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お風呂上がり、彼はいつもソファで私を待っている。ローテーブルに置かれた薄い缶を開いて、白いクリームをすくい取って。隣に座った私の手を取って、彼は丁寧にそれを塗り込んでいった。手の甲から指先、側面までを余すことなく、彼のひと回りも大きな手のひらが優しく揉み込んでいく。
私はこの時間が好きだった。いつもバスケットボールばかりを触っている手が、今この瞬間、ハンドクリームを塗っている瞬間だけは、私の為に動いているから。右手が終わると次は左手に。しっとりと潤っていく手のひらは、彼の熱も相まって、あたかかな温度に包まれていた。
「ん、終わり。今年はあんまり乾燥してないな」
最後に爪先を撫でられて、彼の手が離れていく。自分自身で手を擦り合わせながら、「うん、ありがとう。彰のおかげだよ」と小さく呟いた。同じように潤った彼の武骨な手が缶の蓋を閉めて、「どういたしまして」と優しく微笑んだ。
マッサージも兼ねたその行為は、高校時代から習慣づいている。乾燥が酷い、とこぼした私に、彼がハンドクリームをプレゼントしてくれたことがきっかけだ。
これ、あげる。と突然手渡されたそれに目をぱちくりとさせて、良いの?と問い掛けた私に、彼は少し恥ずかしそうに笑った。──君が好きそうな香りだったから。そう言って。
手の甲に出した時にふわりと香るフローラルな香りは、確かに私の好きな香りだった。普段使っているどこにでも売っているような無香料のハンドクリームには無い、華やかな香りが鼻を擽って、思わず手の甲に出したまま、その香りを堪能していた。すると、彼の手が伸びてきて、優しくそのクリームを引き伸ばした。声を上げることも出来ずに、私よりもずっと太くて長い指先が、私の手を這って、丁寧に塗り込んでいくその様を、私はじっと見つめることしか出来なかった。指の付け根から爪先まで、指の一本一本を確かめるような動きに、ぴくりと反応する。不意に動きを止めた彼に視線を向ける。彼は握り込んだ私の手ではなく、揺らいでいる私の目をまっすぐに射抜いていた。その瞳の中に、隠し切れていない熱を持って。
好きだよ。少し震えた声で呟いた彼に、私はこの時、うん、とか、そっか、とか意味の無い相槌を打っていた。彼もそれっきり何も言わなくて、ただ、握り込まれた手の熱が、ひどく熱かったことだけは覚えている。
──オレと、付き合ってほしい。
はっきりとそう告げられたのは、それから一週間経った日のことだった。当たり前のように彼に握り込まれた手のひらは、彼がくれたハンドクリームの爽やかな花の香りに包まれている。
うん、と私はまた、短い言葉を返すことしか出来なかった。それでも彼は、その言葉に満足そうに笑って、「良かった」と心底嬉しそうに呟いたのだ。
それから、彼は私にハンドクリームを塗りたがるようになった。教室だろうが、出先だろうが、お構い無しに。元々、乾燥肌な私は少しでも手入れを怠ると、すぐにカサカサになって皮が剥けたり、ひび割れたりしてしまう。だから、彼のその行動に、恥ずかしさこそは感じたものの、同時にありがたさも感じていた。
彼と付き合いだしてから、みるみる内に私の手は潤いを取り戻していった。艶やかさこそ感じる、女性らしいと称されるその手は、彼の細かなハンドケアの賜物だった。
高校を卒業して、大学生になって、一緒に住むようになって。どれだけ忙しくて、どれだけ疲れていても、彼は私の手にハンドクリームを塗ることを欠かさなかった。私が先に眠ってしまっていても、眠っている間にこっそりと塗ってくれていて、朝起きたら手のひらがカサカサになっている、なんてことは無くなった。
スン、と手の甲に鼻を近付ける。今日は桜の香りがした。春が近付いているからだろうか。沢山のハンドクリームが収納されたケースの中に、桜の描かれたパッケージが追加されている。多分、彼の手のひらからも同じ香りがするのだろう。
「……おはよ」
掠れた声で囁く彼の重みを背後から感じる。身体の前に回された腕が私の手を捕らえて、握り込んで。ふわりと香った桜の香りに、私は小さく笑った。
「おはよう。今日は桜だね」
そう言って見上げると、彼は眠たげな表情のまま、ほんの少し目元を赤らめて。
「──君が好きそうな香りだったから」
あの頃と変わらない、はにかんだ笑顔でそう言った。
*
──あ、これミョウジさん好きそうだな。
たまたま入った雑貨屋で見つけた可愛らしいパッケージに、真っ先に抱いた感想はそれだった。そばに置いてあるテスターを手に取って、香りを嗅いでみる。
うん、やっぱりミョウジさん好きそうだ。
根拠は無い。確信も無い。でも、何故かそう思った。何種類かあるパッケージから迷わず自身が先程手に取った物を取って、会計へと向かう。「ご自宅用ですか? プレゼント用ですか?」と尋ねてくる店員にプレゼント用、と答えようとして、「いや、自宅用です」と訂正する。一瞬、不思議そうにした店員だったが、すぐに表情を戻して、会計を進めた。
ありがとうございましたーと言う声を聞きながら、雑貨屋を出る。手の中には先程購入したハンドクリーム。ミョウジさんが好きそうだと直感したそれを、明日どうやって渡そうかと考える。梱包して貰わなかったのは、あくまで自然を装って彼女に渡そうと考えたからだ。
乾燥が酷いって言ってたから──。
たまたま貰ったから──。
色んな理由を考えながら、自宅への道を歩く。好きな子にプレゼントを渡すだけでこんなにも緊張するのかと、ドキドキする心臓から意識を逸らしながら、空を見上げた。星が輝いている。明日は良い天気になりそうだ。
まぁ、結局、彼女を前にして色々と考えた理由は吹っ飛んで、──君が好きそうな香りだったから。なんて馬鹿正直に答えてしまったのだけど。
私はこの時間が好きだった。いつもバスケットボールばかりを触っている手が、今この瞬間、ハンドクリームを塗っている瞬間だけは、私の為に動いているから。右手が終わると次は左手に。しっとりと潤っていく手のひらは、彼の熱も相まって、あたかかな温度に包まれていた。
「ん、終わり。今年はあんまり乾燥してないな」
最後に爪先を撫でられて、彼の手が離れていく。自分自身で手を擦り合わせながら、「うん、ありがとう。彰のおかげだよ」と小さく呟いた。同じように潤った彼の武骨な手が缶の蓋を閉めて、「どういたしまして」と優しく微笑んだ。
マッサージも兼ねたその行為は、高校時代から習慣づいている。乾燥が酷い、とこぼした私に、彼がハンドクリームをプレゼントしてくれたことがきっかけだ。
これ、あげる。と突然手渡されたそれに目をぱちくりとさせて、良いの?と問い掛けた私に、彼は少し恥ずかしそうに笑った。──君が好きそうな香りだったから。そう言って。
手の甲に出した時にふわりと香るフローラルな香りは、確かに私の好きな香りだった。普段使っているどこにでも売っているような無香料のハンドクリームには無い、華やかな香りが鼻を擽って、思わず手の甲に出したまま、その香りを堪能していた。すると、彼の手が伸びてきて、優しくそのクリームを引き伸ばした。声を上げることも出来ずに、私よりもずっと太くて長い指先が、私の手を這って、丁寧に塗り込んでいくその様を、私はじっと見つめることしか出来なかった。指の付け根から爪先まで、指の一本一本を確かめるような動きに、ぴくりと反応する。不意に動きを止めた彼に視線を向ける。彼は握り込んだ私の手ではなく、揺らいでいる私の目をまっすぐに射抜いていた。その瞳の中に、隠し切れていない熱を持って。
好きだよ。少し震えた声で呟いた彼に、私はこの時、うん、とか、そっか、とか意味の無い相槌を打っていた。彼もそれっきり何も言わなくて、ただ、握り込まれた手の熱が、ひどく熱かったことだけは覚えている。
──オレと、付き合ってほしい。
はっきりとそう告げられたのは、それから一週間経った日のことだった。当たり前のように彼に握り込まれた手のひらは、彼がくれたハンドクリームの爽やかな花の香りに包まれている。
うん、と私はまた、短い言葉を返すことしか出来なかった。それでも彼は、その言葉に満足そうに笑って、「良かった」と心底嬉しそうに呟いたのだ。
それから、彼は私にハンドクリームを塗りたがるようになった。教室だろうが、出先だろうが、お構い無しに。元々、乾燥肌な私は少しでも手入れを怠ると、すぐにカサカサになって皮が剥けたり、ひび割れたりしてしまう。だから、彼のその行動に、恥ずかしさこそは感じたものの、同時にありがたさも感じていた。
彼と付き合いだしてから、みるみる内に私の手は潤いを取り戻していった。艶やかさこそ感じる、女性らしいと称されるその手は、彼の細かなハンドケアの賜物だった。
高校を卒業して、大学生になって、一緒に住むようになって。どれだけ忙しくて、どれだけ疲れていても、彼は私の手にハンドクリームを塗ることを欠かさなかった。私が先に眠ってしまっていても、眠っている間にこっそりと塗ってくれていて、朝起きたら手のひらがカサカサになっている、なんてことは無くなった。
スン、と手の甲に鼻を近付ける。今日は桜の香りがした。春が近付いているからだろうか。沢山のハンドクリームが収納されたケースの中に、桜の描かれたパッケージが追加されている。多分、彼の手のひらからも同じ香りがするのだろう。
「……おはよ」
掠れた声で囁く彼の重みを背後から感じる。身体の前に回された腕が私の手を捕らえて、握り込んで。ふわりと香った桜の香りに、私は小さく笑った。
「おはよう。今日は桜だね」
そう言って見上げると、彼は眠たげな表情のまま、ほんの少し目元を赤らめて。
「──君が好きそうな香りだったから」
あの頃と変わらない、はにかんだ笑顔でそう言った。
*
──あ、これミョウジさん好きそうだな。
たまたま入った雑貨屋で見つけた可愛らしいパッケージに、真っ先に抱いた感想はそれだった。そばに置いてあるテスターを手に取って、香りを嗅いでみる。
うん、やっぱりミョウジさん好きそうだ。
根拠は無い。確信も無い。でも、何故かそう思った。何種類かあるパッケージから迷わず自身が先程手に取った物を取って、会計へと向かう。「ご自宅用ですか? プレゼント用ですか?」と尋ねてくる店員にプレゼント用、と答えようとして、「いや、自宅用です」と訂正する。一瞬、不思議そうにした店員だったが、すぐに表情を戻して、会計を進めた。
ありがとうございましたーと言う声を聞きながら、雑貨屋を出る。手の中には先程購入したハンドクリーム。ミョウジさんが好きそうだと直感したそれを、明日どうやって渡そうかと考える。梱包して貰わなかったのは、あくまで自然を装って彼女に渡そうと考えたからだ。
乾燥が酷いって言ってたから──。
たまたま貰ったから──。
色んな理由を考えながら、自宅への道を歩く。好きな子にプレゼントを渡すだけでこんなにも緊張するのかと、ドキドキする心臓から意識を逸らしながら、空を見上げた。星が輝いている。明日は良い天気になりそうだ。
まぁ、結局、彼女を前にして色々と考えた理由は吹っ飛んで、──君が好きそうな香りだったから。なんて馬鹿正直に答えてしまったのだけど。