【ココ赤+関卍トリオ】雨の話
「あ、雨」
学校の帰り道、赤音と二人で歩いていると雨粒が頬を掠めた。ぽつり、ぽつりと粒になって落ちてくる水滴。そういえば、今日は夕方から雨が降ると母が言っていたような気がしなくもない、と九井は頬を拭いながら思い出す。ちゃんと助言を聞いて傘を持って出ていれば濡れずに済んだのに、とどこか雨宿り出来そうな所がないかキョロキョロしていると、隣でポンッと傘の開く音がした。
「折り畳み傘、持って来といてよかった」
ピンク色の小さな傘を差しながら、赤音は九井を見下ろして微笑む。その傘を九井の方に傾けて二人の間に空いた距離を一歩詰めた。雨の臭いにまじって柔軟剤のいい匂いがする。九井は頬を赤く染めながら彼女を見上げた。
「家もうちょっとだし、ちょっと小さいけど大丈夫かな?」
「う、うん」
「青宗は傘持ってなかったからずぶ濡れかも」
「イヌピーは強いから大丈夫だよ」
「ふふ」
今日、彼は友達とサッカーをするとかで九井たちとは別行動だ。濡れながら今もボールを蹴っているだろう。ちょっとのことでは風邪をひかない丈夫な少年である故に、九井も赤音もさほど心配はしていない。
濡れた道路を歩幅を合わせてゆっくり進む。小さい傘に収まりながら寄り添って歩くのは少し難しい。たん、たん、とランドセルが水を弾く音がする。
「はじめくん、もうちょっとこっち来る?」
彼女がすい、と手を差し出した。細くて白い指。桜色の爪。九井はドキドキしながらその手を握り返す。彼女の手はすべすべで、ふわふわしていた。
「はじめくんの手、ちっちゃくて柔らかいネ」
「赤音さんの手はすごくあったかいよ」
「ほんと?」
「うん。なんか安心する」
そう言いながらも心の中は忙しなくて。恥ずかしいのと照れるのとでまともに彼女の顔を見ることができず、地平線に目をこらした。隣から小さな笑い声が聞こえる。雨の音より少し高くて、澄んだ音。
「嬉しいナ」
ぱたた、と傘の骨の先から雨粒がこぼれてて彼女のスクールバッグを濡らした。そう言えば、さっきまでランドセルから聞こえていた軽快な雨音が消えた。すっと上を見上げると、先ほどよりも少しだけ天井が低い気がする。自分の傘なのに、九井に気を遣ってこちら側に傘の面積を多く割いてくれているらしい。
咄嗟に「オレが傘持つよ」と声を出しそうになった。だが、現実的に考えてもそれは無理だ。小学生の自分にはまだ、彼女に傘を差し出してあげられる程の身長がない。歯痒い。大人なら五歳差なんて関係ないのに。今の自分が代わりに傘を持ったって、彼女がしゃがまないと同じ傘の中に収まることはできないだろう。カッコ悪くて嫌になる。
「……はやく大人になりたいなぁ」
ぽつりと呟いた言葉が雨音に紛れていくが、赤音はその小さな願いを聞き逃すことはなかった。繋いだ手にキュッと力を込める。
「私も」
「えっ、赤音さんはそれ以上大人になったらヤダ!」
「ふふ。私は大人になったらダメなの?」
「ダメじゃないけど、でも……だって……」
狼狽する九井に赤音はくすくすと笑いをこぼす。この小さな少年が芽生えた恋を叶えようとしている一生懸命な姿が可愛らしくて仕方がない。赤音はつとめて明るい声で話を続ける。
「大人っていいよね。宿題ないし、毎日勉強しなくていいし」
ぱしゃり、と浅い水溜まりを踏むとローファーの革が水を弾いた。足元がだんだんと冷えてくるが、九井と繋いだ手はずっと温かいまま。まだ子供体温の彼に比べて、赤音は少女から女性の体へと少しずつ変化している最中だ。昔より指先が冷える気がするのも、きっとその変化の一部だろう。
「でもね、ウチのお母さんは『子供に戻りたい』って言うの」
「そうなの? オレは大人の方がいいと思うけどなぁ」
「私も。はやく大人になりたいなぁ、はじめくんと一緒に」
九井は目をぱちぱちと瞬かせて赤音を見上げた。丸く吊った目を大きく開いて彼女を見上げる。優しげに微笑む彼女の瞳は晴れた空みたいに綺麗だった。
「オレと一緒に?」
「うん。だって、どっちかだけ先に大人になったら、片方は置いてけぼりになっちゃうでしょ?」
「そっか……」
「一緒に大人になろうね」
「うん」
九井は指先に力を込めてぎゅっと握った。自分より少しだけ大きい、守ってあげたい手。
中学生になれば大人だろうか。高校生になれば大人だろうか。もしかしたら大学生にならないと大人にはなれないのかもしれない。いや、やっぱり働くまではまだ大人じゃないのかもしれない。自分が小学校を卒業して、その歳になるまでに果てしない道のりがあるように感じる。あと何年経てば大人になれるのだろうか。先に大人になっていく彼女に追いつくまで、あとどれくらいかかるのだろう。
不安だ。だが、いくら焦ったって時間は止まりも早まりもしない。それなら、今は彼女の言葉を信じて一緒に大人になることだけを考えよう。
雨足が強くなる澱んだ空の下を、二人は小さな傘を分け合ってゆっくり歩いた。
◇
「あ、雨」
そう呟くや否や、趣など感じる間もなく大粒の雨が降りかかってきた。九井は慌てて近くのコンビニの下に駆け込む。ブランドものの服もサンダルも水を含んでぐっしょりだ。最悪の一言に尽きる。
「だー、クソッ」
その右隣で悪態をつくのは同じ関東卍會に属している三途だ。桃色の長い髪の毛が顔や首に張り付いていて不快極まりない表情をしている。
さらに左隣では、同じくびしょ濡れになった万次郎が服の裾から水滴を滴らせながら無言で突っ立っていた。
「ボスもずぶ濡れだし、ひとまずアジト帰るか」
「傘買って来るわ。オイ、財布」
「オレは財布じゃねぇ」
そう言いながらもポケットから財布を取り出して三途にそのまま預けた。彼は煩わしそうに髪の毛を払いながらコンビニの店内に入っていく。
にわか雨だろうか。それにしてはずいぶん雲が厚い気がする。空を見上げるが止みそうな気配はない。天気予報なんていちいち確認するような生活もしていないし、とんだ災難だ。ちらりと万次郎を横目に見るが、彼はただ静かにじっと正面を見ていた。
と、ほどなくして三途がコンビニから出てくる。しかし、その手には一本のビニール傘しか握られていない。
「ほんとついてねぇ。傘コレしかねぇんだと」
「マジかぁ」
大の男三人がビニール傘一本に収まるわけもなく。誰か一人は確実に犠牲になるしかあるまい。九井はこの先のことが予想できて小さくため息を吐いた。
「マイキー」
三途はバサ、と大ぶりの傘を開くとすっと万次郎の前に差し出した。このまま王に傘を差しだしてアジトまで歩くつもりであろう。あわよくば自分も傘に入りたいなんて思っているのかもしれないが。
万次郎は素直にその傘の下に入り込んだ。その二人の背中に何だか懐かしさを感じる。まだどこかあどけなさを残した少年と、甲斐甲斐しくその少年の世話を焼く綺麗な人。昔、同じような光景をどこかで見たような気がするが思い出せない。
「ココ」
その光景をぼうっと眺めていたら万次郎に手を掴まれた。予想だにしない出来事に一瞬あっけにとられるが、そのまま手を引かれて同じビニール傘の下に入る。
自分より小さな手は思ったよりもごつごつしていて力強い。彼は、幼い少年などではなかった。自分と同じ、子供と大人の狭間にいる青少年。
「帰ろう」
そのまま歩き出す彼の歩幅に合わせて九井も足を動かす。一瞬遅れた傘も万次郎を濡らさないようにとその上をぴったりついてきた。もちろん傘を差す三途は……ずぶ濡れである。
申し訳なさそうに彼を見やると、三途は歯が欠けそうなくらいギリギリと食いしばっていた。おもしろくないのだと顔全体で訴えている。だが、九井自身もなぜこうなっているのかは分からない。
「オレが持とうか……?」
繋がれた方とは逆の手で傘を指差す。この中で一番背が高いのは自分だし、何より三途の負担も大きいだろう。それに、グラグラと不安定な傘の下にいるのもなんだか心もとない。しかし三途はムスッとした顔で首を横に振った。あくまでも万次郎に仕えている自分でいたいのだろう。健気なものである。
「黙って前見て歩けコラ刺すぞ」
ぶんぶんと傘を揺らすと水滴をまき散らしながら傘の骨が九井の頭にぶつかる。刺すぞというよりはもはや刺さっているが、これくらいの意趣返しは甘んじて受けよう。
「三途」
「はい、スイマセン」
万次郎のたしなめる声に三途は攻撃をやめた。居心地が悪すぎるからはやくアジトに帰ろうと前を向く。
繋がれた手と差し出された傘。やっぱりどこか既視感がある気がするが、思い出せなくてモヤモヤする。懐かしいと感じたのは万次郎が少年のように見えたからだ。たしかに小柄ではあるが、少年と言うほど幼くもない。
ぱしゃり、と浅い水溜まりを踏んでサンダルが濡れる。素足に水が散ってつま先が冷えた。このサンダル、結構高かったんだけどなぁなんて思ってまた水溜まりを踏む。傘に収まりながら万次郎の歩幅に合わせているせいで避けられる水溜まりも避けられない。不便だ。
けれどこうやって手を繋いでいるのは不思議と嫌じゃない。頼られている感じがして、振り払う気にもなれないのだ。彼のたまに見せるこういう一面が子供っぽさを思わせるのかもしれないが。
子供の頃は難しいことは考えなくて良かった。好きなものを好きと言って、嫌なことは嫌だと突っぱねる素直さがまだあった気がする。
いつから色んな感情を飲み込むようになったのか。いつから素直に伝えることができなくなったのか。もう忘れてしまった。けれど、それが大人になるということだろう。誰しもが皆、色んな感情を飲み込んでここにいる。九井も、万次郎も、三途も。誰にも言えない何かを抱えてこの雨道を歩いている。
これ以上考え事はやめよう、と九井はまた水溜まりを踏んだ。なんだか、切ない過去を思い出してしまいそうで怖い。
いつかに置いてけぼりにしてしまった九井の想いは、今もまだ雨に濡れているのだろうか。それとも、一緒に置いてけぼりになってしまった彼女が傘を差してくれているだろうか。
一緒に大人になれなかった彼女と、大人になることをやめてしまった九井の恋は、まだ手を繋いでいる。その手を離せないのは九井の方ではあるが、それを分かっていながら彼女はずっと九井の幼い恋心を離さないでいてあげている。彼自身が自らこの手を離せるようになるまで。
大人になれない彼女は今でも、あの雨の中で傘を下ろせる日を静かに待っている。
学校の帰り道、赤音と二人で歩いていると雨粒が頬を掠めた。ぽつり、ぽつりと粒になって落ちてくる水滴。そういえば、今日は夕方から雨が降ると母が言っていたような気がしなくもない、と九井は頬を拭いながら思い出す。ちゃんと助言を聞いて傘を持って出ていれば濡れずに済んだのに、とどこか雨宿り出来そうな所がないかキョロキョロしていると、隣でポンッと傘の開く音がした。
「折り畳み傘、持って来といてよかった」
ピンク色の小さな傘を差しながら、赤音は九井を見下ろして微笑む。その傘を九井の方に傾けて二人の間に空いた距離を一歩詰めた。雨の臭いにまじって柔軟剤のいい匂いがする。九井は頬を赤く染めながら彼女を見上げた。
「家もうちょっとだし、ちょっと小さいけど大丈夫かな?」
「う、うん」
「青宗は傘持ってなかったからずぶ濡れかも」
「イヌピーは強いから大丈夫だよ」
「ふふ」
今日、彼は友達とサッカーをするとかで九井たちとは別行動だ。濡れながら今もボールを蹴っているだろう。ちょっとのことでは風邪をひかない丈夫な少年である故に、九井も赤音もさほど心配はしていない。
濡れた道路を歩幅を合わせてゆっくり進む。小さい傘に収まりながら寄り添って歩くのは少し難しい。たん、たん、とランドセルが水を弾く音がする。
「はじめくん、もうちょっとこっち来る?」
彼女がすい、と手を差し出した。細くて白い指。桜色の爪。九井はドキドキしながらその手を握り返す。彼女の手はすべすべで、ふわふわしていた。
「はじめくんの手、ちっちゃくて柔らかいネ」
「赤音さんの手はすごくあったかいよ」
「ほんと?」
「うん。なんか安心する」
そう言いながらも心の中は忙しなくて。恥ずかしいのと照れるのとでまともに彼女の顔を見ることができず、地平線に目をこらした。隣から小さな笑い声が聞こえる。雨の音より少し高くて、澄んだ音。
「嬉しいナ」
ぱたた、と傘の骨の先から雨粒がこぼれてて彼女のスクールバッグを濡らした。そう言えば、さっきまでランドセルから聞こえていた軽快な雨音が消えた。すっと上を見上げると、先ほどよりも少しだけ天井が低い気がする。自分の傘なのに、九井に気を遣ってこちら側に傘の面積を多く割いてくれているらしい。
咄嗟に「オレが傘持つよ」と声を出しそうになった。だが、現実的に考えてもそれは無理だ。小学生の自分にはまだ、彼女に傘を差し出してあげられる程の身長がない。歯痒い。大人なら五歳差なんて関係ないのに。今の自分が代わりに傘を持ったって、彼女がしゃがまないと同じ傘の中に収まることはできないだろう。カッコ悪くて嫌になる。
「……はやく大人になりたいなぁ」
ぽつりと呟いた言葉が雨音に紛れていくが、赤音はその小さな願いを聞き逃すことはなかった。繋いだ手にキュッと力を込める。
「私も」
「えっ、赤音さんはそれ以上大人になったらヤダ!」
「ふふ。私は大人になったらダメなの?」
「ダメじゃないけど、でも……だって……」
狼狽する九井に赤音はくすくすと笑いをこぼす。この小さな少年が芽生えた恋を叶えようとしている一生懸命な姿が可愛らしくて仕方がない。赤音はつとめて明るい声で話を続ける。
「大人っていいよね。宿題ないし、毎日勉強しなくていいし」
ぱしゃり、と浅い水溜まりを踏むとローファーの革が水を弾いた。足元がだんだんと冷えてくるが、九井と繋いだ手はずっと温かいまま。まだ子供体温の彼に比べて、赤音は少女から女性の体へと少しずつ変化している最中だ。昔より指先が冷える気がするのも、きっとその変化の一部だろう。
「でもね、ウチのお母さんは『子供に戻りたい』って言うの」
「そうなの? オレは大人の方がいいと思うけどなぁ」
「私も。はやく大人になりたいなぁ、はじめくんと一緒に」
九井は目をぱちぱちと瞬かせて赤音を見上げた。丸く吊った目を大きく開いて彼女を見上げる。優しげに微笑む彼女の瞳は晴れた空みたいに綺麗だった。
「オレと一緒に?」
「うん。だって、どっちかだけ先に大人になったら、片方は置いてけぼりになっちゃうでしょ?」
「そっか……」
「一緒に大人になろうね」
「うん」
九井は指先に力を込めてぎゅっと握った。自分より少しだけ大きい、守ってあげたい手。
中学生になれば大人だろうか。高校生になれば大人だろうか。もしかしたら大学生にならないと大人にはなれないのかもしれない。いや、やっぱり働くまではまだ大人じゃないのかもしれない。自分が小学校を卒業して、その歳になるまでに果てしない道のりがあるように感じる。あと何年経てば大人になれるのだろうか。先に大人になっていく彼女に追いつくまで、あとどれくらいかかるのだろう。
不安だ。だが、いくら焦ったって時間は止まりも早まりもしない。それなら、今は彼女の言葉を信じて一緒に大人になることだけを考えよう。
雨足が強くなる澱んだ空の下を、二人は小さな傘を分け合ってゆっくり歩いた。
◇
「あ、雨」
そう呟くや否や、趣など感じる間もなく大粒の雨が降りかかってきた。九井は慌てて近くのコンビニの下に駆け込む。ブランドものの服もサンダルも水を含んでぐっしょりだ。最悪の一言に尽きる。
「だー、クソッ」
その右隣で悪態をつくのは同じ関東卍會に属している三途だ。桃色の長い髪の毛が顔や首に張り付いていて不快極まりない表情をしている。
さらに左隣では、同じくびしょ濡れになった万次郎が服の裾から水滴を滴らせながら無言で突っ立っていた。
「ボスもずぶ濡れだし、ひとまずアジト帰るか」
「傘買って来るわ。オイ、財布」
「オレは財布じゃねぇ」
そう言いながらもポケットから財布を取り出して三途にそのまま預けた。彼は煩わしそうに髪の毛を払いながらコンビニの店内に入っていく。
にわか雨だろうか。それにしてはずいぶん雲が厚い気がする。空を見上げるが止みそうな気配はない。天気予報なんていちいち確認するような生活もしていないし、とんだ災難だ。ちらりと万次郎を横目に見るが、彼はただ静かにじっと正面を見ていた。
と、ほどなくして三途がコンビニから出てくる。しかし、その手には一本のビニール傘しか握られていない。
「ほんとついてねぇ。傘コレしかねぇんだと」
「マジかぁ」
大の男三人がビニール傘一本に収まるわけもなく。誰か一人は確実に犠牲になるしかあるまい。九井はこの先のことが予想できて小さくため息を吐いた。
「マイキー」
三途はバサ、と大ぶりの傘を開くとすっと万次郎の前に差し出した。このまま王に傘を差しだしてアジトまで歩くつもりであろう。あわよくば自分も傘に入りたいなんて思っているのかもしれないが。
万次郎は素直にその傘の下に入り込んだ。その二人の背中に何だか懐かしさを感じる。まだどこかあどけなさを残した少年と、甲斐甲斐しくその少年の世話を焼く綺麗な人。昔、同じような光景をどこかで見たような気がするが思い出せない。
「ココ」
その光景をぼうっと眺めていたら万次郎に手を掴まれた。予想だにしない出来事に一瞬あっけにとられるが、そのまま手を引かれて同じビニール傘の下に入る。
自分より小さな手は思ったよりもごつごつしていて力強い。彼は、幼い少年などではなかった。自分と同じ、子供と大人の狭間にいる青少年。
「帰ろう」
そのまま歩き出す彼の歩幅に合わせて九井も足を動かす。一瞬遅れた傘も万次郎を濡らさないようにとその上をぴったりついてきた。もちろん傘を差す三途は……ずぶ濡れである。
申し訳なさそうに彼を見やると、三途は歯が欠けそうなくらいギリギリと食いしばっていた。おもしろくないのだと顔全体で訴えている。だが、九井自身もなぜこうなっているのかは分からない。
「オレが持とうか……?」
繋がれた方とは逆の手で傘を指差す。この中で一番背が高いのは自分だし、何より三途の負担も大きいだろう。それに、グラグラと不安定な傘の下にいるのもなんだか心もとない。しかし三途はムスッとした顔で首を横に振った。あくまでも万次郎に仕えている自分でいたいのだろう。健気なものである。
「黙って前見て歩けコラ刺すぞ」
ぶんぶんと傘を揺らすと水滴をまき散らしながら傘の骨が九井の頭にぶつかる。刺すぞというよりはもはや刺さっているが、これくらいの意趣返しは甘んじて受けよう。
「三途」
「はい、スイマセン」
万次郎のたしなめる声に三途は攻撃をやめた。居心地が悪すぎるからはやくアジトに帰ろうと前を向く。
繋がれた手と差し出された傘。やっぱりどこか既視感がある気がするが、思い出せなくてモヤモヤする。懐かしいと感じたのは万次郎が少年のように見えたからだ。たしかに小柄ではあるが、少年と言うほど幼くもない。
ぱしゃり、と浅い水溜まりを踏んでサンダルが濡れる。素足に水が散ってつま先が冷えた。このサンダル、結構高かったんだけどなぁなんて思ってまた水溜まりを踏む。傘に収まりながら万次郎の歩幅に合わせているせいで避けられる水溜まりも避けられない。不便だ。
けれどこうやって手を繋いでいるのは不思議と嫌じゃない。頼られている感じがして、振り払う気にもなれないのだ。彼のたまに見せるこういう一面が子供っぽさを思わせるのかもしれないが。
子供の頃は難しいことは考えなくて良かった。好きなものを好きと言って、嫌なことは嫌だと突っぱねる素直さがまだあった気がする。
いつから色んな感情を飲み込むようになったのか。いつから素直に伝えることができなくなったのか。もう忘れてしまった。けれど、それが大人になるということだろう。誰しもが皆、色んな感情を飲み込んでここにいる。九井も、万次郎も、三途も。誰にも言えない何かを抱えてこの雨道を歩いている。
これ以上考え事はやめよう、と九井はまた水溜まりを踏んだ。なんだか、切ない過去を思い出してしまいそうで怖い。
いつかに置いてけぼりにしてしまった九井の想いは、今もまだ雨に濡れているのだろうか。それとも、一緒に置いてけぼりになってしまった彼女が傘を差してくれているだろうか。
一緒に大人になれなかった彼女と、大人になることをやめてしまった九井の恋は、まだ手を繋いでいる。その手を離せないのは九井の方ではあるが、それを分かっていながら彼女はずっと九井の幼い恋心を離さないでいてあげている。彼自身が自らこの手を離せるようになるまで。
大人になれない彼女は今でも、あの雨の中で傘を下ろせる日を静かに待っている。
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