SS
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「あの、名前、聞いてもいいっすか」
カウンター前に立つ、自分よりも遥かに大きな高校生に目をぱちくりとさせる。どこか緊張した面持ちの彼の視線はメニュー表では無く、私を向いていた。
「……名前? 私の?」
こくりと頷く男の子。一緒に来店してきたお友達が心底驚いた表情で彼のことを見ている。その様子を見るに、罰ゲームとかそういう類いでは無いようだ。
それにしても背が高い。体格もガッシリとしているし、何かスポーツをやっているのだろう。もったいないなぁと思う。髪を逆立たせているのはよく分からないけど、随分と端正な顔立ちをしているし。でも。
「ごめんなさい。そういうのはちょっと……」
愛想笑いを浮かべてやんわりとお断りする。高校生には酷かもしれないけど、大学生とは言えもう成人した大人なのだから線引きは大事だ。
「あー……そう、っすよね……」
男の子はちょっとだけ目を見開いて、気まずそうに頭をかく。伏せたまぶたから伸びる睫毛はとても長い。鼻筋だって羨ましいぐらいにスッとしている。こんなに綺麗な顔をした子が、どうして私に声を掛けてきたのかますます不思議になった。
「ご注文はお決まりですか?」
気持ちを切り替え、私の中では何も無かったことにして、通常通りの接客を行う。男の子は何も決めていなかったみたいで、あっ、とカウンターの上のメニュー表にようやく目を向けた。お友達の分の注文を先に聞いて、男の子がドリンクを決めるのを待つ。
「じゃあ……これで」
意外。大人びた雰囲気をしているからドリップコーヒーでも飲むのかと思ったけど、そうでは無いみたいだ。彼が指さした期間限定のドリンクはホイップたっぷりのどちらかと言えば子供が好むような甘い飲み物だった。
「あの、この間はスミマセンでした」
そんな記憶に新しい男の子がまたやって来た。今度は一人で、部活帰りなのかスポーツバッグを肩に掛けている。タイミング良くと言う訳ではなく、先日「折角イケメン君だったんだから、教えてあげれば良かったのに〜」と面白がっていた同僚に背中を押されて無理矢理カウンターに立たされた私は、開口一番にそう言って小さく頭を下げた彼に、少し驚いてしまった。
「ツレが店員さん気味悪がってんじゃないかって……確かに、いきなり声掛けられたらこえーよなと思って……ホントにすいませんでした」
シュン、と大きな身体を縮こまらせている彼に、他のお客さんの注目が集まったら困るからと、慌てて頭を上げさせる。
「いや、えっと、ちょっとびっくりしたけど、気にしてないから……」
毒気を抜かれると言うか、見かけによらず随分と子供らしい表情を見せる彼に、自然と敬語が抜け落ちてしまう。歳下だという固定観念もあるだろうけど、律儀に謝る彼に絆されたと言うのもある。
申し訳無さそうに眉を下げる男の子はやっぱり綺麗な顔をしている。女の子が放っておかないだろうなぁと思う。多分、何もしなくても、周りに女の子が集まってくるタイプだ。だから、余計にこの間の彼の行動が不思議でならない。こういう仕事をしてると声を掛けられない訳では無いけど、あんなに真摯に、まっすぐな視線を向けられたのが初めてだからだ。
「注文、決まってる?」
「……店員さんのオススメ、ありますか」
チラ、と視線を向けると、彼と視線が合った。垂れ目なんだ、と気にしなくても良いことを思う。「甘い方が好き?」と問い掛ける。
「いや、って言いてぇけど、その通りで……ガキっぽいすか」
わざわざそうやって問い掛けてくる辺りがそうかもしれない。思わずクスクスと笑ってしまうと、彼は驚いた表情で固まってしまった。
「……どうしたの?」
「あ……いや、笑った顔すげー可愛いなって……」
今度は私が固まる番だった。思わず唇を引き結んで「オススメは――です」と固い声で告げて視線を逸らす。そんな私の態度の変化に気付いたのだろう。彼はハッとした様子でさっきの発言を誤魔化そうとしていたが、それより先に私が「……あんまり歳上をからかわない方が良いよ」と告げたことでショックを露わにしていた。
すごすごとドリンク片手に店内を後にする背中を見て、少し言い過ぎただろうかと思う。彼に悪気が無いことは明らかだった。本心が思わず漏れ出てしまったとかそんなところだろう。ただ、ちょっと危ないなと思っただけだ。相手は高校生。たった二回会っただけの、しかも店員と客。変な期待を持たせちゃいけない。持ったらいけない。私は大人で、彼は子供なのだから。
*
その日は忙しい日だった。近くでイベントがある関係で来客数がいつもより多くて、いつもの人員では十分に回せていなかった。オーダーを取りつつ、ドリンクも作りつつ、流石に営業スマイルも完璧には保てなくなってきた頃。
「一体どれだけ待ったと思ってるんだ!!」
注文のコーヒーを持って行った際に、突然浴びせられた罵声にビクリと身体を震わせる。続けざまに「注文を取るのが遅い!」や「動きがとろい!」など他の客もまだまだ居る前で責め立てられ、ただでさえ忙しさで消耗していた心がキリキリと擦り減っていく。中々熱の引かないその人にひたすら謝ることしか出来ない。こういう時に限ってマネージャーは別の客の対応をしていて、私はこの時間が早く終わることをただ願っていた。
うそ、と心の中で呟く。不意にドリンクカップを取ったその客がカップをこちらに投げ付けようとしているのが分かった。それなのに身体は動かなくて、私は咄嗟に目を瞑ることしか出来ない。──バシャッと音がした。でも、私にコーヒーが掛かった感覚はなくて。恐る恐る目を開く。そして、私は目の前に立つ存在に目を見開いた。
中身の無くなったカップと氷が床に転がっている。コーヒーの香りを漂わせ間に割って入っていたのはあの高校生だった。大きな背中に隠れて、カップを投げた客の様子は見えない。
「待たされてイライラするのも分かりますよ」
静かで、落ち着いた声。どんな表情で喋っているのか、背中を向けているから分からない。でもさ、と彼は続けた。
「忙しい中、一生懸命働いてる店員さんにこういうことすんのは違ぇんじゃねーかな」
ポタポタとコーヒーが滴っている。慌ててマネージャーが仲裁に入って、私はようやく息が出来たような感覚になる。「見てらんなくて……大丈夫ですか?」と振り返った彼の困ったような笑みに、何だかどうしようもなく泣きそうになってしまった。
「これ、本当に食って良いんすか?」
閉店後の店内。控えめな照明にぼんやりと照らされた二人がけのテーブル席にサンドイッチやケーキが並んでいた。それを前に、彼は申し訳なさそうな表情で問い掛けてくる。
「うん。マネージャーがお礼にって」
「お礼って、オレが勝手にしたことですよ」
「それでも、私のこと庇ってくれたから」
ありがとう、としっかり頭を下げる。あの後も色々とあったけど、後は全部マネージャーが対処してくれた。こういう時、バイトの私にはマネージャーは非常に頼りになる存在で、私を庇ってくれた彼……仙道くんと言うらしい彼の両親や学校への連絡もマネージャーが全てしてくれている。……どういたしまして? と何故か疑問系で答えた仙道くんに再度食事を促すと、「じゃあ有り難くいただきます」とようやく彼は両手を合わせた。一口の大きさと食事のスピードにびっくりして、流石食べ盛りの高校生……と密かに感心する。
「……本当にごめんね。服、染みになっちゃうでしょ」
「いや、別に。黒いからあんま目立たねーし。すげーお気に入りって訳でもねーし」
ペロリとサンドイッチを平らげた仙道くんは今度はケーキにフォークを刺す。けろりとした表情の仙道くんは、本当に気にしていなさそうだ。「店員さんに掛かんなくて良かった」となんてことない口調で付け加えた仙道くんにきゅ、と胸を掴まれたような気分だった。
「……ミョウジナマエ」
え? と彼がこちらを向く。私は小さく息を吸った。
「私の名前。好きに呼んで良いよ」
ただの自己紹介なのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。目を丸くしている仙道くんに気まずくなって、視線を逸らす。
「……ナマエさん、って呼んでも良い?」
暫くの沈黙の後、仙道くんは私にそう問い掛けた。静かな声にコク、と頷く。ナマエさん、と確かめるように呟く声が聞こえて、むず痒い気持ちになる。
「はは……どうしよ、すげー嬉しい」
少し上擦った声だった。こっそりと向けた視線の先では、目元を僅かに赤らめた仙道くんが本当に嬉しそうに笑っていた。
***
あの日、「すげーコーヒーの匂いする」なんて笑いながら帰って行った仙道くんは、頻繁にでは無いが時折お店にやって来る。店内で飲んで帰る時もあれば、お持ち帰りにする時もあって、その違いはよく分からないが、決まって彼は私の作ったものを飲みたがった。だから何となく彼の好みも分かるようになってしまって、いつしか私は仙道くん専属のバリスタみたいになっていた。
「これ新作?」
「うん。でもエスプレッソの味強めだから、仙道くんには苦いかも」
「……良い感じに甘く出来ねぇ?」
見かけによらず子供舌の彼はコーヒーの苦味が苦手らしい。「なんかいける気がする」とドリップコーヒーを頼んだことが一度だけあったが、結局ブラックでは飲めずに砂糖とミルクを追加していた。
「カスタムになるから追加料金掛かるけど……」
「ん、大丈夫」
はーいとレジを打って、ふと思い立って途中で取り消す。財布からお金を取り出そうとしている仙道くんにストップを掛ける。
「良いよ。お金、私が出す」
え、と驚いている仙道くんを他所に、暇そうにしている同僚を呼んだ。
「ごめん、これとこれ追加してレジ打ってくれない? 後でお金持ってくる」
「ん、オッケー。もう上がる?」
「うん」
いまだにポカンとしている仙道くんに「好きな席座ってて良いよ、持って行くから」と声を掛ける。困惑している様子の仙道くんがテーブル席に座るのを確認した後、仙道くんと自分の分のドリンクをささっと作って、追加した新作スイーツをお皿に乗せる。「じゃ、上がりまーす」とドリンク類を乗せたトレーを同僚に預け、一度バックヤードに戻った後、帰る支度をして、今度はカウンターの外で同僚に会計をお願いした。
「青春だね」
「あはは、そうかも」
生温かい視線を向けてくる同僚に気恥ずかしさを覚えながら、さっき用意したトレーを持って、仙道くんが座っている席に向かう。彼は何か言いたげな表情でじっと私のことを見ていた。
「はい。これ、仙道くんの」
仙道くんの好みに合わせた新作ドリンクのカスタムを彼の前に置く。あと、これも。と新作のスイーツを置いて、私は仙道くんの正面に腰掛けた。
「……オレ、なんかしたっけ」
「常連さんへの日頃のお礼? 気にしなくて良いよ。私がしたくてしてることだから」
たまには歳上らしいことしないとね、と私の方はカスタム無しの新作ドリンクに口付ける。何とも言えない表情をした仙道くんが小さく息を吐いたのが分かって、少し不安になった。
「……いやだった?」
「いや、そういう訳じゃなくて、何つーか」
……子供扱いされてるみてーだなって。
不貞腐れたように呟く仙道くんがそれこそ子供のようで思わず笑ってしまう。仙道くんのそんな一面に暫く笑って、不服そうな表情をした彼が目を細めていることに気付かなかった。
「なぁ、ナマエさん」
笑いを引き摺りながら、仙道くんの方へと視線を向ける。真剣な表情に、呆気なく笑いが引っ込んでいく。
「ナマエさん、誰にでもそんな感じ?」
仙道くんの手はドリンクにもスイーツにも伸びることは無かった。重なった手が私の一回りは大きくて、ドキリと胸が震えた。
「オレは、ナマエさんだけだよ」
スリ、と手の甲を撫でる彼の手のひらを拒むことは出来なかった。硬い皮膚の感触が私の身体を強張らせる。ぎゅ、と握り込まれて、じわじわと彼の熱が伝わってきた。
「冗談でも、遊びでもねぇ。……本気で、ナマエさんのことが好き」
強い意志を持った瞳に射抜かれている。私は呼吸も出来なくて、まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。お願い、と高校生とは思えない甘ったるい声が響く。
「オレと付き合って」
末恐ろしい男だと思った。選択肢を与えているようで、その実私に拒否権なんて無いように、握られた手には強く力がこもっている。自分のポテンシャルを何もかも理解しているとしか思えない声と表情で、私に熱烈な言葉を囁く彼への返事は一つしか許されない。
うん、と頷いた私に、仙道くんは目尻を下げる。良かった、なんて安心したように笑っているけど、多分最初から、彼には勝ち筋しか見えていなかったんだろうなと漠然と思った。
カウンター前に立つ、自分よりも遥かに大きな高校生に目をぱちくりとさせる。どこか緊張した面持ちの彼の視線はメニュー表では無く、私を向いていた。
「……名前? 私の?」
こくりと頷く男の子。一緒に来店してきたお友達が心底驚いた表情で彼のことを見ている。その様子を見るに、罰ゲームとかそういう類いでは無いようだ。
それにしても背が高い。体格もガッシリとしているし、何かスポーツをやっているのだろう。もったいないなぁと思う。髪を逆立たせているのはよく分からないけど、随分と端正な顔立ちをしているし。でも。
「ごめんなさい。そういうのはちょっと……」
愛想笑いを浮かべてやんわりとお断りする。高校生には酷かもしれないけど、大学生とは言えもう成人した大人なのだから線引きは大事だ。
「あー……そう、っすよね……」
男の子はちょっとだけ目を見開いて、気まずそうに頭をかく。伏せたまぶたから伸びる睫毛はとても長い。鼻筋だって羨ましいぐらいにスッとしている。こんなに綺麗な顔をした子が、どうして私に声を掛けてきたのかますます不思議になった。
「ご注文はお決まりですか?」
気持ちを切り替え、私の中では何も無かったことにして、通常通りの接客を行う。男の子は何も決めていなかったみたいで、あっ、とカウンターの上のメニュー表にようやく目を向けた。お友達の分の注文を先に聞いて、男の子がドリンクを決めるのを待つ。
「じゃあ……これで」
意外。大人びた雰囲気をしているからドリップコーヒーでも飲むのかと思ったけど、そうでは無いみたいだ。彼が指さした期間限定のドリンクはホイップたっぷりのどちらかと言えば子供が好むような甘い飲み物だった。
「あの、この間はスミマセンでした」
そんな記憶に新しい男の子がまたやって来た。今度は一人で、部活帰りなのかスポーツバッグを肩に掛けている。タイミング良くと言う訳ではなく、先日「折角イケメン君だったんだから、教えてあげれば良かったのに〜」と面白がっていた同僚に背中を押されて無理矢理カウンターに立たされた私は、開口一番にそう言って小さく頭を下げた彼に、少し驚いてしまった。
「ツレが店員さん気味悪がってんじゃないかって……確かに、いきなり声掛けられたらこえーよなと思って……ホントにすいませんでした」
シュン、と大きな身体を縮こまらせている彼に、他のお客さんの注目が集まったら困るからと、慌てて頭を上げさせる。
「いや、えっと、ちょっとびっくりしたけど、気にしてないから……」
毒気を抜かれると言うか、見かけによらず随分と子供らしい表情を見せる彼に、自然と敬語が抜け落ちてしまう。歳下だという固定観念もあるだろうけど、律儀に謝る彼に絆されたと言うのもある。
申し訳無さそうに眉を下げる男の子はやっぱり綺麗な顔をしている。女の子が放っておかないだろうなぁと思う。多分、何もしなくても、周りに女の子が集まってくるタイプだ。だから、余計にこの間の彼の行動が不思議でならない。こういう仕事をしてると声を掛けられない訳では無いけど、あんなに真摯に、まっすぐな視線を向けられたのが初めてだからだ。
「注文、決まってる?」
「……店員さんのオススメ、ありますか」
チラ、と視線を向けると、彼と視線が合った。垂れ目なんだ、と気にしなくても良いことを思う。「甘い方が好き?」と問い掛ける。
「いや、って言いてぇけど、その通りで……ガキっぽいすか」
わざわざそうやって問い掛けてくる辺りがそうかもしれない。思わずクスクスと笑ってしまうと、彼は驚いた表情で固まってしまった。
「……どうしたの?」
「あ……いや、笑った顔すげー可愛いなって……」
今度は私が固まる番だった。思わず唇を引き結んで「オススメは――です」と固い声で告げて視線を逸らす。そんな私の態度の変化に気付いたのだろう。彼はハッとした様子でさっきの発言を誤魔化そうとしていたが、それより先に私が「……あんまり歳上をからかわない方が良いよ」と告げたことでショックを露わにしていた。
すごすごとドリンク片手に店内を後にする背中を見て、少し言い過ぎただろうかと思う。彼に悪気が無いことは明らかだった。本心が思わず漏れ出てしまったとかそんなところだろう。ただ、ちょっと危ないなと思っただけだ。相手は高校生。たった二回会っただけの、しかも店員と客。変な期待を持たせちゃいけない。持ったらいけない。私は大人で、彼は子供なのだから。
*
その日は忙しい日だった。近くでイベントがある関係で来客数がいつもより多くて、いつもの人員では十分に回せていなかった。オーダーを取りつつ、ドリンクも作りつつ、流石に営業スマイルも完璧には保てなくなってきた頃。
「一体どれだけ待ったと思ってるんだ!!」
注文のコーヒーを持って行った際に、突然浴びせられた罵声にビクリと身体を震わせる。続けざまに「注文を取るのが遅い!」や「動きがとろい!」など他の客もまだまだ居る前で責め立てられ、ただでさえ忙しさで消耗していた心がキリキリと擦り減っていく。中々熱の引かないその人にひたすら謝ることしか出来ない。こういう時に限ってマネージャーは別の客の対応をしていて、私はこの時間が早く終わることをただ願っていた。
うそ、と心の中で呟く。不意にドリンクカップを取ったその客がカップをこちらに投げ付けようとしているのが分かった。それなのに身体は動かなくて、私は咄嗟に目を瞑ることしか出来ない。──バシャッと音がした。でも、私にコーヒーが掛かった感覚はなくて。恐る恐る目を開く。そして、私は目の前に立つ存在に目を見開いた。
中身の無くなったカップと氷が床に転がっている。コーヒーの香りを漂わせ間に割って入っていたのはあの高校生だった。大きな背中に隠れて、カップを投げた客の様子は見えない。
「待たされてイライラするのも分かりますよ」
静かで、落ち着いた声。どんな表情で喋っているのか、背中を向けているから分からない。でもさ、と彼は続けた。
「忙しい中、一生懸命働いてる店員さんにこういうことすんのは違ぇんじゃねーかな」
ポタポタとコーヒーが滴っている。慌ててマネージャーが仲裁に入って、私はようやく息が出来たような感覚になる。「見てらんなくて……大丈夫ですか?」と振り返った彼の困ったような笑みに、何だかどうしようもなく泣きそうになってしまった。
「これ、本当に食って良いんすか?」
閉店後の店内。控えめな照明にぼんやりと照らされた二人がけのテーブル席にサンドイッチやケーキが並んでいた。それを前に、彼は申し訳なさそうな表情で問い掛けてくる。
「うん。マネージャーがお礼にって」
「お礼って、オレが勝手にしたことですよ」
「それでも、私のこと庇ってくれたから」
ありがとう、としっかり頭を下げる。あの後も色々とあったけど、後は全部マネージャーが対処してくれた。こういう時、バイトの私にはマネージャーは非常に頼りになる存在で、私を庇ってくれた彼……仙道くんと言うらしい彼の両親や学校への連絡もマネージャーが全てしてくれている。……どういたしまして? と何故か疑問系で答えた仙道くんに再度食事を促すと、「じゃあ有り難くいただきます」とようやく彼は両手を合わせた。一口の大きさと食事のスピードにびっくりして、流石食べ盛りの高校生……と密かに感心する。
「……本当にごめんね。服、染みになっちゃうでしょ」
「いや、別に。黒いからあんま目立たねーし。すげーお気に入りって訳でもねーし」
ペロリとサンドイッチを平らげた仙道くんは今度はケーキにフォークを刺す。けろりとした表情の仙道くんは、本当に気にしていなさそうだ。「店員さんに掛かんなくて良かった」となんてことない口調で付け加えた仙道くんにきゅ、と胸を掴まれたような気分だった。
「……ミョウジナマエ」
え? と彼がこちらを向く。私は小さく息を吸った。
「私の名前。好きに呼んで良いよ」
ただの自己紹介なのに、どうしてこんなに緊張するんだろう。目を丸くしている仙道くんに気まずくなって、視線を逸らす。
「……ナマエさん、って呼んでも良い?」
暫くの沈黙の後、仙道くんは私にそう問い掛けた。静かな声にコク、と頷く。ナマエさん、と確かめるように呟く声が聞こえて、むず痒い気持ちになる。
「はは……どうしよ、すげー嬉しい」
少し上擦った声だった。こっそりと向けた視線の先では、目元を僅かに赤らめた仙道くんが本当に嬉しそうに笑っていた。
***
あの日、「すげーコーヒーの匂いする」なんて笑いながら帰って行った仙道くんは、頻繁にでは無いが時折お店にやって来る。店内で飲んで帰る時もあれば、お持ち帰りにする時もあって、その違いはよく分からないが、決まって彼は私の作ったものを飲みたがった。だから何となく彼の好みも分かるようになってしまって、いつしか私は仙道くん専属のバリスタみたいになっていた。
「これ新作?」
「うん。でもエスプレッソの味強めだから、仙道くんには苦いかも」
「……良い感じに甘く出来ねぇ?」
見かけによらず子供舌の彼はコーヒーの苦味が苦手らしい。「なんかいける気がする」とドリップコーヒーを頼んだことが一度だけあったが、結局ブラックでは飲めずに砂糖とミルクを追加していた。
「カスタムになるから追加料金掛かるけど……」
「ん、大丈夫」
はーいとレジを打って、ふと思い立って途中で取り消す。財布からお金を取り出そうとしている仙道くんにストップを掛ける。
「良いよ。お金、私が出す」
え、と驚いている仙道くんを他所に、暇そうにしている同僚を呼んだ。
「ごめん、これとこれ追加してレジ打ってくれない? 後でお金持ってくる」
「ん、オッケー。もう上がる?」
「うん」
いまだにポカンとしている仙道くんに「好きな席座ってて良いよ、持って行くから」と声を掛ける。困惑している様子の仙道くんがテーブル席に座るのを確認した後、仙道くんと自分の分のドリンクをささっと作って、追加した新作スイーツをお皿に乗せる。「じゃ、上がりまーす」とドリンク類を乗せたトレーを同僚に預け、一度バックヤードに戻った後、帰る支度をして、今度はカウンターの外で同僚に会計をお願いした。
「青春だね」
「あはは、そうかも」
生温かい視線を向けてくる同僚に気恥ずかしさを覚えながら、さっき用意したトレーを持って、仙道くんが座っている席に向かう。彼は何か言いたげな表情でじっと私のことを見ていた。
「はい。これ、仙道くんの」
仙道くんの好みに合わせた新作ドリンクのカスタムを彼の前に置く。あと、これも。と新作のスイーツを置いて、私は仙道くんの正面に腰掛けた。
「……オレ、なんかしたっけ」
「常連さんへの日頃のお礼? 気にしなくて良いよ。私がしたくてしてることだから」
たまには歳上らしいことしないとね、と私の方はカスタム無しの新作ドリンクに口付ける。何とも言えない表情をした仙道くんが小さく息を吐いたのが分かって、少し不安になった。
「……いやだった?」
「いや、そういう訳じゃなくて、何つーか」
……子供扱いされてるみてーだなって。
不貞腐れたように呟く仙道くんがそれこそ子供のようで思わず笑ってしまう。仙道くんのそんな一面に暫く笑って、不服そうな表情をした彼が目を細めていることに気付かなかった。
「なぁ、ナマエさん」
笑いを引き摺りながら、仙道くんの方へと視線を向ける。真剣な表情に、呆気なく笑いが引っ込んでいく。
「ナマエさん、誰にでもそんな感じ?」
仙道くんの手はドリンクにもスイーツにも伸びることは無かった。重なった手が私の一回りは大きくて、ドキリと胸が震えた。
「オレは、ナマエさんだけだよ」
スリ、と手の甲を撫でる彼の手のひらを拒むことは出来なかった。硬い皮膚の感触が私の身体を強張らせる。ぎゅ、と握り込まれて、じわじわと彼の熱が伝わってきた。
「冗談でも、遊びでもねぇ。……本気で、ナマエさんのことが好き」
強い意志を持った瞳に射抜かれている。私は呼吸も出来なくて、まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。お願い、と高校生とは思えない甘ったるい声が響く。
「オレと付き合って」
末恐ろしい男だと思った。選択肢を与えているようで、その実私に拒否権なんて無いように、握られた手には強く力がこもっている。自分のポテンシャルを何もかも理解しているとしか思えない声と表情で、私に熱烈な言葉を囁く彼への返事は一つしか許されない。
うん、と頷いた私に、仙道くんは目尻を下げる。良かった、なんて安心したように笑っているけど、多分最初から、彼には勝ち筋しか見えていなかったんだろうなと漠然と思った。