【春ココ】迎えにおいで

浅い切り傷ほどじくじく痛む。
顔のあちこちにできた殴打の跡は見るからに痛そうで、実際ものすごく痛いのだが、コンクリートの上を這い回ってできた体の擦り傷の方が冷たい空気に凍みて痛い。
あの場は青宗と花垣を救うために彼らに着いて行くとは言ったけれど、九井自身、青宗以外の誰かに着いて行くつもりは毛頭ない。
ついでに、義理とか人情とか、そういうヤンキーお得意の正義もプライドもない。
だから別に、あの場を切り抜けられた時点でこの男と交わした約束も守らなくたっていいわけで。
2人が万次郎に事の顛末を説明する時間さえ稼ぐことができればあとはどうにかなるだろう。
あの男は強い。無敵のマイキーの力を目の前で見たのだ。その点においては彼のことを信頼している。
あとはどうにかしてここを抜け出せないかなぁと考えるものの、ガムテープで縛られたままでしかも今は車の中。
隣には伍番隊の副隊長とかいう女みたいな男が目を光らせて座っている。
廃墟にいた他の部下達は置いてきたようで、今は運転手である隊長と3人ぽっちだ。
現状での最善策は、そう。大人しく従うフリをすること。
どこに連れて行かれるのかは分からないけれど、チャンスというものはどんな窮地にでも存在するものだ。そう思い込むしかない。
「着いたぞ」
武藤の言葉に三途が反応して、車から九井を引きずり出す。
車から降りた先にいたのは、黒川イザナだった。
ニコニコと綺麗に微笑んでいるのにどこか不気味なのは、目が笑っていないからだろうか。
彼はカラン、とピアスを鳴らして九井の目の前に立った。
「そうそう。コレ。オレがずっと欲しかったヤツ。ムーチョが東卍にいてくれて手間が省けたわ」
「たまたまだけどな。コイツが東卍についたのも最近だし」
「ふぅん。……もしこれが全部アイツの計画通りなら、相当な切れ者だな」
武藤と親しげに話す様子を居心地悪く眺めていることしかできない。
それは隣に立っている彼も同じようで、じっとりとした目で2人を見ていた。
チリチリとした空気を肌で感じる。大方、大好きな隊長を取られて面白くない、といったところだろうか。
と、色素の薄い大きな瞳とかち合った。イザナの目が九井を覗き込む。
「アイツ、とうとうオマエのこと守りきれなかったんだな」
にんまりと笑うと頬が丸くなってあどけない印象を与える。
無邪気な少年のようなその笑顔の裏には、九井の知らない狂気が潜んでいる。
それを、ゆめゆめ忘れてはならない。
「オマエが何で乾と一緒にいるのかは知らないけどさぁ、オレらと一緒に来るならもっといいもん掴ませてやるよ。警察すら手の出せないオレだけの国を作るんだ。法律はオレ。王様もオレ。オマエは財務大臣にしてやる。悪い話じゃないだろ?オマエの才能をオレに寄越せ」
「……興味ねぇな」
「あっそ。ま、一晩やるからじっくり考えろよ。ムーチョ、コイツの監視、ヨロシク」
それだけ言うとイザナは夜道に消えていった。
カラン、カランという涼しげな音が完全に聞こえなくなって、ようやく息を吐く。
そこで初めて、彼という存在に威圧されていたことを知った。
「はぁ。何でも言うこと聞くんじゃなかったのかよ。おかげでオマエの面倒見なきゃならなくなっちまったじゃねぇか」
「嫌なら捨ててけよ」
「そうしたいところだが、イザナの頼みだからな」
まだ自由のきかない九井の体を再び後頭部座席に押し込むとすぐにドアを閉めた。
車の外では何やら2人が話している。
今が逃げ出すチャンスか、と思ったが見知らぬ土地で腕を封じられたまま逃走するのは分が悪い。
そういえばずいぶん遠くまで来た。少なくとも都内ではなさそうだ。
と、話を終えた男たちがようやく車に乗り込んでくる。
九井の隣には行きと同じく三途が座った。
普段は部下が運転をするものであるが、なにせ彼もここに来るのは初めてだ。
それに、三途が天竺に着いて行くと言ったのもつい先ほどのこと。
本来ならば武藤が九井だけを連れてこの場所に来るはずだった。それを、三途は武藤の居場所が自分の居場所だと言ってここまで一緒に来たのだ。
知らない土地だから、というのは建前でそのこともあるのだろう。
なんやかんや可愛い弟分の三途が自分に着いてきてくれるのが嬉しいのだ。
3人を乗せた車は再び来た道を戻る。沈黙の中、意外にも1番最初に口を開いたのは三途だった。
「……オマエ、今日はオレの家に来い」
「え?」
「隊長はお忙しい方だから、オマエなんぞの世話を焼かせるわけにはいかねぇんだよ」
重たそうなまつげを従えた目がじっとりと九井を睨み付けた。
先ほどイザナたちに向けていたのと同じ、据わった目つき。
「あぁ……はいはい、屋根があるならどこでもいいですよー」
これ以上の面倒事はゴメンだと、そう適当に返事をした。



体中にできた切り傷にお湯が滲みる。本当に最悪な1日だ。
今日は着の身着のまま床に転がされて夜を明かす覚悟をしていたのだが、三途春千夜という男はどうも潔癖症らしい。
家に入るや否やすぐに風呂場に放り込まれた。
汚物を扱うみたいな失礼な態度ではあったが、体についた血や土を綺麗にできるのはありがたかったので目を瞑ることにした。

「チッ……アイツ、許さねぇ」
風呂から上がると部屋着に着替えた三途が物騒な顔で何事かを呟いていた。
十中八九原因が自分にあるな、と確信した九井は開きかけたリビングの扉をゆっくり閉じる。
しかし、耳聡い彼にはバレていたようでギンッとこちらを睨み付ける目からは逃れることができなかった。
「何してんだ、来い」
綺麗な顔で怒られると余計に迫力が出る。
九井はしぶしぶリビングに入って言う通り彼のところへ近づいた。
ん、と顎で促されるままにソファに腰掛けると、三途から鏡と救急箱を渡される。
自分で手当しろ、という事なのだろう。
鏡にうつる自分の顔は腫れ上がり、あちこちから血が滲んでいた。
「オレも風呂入って来る。逃げたら殺すからな」
「はいはい」
そう言われて大人しく言うことを聞くわけもなく。
彼が風呂場に消えたらすぐにでもここを出るつもりだ。
ずいぶん詰めの甘い監視役だこと、と救急箱を開けるフリをしていると、三途がさらに声をかける。
「言っとくが、オマエが逃げ出して殺されるのはオマエじゃねぇ。あの2人だ」
「……」
「それでもいいなら、逃げろよ」
バタン、と扉が閉まった。
1人残された部屋に沈黙が落ちる。
あんなことを言われてすぐに逃げられるほど、あの2人のことを軽視できるわけがない。
しかし、今動かなければ次に訪れるチャンスはいつになるだろう。
一晩待つと言ったイザナの口ぶりからして、おそらく明日もヤツに会うことになるはずだ。
そのまま天竺に引きずり込まれてしまえばそれこそ逃げられないかもしれない。
「はぁ……オレ、賭けとか苦手なんだよなぁ……」
吐き出した息が震える。
こうしている間にも時間は過ぎていく。決断は早いほうがいい。
九井は意を決して立ち上がった。
裸足に靴を履いて玄関の扉を開き全速力で駆け出す。
腫れた頬を冷たい空気が撫でていく。鼻先と耳が少し痛い。肺が苦しい。
あの男が追いかけて来る前に帰るんだ。
彼らの元へ、帰るんだ。



どれくらい走っただろう。
終電ギリギリの電車に飛び乗ると同時に扉が閉じると、少し安堵した。
ここからアジトまではそうかからない。
九井は青宗に電話をかけようと急いで携帯を取り出す。
逃げ出すことができた、今からそっちに行く。アイツらに気をつけろ。
それだけ伝えることができれば十分だと携帯を開いたら、タイミングを見計らったように着信が入った。
ドキリと心臓が跳ねる。青宗ではない。知らない番号だ。
何となく嫌な予感がするが、おそるおそる通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
『オマエ、案外薄情なんだな』
その声に体が凍りつく。それは、紛れもなく三途の声だった。
『言ったよな、オレ。オマエが逃げて死ぬのはあの2人だって』
淡々としゃべるその背後で小さな音がする。
否、それは低い男のうめき声だ。
途端に携帯を握る手が震えた。そんなはずはないと言い聞かせる。
「……は、だって、いくらなんでもこの短時間で」
『単車飛ばせばテメェの鈍足追い抜くことなんざ簡単なんだよ』
わなわなと唇が震えた。
電話越しでは何も見えない。その微かな声では青宗のものかなんて判断がつかない。
「イヌピーがオマエみたいな細腕に負けるわけねぇだろ」
『細腕、ねぇ』
ざくり、と何かが斬れる鈍い音がした。
断末魔が上がる。遠くで『うるせぇ』という三途の声と同時にゴツリと蹴りを入れる音が聞こえた。
あの声は青宗のものではないような気がするが、混乱した頭では何が正解なのか分からない。
そもそも彼の叫び声なんて聞いたことがない。死を覚悟するような痛みを与えられれば普段聞いたことないような声がしたっておかしくない。
九井はどうすればいいか分からず頭を抱えた。
『コイツがただの肉片になる前に迎えに来てやれよ』
その言葉を最後に電話は切れた。



ショートメールに送られてきた場所までやって来た九井はその凄惨さに目を見開いた。
荒い呼吸を繰り返す度に汗が滴り落ちる。
立ち入り禁止の看板を飛び越えて辿り着いたその廃墟の中央に立っているのは、日本刀を血で濡らした三途。
いやに明るい月の光が刀身に反射して血痕とのコントラストが眩しい。
その美しくも恐ろしい光景に慄いた。
「遅すぎ」
冷ややかに九井を見下ろす三途の手から、ふわりと何かが舞った。
糸のような、いや、あれは髪の毛だ。彼と同じ、薄い金色をした髪の毛だ。
息が、できない。
「コレが本物だったらどうするつもりだったんだよ」
コツ、と三途は足元に転がる男の頭を靴の先で突いた。
その拍子に地面に伏していた彼の顔が明らかになる。
意識は朧気なようだが低く呻いているところを見るに死んではいなさそうだ。
しかし、その顔には覚えがない。知らない人だ。
青宗では、なかった。
ガクリと足の力が抜けて跪く。
目の前の男に対する恐怖と、安堵が綯い交ぜになってどっと押し寄せてくる。
額から流れる汗が地面に染みを作った。
三途は一歩ずつ九井の元へ歩み寄る。何かを楽しんでいるかのように、ゆっくりと。
「次、オレの言うこと聞けなかったらどうなるか、分かるよな」
有無を言わさぬその言葉に、九井はゆっくりと頷いた。
きっと、次はない。もう見逃してはくれない。
彼らの元へは、帰れない。
「オマエ、イザナじゃなくてオレにつけ」
「……は?どういう、意味だ……?」
「言わなきゃ分かんねーのか?」
「オマエのボス、なんだろ」
その瞬間、三途の顔が歪んだ。
「あのキチった野郎がボスだぁ?ふざけんな。オレの王はマイキーだけだ」
怒りを隠そうともせず、自分がこれから所属するチームの総長に悪態をつく。
不快でたまらないとでも言うように手にしたままの日本刀の柄を強く握った。
「……許さねぇ。マイキーを裏切ったアイツのことも、オレがこの手で殺す」
その憎しみの目はここにいない人物に注がれている。
親しげにしていたあの様子がすべて嘘だったとは思えない。
けれど、彼は今たしかに自分が付き添ってきたあの男に強い恨みを抱いているのは十分に見て取れた。
イザナと武藤が話している時。リビングで何事かを呟いていた時。
彼の怒りはすべて、武藤に向かっていたのだ。
「オマエはそのための駒だ。イザナが欲しがったオマエを、オレのモンにする」
ざく、と地面に日本刀が突き刺さる。
九井と目線を合わせるためにしゃがんだ彼の顔が、赤い刀身に反射した。
「選べ。オレは本気だ。オレと一緒にこの茶番劇に参加しろ」
天竺ではなく、三途につく。それが彼の提示する条件。
元々どこに属そうが構わない。組織が重要なんじゃない。九井はずっと青宗についてきた。
彼のいる東京卍會に帰ることができないなら、それなら。
「……分かった。でも、イヌピーは……イヌピーだけは、一緒に連れて行きたい」
「好きにしろよ。オレはオマエがいりゃ他はどうでもいい」
三途は満足そうに立ち上がると日本刀を抜いて血振りした。
その飛沫が九井の頬を掠め、青くなった肌に細く赤い線を引く。
「……っ、ごめん、イヌピー……でも、オマエもオレを選んでくれるよな……?」
花垣につきたい、と言った彼の顔が脳裏をよぎる。
彼の夢が目前にあるのに、それをぶち壊そうとしている自分が、情けない。
けれど、彼がいないと九井がこれまで生きてきた意味を見失う。
とうの昔に1人では生きていけなくなってしまった。他の何を捨てても彼だけは手放せない。
例えそれが、青宗の夢だとしても。
誰にも聞こえない贖罪の声は冷たい空気に融けていった。


【あなたに許される境界線を確かめたい】
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