せんせい!

 日が西の空にある。五月の陽光が大きなはめ殺しの窓から室内を照らし、午後の眠気を誘った。
 ドットは欠伸を噛み殺し、本日の課題を片付ける――振りをしながら向かい側へ神経を注いだ。あからさまに見ることはなく、視界の端で像を捉える。円盤のテーブルを挟んで向川岸、そこには一人の男が手元のノートに視線を落としていた。
 放課後に男――ランスと寮室で提出課題をこなすのは、日課というわけではなかったが、時間が合えばそうして過ごすようにしていた。二人は恋人同士であり、互いに素直な質ではなかったが、空き時間ぐらいは共に過ごしたいという共通の願望がある。デートしようぜ(或いは、イチャイチャしようぜ)の一言がどうしても言えず、いつの間にやら都合が合う時は勉強を共にするという不文律が仕上がっていたのだ。
 好きだと言われ、好きだと返した日から三ヶ月。恋人らしく致すべきことも致したというのに、とんでもなく初心である――と思い至り、芋づる式に昨夜の密事が掘り起こされ、ドットは頬を染めた。もう数度目になるその行為は、まさに部屋の端にあるランスのベッドの上で行われたのである。思い出した途端、ベッドが存在感を放ち始めたのでドットは緩く首を振ることで雑念を振り払う。
 違う、今はそんなこと考えている場合じゃなくて、と今一度目の前の男に意識を集めた。
 ランスは相変わらず、ノートに集中している。……ように見える。しかし、その実勉強に身が入っていないことは瞭然だった。ペンを持つ手は淀みないのだが、感情の滲まない端正な顔は心ここにあらずといった様子で、覇気がない。一見ではわからない程の変化だ。それでも、同室のよしみ、付き合いの長さ、もしくは恋人の勘が、やっぱりそうか、とドットに確信を持たせた。
 ――ランスの様子がおかしい。
 いつからおかしかっただろうか、と記憶を辿る。昼休憩? いや、朝の時点にはもう――と振り返り、またもや記憶は昨夜へと帰結した。ランスがいつものようにドットの身体を暴く。しかし、その瞳は何かを注意深く探るように、もしくは懐疑的に動いていなかっただろうか。あの時点では熱に翻弄されるばかりで気づかなかったのに、もうそうだとしか思えなかった。
 ドットは、唖然とその可能性に触れる。
 オレとのエッチに、何か、不満があったり、とか――?
「お前、おかしいぞ」
 静寂に落とされた台詞が、渦巻く思考に一石を投じる。ドットは思わず顔を上げた。なんだ? なんつった? おかしいのはお前だろうが、と眼前の男に胡乱な目配せをすると、ランスは鏡を合わせたように同じ視線をドットに寄越した。
「赤くなったかと思えば青くなったり……黙ってても煩いな、貴様の百面相は」
 視界の端で覗っていた時とは違う、その絶妙に小馬鹿にした表情はドットの導火線にいともたやすく火を付けた。
「……いやいやいや、違うだろ。オレがおかしいんじゃねぇだろ」
「は?」
「テメェだろ、おかしいのは。上手く誤魔化してるつもりか知んねぇけど、ずーっと変だぞ」
 指摘に対し、ランスは一瞬怯んだようにも見えたがすぐに鉄仮面を被り直す。その態度がまた、ドットの癇に障った。
「何がどう変だって言うんだ」
「流石に気付くわ。不本意だけど付き合いもそれなりに長いし。それに……」
 そこで一度言葉を切ると、ドットはまるで一世一代の告白でもするかのように声帯を震わせた。「オレらって、一応、こ、恋人同士なわけだし」
「……何だ? 聞こえないぞ、はっきり言え」
 振り絞って吐いたいつになく素直な台詞は、相手の耳に届かなかったらしい。決死の想いを無下にされたような心地にすらなり、ドットの導火線を走っていた火はとうとう爆弾に到達した。
「――かあぁぁぁぁぁっっっ! いや、もう言っちゃうわ、言っちゃうけどね!?」
 突然立ち上がったドットに、ランスは気圧された様子で椅子の背もたれに背中を預けた。ドットはテーブルに手をつき身を乗り出すと、勢いのまま口を開いた。
「オレとのエッチに不満があんだろ!?」
「…………は?」
 初めて見る表情だった。丸の中に点々を二つつけたみたいな簡易的な作画になったランスに、ドットは「とんでもないことを口走ったのでは?」と瞬時に我に返り顔面に熱を集中させた。傍目にもわかりやすく真っ赤になっているのだろう。手の甲で熱い頬を擦りながら「……まあ、その、そうなのかなぁって、思い至りまして……」と火が消えたように語気を弱めた。
 ランスは、暫しローコスト作画のまま口を噤み――やがて呆然と呟くのだった。
「……それはお前の方だろ」





「右手を挙げろ」
「……は?」
「いいから挙げろ」
 ランスの気迫に圧され、ドットは意味がわからないまま右手を顔の横まで挙げた。そうしてから、次は何を命じられるのかと固唾をのんで待った。
 先刻のことだ。それはお前の方だろ、と呟いた次の瞬間、ランスはどういうわけかドットの腕を乱暴に掴むと室内を一直線に突っ切り自身のベッドへと向かった。つまり、現在二人は部屋の端にあるランスのベッドの上にいて、向かい合って座っており、何故か片方の人物が挙手させられているという状況にある。
「……えーと」
 展開が読めずにドットが疑問符を浮かべていると、ランスも自身の右手を挙げ「せんせい」とやけに響く声で言い放った。
「は? せんせい?」
「僕たちは、このベッドの上にいる間、相手に対して隠していることを、包み隠さずに話すことを誓います」
「はあ!? せんせいって宣誓のことか!? てか何勝手なことを……っ」
 まるでスポーツマンがする選手宣誓のようなことを言い並べる男に、ドットは「んな一方的なもん許されねえよ!」やら「僕たちってなんだ、オレを勝手に含めるな!」と喚いたが、
「ドット」
 と普段は聞けない甘い声で名を呼ばれ、すぐに閉口してしまった。
「……おま、それは……ズリィだろ……」
「ドット」
「だから……!」
 甘く名を呼ばれ、未だ挙げたままだった右手をとられ、ドットは頬を染める。まるで、罠に追いやられている小動物のような気分だった。そんなドットをもう一押しするように、ランスはドットの右手を一層強く握った。
「ドット。オレたちは、どうも性のことで行き違いがあるようだ」
「せ、性……」
「恥ずかしがることじゃない。大事なことだ。性の不一致は別れの理由になり得ることもある」
「わ、別れ……」
「……そんな顔するな。別れるわけないだろう。でも、それぐらい大事なことだから、ちゃんと話し合いたい」
 果たして、この男は本当にランス・クラウンなのだろうか。ドットはぼんやりと端正な顔を眺めた。いつもとまるで違う。明け透けな物言いはすれど、秘めた心情を素直に打ち明けるような人間ではなかったはずだが――。
 ドットが面食らっていると、ランスはばつが悪そうに「宣誓しただろう」と言った。
「このベッドの上にいる間、オレはもう隠し事はしない。……お前は?」
 覚悟の決まった空色の瞳で見つめられ、ドットは暫し逡巡した。そんなドットを、ランスはいつにない根気強さで待ち続けた。
 ――やがて、ドットは深く息を吸い込むと、同じだけの時間をかけてゆっくりと吐き出した。あのランスにここまで言わせたのだ。自分だけ逃げおおせるわけにはいかない。
「……わかった」
 そう返すや否や、肩を押されたドットの身体がシーツに沈む。見慣れた天井が見えたかと思ったら次の瞬間にはこちらを見下ろすランスが現れ、そこでようやく押し倒されたのだと気付いた。
「……えーと……話し合いをするんだよな?」
「そうだ。話し合いだ。実践を交えつつ」
「ななな、なんだよ実践って!」
 慌てて身を起こそうとするが、両肩を押さえられている為それは叶わなかった。
「馬鹿! まだ昼間だぞ、何考えてんだ!」
「馬鹿はお前だ、何の為にベッドに移動したと思っているんだ」
「正直そこまでは考えてなかった!」
「馬鹿」
 そう言い捨てられ、更に言及しようとして――唇に蓋がされた。
「んっ……」
 ドットは咄嗟にまずい、と思った。ランスの唇は、いつだって鍵となるのだ。ドットの思考を奪い、本能の淵へと誘う鍵に。ちゅっ、と音を立てて唇を吸われ、食まれれば、もうドットは何と言い返してやるつもりだったのかも忘れてしまうのだから。
「ぅ、ん……」
 そうやって何度も何度も唇を刺激されているとどんどん筋肉が解けていき、強張っていた身体がシーツの上に流れ出す感覚を覚える。だめだ。こうなるともう、自分はただ荒波に翻弄されるだけだ。せめて情けない声だけは極力出さないようにと肝に銘じ、ドットは昨夜ぶりのランスの唇を堪能した。
 吸われ、噛まれ、時に舐められ、そろそろ舌が入ってくる頃だ、と慣れ親しんだ流れにドットが蕩けていると、緩やかに唇が離される。
「……ぁ……?」
 互いの唇が触れるか触れないかというところでランスは吐息混じりに囁いた。
「キス、気持ちいいか?」
「え」
 そんなことを面と向かって聞かれるとは思っておらず、ドットは咄嗟に答えることができなかった。
「……気持ちよくなかったか?」
「……なんで、そんなこと聞くんだよ」
 質問に質問を返して逃げれば、ランスは「お前、いつも何かに耐えてるみたいな……苦しそうな顔してるぞ」と小さな声でぼやいた。
「はじめは痛がってるのかとも思ったが、反応を見るにそういうわけでもなさそうで……キスの時もそうだが、前戯の時も、挿入してる時だって……」
「あ……」
 瞬間、ドットは昨夜の男の視線を思い出した。何かを探るような、もしくは懐疑的な瞳。あれは、ドットの反応を注意深く観察し、その奥にある真意を見つけようとするものだったのだ。
 つまり、自分の態度が、ランスを不安にさせていたのか。それに思い詰めていたから今日一日ずっと――いや、もしかすると、ずっと前からランスは悩んでいたのかもしれない。
 頬が、未だかつてないほど熱くなっていく。情けないし、恥ずかしい。何よりも、申し訳なかった。
「ランス」
「ちゃんと教えてくれ。……そういう約束だろ」
 そう言うと、ランスはドットの右手に自身の左手を重ねた。指を絡め、握り合う。先程の冗談みたいな宣誓を思い浮かべてから、ドットは顔を背けた。ランスの顔を見ながら話すのは、とてもじゃないができそうにない。
「……気持ちいい。いつも、ちゃんと気持ちいい。キスしてる時も、前戯も、い、挿れられてる時も……」
「……なら、なんでいつもあんな辛そうなんだ」
「………………気持ち良すぎて、声出そうだから」
 言ってから「なーんちゃって!」と誤魔化したいところを、ドットは必死に耐えた。顔から火が出そうだ。こんな日も高いうちから、オレは、一体、何を口走っているんだろうか。
 そうしてランスの反応を恐々と待ち続けていると、やがて特大の溜息が頭上から降り注いだ。思わず逸らしていた顔をそちらに向けると、男はなんとも言えない表情で眉間に皺を寄せていた。言うなれば、怒りと照れが入り混じったような――。
「お、怒った……?」
「怒った。まさか、そんな理由で……」
「そ、そんな理由って! あのなぁ、誰の為に……っ」
 そこまで言って、ドットは慌てて口を噤む。しかし、ランスがそれを許すはずもなく繋がれたままのドットの右手を意味ありげに数度握った。約束だろう、包み隠さず全て話せ、と言外に伝えているのだ。
 ドットは諦めの溜息を絞り出すと、小さな声で打ち明けた。
「キモいだろ、オレの喘ぎ声とか。……萎えられたら流石に傷つくし」
 初めて身体を繋げた時――いや、その前からずっと気にかかっていたことだ。
 ランスは、同性愛者ではない。ドットに性的な魅力を感じて付き合い始めたわけでもない。自分は中性的な見た目をしているわけでもなく、むしろ男性の中でも長身の方で、誰がどう見ても女には見えない。認めたくはないが、ランスのように端正な顔立ちをしているわけでもない。
 しかし、ドットの方はランスに触れたいと思っていた。触れたい。より深く繋がりたい。でもランスが同じ気持ちとは限らない。均衡を崩したくなくて、そういった欲はひた隠していた。
 果たして、熱量も質も違う思いを抱えながら、ランスとどこまでの関係が築けるのだろうか。何もかもが未知で、不安だった。
 そんな折に、ランスが言ったのだ。ドットを抱きたいと。
「どういうつもりか知んねぇけど、抱きたいってことは多少は……その、そういう対象に見えてんのかぁって。……でも抱いてみたらやっぱ違うなってなるのが嫌で、せめてお前にとってのノイズを極力減らそうと思って……」
「……で? 声を出さないように、あんまり反応を示さないように耐えてたってことか?」
「そういうことですね……ってイダァ!!!」
「馬鹿。いや、特大馬鹿だな」
 額が割れそうなほどの衝撃が走る。繋がれていない方の手で渾身のデコピンを放たれたのだ。涙目になりながら悶えていると、ランスは再び特大の溜息をこぼした。
「全部間違っている」
「へ?」
「確かにオレは同性愛者ではないが、こういう関係になる前からお前のことを脳内で脱がしまくってたぞ」
「え?」
「性的な魅力? なかったら、今こうはなってないだろ」
「うわ……っ」
 言いながら、ランスは制服のズボン越しのモノをドットのそれに擦り付けた。ドットはもちろんのこと、ランスのモノもしっかりと兆しており、思わず声を上げる。
「以前から薄々勘付いてはいたが、今確信した。お前はオレのことを潔癖……いや、神聖視しているところがあるよな。恋愛なんてするわけない、性欲に溺れるわけがないと」
 そう指摘され、ドットの目からは鱗が零れ落ちた。
「そ、そうかもしんねぇ」
「馬鹿が。もしそうだったら、オレはどういうつもりで毎度お前の上で腰振ってたっていうんだ」
「腰、振って、って……」
 ランスの口から飛び出す兵器級の衝撃発言に、ドットは目を白黒させることしかできずにいた。目の前にいる男は本当にランス・クラウンなのだろうか、とデジャヴュを迎えたところで、ランスがドットの繋いだままの右手に力を加える。もう嫌というほど理解している合図だった。
「ドット、今日、このベッドの上では、秘密はないんだったよな」
「…………ハイ」
「なら、どうするべきか、わかるよな」
「…………ハイ」
 わざとらしく一節一節を区切って、ランスは子どもに言い聞かすように言った。当然、ドットに与えられた選択肢はイエスのみである。
 すっかりしおらしくなった様子に気を良くしたのか、ランスはわかりやすく口元に笑みを浮かべると歌うように言った。
「もう遠慮することはないからな。思う存分声を出せよ」
 なんか、部活みたいだな。腹から声出せよ〜的な。
 ――などと茶化そうとして、やめた。どう濁そうともう逃げられそうにないと、興奮で光る空色の瞳を見て悟ったのだ。
 ドットは全てを諦めて、強張る手足からそっと力を抜く。そうしてから、隠していたものを暴かれたくないような、暴かれたいような、ふわふわした心地に身を任せることにしたのだった。
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