その他短編
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己の表情筋が滅多に仕事をしないことくらい、自覚している。だが、だからといって困ったことはあまりない。強いて言うならば、初対面で明らかに怯えたように話しかけてくる人間がたまにいるくらいで。廊下の先を歩いてくる人物を視界が捉えて一瞬でそんなことを考えた。
「おい。」
『...。』
「おい、なまえ。」
『...あ、蒼也さん。』
「また、酷い顔だが。」
『あはは、すみません。また人殺しそうな顔してました?』
先程までとは別人ではないかと見間違うほどの笑顔で、その顔と相容れない物騒な発言をする女は、俺とは逆に表情筋が仕事をしすぎていると思う。彼女の場合は表情筋だけではなく、本当に仕事をし過ぎだが。
「今度は何を溜め込んでいる。」
『いやだなー、蒼也さんほど仕事してないですよ。ちょっと前だって、遠征直後になんか別の任務ついてたんでしょ?その後も会議だなんだって、全然休んでないですよね?』
「俺はこれでも、休息も仕事のうちだと自覚している。お前と違って。」
『私だってそのくらいわかってますよ。』
「分かっているのと、実行しているのは、雲泥の差があるが。」
『そりゃそうですね。』
困ったようにくすくす笑うなまえにいらだちを覚える。彼女の表情は確かに豊かだ。それを使いこなすなまえは世渡りが上手く、歳は俺の1つ下だが、俺よりも大人に囲まれて仕事をする姿に時折彼女が年齢を偽っているのではないかと疑うほど。飲みの席でその考えを漏らせば、その場にいた諏訪に「1番年齢詐称疑惑あんのお前だろ。」と笑われた。そういえば、諏訪もどちらかと言えば表情は変わるほうだ、木崎はあまり変わらないな、とその場にいた人間の顔を浮かべて思考が脱線する。
『今は蒼也さんの方が、怖い顔だと思いますよ?』
「自分がそういう顔をしていた自覚はあるんだな?」
『はは。...まあ、多少は。』
指摘してやれば、僅かに彼女の笑顔が崩れる。俺の分かりずらい表情を読み解くことができるなまえと同じ程度には、なまえの作り出す表情の綻びに気づくことができる。その自負はある。
「...20時だ。その時間に経理部に迎えに行く。」
『ああ、待ってください!今日唐沢部長と1件遅めのアポイントがあるんです。』
「何時からだ。」
『18時です。』
「会食ではないんだろう?そんなに遠いのか?」
『...いえ。』
今は昼食時をいくらかすぎた頃。なまえは午前は大学だと言っていた記憶があるので、今はここにいるということは、これから本格的に仕事という所のはずだ。それでも20時という時間はかなり譲歩している。俺から視線を逸らしながらそう答えたなまえの表情は、いつもの作られたものでは無いと分かって、バツの悪そうなその顔は、俺の言いたいことを理解しているのだろう。他人であればそれをかわすための表情を完璧に貼り付けるのだろうが、そうしないのはこいつが俺に気を許していると、少しは自惚れてもいいだろう。
「...30分は待ってやる、それが過ぎたら強制的に連れて帰る。」
『善処します。』
ため息を付きながらそういえば、また笑いながら返事をするなまえ。その顔に浮かべられたのはいつもは大人びた彼女が年相応に見せるもので。それは豊かに、くるくると変わるなまえの表情の中で、俺だけが見れるものだと知っている。
ーーーーー
みょうじなまえのボーダーでの所属は経理部の職員だ。だが彼女の仕事は多岐にわたる。経理でパソコンを前に数字を主に相手にしているかと思いきや、外務・営業部長の唐沢の補佐のようなことをしている時もある。そうかと思えば、ラウンジや個人ランク戦ブースで主にC級の指導をしていたりと何が本業かわかったものではない。元を辿ればなまえは1年ほど前まで、防衛隊員としてB級隊員の中でも個人のポイントはそれなりに高く、しかしどのチームにも所属していないということで多少その動向は注目されていた。ハウンドとバイパーを上手く使い分ける戦法がメインだったが、那須や出水のように全方位射撃と言うよりは、相手の動きを読んだ上で弾数を抑え射程を伸ばして相手の意表を突く動き方をしていた。どちらかといえば射手だが狙撃手の動きに近い。それでいて射手用トリガーよりポイントこそ少なく万能手とまではいかないもののスコーピオンも使えるとあっては注目されるのも当たり前と言えた。風間もその噂を聞きなまえに声をかけたのが2人の出会いだった。
「お前は、どこの部隊にも所属するつもりは無いのか。」
『ないですねぇ。私は1人で色々するのが好きなので。そのどれかが誰かの役に立てばいいかなぁくらいの考えなので、チームでどうこうは考えてないです。』
この時から風間に声をかけられたことにわざとらしく驚いたり、ニコニコと話をしていたかと思えば、誘いを断ることを本当に申し訳なさそうにしたりと色々な表情をするやつだ、という印象を彼に持たせていた。しかし、風間の中に強く残ったのはそのどれでもない表情で。
『おいみょうじ。模擬戦しようぜ。』
『またぁ?今取り込み中なんだけど。それにもう太刀川くんにあげるポイントないよ。』
「んじゃ、ポイント変動なしでいいぜ。しかも取り込み中ったって、相手が風間さんだろうが断るんだろ。」
『なんで太刀川くんにそんな言い方されなきゃいけないの...。すみません、風間さん。』
心底楽しそうな太刀川に、呆れたような表情を見せた彼女は、風間に申し訳なさそうな、それでいて太刀川への呆れに同調を求めるような、そんな顔をしていた。
「いや、今日のところは俺も引き下がろう。だが、俺も手合わせ願いたい。」
『へっ、風間さんとですか!?私なんかが?』
素っ頓狂な声を上げたなまえだったが、その提案を飲みブースへと入る。先約の太刀川との模擬戦を風間が画面越しに見ていると、彼女の表情に今度は風間の方が驚くこととなる。その目は色も温度も無くしたのではないかと錯覚するほど何を映しているのか、どこを見ているか分からないものだった。カメラのレンズのような無機質にも、それでいて子供のような真っ直ぐで純真なようにも見えた。先程まで目の前でころころと替えていた表情のどこにも見えなかったそれに言葉を失った風間。しかしその後、実際に相対した時の感動に近いものは未だ忘れられない。
「ホントお前とやるの楽しい。そんでこえー。スリルがある。」
『9-1でボロ勝ちして、そりゃ楽しいでしょうね。』
「勝敗どうこうじゃねぇんだよ。お前のその人殺しそうな目とやれんのがいいんだ。」
風間は太刀川の言葉を言い得て妙だと思えた。あとから本人はその目について、考えすぎて考えられなくなってるだけだと弁明していたので、それにもさらに納得した。どう勝つか、それを考え自分がどう動くか、相手はどう動いてくるか、その先の先の先までを考え尽くした果てに、目の前に集中した結果なのだと。
「みょうじの強さの元は、その視野の広さと相手を読む力だな。太刀川がおかしいだけで。」
「いきなり俺、ディスられてる?」
『いえいえ。情報拾いすぎて、考えすぎて、それに行動が追いつかないと元も子もないですから。』
「だが、実際は器用にこなしている。チームで戦えば戦況のバランスをとる上でいい役割を果たすだろう。」
『あはは。風間さんにそう言っていただけるならそうなのかもですね。』
ケラケラと楽しそうに笑う彼女の目は見慣れたものに戻っていて、本当に先程の人間と同一人物であるかを疑うほど。そして、風間の中でもうひとつの疑問が浮かぶ。どちらがより本当の彼女のものなのだろう、と。その疑問が浮かんだ瞬間から、いや、その前にあの目を見た時から彼はなまえに惹かれていった。ことある事に、既にチームは安定し始めていたが、それでもなまえを誘った。彼女の良い点を誉め、具体的に自分のチームでどのように動けると予測できるか。実際の今の彼女がどのように動けているか、どんなことが出来そうか。自然となまえを見る時間が増え、話す時間が増え、さらに惹かれた。結局、上から隊長として新しくチームを組めという要請があり、断りきれなくなったなまえが、自分の方から風間にその話を伝えに来るまでそれは続き、その時彼はチームではなく自分の、俺だけの傍にいて欲しいと彼女に話を切り出した。
『!』
その時の彼女の顔もまた、忘れられないものだった。目をこれでもかと丸くして頬を染めたなまえが、普段なら様々な表情にあわせてスラスラと出てくる言葉を失い、口だけが開いては閉じを繰り返していた。キスをしたわけでも、ましてや押し倒した訳でもないのにそこまでの動揺を見せるとは思わず、距離を詰め「好きだ」と畳みかければ耳まで赤くなりながら目を固く閉じ、必死に頷いていた。そして最後に小さく「私もです」と呟いて。
その後付き合い始めた風間となまえだったが、幸せな時間は長く続かなかった。隊長となり、その視野の広さによって隊を確実に率いていたなまえ。しかしそれは外から見えた評価で、実際彼女はその評価のために自分を犠牲にしすぎていた。仲間の良い点も悪い点も見えるだけでなく、自分のことも客観視でき、それを思考に全て組み込んでいくなまえには隊長の責任は大きすぎた。取捨選択が苦手なことが、彼女の欠点だった。小さな、本当に僅かで他人ならば気にもとめないような失敗や綻びで、大きなミスをすることが増えるようになり、隊の連携が噛み合わなくなった。そしてその責任を全て自分にあると考え、懸念点やミスの原因の改善、追求をしていくと、さらに自分の首を絞めていく。何より問題だったのが、彼女の作る表情が彼女の抱えているものを誰にも悟らせないほどに完璧だったことだ。
『蒼也、さん...。』
忙しい中でも互いに時間を作って二人の時間をそれなりに過したにも関わらず、風間がやっと彼女の異変に気づいた時には、なまえは既に作り物ですら涙を流せない状態になっていた。まともに食事をとることも出来なくなっていた体は当然悲鳴を上げていて、ある日作戦室から出てこないところを無理やり連れて共に帰路につこうとボーダー本部を出た瞬間、なまえは倒れた。目を覚ました時、ただ、焦点の合わない目で風間を見上げてその名をうわ言のように呼んだなまえ。そのどこにも彼が模擬戦の時に見たあの目はなくて、それは作られたものでは無いが人形のようにも見える感情が消えてしまったかのような顔だった。
ゆっくり療養し、体調の回復したなまえに風間は洗いざらい己の感情と考えを吐き出せと迫った。当然最初はいつものように作った笑顔や困り顔ではぐらかそうとしていたが、彼はそれが作り物であると知っていた。自分には本心を見せて欲しいと時間をかけて1歩も引かない姿勢を見せると、ようやくその口から言葉が零れる。
『わかんない。大っ嫌い。』
一瞬己に向けられた言葉と思い肝を冷やしたが尋ね返したい衝動を押え黙って聞いていれば、ゆっくりとなまえの胸の内が彼女の言葉で明かされる。
『自分の気持ちなんて、もう分からない。自分なんて、どこにもいないのに、自分が大嫌い。でも、好きも嫌いも、結局は曖昧で。正しさだけを求めようとして。それを他人に強要できるほど、自分に自信がなくて。他人の顔色伺って、悪いところばかり目について、それを指摘して嫌われる勇気がない。いい所が素直に受け取れなくて、評価されることに、疑心暗鬼になる。場面にあった表情作って、上辺ばかりの関係しか築かないくせに、全てをこなそうとするから上手くいかない。こんなやつ、生きる価値なんてないと思う。蒼也さん好きになる資格なんて、蒼也さんの隣にいる資格なんて、私にはないのに。ちゃんと私を見てくれて、いいとこも悪いとこも全部伝えてくれる蒼也さんの隣が居心地が良すぎて。ごめんなさい。ごめん、なさい...。』
自分を拒絶し、否定し、さらに傷つけ、最終的にはたくさんの謝罪と共に、涙を流したなまえ。体は回復してようやくいくらかの感情を取り戻しても、その心が未だボロボロであることは明らかで、その時の風間はなまえをただ抱きしめることしか出来なかった。涙が枯れ、疲れ果てて、彼女が眠るまでただ、寄り添うことしか出来なかった 。
『蒼也さん、私、隊長やめてもいいかな...。』
それからさらに数日、何度も話をするうちになまえはポツリとそう言った。自己否定とはまた違った弱音を吐いたのは初めてだった。
「そうしたいなら、そうすればいい。俺は止めない。」
『蒼也さんは、私に隊長やめてほしくないですか?』
「正直なところ、お前の能力を生かすなら、上に立ってまとめる側より、それを補佐するポジションの方が合うだろう。もちろんそれはお前が隊長はできないと言っている訳ではない。お前は自分を犠牲にしすぎたが、それでも仕事ができていなかった訳ではないからな。」
『...うん。ありがと。』
「お前さえよければ、うちに来てもらっても構わない。もう少し心身共に安定してからだがな。」
『それは...とっても魅力的なお誘いですね。でも、』
いつものような大袈裟な表情ではなく、思わず漏れた、というような小さな笑いを浮かべながらなまえが続ける。
『本当はもう、戦闘員も辞めたい。』
「!それは、ボーダーを辞める、ということか。」
驚いて尋ね返して、しまったと思った。今は少しでも彼女を責めるような言い方をしてはいけない。そう心がけていたはずなのに。だが、なまえはそれほど気にしている素振りは見せなかった。代わりに思いもよらぬ言葉が返ってくる。
『その考えがないってわけじゃないですけど、正直ボーダーはまだ辞めたくないかなとも思います。だって、蒼也さんがいるから。』
「そう、か。」
『あ、蒼也さん、面食らってる。』
また、ふっと笑みを浮かべるなまえは少し嬉しそうだった。揶揄されているというのに、その表情が自分だけに気を許しているのだと言われた気がする。実際彼女の表情がどこがどうとは言えないが今までとどこか違って見えた。
「なまえが例えボーダーを辞めても、俺はお前の彼氏を辞めるつもりは無いが。」
『かれ、し。』
「今度はお前が面食らってるな。」
『そ、蒼也さんが変なこと言うから!』
「事実を述べただけだが。」
『そうですけど...!まあ、あの、それで。』
「ん?」
『戦うことに、少し疲れてしまって。でもボーダー辞めたくなくて。わがまま、でしょうか?』
「そんなことは無い。ボーダーは戦いたくないやつを無理に戦場に立たせるような所ではない。オペレーター、エンジニア、他にもボーダーで前線に立つこと以外にできることは沢山ある。なまえができることをすればいい。なまえは何も悪くない。」
『そっ、か。そう、ですね。』
照れて、焦って、不安がって、また笑って。以前のようにくるくると変わる表情。だが、そのどれも以前と同じ表情ではない。自分だけが見れる本当のなまえ。戻ってきた、いや、ようやく知ることの出来たそれらを守りたいと、風間は心から思った。
結局その後、上にも相談した結果なまえは唐沢外務・営業部長の補佐をすることとなった。大学も体調を崩した折に休学したが、今は復学したのでできる範囲で、という話だった。しかし、いつの間にか経理部の所属になり、辞めたとはいえ元の個人ソロポイントの高さは噂になり、今に至る。彼女の視野の広さは健在で、あちこち気にするうちに仕事を抱えてしまう。それでも上に立つのではなく、誰かの補佐や手伝い、指導も少しのアドバイス程度に留めているようで、あれ以来完全に潰れることは無かった。そうならないよう、今日のように風間自身が努めているというのも確かだが、それを苦とは思わないし、自分だけの特権とさえ思っている。
ーーーーー
『あ、蒼也さん!もう来てたんですね。』
誰もいない経理部のなまえの机で彼女とのこれまでの記憶を辿りながら待っていると、静かに部屋の扉が開き俺の存在に気がついたなまえがこちらにやってきた。立ち上がり、所有者が既に帰宅したであろう隣の席に移りながら見れば、その手にはなにかの資料を抱えている。
「20時はもう過ぎているが?」
『えっ?あ!』
「あと30分足らずだ。」
『わー、あっちで仕事終わった時間見てなかった...。えっと、どうしよ。』
「とりあえず、明日以降の段取りをつけろ。今日までの仕事は片付いているな?」
『はい、たぶん。蒼也さんと約束したから、それは終わってる、はず。』
「ならまず、その確認からだ。それから、」
『やるべき事のピックアップと、優先順位をつける、ですね。了解です!』
仕事を見つける視野の広さとその量が、なまえの決して低くはないはずの仕事の処理能力を上回っているために度々昼間のような顔をしていることがある。やるべき事と思っているそれらを本当に今やるべきなのか、あとでもいいのか、自分ではなく別の人間に任せるのか、その取捨選択が苦手ななまえ。何度も助言してようやく自分の取るべき行動は理解するようになってきたが、それでも苦手の克服は困難を極め、今も目の前で自分のパソコンと手帳に向き合いながら眉間に皺を寄せ、ブツブツと何事が呟いている。
『蒼也さーん、あと、もう30分…。』
「ダメだ。そうやって今日無理をしてもその分お前はまた明日仕事を増やすだろう?」
『むぅ、じゃあ、どうしたら…。』
「何を悩んでるんだ。」
甘えたような声と表情で俺に残り時間の延長を頼んでくるなまえに負けぬよう心を鬼にする。こいつのこれは計算半分、弱ってるがゆえの素が半分だからタチが悪い。正直好きな相手が甘えてくるのにぐらりと来ない男がいるのだろうか、と頭の隅で考えながら椅子のキャスターを転がし彼女の手元をのぞき込む。
『明日、後輩の指導約束してて。でも作っておきたい資料あって。相手方に渡す資料だからできれば自分で作りたい。でも、約束...』
「後輩の指導の方を加古あたりに頼めばいいんじゃないのか。」
『加古ちゃんに?絶対忙しいですよ。』
「自分を棚に上げて、何を言っている。それにあいつは現役だ。お前とは感覚も違うから新鮮な部分もあるだろう。」
『それは、そうですけど...。』
「加古が捕まらなければ、俺が歌川に相談してやる。それが不服なら大人しく日程をずらすか、腹をくくって潔く断れ。」
これくらいの甘やかしは許されるだろうと、自分自身に言い訳をしながら提案をする。我ながらなまえには本当に甘いと思うが、恋人なのだから仕方がないと思う。こんなところを、それこそなまえが今しがた電話をし始めた相手であろう加古あたりに見られれば揶揄されることは必須なのだろうが。
『加古ちゃんと、話つきました...。』
「何か問題があったか?」
『申し訳ないのと、「風間さんに言われた?」って。なんでバレてるんですか...。』
「お前が普段から他人に頼らないからだ。」
むくれた顔で俺の言葉に納得がいかないという態度のなまえだが、さすがの俺も加古の予想外の鋭さに驚かされて考えを改める。見られていなくても、次に顔を合わせた時には揶揄されるのは間違いないだろう。俺は構わないが、なまえが俺以外に素を見せざるを得ない状況になるのは少し気に入らない。それとも相変わらず、完璧な表情で躱すのだろうか。加古相手にはさすがに無理だろうか。俺は迅のように未来が見える訳では無いのでどちらとも言えない。
『ん。』
「終わったか?」
『まだ不安な所色々ありますけど。でも、蒼也さんとの約束も守りたいので。』
ぱたん。
パソコンと手帳を閉じる音が小さく鳴って、顔を上げた詩音に問いかければそんな答えが返ってくる。荷物をまとめ始めるその姿から視線を逸らし時計を見やれば20時30分。ああ、可愛いなと柄にもないことを口走りそうになって、代わりに別の言葉を投げる。
「先程反故にされかけたが?」
『あ、あれは!交渉です!』
「そうか。」
そう言って立ち上がりなまえの頭に思わず手を伸ばす。口角が僅かに上がることを感じる。愛しいという思いは言葉にせずとも滲み出るものらしい。
『...私だって、蒼也さんとの時間は大切なので。』
不意になまえが俺の服の裾を掴んでそう言った。声は少し怒気を含んでいるようにも聞こえ、俺は彼女の頭から手を離しその顔をのぞき込む。しかし俯いたなまえの顔色ははっきりと読み取ることが出来ない。
『蒼也さんが無理矢理私連れて帰るのも、色々言ってくれるのも、私が前みたいにならないようにって、気にしてくれてるのわかってます。いつまでも蒼也さんに頼ってないで、自分で何とかしなきゃって思ってます。それでも、蒼也さんと一緒にいられる理由があるなら、それに縋ってしまうんです。大事にされてるって、自惚れてしまうんです。...いけませんか。』
掴まれている服の皺が濃くなっていく。それだけなまえが強く握っているということだ。恐らく俺が本音を隠すようにあえて口にした言葉を真に受けて、なまえが俺を遠ざけたと俺自身が勘違いしたと思っているのだろう。時間の延長を申し出たおどけたような甘え声とは違う、本人にとって精一杯の甘えを受け取って貰えなかった事に怒っているということか。いや、怒りだけではないようだが。
「あまり強く握るな。痛めるぞ。」
『あ...。すみません、蒼也さんの服。』
「それはいい。が、握るならこちらにしておけ。」
俺はなまえの手に触れると、少し力が緩んだその手を今度はこちらから掴む。それを引き、立ち上がらせると、その勢いのまま一瞬だけキスを落としてやる。唇を離すと、みるみる赤くなるなまえの顔。
「帰るぞ。」
『蒼也さん、ここ、まだ本部っ、』
そのまま手を引いて扉の方へと歩き出せば何が起こったのか数秒遅れて理解したらしい彼女が慌てて荷物を手にしながら抗議の声を上げる。だが、それは嫌がっているのではなく、羞恥のせいだろう。
「何か問題があるか?」
『そ、れは、』
「俺もお前といる時間は大切だと思っている。理由をつけてお前といる時間を作ろうとしているのは俺の方だ。俺だけに見せる表情で、俺だけに甘えていると、俺の方が自惚れている。」
『蒼也さん...。』
「だからこそ、俺との時間を大事にするならもっと自分を大事にしろ。できることなら、笑っていろ。無理矢理貼り付けた笑顔ではなく。」
『...善処します。』
昼間と同じ答えが、その時とは少し違った照れたような笑顔で返ってくる。ぎゅっと握られる手とその表情にまた愛しさが込み上げてきて、抱きしめたい衝動に駆られる。もしそうしたならなまえは怒るだろうか、それとも更に顔を赤らめて照れるだろうか。試してみたい気もするが、今は帰路を優先させることにした。
「おい。」
『...。』
「おい、なまえ。」
『...あ、蒼也さん。』
「また、酷い顔だが。」
『あはは、すみません。また人殺しそうな顔してました?』
先程までとは別人ではないかと見間違うほどの笑顔で、その顔と相容れない物騒な発言をする女は、俺とは逆に表情筋が仕事をしすぎていると思う。彼女の場合は表情筋だけではなく、本当に仕事をし過ぎだが。
「今度は何を溜め込んでいる。」
『いやだなー、蒼也さんほど仕事してないですよ。ちょっと前だって、遠征直後になんか別の任務ついてたんでしょ?その後も会議だなんだって、全然休んでないですよね?』
「俺はこれでも、休息も仕事のうちだと自覚している。お前と違って。」
『私だってそのくらいわかってますよ。』
「分かっているのと、実行しているのは、雲泥の差があるが。」
『そりゃそうですね。』
困ったようにくすくす笑うなまえにいらだちを覚える。彼女の表情は確かに豊かだ。それを使いこなすなまえは世渡りが上手く、歳は俺の1つ下だが、俺よりも大人に囲まれて仕事をする姿に時折彼女が年齢を偽っているのではないかと疑うほど。飲みの席でその考えを漏らせば、その場にいた諏訪に「1番年齢詐称疑惑あんのお前だろ。」と笑われた。そういえば、諏訪もどちらかと言えば表情は変わるほうだ、木崎はあまり変わらないな、とその場にいた人間の顔を浮かべて思考が脱線する。
『今は蒼也さんの方が、怖い顔だと思いますよ?』
「自分がそういう顔をしていた自覚はあるんだな?」
『はは。...まあ、多少は。』
指摘してやれば、僅かに彼女の笑顔が崩れる。俺の分かりずらい表情を読み解くことができるなまえと同じ程度には、なまえの作り出す表情の綻びに気づくことができる。その自負はある。
「...20時だ。その時間に経理部に迎えに行く。」
『ああ、待ってください!今日唐沢部長と1件遅めのアポイントがあるんです。』
「何時からだ。」
『18時です。』
「会食ではないんだろう?そんなに遠いのか?」
『...いえ。』
今は昼食時をいくらかすぎた頃。なまえは午前は大学だと言っていた記憶があるので、今はここにいるということは、これから本格的に仕事という所のはずだ。それでも20時という時間はかなり譲歩している。俺から視線を逸らしながらそう答えたなまえの表情は、いつもの作られたものでは無いと分かって、バツの悪そうなその顔は、俺の言いたいことを理解しているのだろう。他人であればそれをかわすための表情を完璧に貼り付けるのだろうが、そうしないのはこいつが俺に気を許していると、少しは自惚れてもいいだろう。
「...30分は待ってやる、それが過ぎたら強制的に連れて帰る。」
『善処します。』
ため息を付きながらそういえば、また笑いながら返事をするなまえ。その顔に浮かべられたのはいつもは大人びた彼女が年相応に見せるもので。それは豊かに、くるくると変わるなまえの表情の中で、俺だけが見れるものだと知っている。
ーーーーー
みょうじなまえのボーダーでの所属は経理部の職員だ。だが彼女の仕事は多岐にわたる。経理でパソコンを前に数字を主に相手にしているかと思いきや、外務・営業部長の唐沢の補佐のようなことをしている時もある。そうかと思えば、ラウンジや個人ランク戦ブースで主にC級の指導をしていたりと何が本業かわかったものではない。元を辿ればなまえは1年ほど前まで、防衛隊員としてB級隊員の中でも個人のポイントはそれなりに高く、しかしどのチームにも所属していないということで多少その動向は注目されていた。ハウンドとバイパーを上手く使い分ける戦法がメインだったが、那須や出水のように全方位射撃と言うよりは、相手の動きを読んだ上で弾数を抑え射程を伸ばして相手の意表を突く動き方をしていた。どちらかといえば射手だが狙撃手の動きに近い。それでいて射手用トリガーよりポイントこそ少なく万能手とまではいかないもののスコーピオンも使えるとあっては注目されるのも当たり前と言えた。風間もその噂を聞きなまえに声をかけたのが2人の出会いだった。
「お前は、どこの部隊にも所属するつもりは無いのか。」
『ないですねぇ。私は1人で色々するのが好きなので。そのどれかが誰かの役に立てばいいかなぁくらいの考えなので、チームでどうこうは考えてないです。』
この時から風間に声をかけられたことにわざとらしく驚いたり、ニコニコと話をしていたかと思えば、誘いを断ることを本当に申し訳なさそうにしたりと色々な表情をするやつだ、という印象を彼に持たせていた。しかし、風間の中に強く残ったのはそのどれでもない表情で。
『おいみょうじ。模擬戦しようぜ。』
『またぁ?今取り込み中なんだけど。それにもう太刀川くんにあげるポイントないよ。』
「んじゃ、ポイント変動なしでいいぜ。しかも取り込み中ったって、相手が風間さんだろうが断るんだろ。」
『なんで太刀川くんにそんな言い方されなきゃいけないの...。すみません、風間さん。』
心底楽しそうな太刀川に、呆れたような表情を見せた彼女は、風間に申し訳なさそうな、それでいて太刀川への呆れに同調を求めるような、そんな顔をしていた。
「いや、今日のところは俺も引き下がろう。だが、俺も手合わせ願いたい。」
『へっ、風間さんとですか!?私なんかが?』
素っ頓狂な声を上げたなまえだったが、その提案を飲みブースへと入る。先約の太刀川との模擬戦を風間が画面越しに見ていると、彼女の表情に今度は風間の方が驚くこととなる。その目は色も温度も無くしたのではないかと錯覚するほど何を映しているのか、どこを見ているか分からないものだった。カメラのレンズのような無機質にも、それでいて子供のような真っ直ぐで純真なようにも見えた。先程まで目の前でころころと替えていた表情のどこにも見えなかったそれに言葉を失った風間。しかしその後、実際に相対した時の感動に近いものは未だ忘れられない。
「ホントお前とやるの楽しい。そんでこえー。スリルがある。」
『9-1でボロ勝ちして、そりゃ楽しいでしょうね。』
「勝敗どうこうじゃねぇんだよ。お前のその人殺しそうな目とやれんのがいいんだ。」
風間は太刀川の言葉を言い得て妙だと思えた。あとから本人はその目について、考えすぎて考えられなくなってるだけだと弁明していたので、それにもさらに納得した。どう勝つか、それを考え自分がどう動くか、相手はどう動いてくるか、その先の先の先までを考え尽くした果てに、目の前に集中した結果なのだと。
「みょうじの強さの元は、その視野の広さと相手を読む力だな。太刀川がおかしいだけで。」
「いきなり俺、ディスられてる?」
『いえいえ。情報拾いすぎて、考えすぎて、それに行動が追いつかないと元も子もないですから。』
「だが、実際は器用にこなしている。チームで戦えば戦況のバランスをとる上でいい役割を果たすだろう。」
『あはは。風間さんにそう言っていただけるならそうなのかもですね。』
ケラケラと楽しそうに笑う彼女の目は見慣れたものに戻っていて、本当に先程の人間と同一人物であるかを疑うほど。そして、風間の中でもうひとつの疑問が浮かぶ。どちらがより本当の彼女のものなのだろう、と。その疑問が浮かんだ瞬間から、いや、その前にあの目を見た時から彼はなまえに惹かれていった。ことある事に、既にチームは安定し始めていたが、それでもなまえを誘った。彼女の良い点を誉め、具体的に自分のチームでどのように動けると予測できるか。実際の今の彼女がどのように動けているか、どんなことが出来そうか。自然となまえを見る時間が増え、話す時間が増え、さらに惹かれた。結局、上から隊長として新しくチームを組めという要請があり、断りきれなくなったなまえが、自分の方から風間にその話を伝えに来るまでそれは続き、その時彼はチームではなく自分の、俺だけの傍にいて欲しいと彼女に話を切り出した。
『!』
その時の彼女の顔もまた、忘れられないものだった。目をこれでもかと丸くして頬を染めたなまえが、普段なら様々な表情にあわせてスラスラと出てくる言葉を失い、口だけが開いては閉じを繰り返していた。キスをしたわけでも、ましてや押し倒した訳でもないのにそこまでの動揺を見せるとは思わず、距離を詰め「好きだ」と畳みかければ耳まで赤くなりながら目を固く閉じ、必死に頷いていた。そして最後に小さく「私もです」と呟いて。
その後付き合い始めた風間となまえだったが、幸せな時間は長く続かなかった。隊長となり、その視野の広さによって隊を確実に率いていたなまえ。しかしそれは外から見えた評価で、実際彼女はその評価のために自分を犠牲にしすぎていた。仲間の良い点も悪い点も見えるだけでなく、自分のことも客観視でき、それを思考に全て組み込んでいくなまえには隊長の責任は大きすぎた。取捨選択が苦手なことが、彼女の欠点だった。小さな、本当に僅かで他人ならば気にもとめないような失敗や綻びで、大きなミスをすることが増えるようになり、隊の連携が噛み合わなくなった。そしてその責任を全て自分にあると考え、懸念点やミスの原因の改善、追求をしていくと、さらに自分の首を絞めていく。何より問題だったのが、彼女の作る表情が彼女の抱えているものを誰にも悟らせないほどに完璧だったことだ。
『蒼也、さん...。』
忙しい中でも互いに時間を作って二人の時間をそれなりに過したにも関わらず、風間がやっと彼女の異変に気づいた時には、なまえは既に作り物ですら涙を流せない状態になっていた。まともに食事をとることも出来なくなっていた体は当然悲鳴を上げていて、ある日作戦室から出てこないところを無理やり連れて共に帰路につこうとボーダー本部を出た瞬間、なまえは倒れた。目を覚ました時、ただ、焦点の合わない目で風間を見上げてその名をうわ言のように呼んだなまえ。そのどこにも彼が模擬戦の時に見たあの目はなくて、それは作られたものでは無いが人形のようにも見える感情が消えてしまったかのような顔だった。
ゆっくり療養し、体調の回復したなまえに風間は洗いざらい己の感情と考えを吐き出せと迫った。当然最初はいつものように作った笑顔や困り顔ではぐらかそうとしていたが、彼はそれが作り物であると知っていた。自分には本心を見せて欲しいと時間をかけて1歩も引かない姿勢を見せると、ようやくその口から言葉が零れる。
『わかんない。大っ嫌い。』
一瞬己に向けられた言葉と思い肝を冷やしたが尋ね返したい衝動を押え黙って聞いていれば、ゆっくりとなまえの胸の内が彼女の言葉で明かされる。
『自分の気持ちなんて、もう分からない。自分なんて、どこにもいないのに、自分が大嫌い。でも、好きも嫌いも、結局は曖昧で。正しさだけを求めようとして。それを他人に強要できるほど、自分に自信がなくて。他人の顔色伺って、悪いところばかり目について、それを指摘して嫌われる勇気がない。いい所が素直に受け取れなくて、評価されることに、疑心暗鬼になる。場面にあった表情作って、上辺ばかりの関係しか築かないくせに、全てをこなそうとするから上手くいかない。こんなやつ、生きる価値なんてないと思う。蒼也さん好きになる資格なんて、蒼也さんの隣にいる資格なんて、私にはないのに。ちゃんと私を見てくれて、いいとこも悪いとこも全部伝えてくれる蒼也さんの隣が居心地が良すぎて。ごめんなさい。ごめん、なさい...。』
自分を拒絶し、否定し、さらに傷つけ、最終的にはたくさんの謝罪と共に、涙を流したなまえ。体は回復してようやくいくらかの感情を取り戻しても、その心が未だボロボロであることは明らかで、その時の風間はなまえをただ抱きしめることしか出来なかった。涙が枯れ、疲れ果てて、彼女が眠るまでただ、寄り添うことしか出来なかった 。
『蒼也さん、私、隊長やめてもいいかな...。』
それからさらに数日、何度も話をするうちになまえはポツリとそう言った。自己否定とはまた違った弱音を吐いたのは初めてだった。
「そうしたいなら、そうすればいい。俺は止めない。」
『蒼也さんは、私に隊長やめてほしくないですか?』
「正直なところ、お前の能力を生かすなら、上に立ってまとめる側より、それを補佐するポジションの方が合うだろう。もちろんそれはお前が隊長はできないと言っている訳ではない。お前は自分を犠牲にしすぎたが、それでも仕事ができていなかった訳ではないからな。」
『...うん。ありがと。』
「お前さえよければ、うちに来てもらっても構わない。もう少し心身共に安定してからだがな。」
『それは...とっても魅力的なお誘いですね。でも、』
いつものような大袈裟な表情ではなく、思わず漏れた、というような小さな笑いを浮かべながらなまえが続ける。
『本当はもう、戦闘員も辞めたい。』
「!それは、ボーダーを辞める、ということか。」
驚いて尋ね返して、しまったと思った。今は少しでも彼女を責めるような言い方をしてはいけない。そう心がけていたはずなのに。だが、なまえはそれほど気にしている素振りは見せなかった。代わりに思いもよらぬ言葉が返ってくる。
『その考えがないってわけじゃないですけど、正直ボーダーはまだ辞めたくないかなとも思います。だって、蒼也さんがいるから。』
「そう、か。」
『あ、蒼也さん、面食らってる。』
また、ふっと笑みを浮かべるなまえは少し嬉しそうだった。揶揄されているというのに、その表情が自分だけに気を許しているのだと言われた気がする。実際彼女の表情がどこがどうとは言えないが今までとどこか違って見えた。
「なまえが例えボーダーを辞めても、俺はお前の彼氏を辞めるつもりは無いが。」
『かれ、し。』
「今度はお前が面食らってるな。」
『そ、蒼也さんが変なこと言うから!』
「事実を述べただけだが。」
『そうですけど...!まあ、あの、それで。』
「ん?」
『戦うことに、少し疲れてしまって。でもボーダー辞めたくなくて。わがまま、でしょうか?』
「そんなことは無い。ボーダーは戦いたくないやつを無理に戦場に立たせるような所ではない。オペレーター、エンジニア、他にもボーダーで前線に立つこと以外にできることは沢山ある。なまえができることをすればいい。なまえは何も悪くない。」
『そっ、か。そう、ですね。』
照れて、焦って、不安がって、また笑って。以前のようにくるくると変わる表情。だが、そのどれも以前と同じ表情ではない。自分だけが見れる本当のなまえ。戻ってきた、いや、ようやく知ることの出来たそれらを守りたいと、風間は心から思った。
結局その後、上にも相談した結果なまえは唐沢外務・営業部長の補佐をすることとなった。大学も体調を崩した折に休学したが、今は復学したのでできる範囲で、という話だった。しかし、いつの間にか経理部の所属になり、辞めたとはいえ元の個人ソロポイントの高さは噂になり、今に至る。彼女の視野の広さは健在で、あちこち気にするうちに仕事を抱えてしまう。それでも上に立つのではなく、誰かの補佐や手伝い、指導も少しのアドバイス程度に留めているようで、あれ以来完全に潰れることは無かった。そうならないよう、今日のように風間自身が努めているというのも確かだが、それを苦とは思わないし、自分だけの特権とさえ思っている。
ーーーーー
『あ、蒼也さん!もう来てたんですね。』
誰もいない経理部のなまえの机で彼女とのこれまでの記憶を辿りながら待っていると、静かに部屋の扉が開き俺の存在に気がついたなまえがこちらにやってきた。立ち上がり、所有者が既に帰宅したであろう隣の席に移りながら見れば、その手にはなにかの資料を抱えている。
「20時はもう過ぎているが?」
『えっ?あ!』
「あと30分足らずだ。」
『わー、あっちで仕事終わった時間見てなかった...。えっと、どうしよ。』
「とりあえず、明日以降の段取りをつけろ。今日までの仕事は片付いているな?」
『はい、たぶん。蒼也さんと約束したから、それは終わってる、はず。』
「ならまず、その確認からだ。それから、」
『やるべき事のピックアップと、優先順位をつける、ですね。了解です!』
仕事を見つける視野の広さとその量が、なまえの決して低くはないはずの仕事の処理能力を上回っているために度々昼間のような顔をしていることがある。やるべき事と思っているそれらを本当に今やるべきなのか、あとでもいいのか、自分ではなく別の人間に任せるのか、その取捨選択が苦手ななまえ。何度も助言してようやく自分の取るべき行動は理解するようになってきたが、それでも苦手の克服は困難を極め、今も目の前で自分のパソコンと手帳に向き合いながら眉間に皺を寄せ、ブツブツと何事が呟いている。
『蒼也さーん、あと、もう30分…。』
「ダメだ。そうやって今日無理をしてもその分お前はまた明日仕事を増やすだろう?」
『むぅ、じゃあ、どうしたら…。』
「何を悩んでるんだ。」
甘えたような声と表情で俺に残り時間の延長を頼んでくるなまえに負けぬよう心を鬼にする。こいつのこれは計算半分、弱ってるがゆえの素が半分だからタチが悪い。正直好きな相手が甘えてくるのにぐらりと来ない男がいるのだろうか、と頭の隅で考えながら椅子のキャスターを転がし彼女の手元をのぞき込む。
『明日、後輩の指導約束してて。でも作っておきたい資料あって。相手方に渡す資料だからできれば自分で作りたい。でも、約束...』
「後輩の指導の方を加古あたりに頼めばいいんじゃないのか。」
『加古ちゃんに?絶対忙しいですよ。』
「自分を棚に上げて、何を言っている。それにあいつは現役だ。お前とは感覚も違うから新鮮な部分もあるだろう。」
『それは、そうですけど...。』
「加古が捕まらなければ、俺が歌川に相談してやる。それが不服なら大人しく日程をずらすか、腹をくくって潔く断れ。」
これくらいの甘やかしは許されるだろうと、自分自身に言い訳をしながら提案をする。我ながらなまえには本当に甘いと思うが、恋人なのだから仕方がないと思う。こんなところを、それこそなまえが今しがた電話をし始めた相手であろう加古あたりに見られれば揶揄されることは必須なのだろうが。
『加古ちゃんと、話つきました...。』
「何か問題があったか?」
『申し訳ないのと、「風間さんに言われた?」って。なんでバレてるんですか...。』
「お前が普段から他人に頼らないからだ。」
むくれた顔で俺の言葉に納得がいかないという態度のなまえだが、さすがの俺も加古の予想外の鋭さに驚かされて考えを改める。見られていなくても、次に顔を合わせた時には揶揄されるのは間違いないだろう。俺は構わないが、なまえが俺以外に素を見せざるを得ない状況になるのは少し気に入らない。それとも相変わらず、完璧な表情で躱すのだろうか。加古相手にはさすがに無理だろうか。俺は迅のように未来が見える訳では無いのでどちらとも言えない。
『ん。』
「終わったか?」
『まだ不安な所色々ありますけど。でも、蒼也さんとの約束も守りたいので。』
ぱたん。
パソコンと手帳を閉じる音が小さく鳴って、顔を上げた詩音に問いかければそんな答えが返ってくる。荷物をまとめ始めるその姿から視線を逸らし時計を見やれば20時30分。ああ、可愛いなと柄にもないことを口走りそうになって、代わりに別の言葉を投げる。
「先程反故にされかけたが?」
『あ、あれは!交渉です!』
「そうか。」
そう言って立ち上がりなまえの頭に思わず手を伸ばす。口角が僅かに上がることを感じる。愛しいという思いは言葉にせずとも滲み出るものらしい。
『...私だって、蒼也さんとの時間は大切なので。』
不意になまえが俺の服の裾を掴んでそう言った。声は少し怒気を含んでいるようにも聞こえ、俺は彼女の頭から手を離しその顔をのぞき込む。しかし俯いたなまえの顔色ははっきりと読み取ることが出来ない。
『蒼也さんが無理矢理私連れて帰るのも、色々言ってくれるのも、私が前みたいにならないようにって、気にしてくれてるのわかってます。いつまでも蒼也さんに頼ってないで、自分で何とかしなきゃって思ってます。それでも、蒼也さんと一緒にいられる理由があるなら、それに縋ってしまうんです。大事にされてるって、自惚れてしまうんです。...いけませんか。』
掴まれている服の皺が濃くなっていく。それだけなまえが強く握っているということだ。恐らく俺が本音を隠すようにあえて口にした言葉を真に受けて、なまえが俺を遠ざけたと俺自身が勘違いしたと思っているのだろう。時間の延長を申し出たおどけたような甘え声とは違う、本人にとって精一杯の甘えを受け取って貰えなかった事に怒っているということか。いや、怒りだけではないようだが。
「あまり強く握るな。痛めるぞ。」
『あ...。すみません、蒼也さんの服。』
「それはいい。が、握るならこちらにしておけ。」
俺はなまえの手に触れると、少し力が緩んだその手を今度はこちらから掴む。それを引き、立ち上がらせると、その勢いのまま一瞬だけキスを落としてやる。唇を離すと、みるみる赤くなるなまえの顔。
「帰るぞ。」
『蒼也さん、ここ、まだ本部っ、』
そのまま手を引いて扉の方へと歩き出せば何が起こったのか数秒遅れて理解したらしい彼女が慌てて荷物を手にしながら抗議の声を上げる。だが、それは嫌がっているのではなく、羞恥のせいだろう。
「何か問題があるか?」
『そ、れは、』
「俺もお前といる時間は大切だと思っている。理由をつけてお前といる時間を作ろうとしているのは俺の方だ。俺だけに見せる表情で、俺だけに甘えていると、俺の方が自惚れている。」
『蒼也さん...。』
「だからこそ、俺との時間を大事にするならもっと自分を大事にしろ。できることなら、笑っていろ。無理矢理貼り付けた笑顔ではなく。」
『...善処します。』
昼間と同じ答えが、その時とは少し違った照れたような笑顔で返ってくる。ぎゅっと握られる手とその表情にまた愛しさが込み上げてきて、抱きしめたい衝動に駆られる。もしそうしたならなまえは怒るだろうか、それとも更に顔を赤らめて照れるだろうか。試してみたい気もするが、今は帰路を優先させることにした。