡らせる。どうにかしてこの状況を打破する方法はないか。
今すぐにリボルバーを拾い上げて彼の手にあるソレを弾けるほど狙撃の腕があるわけでもない。しかも人質は三途のすぐ足元に転がっている。
九井がイチかバチか三途に飛びかかろうと走ったところで、青宗の頭が撃ち抜かれる方がはやいだろう。
仮に三途に飛びかかることができたとて、腕力では三途に劣る。せいぜい時間稼ぎがいくらかできるくらいだろうが、縛られたままの青宗が自力で逃げ出すことは難しい。だからと言って彼を担いで一緒に逃げるのはもっと無理だ。
どう考えても詰みの現状に眉間の皺を深くした時、青宗がゆっくりと目を開いた。
「ココ……」
「イヌピー……!」
少し掠れた、寝起きの時みたいな声だ。あぁ、久々に聞く。彼に名前を呼ばれるのも、視線を交わすのも、実に十二年ぶりだ。彼は数回瞬きをした後、九井を見上げたまま少し微笑んだ。
「ココ……オレの命、オマエに預ける」
朧気な意識の中でも二人の会話は何となく聞こえていたのだろう。
青宗は顔色の悪い九井を安心させるように、たしかにそう言った。
「そんなこと、」
「元々、オマエに助けられた命だ。オレはあの瞬間から、オマエのためなら死んでもいいと思ってたんだぜ」
暗闇の中でも明るく光る碧い瞳に、九井は一縷の希望を見た気がした。
九井のことを信じる青宗を信じたいと思ったのかもしれない。あの時、花垣に預けたという命を、今度は自分に預けると言う彼のことを。
九井はまっすぐに青宗を見つめる。
その様子を傍観していた三途は不快そうに吐き捨てた。
「ハッ。今さらかよ。くだらねぇ」
十二年。実に十二年だ。この二人が言葉を交わすのは。
あの時九井の手を離しておきながら、今度はオマエのために死んでもいいなどとほざく。九井も満更でもなさそうなのが余計に腹立たしい。
この十二年、二人の間に何があったと言うのか。否、何もなかったのだ。それなのにこうして睦み合う。
まるで運命みたいに。
九井が苦しい時、辛い時、一番側にいたのは自分だという自負が三途にはある。この男ではない。
十二年もの間、こうして三途が引っ張って来なければ生涯を終えるまで九井に会うことも、会おうとすることもなかったであろうこの男ではないのだ。
それなのに九井の中からいつまでも消えない。
鬱陶しい存在だ。自分にはもう、九井しか遺されていないというのに。
「……三途。オレが勝てば、イヌピーは解放してくれるんだよな」
「解放も何もオマエが勝ったらオレは死んでるんだ。好きにしろ」
「……わかった」
意を決した九井は足元のリボルバーを震える手で拾い上げた。
ずっしりとした鉄の重みが緊張となって九井にのしかかる。喉が渇いて仕方がない。手の中で鈍く光るこれに、青宗の命がかかっている。
「回すぞ」
互いにシリンダーの中に弾が一弾しか入っていないことを確認し、二人同時に回転式弾倉をジャッと回した。
その回転が止まりきる前にパンッとセットする。
そしてそれを再び足元へ置き、蹴って互いのリボルバーを交換した。再びそれを拾い上げると撃鉄を起こして、ゆっくりと対象に銃口を向ける。
三途は自分に向けられるそれを一瞥して、無表情のまま青宗に視線を戻した。
「3カウントする。カウントがゼロになった瞬間撃て」
「わかった」
グリップを握り直す微かな音と、浅く速い呼吸音が束の間の静寂に響く。
緊張で飛び出しそうな心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと錯覚するくらい、静かだった。
「3、2、1、ゼロ」
カウントと同時に引き金を引いた。一発目は空砲だ。ほっと胸を撫で下ろす。しかし、そんな暇など与える間もなく次のカウントが始まった。
「次。3、2、」
九井は慌ててグリップを握り直し、ゼロの号令がかかると同時に撃った。これも空砲だ。少しの安堵に覆い被さるように次の緊張と不安が押し寄せてくる。淡々とした三途のカウントで撃った三発目も空砲だった。
これで、あと、三発。
祈るような気持ちで自分の銃口を見た。三途よりも先に、先に撃たせてくれ、と、信じてもいない神に願った。目の前の男を助けるには三途よりも先に九井が撃つしかない。例えそれで彼を失うことになっても、だ。
四発目。
「3、2、1、ゼロ」
そのカウントと同時に、三途の銃口から火花が散った。
「イヌピー!」
たーん、という無機質な銃声が鳴り終わるより先に、九井は青宗の元へ駆けた。弾丸を受けたと同時に軽く跳ねたその体躯は今はピクリとも動かない。震える指先で彼の頬を撫でる。
息を、していない。
そのまま首筋に指先を滑らせて頸動脈に触れるが、やはり命の鼓動は感じられない。
即死、のようだ。綺麗に頭蓋骨を撃ち抜かれている。
あぁ、元からギャンブルは得意じゃなかったのに。どうしてこのゲームに乗ってしまったのだろう。
やめておくべきだった。
青宗の命を預かるべきではなかった。
自分は、花垣武道とは違うのに。
後悔の念があとからあとから九井を蝕んでいく。彼さえ生きているなら、他はどうでも良かったのに。
呼吸が浅くなる。ひゅうひゅうと細い音を立てる喉を冷や汗が一筋流れた。
かさついた唇をわななかせながら言葉もなくただただ青宗を見下ろす九井とは逆に、三途はどこか楽しそうに笑っていた。
「なぁ、九井。オマエの今の気持ち、痛いほどわかるぜ。なぁ……」
彼は興奮気味な語気を抑え込むようにしてそう言いながら九井の隣にしゃがむと、彼の肩に腕を回した。自分で殺しておいて何が「オマエの気持ちがわかる」だ、と信じられないものを見るような目で三途を見上げる。
彼は目を細めて不気味に笑っていた。
「オレと一緒に逝こう。ここからマイキーの所まで飛ぼうぜ。オレら、もうここにいる理由なんもねぇんだから」
その言葉に九井は悟った。
彼の本当の目的はこれだったのだと。
三途は万次郎という大事な人を失ったが、九井にはまだ青宗がいる。離れていてもどこまでも彼のことを想っていることは、誰の目にも分かりきっていたことだろう。
それでいて三途とは恋人の真似事みたいな日々を送ってきた。三途には万次郎がいたから、釣り合いが取れていたのだ。
その均衡が崩れた今、三途が選んだのは九井から青宗を奪うことだった。これでお揃いだとでも言いたげな視線が、そう物語っている。
三途は立ち上がると花垣の血痕が薄らと残る崩れた窓際に立った。あの二人が手を繋いで一緒に落ちていった場所だ。
万次郎が死んだこの場所で九井と死にたい。
だから青宗のことをここまで連れてきた。
万次郎のいない世界に未練はない。九井も、青宗を失った今この世界に未練はないだろう。
彼と自分は同じだから。どこまでも同じ気持ちを共有しているはずだから。この場所でなら、二人で一緒に逝けるはずだ。
三途はどこか恍惚とした表情で彼を振り返った。
すぐそこには九井がいて、振り返った自分の手を握ってくれる。
そうなるはずだったのに、九井は青宗の側にしゃがみ込んだまま虚ろな目でリボルバーを握り直していた。
「三途。命のやり取りをしよう」
「……は?」
「掛け金はオレの命」
「何言ってんだ」
「ルールは簡単。残り二回分。次に撃った瞬間オレが死ねばオレの勝ち。オレが生きてればオマエの勝ちだ」
感情のない声に三途の体は硬直する。ゲームは終わった。三途の勝ちだ。
この勝負、勝つか負けるかは正真正銘運任せだ。はなから確実に勝てる見込みがあったわけじゃない。
冷静を装っていたが三途だって張り詰めるような緊張感の中でリボルバーを握っていた。彼から向けられる銃口に、少なからず傷つきもしたのだ。
それなのにこの現状は何だ。
自分の命を賭けて掴んだ勝利の先に期待していたのは、こんなのじゃない。
「おい、」
三途の制止の声など気にもとめず、九井は無表情で血溜まりの中にしゃがみ込んでいた。
流れる血と共に青宗の体温が消えていく。
かたくなりつつあるその白い手を左手で包むようにやんわり握った。
あぁ、彼に触れるのは実に十二年ぶりだ。
「お、おい、よせ」
九井は撃鉄を起こして側頭部に銃口を押し付けた。
人生最期の賭け。
賭け事には負け続けてきた人生だ。この瞬間、もし神がいるなら、どちらに微笑むのだろう。一瞬そう思ったが、いもしない神に願うより、自分が一番信じる人にこの運命を託したい。
どうか、どうか。
そう切に願いながらゆっくりと息を吸い、あの人の姿を思い浮かべた。
「……赤音さん」
目を閉じ、穏やかな顔で引き金を引く。
その一瞬は、不謹慎にも綺麗という言葉が似合った。
たーん、と響く銃声。
九井の手に握られたそれが月明かりで鈍色に光ると同時に血飛沫が上がった。青宗の体に九井の体が重なり、色素の薄い髪の毛がべったりと赤く染まっていく。
まるで幻想のような光景が現実だと理解するまで、少し時間がかかった。
「あああああ!」
三途はこけそうになりながらみっともなく九井の側に転がり込む。彼の体を抱き起して手を握るが反応はない。ぐったりと力の入らない体はいつもの数倍重たく感じる。
青宗と同じで、即死のようだ。
「うそだ」
だんだん体温を失っていく九井の頭を掬い上げるようにしてこちらに向かせるが、閉じた瞼が再び開くことはなかった。手に付いたままの血が彼の白い頬に付着する。そのコントラストが不気味なほど美しかった。
「うそだうそだうそだ」
譫言のように呟く。
こんなはずではなかった。三途が望んだのはこんなことではなかった。
何のために青宗を殺したのか。
何のために、何のために。
いくら自問を繰り返しても答えは出ない。
もういっそ、このまま九井の死体を抱えて飛び降りでもしようかと思った時、廃ビルの階段をのぼってくる足音が近づいてきた。
フロアの出入り口の方へ顔を向けると、丁度ここへ着いたばかりの竜胆と目が合った。
「やっぱここにいた! 兄ちゃん! 三途いた!」
「は~見つけ出すの時間かかったわ。あと考えられんのここくらいだったもんな」
その後ろからは蘭が呆れた顔で登場する。どうやらいなくなった三途を探し回っていたらしい。
それもそうだろう、三途は今、崩れかけた組織の仮首領だ。この大事な時期に三途がいなくなるのは困る。
「で、何してたんだよ、そんな血まみれで……って、それ、九井?」
人を殺すのは日常茶飯事だ。三途が誰を殺していようが別段珍しいことではない。だが、彼が抱えている死体には見覚えがあった。
それに、三途の様子が尋常ではないのだ。冷や汗を流しながら明らかに動揺している。
三途と九井がどこか特別な関係であることは蘭も何となく察していた。
それに、万次郎が死んでからの三途の様子がおかしいことも。だからこそ、この現状に違和感を覚えてしまう。
なぜ九井が死んで、三途が生きているのか、と。
逆ならまだ納得できたのかもしれない。だからこうして必死に探し回っていたのだ。
今にも死にそうな雰囲気の三途を。
「あれ、もひとりの方、アレじゃね? ほら、昔九井と一緒にいた」
二人に気を取られていて見落としていたが、竜胆のその言葉にもうひとり横たわっている人物がいることに気づいた。
目をこらすと暗闇の中でその風貌が浮かび上がる。そこでようやくこの現状が腑に落ちた。
「あぁ……元黒龍の」
呟くようにして漏れた声はどこか冷めていた。
否、失望したのかもしれない。
梵天の九井は、もう、彼に未練はないのだと思っていた。例え未練があったとて、彼を選ぶことはないだろうという確信に近いものがあったのだ。
それが、万次郎が死んで間もなくして二人一緒に死んでいるということは、結局九井は彼を忘れられなかったのだろう。
梵天を、選べなかったのだろう。
結局彼も万次郎と同じだ。
梵天じゃなくて自分の好きな人を選んだ。
誰よりも近い場所にいたはずの三途を置いてけぼりにして、二人は死んでいった。
「げ、オマエが二人とも殺したの?」
「いやいや、三途の様子からしてそれはないだろ」
「てことは、心中? うわ~三途かわいそ」
万次郎が花垣と心中した直後、九井が青宗と心中した。
灰谷たちからすればそういう風に見えても仕方がない。さすがに同情もしたが、当の三途からは何も言葉が出なかった。
この現状を招いたのは紛れもない自分だからだ。
本当は、自分が九井と心中するはずだった。
九井と一緒に万次郎の所に行きたいだけだった。ただそれだけだったのに。
そんな三途の心境など知る所以もなく、灰谷たちは話を続ける。
「あーあ、九井死んじゃったから後始末するのオレらじゃん」
蘭はスマホを取り出すと処理班に電話をかける。
死体は二つ。ひとつは何の罪もない一般市民。もうひとつは梵天幹部だった男。相反する二つの遺体はどう処理するのが適切だろう。
「でもさぁ、九井がコイツと心中するのはちょっと意外だったな」
「……は?」
「何? 三途ってもしかして鈍感? オマエが九井好きなのだいぶ分かりやすかったけど、九井もオマエのこと結構好きだったじゃん」
蘭が電話をしている傍ら、竜胆は三途の隣にしゃがみ込むと世間話をするかのようにそう言った。
この感じは三途を茶化しているわけでも、慰めようとしているわけでもなさそうだ。
本当にそう思っているのだろう。訳がわからないといった風の三途に竜胆は言葉を続ける。
「マイキーが死んでから、アイツオマエのこと心配しててさ~」
と、そこに通話を終えた蘭も会話に参加してくる。
「何したら元気出るかな~? なんてガラにもなく悩んでたから、慰めセックスでもしたげれば? って言ったら灰皿飛んできて危うく死ぬとこだったケド」
「あの時の九井、耳まで真っ赤だったよな~」
「まぁ、あれは怒ってたんじゃなくて照れ隠しだと思うけどね」
思い出してくつくつと肩を揺らす蘭を三途は呆然と見上げた。そんな九井のことなど知らない。
彼がそこまで自分のことを心配していただなんて露ほども思わなかった。
だって、自分たちは恋人の真似事はしていても、恋人ではなかったのだから。
その後も何事かを話している灰谷たちの会話を遠くに聞きながら、九井のあの言葉を思い返す。
『……マイキーがいなくても、例えイヌピーがオレを迎えに来ても、オレはオマエと一緒に地獄まで行く覚悟がある。そう言っても、オマエはオレを信じられねぇか?』
あの言葉は、契約書よりも小指よりも確かな口約束だったのかもしれない。
もし、三途が一緒に死んでくれと言えば、彼は、一緒に死んでくれたのかもしれない、と思って頭を振った。
確信はない。けれど、あの言葉を信じられなかった結果がこれだ。
青宗を殺さずにいれば、もしかしたら……。
いや、しかし……。
そんな考えがぐるぐると巡っては三途の脳内を破壊していく。
なんのために。なんの、ために。
「それこそ、九井はコイツよりも三途を選ぶんじゃないかって、オレは思ってたけど」
蘭がボソっと呟きながら足元に転がっている青宗の頭をつま先で転がした。
もう既に生気を失いつつある顔は、どこか穏やかな表情をしている。それこそ、まるで微笑んでいるかのような。三途の腕の中の九井もまた、似たような顔をしていた。それを見た蘭は、自分が思っていたことは勘違いだったと結論づけた。
そうでもなければ、この死に顔に納得がいかない。
しかし、蘭の予想はあながち間違いでもなかった。
本当はあの時、九井はわざと弾を外そうと思っていた。
青宗が助かるには九井が三途を撃つしかない。その事実は曲げられないが、その弾は必ずしも三途の脳天を撃ち抜かなければならないというルールはなかった。
だから、自分の目の悪さでも言い訳にして弾を外したあと「撃ち損じた、でも勝負はオレの勝ちだ。だからイヌピーは解放してくれ。それで、オレはオマエと一緒に行く」とでも言おうと思っていたのだ。
青宗も三途も殺したくない。
そのために、三途よりも先に、先に撃たせてくれ、と、信じてもいない神に願った。例えそれで、青宗と一緒に歩む未来を失うことになっても。
その先に待ち受けているのが地獄でも良かった。覚悟はできていた。
今となっては心中しようと言う三途の言葉に素直に頷いたかは分からない。けれど、九井ならきっと、三途に「一緒に生きよう」と言っただろう。
青宗を振り切った九井の言葉なら、三途も信じられたのかもしれない。
それも、今となっては分からないが。
結局、神などいなくて。
青宗が死んだと理解した時、次にベットしたのは他でもない自分の命だった。
そして、その命運を愛しい人に預けた。
彼女なら、九井を導いてくれるはずだと。
彼女なら、青宗の元へ連れて行ってくれるだろうと。
そう思って引き金を引いた。
それが、九井の最期の記憶だ。
「ほら、帰るぞ三途。そろそろ処理班が着くはずだ。九井に死なれたのは痛手だったが、オレらは崩れかけの組織の再構築っつーめんどくせぇ仕事があるだろ」
蘭に首根っこを掴まれると、腕の中から九井の遺体がずり落ちた。どさりと鈍い音を立てて青宗の体躯と重なり合う。
その冷たい温もりを取り返そうと手を伸ばしたが指先に力が入らなくて何も掴めなかった。すべてが三途の手からすり抜けていく。
大切なものも、好きなものも、優しさも、温もりも、生きる意味も。
引きずられるようにして立ち上がる。
万次郎も、九井もいない世界で自分だけがこうして立っている。
もう、離せ、と彼を突き飛ばす気力もない。血まみれの両手をぼうっと眺めた。
こんなことなら、最初からひとりで死んでおけばよかった。ひとりぼっちになった世界でどうやって生きよう。
何のために、生きよう。
なんのために、なんのために。
今の三途に、何ができるだろう。
「……なぁ」
「ん?」
先に階段を下る蘭の背中に力なく声をかけると、彼は律儀に三途の方を振り返った。
いつもの飄々とした、掴み所のない笑顔だ。だけどどことなく目元に優しさが滲んでいるような気がするのは勘違いか、それとも彼なりの同情か。
「アイツらの処理、どうするんだ?」
「あー、アッチは一般人だから事故死に見せかけるのがベストなんだけど、頭撃ち抜いてるからなぁ。……まぁ、イイカンジに処理してくれんじゃね?」
冗談交じりに笑いながらそう言うが、三途は目を伏せて口を噤んでいた。
三人分の足音だけが不規則に響いている。三途は視線を落としたまま小さく何事かを呟いた。
それを耳聡く蘭が拾い上げ、三途に聞き返す。
「なに?」
「一緒に、」
「ん?」
「一緒に、埋めてやってくんねーか」
そのか細い声は濡れていた。
震えて、滴る、後悔の念が音になったみたいな声音だ。
蘭は正面を向いてしばし無言で階段を降りる。そして、目を細めて背中越しに三途に返答した。
「さすがにリスキーだな」
「オレが責任取る」
「取れねぇだろ」
「なぁ、頼む」
正直、どうして三途がここまで九井に情けをかけるのか蘭には理解できなかった。
裏切り者には制裁を。
その信念で生きてきた彼が、自分を裏切った九井とその心中相手を同じ墓に入れてやれとしつこく懇願してくる。こんな男たちは墓どころか魚のエサでもいいくらいなのに。
惚れた弱みなのかもしれないなぁ、と蘭は小さくため息を吐いた。
「……はぁ。仕方ねぇ、仮とは言え首領だしな」
「ありがとう」
「うわキショ、三途がお礼言った」
それまで二人の会話を静かに見守っていた竜胆が茶々を入れる。
彼なりにこの重い空気を軽くしようとしているのかもしれない。おかしいくらいいつも通りの雰囲気だ。
そうして長い階段を降りて外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
まだ陽は昇らない。
チラリと駐車場に目をやれば、あの自殺現場は未だに立入禁止のテープで囲われていた。
あの時、九井の言葉を信じていれば、今、自分の隣には彼が立っていてくれたのかもしれない。
手を握って、大丈夫だと、自分がいるからと、励ましてくれたのかもしれない。
その未来を捨てたのは、紛れもなく自分自身だ。
「……あぁ」
星ひとつない暗闇を見上げて三途は血に濡れたままの両手で顔を覆う。
この世界で、自分はまだ生きていかなければならない。
ひとりぼっちで生きて、ひとりぼっちで死んでいく。
それが、己への罰だとでも言うように。
・梵天軸のイヌココと春ココ
・イヌココも春ココも別に付き合ってない
・死ネタ
・バッドエンドが大丈夫な人向け
◇
時刻は深夜。
九井はかつてボーリング場だった廃ビルに来ていた。
昔は不良たちの溜まり場として栄えていた場所だ。
今はその面影もなく閑散としているが、塗装の剥げた椅子や塵に埋もれているレーンがボーリング場の名残を思わせる。
そして、ここは佐野万次郎と花垣武道が一緒に死んだ場所でもあった。飛び降り自殺だったらしい、ということしか聞いていない。だが、万次郎はともかく、花垣は恋人との結婚を間近に控えたタイミングであったことや、体に弾痕があったこと、そして何より、飛び降りた人を助けようとしていたというギャラリーの証言から、その真相はある程度予想がつく。
九井の知る彼は、本当に、漫画に登場するヒーローみたいにかっこいい男だ。それなのに、泣き虫で喧嘩は誰よりも弱くて、かっこ悪い男だ。
こんな時間にひっそりとこの場所に来た理由。
それは、三途からの短い電話。数時間前にあった連絡はこの廃ビルへの呼び出しだった。
万次郎を失って間もない不安定な状態の彼が何をしようとしているのかはわからない。最後に見た時の彼は今にも死にそうだった。ガラにもなく心配している自分がいることに気づいて苦笑した。
コツコツと乾いた音を立ててコンクリートがむき出しになった長い階段をのぼる。そして目的の階に踏み入れた時、九井は目前に広がる光景に我が目を疑った。
「なんで……」
小さな呟きは静寂の中ではっきりと響く。その声に反応した三途は口元の傷を歪ませて九井を振り返った。
「よぉ。来たか」
「どういうことだ、三途」
動揺を隠しきれない九井を見て楽しそうに目を細め、足元に転がるそれをつま先で少し強めに転がす。
小さな呻き声と共に縛られて横倒れになっていた体がごろんと仰向けになる。長い金髪に隠れていた顔があらわになった。少しばかり土と埃で汚れてはいるものの、目立った外傷はなく綺麗なままだ。
元からあるその大きな火傷の痕を除いて。
「命のやり取りをしよう」
三途は床に一丁のリボルバーを置くと蹴って九井の足元へ滑らせた。黒い鉛の塊はカツン、と軽い音を立てて九井のつま先に当たる。
「これはゲームだ。掛け金はオレの命。オマエはコイツの命を掛けろ」
「……イヌピーは関係ねぇだろ」
「できないならここでコイツを殺す」
三途の手に握られたリボルバーの銃口が青宗の頭に突き付けられた。朧気な意識のまま低く唸る彼を感情のない目で見下ろしている三途から、これは脅しでも何でもない、本気で殺すと言っているのだと確信する。ゲームは避けられない。けれど、青宗の命は賭けられない。
「……賭けるならオレの命だ」
張りつめた緊張の中、九井が意を決したようにそう言うが三途は冷ややかにリボルバーの撃鉄に指をかけた。
「じゃあ死んでもらうしかねぇな」
「ッ、わかった! わかったからそれを下ろせ。……何をすればいい?」
九井の焦った抑止の言葉を聞いて、三途は素直に腕を下ろした。にんまりと屈託のない笑顔を浮かべる。
「ルールは簡単だ。オマエに渡した銃とオレが今持ってるコレに一発ずつ弾が入ってる。それを同時に撃ち合って先にぶっ放せた方が勝ちだ」
「ふざけるな……そんなことできるわけないだろ……!」
文字通り、命を賭けたゲームだ。どちらかが勝った瞬間にどちらかが確実に死ぬ。俗に言うロシアンルーレットと呼ばれる、情けなどない人道に反する遊び。
「ゲームに勝てばいいだけの話だ。そうすれば厄介者のオレは死ぬし、晴れてオマエは自由の身。この犬っころと一緒にどこでも行けばいい」
「こんなことしなくても、オレは梵天から逃げる気はねぇ。今までもそうだっただろ!」
「マイキーという首輪がなくなった今、コイツという餌が目の前に出されてもオマエは飛びつかねぇっつー確証があるのか?」
確かなものが欲しい。
約束なんてものはいつでも破れる。
そうやって何度も裏切られて、何度も人を殺してきた。
人は一度死なないとわからない。逆に言えば、死ぬまでわからないものだ。
誰が誰を裏切るかなんてわからない。血の繋がった家族でさえも簡単に敵になるのだから。
「オレはコイツが死なねぇと安心できねぇ。だからコイツを殺したい。でも、オマエはコイツを生かしたい。つまり、オマエはオレを殺さねぇとなんねぇ。オレたちが命を賭ける理由は十分だろ」
「……マイキーがいなくても、例えイヌピーがオレを迎えに来ても、オレはオマエと一緒に地獄まで行く覚悟がある。そう言っても、オマエはオレを信じらんねぇか?」
「オレは口約束より契約書より、相手の小指切り取った方がよっぽど信じられるからな」
抑揚のないその声に、九井は冷や汗を流しながら拳に力を込めた。必死に考えを巡らせる。どうにかしてこの状況を打破する方法はないか。
今すぐにリボルバーを拾い上げて彼の手にあるソレを弾けるほど狙撃の腕があるわけでもない。しかも人質は三途のすぐ足元に転がっている。
九井がイチかバチか三途に飛びかかろうと走ったところで、青宗の頭が撃ち抜かれる方がはやいだろう。
仮に三途に飛びかかることができたとて、腕力では三途に劣る。せいぜい時間稼ぎがいくらかできるくらいだろうが、縛られたままの青宗が自力で逃げ出すことは難しい。だからと言って彼を担いで一緒に逃げるのはもっと無理だ。
どう考えても詰みの現状に眉間の皺を深くした時、青宗がゆっくりと目を開いた。
「ココ……」
「イヌピー……!」
少し掠れた、寝起きの時みたいな声だ。あぁ、久々に聞く。彼に名前を呼ばれるのも、視線を交わすのも、実に十二年ぶりだ。彼は数回瞬きをした後、九井を見上げたまま少し微笑んだ。
「ココ……オレの命、オマエに預ける」
朧気な意識の中でも二人の会話は何となく聞こえていたのだろう。
青宗は顔色の悪い九井を安心させるように、たしかにそう言った。
「そんなこと、」
「元々、オマエに助けられた命だ。オレはあの瞬間から、オマエのためなら死んでもいいと思ってたんだぜ」
暗闇の中でも明るく光る碧い瞳に、九井は一縷の希望を見た気がした。
九井のことを信じる青宗を信じたいと思ったのかもしれない。あの時、花垣に預けたという命を、今度は自分に預けると言う彼のことを。
九井はまっすぐに青宗を見つめる。
その様子を傍観していた三途は不快そうに吐き捨てた。
「ハッ。今さらかよ。くだらねぇ」
十二年。実に十二年だ。この二人が言葉を交わすのは。
あの時九井の手を離しておきながら、今度はオマエのために死んでもいいなどとほざく。九井も満更でもなさそうなのが余計に腹立たしい。
この十二年、二人の間に何があったと言うのか。否、何もなかったのだ。それなのにこうして睦み合う。
まるで運命みたいに。
九井が苦しい時、辛い時、一番側にいたのは自分だという自負が三途にはある。この男ではない。
十二年もの間、こうして三途が引っ張って来なければ生涯を終えるまで九井に会うことも、会おうとすることもなかったであろうこの男ではないのだ。
それなのに九井の中からいつまでも消えない。
鬱陶しい存在だ。自分にはもう、九井しか遺されていないというのに。
「……三途。オレが勝てば、イヌピーは解放してくれるんだよな」
「解放も何もオマエが勝ったらオレは死んでるんだ。好きにしろ」
「……わかった」
意を決した九井は足元のリボルバーを震える手で拾い上げた。
ずっしりとした鉄の重みが緊張となって九井にのしかかる。喉が渇いて仕方がない。手の中で鈍く光るこれに、青宗の命がかかっている。
「回すぞ」
互いにシリンダーの中に弾が一弾しか入っていないことを確認し、二人同時に回転式弾倉をジャッと回した。
その回転が止まりきる前にパンッとセットする。
そしてそれを再び足元へ置き、蹴って互いのリボルバーを交換した。再びそれを拾い上げると撃鉄を起こして、ゆっくりと対象に銃口を向ける。
三途は自分に向けられるそれを一瞥して、無表情のまま青宗に視線を戻した。
「3カウントする。カウントがゼロになった瞬間撃て」
「わかった」
グリップを握り直す微かな音と、浅く速い呼吸音が束の間の静寂に響く。
緊張で飛び出しそうな心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと錯覚するくらい、静かだった。
「3、2、1、ゼロ」
カウントと同時に引き金を引いた。一発目は空砲だ。ほっと胸を撫で下ろす。しかし、そんな暇など与える間もなく次のカウントが始まった。
「次。3、2、」
九井は慌ててグリップを握り直し、ゼロの号令がかかると同時に撃った。これも空砲だ。少しの安堵に覆い被さるように次の緊張と不安が押し寄せてくる。淡々とした三途のカウントで撃った三発目も空砲だった。
これで、あと、三発。
祈るような気持ちで自分の銃口を見た。三途よりも先に、先に撃たせてくれ、と、信じてもいない神に願った。目の前の男を助けるには三途よりも先に九井が撃つしかない。例えそれで彼を失うことになっても、だ。
四発目。
「3、2、1、ゼロ」
そのカウントと同時に、三途の銃口から火花が散った。
「イヌピー!」
たーん、という無機質な銃声が鳴り終わるより先に、九井は青宗の元へ駆けた。弾丸を受けたと同時に軽く跳ねたその体躯は今はピクリとも動かない。震える指先で彼の頬を撫でる。
息を、していない。
そのまま首筋に指先を滑らせて頸動脈に触れるが、やはり命の鼓動は感じられない。
即死、のようだ。綺麗に頭蓋骨を撃ち抜かれている。
あぁ、元からギャンブルは得意じゃなかったのに。どうしてこのゲームに乗ってしまったのだろう。
やめておくべきだった。
青宗の命を預かるべきではなかった。
自分は、花垣武道とは違うのに。
後悔の念があとからあとから九井を蝕んでいく。彼さえ生きているなら、他はどうでも良かったのに。
呼吸が浅くなる。ひゅうひゅうと細い音を立てる喉を冷や汗が一筋流れた。
かさついた唇をわななかせながら言葉もなくただただ青宗を見下ろす九井とは逆に、三途はどこか楽しそうに笑っていた。
「なぁ、九井。オマエの今の気持ち、痛いほどわかるぜ。なぁ……」
彼は興奮気味な語気を抑え込むようにしてそう言いながら九井の隣にしゃがむと、彼の肩に腕を回した。自分で殺しておいて何が「オマエの気持ちがわかる」だ、と信じられないものを見るような目で三途を見上げる。
彼は目を細めて不気味に笑っていた。
「オレと一緒に逝こう。ここからマイキーの所まで飛ぼうぜ。オレら、もうここにいる理由なんもねぇんだから」
その言葉に九井は悟った。
彼の本当の目的はこれだったのだと。
三途は万次郎という大事な人を失ったが、九井にはまだ青宗がいる。離れていてもどこまでも彼のことを想っていることは、誰の目にも分かりきっていたことだろう。
それでいて三途とは恋人の真似事みたいな日々を送ってきた。三途には万次郎がいたから、釣り合いが取れていたのだ。
その均衡が崩れた今、三途が選んだのは九井から青宗を奪うことだった。これでお揃いだとでも言いたげな視線が、そう物語っている。
三途は立ち上がると花垣の血痕が薄らと残る崩れた窓際に立った。あの二人が手を繋いで一緒に落ちていった場所だ。
万次郎が死んだこの場所で九井と死にたい。
だから青宗のことをここまで連れてきた。
万次郎のいない世界に未練はない。九井も、青宗を失った今この世界に未練はないだろう。
彼と自分は同じだから。どこまでも同じ気持ちを共有しているはずだから。この場所でなら、二人で一緒に逝けるはずだ。
三途はどこか恍惚とした表情で彼を振り返った。
すぐそこには九井がいて、振り返った自分の手を握ってくれる。
そうなるはずだったのに、九井は青宗の側にしゃがみ込んだまま虚ろな目でリボルバーを握り直していた。
「三途。命のやり取りをしよう」
「……は?」
「掛け金はオレの命」
「何言ってんだ」
「ルールは簡単。残り二回分。次に撃った瞬間オレが死ねばオレの勝ち。オレが生きてればオマエの勝ちだ」
感情のない声に三途の体は硬直する。ゲームは終わった。三途の勝ちだ。
この勝負、勝つか負けるかは正真正銘運任せだ。はなから確実に勝てる見込みがあったわけじゃない。
冷静を装っていたが三途だって張り詰めるような緊張感の中でリボルバーを握っていた。彼から向けられる銃口に、少なからず傷つきもしたのだ。
それなのにこの現状は何だ。
自分の命を賭けて掴んだ勝利の先に期待していたのは、こんなのじゃない。
「おい、」
三途の制止の声など気にもとめず、九井は無表情で血溜まりの中にしゃがみ込んでいた。
流れる血と共に青宗の体温が消えていく。
かたくなりつつあるその白い手を左手で包むようにやんわり握った。
あぁ、彼に触れるのは実に十二年ぶりだ。
「お、おい、よせ」
九井は撃鉄を起こして側頭部に銃口を押し付けた。
人生最期の賭け。
賭け事には負け続けてきた人生だ。この瞬間、もし神がいるなら、どちらに微笑むのだろう。一瞬そう思ったが、いもしない神に願うより、自分が一番信じる人にこの運命を託したい。
どうか、どうか。
そう切に願いながらゆっくりと息を吸い、あの人の姿を思い浮かべた。
「……赤音さん」
目を閉じ、穏やかな顔で引き金を引く。
その一瞬は、不謹慎にも綺麗という言葉が似合った。
たーん、と響く銃声。
九井の手に握られたそれが月明かりで鈍色に光ると同時に血飛沫が上がった。青宗の体に九井の体が重なり、色素の薄い髪の毛がべったりと赤く染まっていく。
まるで幻想のような光景が現実だと理解するまで、少し時間がかかった。
「あああああ!」
三途はこけそうになりながらみっともなく九井の側に転がり込む。彼の体を抱き起して手を握るが反応はない。ぐったりと力の入らない体はいつもの数倍重たく感じる。
青宗と同じで、即死のようだ。
「うそだ」
だんだん体温を失っていく九井の頭を掬い上げるようにしてこちらに向かせるが、閉じた瞼が再び開くことはなかった。手に付いたままの血が彼の白い頬に付着する。そのコントラストが不気味なほど美しかった。
「うそだうそだうそだ」
譫言のように呟く。
こんなはずではなかった。三途が望んだのはこんなことではなかった。
何のために青宗を殺したのか。
何のために、何のために。
いくら自問を繰り返しても答えは出ない。
もういっそ、このまま九井の死体を抱えて飛び降りでもしようかと思った時、廃ビルの階段をのぼってくる足音が近づいてきた。
フロアの出入り口の方へ顔を向けると、丁度ここへ着いたばかりの竜胆と目が合った。
「やっぱここにいた! 兄ちゃん! 三途いた!」
「は~見つけ出すの時間かかったわ。あと考えられんのここくらいだったもんな」
その後ろからは蘭が呆れた顔で登場する。どうやらいなくなった三途を探し回っていたらしい。
それもそうだろう、三途は今、崩れかけた組織の仮首領だ。この大事な時期に三途がいなくなるのは困る。
「で、何してたんだよ、そんな血まみれで……って、それ、九井?」
人を殺すのは日常茶飯事だ。三途が誰を殺していようが別段珍しいことではない。だが、彼が抱えている死体には見覚えがあった。
それに、三途の様子が尋常ではないのだ。冷や汗を流しながら明らかに動揺している。
三途と九井がどこか特別な関係であることは蘭も何となく察していた。
それに、万次郎が死んでからの三途の様子がおかしいことも。だからこそ、この現状に違和感を覚えてしまう。
なぜ九井が死んで、三途が生きているのか、と。
逆ならまだ納得できたのかもしれない。だからこうして必死に探し回っていたのだ。
今にも死にそうな雰囲気の三途を。
「あれ、もひとりの方、アレじゃね? ほら、昔九井と一緒にいた」
二人に気を取られていて見落としていたが、竜胆のその言葉にもうひとり横たわっている人物がいることに気づいた。
目をこらすと暗闇の中でその風貌が浮かび上がる。そこでようやくこの現状が腑に落ちた。
「あぁ……元黒龍の」
呟くようにして漏れた声はどこか冷めていた。
否、失望したのかもしれない。
梵天の九井は、もう、彼に未練はないのだと思っていた。例え未練があったとて、彼を選ぶことはないだろうという確信に近いものがあったのだ。
それが、万次郎が死んで間もなくして二人一緒に死んでいるということは、結局九井は彼を忘れられなかったのだろう。
梵天を、選べなかったのだろう。
結局彼も万次郎と同じだ。
梵天じゃなくて自分の好きな人を選んだ。
誰よりも近い場所にいたはずの三途を置いてけぼりにして、二人は死んでいった。
「げ、オマエが二人とも殺したの?」
「いやいや、三途の様子からしてそれはないだろ」
「てことは、心中? うわ~三途かわいそ」
万次郎が花垣と心中した直後、九井が青宗と心中した。
灰谷たちからすればそういう風に見えても仕方がない。さすがに同情もしたが、当の三途からは何も言葉が出なかった。
この現状を招いたのは紛れもない自分だからだ。
本当は、自分が九井と心中するはずだった。
九井と一緒に万次郎の所に行きたいだけだった。ただそれだけだったのに。
そんな三途の心境など知る所以もなく、灰谷たちは話を続ける。
「あーあ、九井死んじゃったから後始末するのオレらじゃん」
蘭はスマホを取り出すと処理班に電話をかける。
死体は二つ。ひとつは何の罪もない一般市民。もうひとつは梵天幹部だった男。相反する二つの遺体はどう処理するのが適切だろう。
「でもさぁ、九井がコイツと心中するのはちょっと意外だったな」
「……は?」
「何? 三途ってもしかして鈍感? オマエが九井好きなのだいぶ分かりやすかったけど、九井もオマエのこと結構好きだったじゃん」
蘭が電話をしている傍ら、竜胆は三途の隣にしゃがみ込むと世間話をするかのようにそう言った。
この感じは三途を茶化しているわけでも、慰めようとしているわけでもなさそうだ。
本当にそう思っているのだろう。訳がわからないといった風の三途に竜胆は言葉を続ける。
「マイキーが死んでから、アイツオマエのこと心配しててさ~」
と、そこに通話を終えた蘭も会話に参加してくる。
「何したら元気出るかな~? なんてガラにもなく悩んでたから、慰めセックスでもしたげれば? って言ったら灰皿飛んできて危うく死ぬとこだったケド」
「あの時の九井、耳まで真っ赤だったよな~」
「まぁ、あれは怒ってたんじゃなくて照れ隠しだと思うけどね」
思い出してくつくつと肩を揺らす蘭を三途は呆然と見上げた。そんな九井のことなど知らない。
彼がそこまで自分のことを心配していただなんて露ほども思わなかった。
だって、自分たちは恋人の真似事はしていても、恋人ではなかったのだから。
その後も何事かを話している灰谷たちの会話を遠くに聞きながら、九井のあの言葉を思い返す。
『……マイキーがいなくても、例えイヌピーがオレを迎えに来ても、オレはオマエと一緒に地獄まで行く覚悟がある。そう言っても、オマエはオレを信じられねぇか?』
あの言葉は、契約書よりも小指よりも確かな口約束だったのかもしれない。
もし、三途が一緒に死んでくれと言えば、彼は、一緒に死んでくれたのかもしれない、と思って頭を振った。
確信はない。けれど、あの言葉を信じられなかった結果がこれだ。
青宗を殺さずにいれば、もしかしたら……。
いや、しかし……。
そんな考えがぐるぐると巡っては三途の脳内を破壊していく。
なんのために。なんの、ために。
「それこそ、九井はコイツよりも三途を選ぶんじゃないかって、オレは思ってたけど」
蘭がボソっと呟きながら足元に転がっている青宗の頭をつま先で転がした。
もう既に生気を失いつつある顔は、どこか穏やかな表情をしている。それこそ、まるで微笑んでいるかのような。三途の腕の中の九井もまた、似たような顔をしていた。それを見た蘭は、自分が思っていたことは勘違いだったと結論づけた。
そうでもなければ、この死に顔に納得がいかない。
しかし、蘭の予想はあながち間違いでもなかった。
本当はあの時、九井はわざと弾を外そうと思っていた。
青宗が助かるには九井が三途を撃つしかない。その事実は曲げられないが、その弾は必ずしも三途の脳天を撃ち抜かなければならないというルールはなかった。
だから、自分の目の悪さでも言い訳にして弾を外したあと「撃ち損じた、でも勝負はオレの勝ちだ。だからイヌピーは解放してくれ。それで、オレはオマエと一緒に行く」とでも言おうと思っていたのだ。
青宗も三途も殺したくない。
そのために、三途よりも先に、先に撃たせてくれ、と、信じてもいない神に願った。例えそれで、青宗と一緒に歩む未来を失うことになっても。
その先に待ち受けているのが地獄でも良かった。覚悟はできていた。
今となっては心中しようと言う三途の言葉に素直に頷いたかは分からない。けれど、九井ならきっと、三途に「一緒に生きよう」と言っただろう。
青宗を振り切った九井の言葉なら、三途も信じられたのかもしれない。
それも、今となっては分からないが。
結局、神などいなくて。
青宗が死んだと理解した時、次にベットしたのは他でもない自分の命だった。
そして、その命運を愛しい人に預けた。
彼女なら、九井を導いてくれるはずだと。
彼女なら、青宗の元へ連れて行ってくれるだろうと。
そう思って引き金を引いた。
それが、九井の最期の記憶だ。
「ほら、帰るぞ三途。そろそろ処理班が着くはずだ。九井に死なれたのは痛手だったが、オレらは崩れかけの組織の再構築っつーめんどくせぇ仕事があるだろ」
蘭に首根っこを掴まれると、腕の中から九井の遺体がずり落ちた。どさりと鈍い音を立てて青宗の体躯と重なり合う。
その冷たい温もりを取り返そうと手を伸ばしたが指先に力が入らなくて何も掴めなかった。すべてが三途の手からすり抜けていく。
大切なものも、好きなものも、優しさも、温もりも、生きる意味も。
引きずられるようにして立ち上がる。
万次郎も、九井もいない世界で自分だけがこうして立っている。
もう、離せ、と彼を突き飛ばす気力もない。血まみれの両手をぼうっと眺めた。
こんなことなら、最初からひとりで死んでおけばよかった。ひとりぼっちになった世界でどうやって生きよう。
何のために、生きよう。
なんのために、なんのために。
今の三途に、何ができるだろう。
「……なぁ」
「ん?」
先に階段を下る蘭の背中に力なく声をかけると、彼は律儀に三途の方を振り返った。
いつもの飄々とした、掴み所のない笑顔だ。だけどどことなく目元に優しさが滲んでいるような気がするのは勘違いか、それとも彼なりの同情か。
「アイツらの処理、どうするんだ?」
「あー、アッチは一般人だから事故死に見せかけるのがベストなんだけど、頭撃ち抜いてるからなぁ。……まぁ、イイカンジに処理してくれんじゃね?」
冗談交じりに笑いながらそう言うが、三途は目を伏せて口を噤んでいた。
三人分の足音だけが不規則に響いている。三途は視線を落としたまま小さく何事かを呟いた。
それを耳聡く蘭が拾い上げ、三途に聞き返す。
「なに?」
「一緒に、」
「ん?」
「一緒に、埋めてやってくんねーか」
そのか細い声は濡れていた。
震えて、滴る、後悔の念が音になったみたいな声音だ。
蘭は正面を向いてしばし無言で階段を降りる。そして、目を細めて背中越しに三途に返答した。
「さすがにリスキーだな」
「オレが責任取る」
「取れねぇだろ」
「なぁ、頼む」
正直、どうして三途がここまで九井に情けをかけるのか蘭には理解できなかった。
裏切り者には制裁を。
その信念で生きてきた彼が、自分を裏切った九井とその心中相手を同じ墓に入れてやれとしつこく懇願してくる。こんな男たちは墓どころか魚のエサでもいいくらいなのに。
惚れた弱みなのかもしれないなぁ、と蘭は小さくため息を吐いた。
「……はぁ。仕方ねぇ、仮とは言え首領だしな」
「ありがとう」
「うわキショ、三途がお礼言った」
それまで二人の会話を静かに見守っていた竜胆が茶々を入れる。
彼なりにこの重い空気を軽くしようとしているのかもしれない。おかしいくらいいつも通りの雰囲気だ。
そうして長い階段を降りて外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
まだ陽は昇らない。
チラリと駐車場に目をやれば、あの自殺現場は未だに立入禁止のテープで囲われていた。
あの時、九井の言葉を信じていれば、今、自分の隣には彼が立っていてくれたのかもしれない。
手を握って、大丈夫だと、自分がいるからと、励ましてくれたのかもしれない。
その未来を捨てたのは、紛れもなく自分自身だ。
「……あぁ」
星ひとつない暗闇を見上げて三途は血に濡れたままの両手で顔を覆う。
この世界で、自分はまだ生きていかなければならない。
ひとりぼっちで生きて、ひとりぼっちで死んでいく。
それが、己への罰だとでも言うように。
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