その他短編
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視点コロコロ変わります。
夢主少々特殊設定なため、色々有り得ないことが起きてるかもですが、ふわっと読んでください。
「どうだ?」
『!?』
「どうした?何かあったのか??」
痛い。耳が、頭が、とにかく痛い。
『〜〜〜!』
「おい、なまえ!」
初めてトリガーを渡され、トリオン体になったあの日。せっかく大好きな人に名前を呼ばれたはずなのに、生まれて初めて聞いた自分の名前は、生まれて初めて聞いた大好きな人の声は、少し苦い思い出を残した。
ーーーーー
なまえは生まれつき耳が聞こえない。家が近所で幼なじみと言える関係の彼女は俺のふたつ年下だった。しかし聴覚障害というハンデをおった彼女はそのハンデを感じさせないほど明るい子だった。学校でも支援学級にいながらも同級生にもそれなりに馴染んでいたようで友人と呼べる人間もいたようだし、学年の違う俺も時折見かける程度にはあちこち活発に動き回っていたようだ。それでもその心にはきちんと繊細な部分を持っていて、俺は次第に俺が彼女を守らなければという思いを抱いていた。
『あ、う...。』
「なまえ!」
そしてあの第一次大規模侵攻の日。改めてこの子を守るんだと誓った。特別支援学校を卒業し、障害を持っていても採用してくれる職場を求めて三門市を離れた彼女から、俺に連絡があった。必死の思いで三門市に戻ってきた彼女を待ち受けていた現実はあまりにも残酷だった。なまえの家族は彼女を残してみんな死んでしまった。近界民に殺された。生まれ育った家は無事だったものの、そこに戻ってくる家主はいなくなってしまった。そうして思い出だけが残るその場所は彼女にとって辛い現実を突きつけるだけの場所となってしまった。その前で肩を震わせ、大粒の涙を流す彼女の姿を未だはっきりと覚えている。
それから俺はボーダーに入隊した。耳の聞こえないなまえはといえば、様々な整理をするために俺に手伝いを頼んできて、それが終わるとまた職場のある別の街での生活に戻った。俺が大学に入った頃から実家に帰る時に少し話す程度だった以前よりは、一連の流れを経て頻繁に連絡を取るようになった。話す内容は他愛もないことばかりで、短いメッセージを送り合うだけだったが。それでもそんなやり取りの中で、俺の中の彼女に対する思いがより特別なものに変わっていくのが分かった。
そんなある日、トリオン体について研究していた時ふとなまえがトリオン体になったら彼女の聴力はどうなるのだろうかという疑問がわいた。サイドエフェクトは生身であってもトリオン体であっても発現する。視力が悪い人間もトリオン体ならば関係なくなる。最近、あまり体の強くない人間がトリオン体でなら健康体として動けるのではないかという研究を進める動きがあると聞く。ならば、なまえのように完全にその力を失った身体機能はどうなるのか?その疑問の答えを探すべく、研究室や上層部に掛け合い、なまえに協力を依頼するところまで漕ぎ着けた。彼女は最初は戸惑っていたものの、ボーダー入隊ではなくあくまで研究に協力するという形でならと了承してくれた。
そして、約束の日。彼女を駅まで迎えに行くと、緊張した面持ちのなまえがそこにいた。トリオン体のこと、研究のための実験内容、その結果予想される事象、一応必要事項は文面で説明してある。けれどもそれは既にボーダーとしてトリガーを使っている俺には当たり前でも、なまえにとっては未知の世界。不安や恐怖があって当然だと思う。
「何があっても、そばに居るから。」
これだけは、とこの日のために覚えた手話でなまえに伝える。なまえは相手の口の動きである程度相手の言うことがわかるが、それでも手話や文章の方がよりはっきり言葉が伝わる。なまえと話すため昔はもっと手話を使えていたが、使わない言葉を忘れるスピードは自分が思うより早く、最近はメールやメッセージアプリに頼ってばかりだった。そんな俺からの言葉は、なまえにはっきり伝わったようで。
『ありがとう。』
口の形と手話で俺にそう返してきたなまえの表情は少しだけ和らいでいた。しかし、実験の結果は芳しくなかった。いや、結論だけ言えば、彼女はトリオン体になることで聴力を手に入れることが出来た。しかし、生まれて初めての「音」というものに体が拒絶反応を起こしたようで、酷い頭痛が彼女を襲った。
ーーーーー
『はるあきくん。』
「ん、なんだ?」
『声、変じゃない?発音、あってる?』
「大丈夫、可愛いよ。」
『か、わい...、かわっ!?』
初めてトリオン体になって、音というものを手に入れた私は、その衝撃に体が耐えられず、頭痛と耳鳴り(後でそういうのだと知った)に襲われて、研究初日はまともに予定をこなすことが出来なかった。再び同じ症状が出ることに恐怖は感じたけれど、それでも始めたことをすぐに投げ出したくなかったし、何よりも幼い頃からいつも助けてくれた春秋くんの役に立ちたいという気持ちから、その後もボーダーの研究に協力することになった。
生まれて初めて聞こえた春秋くんの声に感動する暇すらなかったのは心残りだったけど、最初は自分が発する音、つまりは呼吸や鼓動、体を動かしたり歩いたりする時に出る物音から少しずつ音というものに耳を慣らした。それから、トリオン体の調節をしながら少しずつ春秋くんや他の人の話す声を聞くことができるようになった。ただ、今まで口の動きで何となく言葉を予想しながら会話していたおかげで全くではなかったものの、初めて発音というものを意識した私は自分でそれを発声することの難しさを痛感した。声を用いた私の会話レベルは当初赤子同然で、言われたことを理解することも簡単ではなかった。
生身でも喉の筋肉に異状はなかったから、研究に協力する時以外でも積極的に声を出すよう努力した。でも、生身の時には自分で自分の声を聞くことが出来ないから、春秋くんに時折ビデオ通話をしてくれるようお願いした。実際に会って話す方が簡単だけど、忙しい春秋くんと時間を合わせるのはなかなかそれも難しくて。ビデオ通話だと会話の難易度は上がるので先程のように言われたことの意味を理解するまで時間がかかったりすることもあったけど、テキストや手話を織り交ぜた私たちなりの会話をする時間はとても楽しいひと時だった。2年ほど前の大規模侵攻があった時から、いやそれよりもずっと前から私を色んな意味で支えてくれた春秋くんへの想いを胸の奥深くに仕舞い込んだままだったとしてもその事実は変わらなかった。
『からかわないで!』
「からかってなんかないさ。それに、ちゃんと俺の言ってることもわかってて嬉しいよ。」
『ちゃんと、受け取れてる、のかな?』
「大丈夫。」
春秋くんの声を知れたからこそ、彼の優しい声色が例え今は聞こえなくても、想像することが出来る。そしてその「大丈夫」に私は何度も救われてきている。だからこそ、優しい春秋くんに、大好きな彼に、あんなことを言われるとは思ってなかった。
「なまえは、ボーダーに入る気はやっぱりないのか?」
『え?』
研究に協力するようになって半年ほど経った頃だった。その頃には発声はまだ少し苦手な部分もあったけれど、初めて会う人にもある程度伝わるようになっていたし、相手の言葉を口の形から理解する能力の方はトリオン体を経験する以前より格段に上がっていた。しかもその話をした時はトリオン体の時だったから聞き間違えるはずもなかった。
「いや、なに、ボーダー隊員になれば、なまえも自分のトリガーが持てるようになる。つまりは、いつでもトリオン体になることが可能だ。その方がなまえにとっても都合がいいんじゃないかと思ってな。」
『それ、は、』
彼が私のことを思って言ってくれているのはわかった。でも、その時はなぜか、今のままの私より、耳の聞こえる私の方がいいって言われているような気がした。耳の聞こえない私を支えてくれる職場の人達、同じようなハンデを背負った友人達、そうした人たちの関係性を断ち切れと、言われているような気がしてしまった。…以前より近くなった気がしている距離は、トリオン体のおかげなのだと、あくまで耳が聞こえるようになったからなのだと、言われたように感じた。結局その言葉を境に今まで楽しかったはずの春秋くんと会話する時間が、色々な感情が折り混ざるせいで苦しくなった私は、次第に彼と連絡を取る回数が減っていった。
ーーーーー
「あら東さん、お疲れ?」
A級部隊を解散し、新たに将来を期待できそうな隊員と部隊を組み直してしばらくしたある日の事だった。自ら率いた部隊を最近A級認定させた加古と二宮、B級ランク戦にて上位に定着している三輪を焼肉に連れていった時の事だった。集合場所に指定した店に行く途中、後ろから声をかけてきた加古の声に振り返ると俺の顔を見た彼女がそう言った。いつでも自然体に振る舞う加古だが、その勘の良さや観察眼の鋭さは、さすがと言えるだろう。
「そう見えるか?」
「そうねぇ、身体的疲労よりも精神的疲労って感じかしら?新しい部隊に問題でも?」
「いや、そうじゃないんだが。」
「なら、別のお悩みがあるのね?」
顔をのぞき込まれ、疑問符こそ語尾についているが断言するように言われれば観念するしかない。俺は最近なまえから距離を置かれていることを加古に話した。加古にはなまえについて話したことがあったし、数回彼女と顔を合わせたこともあるから、この話をするのには適任だった。
「つまり東さんは、なまえちゃんの耳が聞こえるようになればと思ってボーダーに誘ったってことかしら?」
「厳密には、なまえの耳が治る訳じゃないからその言い方は語弊があるが...。でも、トリオン体でいられる時間が長ければ彼女の可能性が広がるだろうと思ったのは事実だな。」
「じゃあ、今のなまえちゃんには何の可能性もないのかしら?なまえちゃんが聞こえるようになって都合がいいのは本当に彼女?それとも東さん自身?そもそもその変化を彼女は望んでいるの?」
加古の言葉は自分でも無意識だった部分を浮き彫りにさせた。そしてそれは、俺の発した言葉が俺にそのつもりは全くなくても彼女を傷つけるものであったことに気づくには十分で。
「なるほどな...。」
「東さんも、こういう事で悩んだりするのね。」
「どういう意味か敢えて聞かないが、俺も人の子だ、と返しておく。」
「ふふ、そうみたいね。そんな東さんに女の目線でもう一つだけ言わせてもらおうかしら。」
「...?」
「どれだけ強がろうと、結局女は好きな男に守られたら、愛されたら、嬉しいものよ。」
「それは...」
やはり加古はとんでもない爆弾を落としていく。本当にどこまで分かっているのか。そしてそんな話をしながら合流したにもかかわらず、それ以降はほぼいつもと変わらぬ時が流れて、加古も流石だが、三輪や二宮の相変わらずぶりにも思わずひっそりと苦笑した。いや、二宮辺りは気づいていて何も言わないのかもしれないが。少なくとも三輪は素直に目の前の肉しか見えてないような気がした。そういう意味では、やはり二宮も同じか。
その帰り道、1人になった俺はなまえにメッセージを送った。思えば、なまえとのやり取りの機会が減ったのは今まで会話を始めるのが基本彼女からであったことが理由だ。ならば、俺から始めればいい。彼女とまた楽しい時を過ごしたいのなら。俺から歩み寄ればいい。彼女を手放したくないのなら。ただそれだけの事。
<今度、デートしよう。>
いきなりだということは自覚していた。まだ、付き合っていないどころか、告白もしていない相手にこんなことを言うのはおかしな話だとは分かっていた。それでも、彼女に会いたかった。会って話したかった。なまえに俺のことを知ってもらうために。なまえのことをもっと俺が知るために。
<いいよ。>
既読は比較的早くついたものの、彼女からの返信はなく、そんな一言だけのメッセージが送られてきたのは丸1日経った頃だった。素っ気なくも思えるその文面はなまえらしくない、そう思った。だがその裏に何か彼女の思いが隠れているような気がしてならなかった。いや、俺の男の部分がそう都合よく解釈しただけだ。結局俺はなまえが関わると彼女のためと言いながら、自分の都合良いように考えてしまうらしい。そんな自分に呆れながらも、指はデートの日時や場所の提案を彼女に伝えるべく勝手に文字を打っていた。
ーーーーー
春秋くんとの連絡の頻度が目に見えて減ってからしばらくだったある日の夜。不意にスマホが光ってメッセージの受信を告げた。耳の聞こえない私がそれにすぐに気づくことは多くなくて、相手もそれを分かっているから気づいたとしてもあまり急いでメッセージに返事をすることはない。それでもその日はなぜかすぐにアプリに指が伸び、メッセージを確認した。送り主は春秋くんだった。次の研究の協力の日程の調整かと思い、それを開いた。しかしそこにあったのは、たった一言。
<今度、デートしよう。>
それを見た瞬間、息が止まり、心臓が飛び跳ねたような気がした。もちろんそんなのは錯覚だけどそれくらいの衝撃だった。最初は送り主を間違えたのではないかと思った。でも、きっと、春秋くんはそんなことしない。もし万が一仮にそうだとしたら、すぐに訂正の言葉を送ってくるはずだ。でもそうではないとすると...。ならば、なぜ私にそんな事を送ってきたのかと理由を思い巡らせる。でも、どんなに考えてもその理由を想像することすらできない。こうなると、次はどうやって返信していいかに悩んだ。と同時に自分がいまだに、春秋くんを好きなことを自覚する。好きという純粋な想いと、言葉に傷つけられたという痛みと、彼が望む自分になりたいという願いと、彼にありのままの自分は受け入れてほしいという期待と。さまざまな感情が入り混じり、私の心を掻き乱していく。
<いいよ。>
その答えにたどり着くまでには随分と時間を要してしまって、やっとの思いで送信ボタンを押した時には、メッセージを受信してから1日程経ってしまっていた。断るという選択肢だけはどうやっても浮かばなかったこと、デートなんて生まれて初めてで正直どうしていいかわからなかったこと、先日の言葉にどうしてもひねくれた感情しか持てなかったのにそれでも春秋くんに会いたいと思ったこと、そういうことも含めて直接春秋くんに私の思いを全部伝えよう、そう思いながら、彼から送られてくるデートの予定を眺めることにした。
耳の聞こえない私が出かけるのは、やはり難易度が高い。それでも私はまだ友人たちと出かけたりすることがある方だとは思うが、どうしてもいつもの場所、いつもの道が安心するからそうなりがちだし、あまりに人が多いところは苦手だ。音が聞こえないというのは、気配を感じにくいということなので、後ろから歩いてくる人や不意に横から出てくる人とぶつかることも多い。道を歩けば車や自転車などが来ることがわかりにくくて、完全に歩道と車道が別れていない道で怖い思いをしたことも何度かある。でも、だからといって私のことを気遣ってばかり貰うのもすごく居心地が悪くて。
『お待たせ。』
「俺もさっき来たところだ。」
だから、待ち合わせがいつも通りの駅だったことに少しだけ安心した。デートだから車で迎えに行くとか言われても、私には運転中の人と会話する方法なんてなくて。いや、彼がそんなことを言うタイプかどうかなんて、そもそもそんな誘い文句を言う人がいるのかさえ、デート初体験の私には分からないけれど。当日のプランは彼に任せてあって行先は普段は行かないような場所のようだったけど、誰かと、他でも無い春秋くんと一緒なら不安もさほどない。
「可愛いな、服。いつもと違う感じだ。」
『そういう恥ずかしいこと言わないで!』
「怒るなよ。褒めてるんだから。」
『...今日は研究じゃないし、でも、春秋くんの隣にいて、変じゃないようにしなきゃって、思って。』
「デートって、意識してくれたのか?」
意識してくれたもなにも、どんな服を着ればいいか本当に悩んで、悩みすぎて待ち合わせギリギリになるくらいには私にはデートのハードルは高い。そう言ってしまいたいのに、ドキドキして上手く言葉が出なくて頷くことしか出来ない。本当に意識しすぎてしまっている。
「じゃ、ついでに。」
『は、春秋くん!?』
そう言ってするりと繋がれた手。あまりに自然で躊躇いのない動作に驚きの声を上げたものの、その手を離そうとは微塵も思えなくて。ただ私は春秋くんと付き合ってすらないはずのに、これは一体どういうことなんだろう。そんな考えが一瞬頭をよぎる。
「もし嫌なら、振りほどいてくれて構わない。でも、できれば俺は離したくない。」
真面目だけれども冗談も通じるし、茶目っ気とでもいうのか、時にゆるい部分も彼が持ち合わせていることを幼馴染という長い付き合いから知っている。知ってはいるが、今それが発揮されているとは全く思えない。それほど真っ直ぐに見つめられて、ゆっくり、はっきりと自分と同じ気持ちをぶつけられれば、私には黙ってその手を握り返す以外の返事が見つからなかった。
ーーーーー
休日の昼下がりのショッピングモールはそれなりに人でごった返していた。それでも俺の中では想定の範囲内といった程度だったが、あまり休みの日にこういったところに来ないというなまえは初めのうち少し表情が硬かった。
「大丈夫だ。」
恐らく人にぶつかることに不安を感じているのだろうと、繋いだ手を握り直し伝えれば少し表情を緩めたなまえ。ただその顔に釣られるように笑った自分の表情の中には己に対する呆れが混じっていないか少し心配だった。未だ告白さえしていないただの幼馴染という関係の俺たちだがきっと、傍から見れば恋人同士に映るだろう。口を動かしゆっくり話すことに努めてはいるものの今は、なまえが実は耳が聞こえないことすら、大抵の人間には分からないだろう。けれどそうなるよう、望んだのは俺だ。そしてこれは、ありのままのなまえと普通のことをして過ごせば、彼女を傷つけた事実がなかったことにはならなくとも、その誤解を解くことができるのではという俺のエゴだ。
なまえの行きたいところを聞きながら、普段はネットで買うことの多いという服を中心に見ながら俺たちは適当な店に入る。服にこだわる方ではないと照れながら教えてくれた彼女に、その中での好みも聞きながら俺の意見もそれとなく伝えると、少し嬉しそうにそして割と真剣に服を選び始めた。そんななまえにゆっくりと近づく人影があった。
「そちら、大変人気の商品なんですよー。」
営業スマイルを浮かべた女性がなまえの斜め後ろから声をかけてきた。しかし、それに全く反応しないなまえに、少し困ったような表情の女性店員。
「すみません、彼女耳が聞こえなくて。」
「えっ。あ、そうでしたかー。」
『はるあきくん?...あ!』
ふと顔を上げたなまえの視線が服からこちらを向いて、気が緩んでいたのか発音も少し曖昧に俺を呼ぶ。そうして俺の視線の先に気づいてようやく状況を理解したらしく声を上げた。
『すみません、私、耳、聞こえ、なくて。』
「こちらこそすみません。って、聞こえないんですよね...。彼氏さん、伝えてもらっても?」
「かれ、し。」
なまえに自分の言葉が全く伝わっていないと思っている店員が俺の方に向かってそう言う。しかしなまえはといえば、その口の動きを読んで、ポツリとそう言った。その言葉を反芻し、顔を赤くしている彼女は今、何を考えているんだろう。どう接すればいいか分からないのと、それとは別の気まずさとを半々くらいで顔に出した店員に適当な笑みを返せば「ごゆっくりどうぞー」とそそくさとその場を去っていく。服から顔を上げているため、そう言われたのはわかったようでぺこりと慌ててお辞儀をしたなまえに思わず笑いを漏らす。けれどそれは、彼女には聞こえなくて反応は返ってこない。それが良かったような寂しいようななんとも言えない気分になる。
結局その店を何も買わずに出た俺たち。なまえに他の店に入るか?と尋ねてみたが微妙な顔をされ、ならばと適当に歩を進めることにしてなまえの手を再び引いて歩き出せば、口数が随分と減っていた彼女が話し出す。
『ああいうのがあるから、お店で服を買うの、苦手。』
「そうか。」
『春秋くんにも、気まずい思いさせて、ごめんね。』
「いや、俺の配慮が足らなかった。こっちこそ悪かった。」
俺たちの言葉のやり取りは手話も交えてだから、繋いだ手を時折離しながら言葉を交わす。それでも話し終えればを繋いで。自然と離されたままにされてしまうかと思っていたので、その反応は少し予想外とも言える。ただまあ、嬉しい誤算だ。少し寂しそうにも見える顔のなまえに何か甘いものでも食うか、と立ち止まり提案すれば、影のさしていた表情をぱっと明るくさせ嬉しそうに頷いてきて。思わず、今度は彼女が見ている前で軽く吹き出してしまった。それに返ってくるのはやはり照れたような、怒ったような顔で。その反応は純粋に嬉しく、楽しいと思える。謝りつつどの店がいいか尋ねれば、しばらく怒っていた顔を真剣なものに変えて一件の店を指定してくるなまえ。その手をもう一度繋ぎなおして、彼女の行きたいという店に足を向けた。
ーーーーー
『美味しい!』
「それは良かった。」
人気チェーン店でもあるそのカフェはいつも人で賑わっていて、飲み物を頼んだことこそあれど、店内でそれをゆっくり味わった経験はほとんどなくて。しかもそれだけじゃなくて、飲み物のカスタマイズや、それに合わせたフードメニューも店員さんからオススメを聞くことができた。今までしたことない体験に気分の高揚を抑えきれないのは少し恥ずかしいけれど、これも全部春秋くんのおかげだ。
『春秋くん、ごめんね。』
「...なまえ?」
喜びに浮いた心のまま零れ落ちた言葉は謝罪で春秋くんの不思議そうな顔を見ながら自分自身も少し驚いていることにまた、笑うしかなかった。
『私が急に連絡しなくなったから、今日誘ってくれたんでしょう?』
私の問いに、春秋くんが目を見開く。いつも冷静で、涼しい顔をしている春秋くんがそんな顔をするのは珍しい気がするから、自分は何か変なことを言ってしまったのだろうかと心配になる。
『あ、えっと、デートしようってメッセージきてびっくりして!しばらく連絡できてなかったから、春秋くん気にしちゃったかなって心配でっ。返事、遅くなっちゃってごめんね。断るつもりは全然なかったんだけど、でも、デートなんて初めてで、なんて返していいかわからなくて、』
「なまえ、ちょっと待って。」
『あぇ?』
カフェに入ってしたさまざまな経験に妙にテンションが上がった私はすっかり舞い上がってしまい、何か話さないとと言う思いに駆られて息継ぎも忘れたように話してしまって。自分が何を言ったかもわからなくなるペースでいたのを、春秋くんが両手を突き出しながら遮ってきたおかげでようやく止まることができた。と同時に、自分の様子を改めて思い返して、随分と恥ずかしい状態だったことに気づく。パチパチと瞬きを繰り返しながら、どうしていいかわからない私に、とりあえず一旦落ち着けと飲み物を差し示してくる春秋くん。
『ふう。』
「落ち着いたか?」
『うん。ごめんね。』
「いや…。」
『?』
飲み物を飲んでゆっくり息を吐くと、少しだけ心が落ち着いた。と、同時にやっぱりいつでも動じない春秋くんはすごいなあと思っていた私は彼に違和感を覚えた。今まで私が勝手にワタワタしていたからそう思えただけで、よくよく考えると彼の様子もおかしい。向かい合って座っているのに、こんなにも彼と目が合わないことなんて、今まであっただろうか。
「参ったな。」
ぽつり。多分その声が私に聞こえていたら、そう表現するのが的確なんだと思う。そんな、私に伝えるつもりはなかったであろう彼の口の動きは、そう言ったのであろうことがなんとなくわかって。
『なにが、参ったの?』
「えっ。」
思わず訪ねてしまった私と春秋くんの目がパチリと会う。バツが悪いといったその視線はすぐにまた逸れてしまったけれど、私がじっと見つめ返しているとやがてフッと閉じられた瞼がゆっくり開いて。
「本当は、この後も色々考えてたんだが。思うようにはいかないもんだ。」
『え、っと?』
突然の、想像もしていなかった、そして何も読み取ることのできない言葉にどうしても困惑してしまう。しかし、彼が紡ぐ言葉を取りこぼさないように、春秋くんから目を逸らさずにいると返ってきたのは苦笑で。
『ん??』
「いや、目を合わせて話すなんて今までと同じなはずなのに、意識すると違うもんだなと思ってな。」
『は、春秋くん?あの、』
「なまえ。」
『は、はい。』
脈絡がなく、どうにも要領を得ない春秋くんの言葉にきちんと彼の言葉を受け取れているかさえ不安になっていると突然名前を呼ばれ、慌てて返事をする。彼の表情は真剣そのものになっていて、次の言葉をじっと待った。
「いくつか、聞いてもいいか?」
『な、なんでしょう?』
「まず…そうだな。しばらく連絡できなくて、って言ってたけど、できない理由があったのか?」
『え?それは、その…』
「あー…この聞き方は卑怯だな。悪い。質問を変える。」
『…。』
彼との会話にこれほどついていけないと感じたことがあっただろうか。それだけこれまで春秋くんが私に話すペースや内容、いろいろなことを合わせてくれていたことを知る。だから次の言葉が、こんなにも率直な彼の気持ちが私を動揺させるなんて、知らなかった。
「俺は、お前が連絡して来なくなった理由を、俺がお前を無意識に傷つけたせいだと思ってる。」
『!』
春秋くんの言葉に、思わず息を飲んだ。
ーーーーー
「お前の正直な気持ちを聞かせて欲しい。俺が、ボーダーに入らないか聞いた時、なまえが何を思ったか。どう感じたか。」
尋ねながら、じっとりと手のひらが汗で湿っていくのを感じた。こんなに緊張したことはここしばらくの記憶にはない。ボーダーの入隊試験でさえ、こんなには緊張しなかったと思う。これから俺が話すべきことを、彼女の気持ちを知る問いを、俺の思いを伝える言葉を、一つ一つを慎重に選びながらも、どうにも自分の話し方は尋問のようだとどこか他人事のように思う自分がいて。
『どう、感じたか、っていうのは?』
「嬉しかったとか、悲しかったとか、そう言うのでいい。思ったことがあったら、教えて欲しい。ただ嘘はつかないでほしい。どんな答えでもお前は悪くない。絶対に、責めたりはしない。」
驚き、あっけに取られるなまえの言葉を待ちながら、もっとスマートな聞き方があっただろうと反省する。それでも、出した言葉を引っ込めることはできない。
『…正直に、言うね?』
「ああ。」
『えっとね、その…。捻くれた、受け取り方しか、できなかったの。春秋くんに、耳が聞こえてる私の方がいい、って言われてるみたいだって思った。』
「そう、か。」
加古の言葉である程度自分がしたこと…なまえを傷つけた自覚があっても、いざ彼女の思いを聞かされると、覚悟が揺らぐ。それでも、ここまでのことを言わせた責任は全て俺にあって、それに答える義務もある。わかっていてなお次の言葉が紡げない自分は本当に情けない。
『ち、違うって分かってる!春秋くんがそんな人じゃないこと、わかってるよ!でも、でもね…。なんでか、耳が聞こえないまま生きてきた、今までの私の人生、どこか、否定された気がして。』
「…悪い。」
『謝らないで!春秋くんが、そんなつもりじゃないことは、わかってるから。』
「いや。俺は、俺のためにお前をボーダーに誘った。それは事実だ。」
『え…?』
情けなくて、申し訳なくて。それでも、ここで逃げるという選択肢は選べない。なまえにだけ言わせておいて、自分は逃げるなんて一生の恥になる。そうでなくても俺は、これ以上彼女を傷つけたくはないのだから。
「もちろん、お前を傷つけたかったわけじゃない。許してくれとは言わないけど、それだけは知っておいてほしい。」
『う、うん…。』
「それで、だ。」
言葉を探すふりをして、まだ無意識に逃げ道を探す自分がいる。目の前のなまえは戸惑いながらも俺から視線を逸らさずにじっとこちらを見てくれているというのに。それが例え、彼女が俺の口の動きを読み取ろうとしているだけの行動だったとしても、俺の言葉に向き合おうとしてくれていることに変わりはない。俺は、ゆっくり息を吸い、吐いて、もう一度吸う。そして、
「好きだ。」
『…え?』
俺の気持ちを吐き出して、脈絡が無い言葉だったと気づく。思えば今日のデートに誘った時の言葉もずいぶん突飛なものだったとまたも他人事のように思い出した。
『あ、あの…』
「ん?」
『えっと、相手、間違ってないよね?』
「…は?」
しばらくポカンとしていたなまえの顔がじわじわと赤くなり忙しなく視線を彷徨わせたかと思ったら、意を決したように彼女が絞り出した言葉に今度は俺が呆気にとられる。間違えるも何もここには今俺となまえしかいないわけで。彼女の言葉の意図が全く読み取れず俺はなまえが再び話始めるのを待った。しかし、
『…ふっ。』
「??」
彼女の口からこぼれたのは言葉ではなく、小さな笑い声だった。その後もなまえは話すのではなくクスクスと笑い続け、ますます意味がわからない。けれどなぜか、それを不快には思わずそのまま彼女の可愛らしい笑い声を遮ることはできなかった。
ーーーーー
“好きだ。”
あまりに突然の春秋くんの告白に私は頭が追いつかなかった。口の動きだけで会話していたならきっと聞き間違いだろうと流したと思う。それでも春秋くんははっきりと口だけじゃなく手話でもきちんと私に彼の思いを伝えてくれた。今までぼんやりとしか動いてなかった彼の大きな手がそれだけははっきりとしていたからたぶん、私の勘違いなんかじゃない。それでも、デートの誘いを受けた時みたいに私じゃない誰かのための言葉じゃないかと疑ってしまうことを許してほしい。
『えっと、相手、間違ってないよね?』
「…は?」
そんな私の不安を打ち消してくれたのはいつもの彼の優しくてかっこいい言葉や表情ではなくて。未だかつて春秋くんのこんな顔、見たことあっただろうか。失礼だけれど、とても間の抜けた顔だった。驚くなんてものじゃない。呆気にとられるってこういう顔なんだと訳もわからない思考が、さらに飛躍していく。そういえばデートのお誘いも何の前触れもなく突然だった。今日は春秋くんの見たことない表情をたくさん見られたけど、彼はどうやら大事なことは突然伝えてくるのか。長いこと幼馴染やってるつもりなんだけどはじめて知った。そしてこんなにも表情豊かなんだとも。
『…ふっ。』
そんなことを考えていたら笑いが堪えきれなくなった。春秋くんはずいぶんと困った顔をしている。そりゃそうだ。突然目の前で笑い出して何も言わないんだもん。でも、申し訳ないと思いつつ止められない。正直彼の表情がおかしいのが半分で、もう半分は正直自分でもよくわからない。あの春秋くんを可愛いと思う日が来るなんて。彼とのこの時間がいつまでも続いてほしい。けれど、これ以上この話をするのが怖い気もする。そんな中ふっと湧きあがった感情に自分はずいぶん都合のいい人間だなあとまた笑う。
『ねえ、春秋くん。』
「な、んだ?」
『私やっぱり、あの時ボーダーに入ってればよかった。』
「なまえ…?」
『だってそうすれば、春秋くんの声で、ちゃんと聞こえたのに。』
こんなことを言って、どれだけ春秋くんを困らせれば気がすむんだろう。でも、春秋くんは私をあの時ボーダーに誘ったことを気にしていたようだし,確かに私もあの時傷ついたのは事実だし、それとおあいこということにしてもらおう。
「それは、」
『…?』
まだ笑いの余韻が残っていた私には、春秋くんの表情がまた変化していることに気が付かなかった。そしてその目が、その視線が突然私を惹きつける。さっきまで可愛いと思っていたはずの春秋くんは、もうそこにはいなくなっていた。
「それは…その答えは、俺の望む答えと捉えていいんだよな?」
『あ、それは、』
そこでようやく、彼が先ほど私に告白してくれた事実を思い出す。いや、忘れてたわけではないのだけれど。けれどあまりに私にとっては信じられない話で。けれど彼の表情があまりに真剣なものになっていたから受け止めざるを得なくて。
「それは、えっと、」
『正直、答えを焦らせるなんてカッコ悪いと思う。でも、そんな顔されたら、俺も期待する。』
思わず言い淀んだ私に春秋くんはそう畳み掛ける。私,どんな顔してるんだろう。期待、って、つまり。
「…じゃあ、行こうか。」
『え、どこに?』
また、唐突な春秋くんの言葉。それと同時に春秋くんは,残っていたドリンクを飲み干した。私も釣られて、少し冷めたドリンクと初めて頼んだのに結局味わいきれなかったケーキをむぐむぐと口に収める。空っぽになった皿とカップの乗ったトレーをサッと持ち上げ席を立つ春秋くんに私は慌ててついていくことしかできなくて。
『あの、春秋くん、』
「成功すると分かってる告白なら、もう一度してもいい。」
『!』
店を出て、空いた手でさっきまでのように私の手を握った春秋くんがくるりとこちらを向いてそう言った。その顔はずいぶんとかっこよくて、意地悪で。そして、ボーダーに向かうことに私の了承を得て少しだけを歩を早める彼に必死についていく。
その時の私はまだ今日という日が、彼の想いを優しい音として聞くのと、彼と私の関係が幼馴染から変化するのと、私がボーダーに入ることが同時に起こる日になるなんて知る由もなかった。
ーーーーー
『あ,やっぱり東さんだ。』
「ああ、根付さんに呼ばれてね。」
俺がなまえと恋人という関係性を手に入れてしばらくしてから。彼女は結局メディア対策室に一般職員としてボーダーに所属していた。トリオン量が基準より足らず、また今まで音というもののない世界で生活していた彼女には通信を中心として会話することが求められるオペレーターとしての仕事はあまりにハードルが高かったらしい。
『また仕事させられてる…。』
「仕方ないだろ、俺よりずっと根付さんの方が働いてるだろうし。」
『春…、じゃない。東さんは自分の仕事じゃないことに駆り出されすぎ!』
「…公私混同は避けてもらいたいものだね。」
『室長!』
ガチャリと奥の扉が開いて根付さんが姿を表す。ちなみになまえはいつものように俺が入ってきたのを見つけたんだろう。この光景は何度か見たことがあった。
『公私混同じゃないです!は…東さんがこの部屋にくるの,今月何回目だと思ってるんですか!』
「私だって働きたいわけでも彼を働かせたいわけでもないんだよ。それでも仕事はある。」
「そっちも仕事残ってるんだろ?早く戻れ。」
『私は春秋くんに会うためにボーダー来てるんだからそんなに仕事溜まってないの!ここ最近まだ基地内でしかほとんど会えてないの、覚えてないとは言わせないっ。』
そう言いながらも言われたとおり部屋から出ていくなまえ。それを公私混同と言うんだよ…と言う根付さんの言葉に苦笑いを返すしかできない俺はこのあと少しでも彼女と過ごす時間を作ろうと、目の前の人物に早速本題に入るよう促す。しかし、意外にも根付さんが最初に口にしたのはなまえについてだった。
「あれで、仕事ができて、ここ以外ではきっちり君との関係も隠し通せてるから文句も言えないよ。」
「…連れが迷惑かけてるようで、すみません。」
「まあ、あれで仕事はきちんとしているからね。本当に耳が聞こえないのかと疑ってしまうほどにはコミュニケーション能力も高い。」
「トリオン体のおかげというのはもちろんありますが、あいつが評価されるのは俺も鼻が高いです。でもこれ以上、なまえを怒らせるわけにもいかないので、要件を伺っても?」
全く、君まで公私混同かい…。と根付さんは小言を言いながらもようやく本題を話し始めたのだった。
ーーーーー
22.10.06
title: 確かに恋だった 様 より
夢主少々特殊設定なため、色々有り得ないことが起きてるかもですが、ふわっと読んでください。
「どうだ?」
『!?』
「どうした?何かあったのか??」
痛い。耳が、頭が、とにかく痛い。
『〜〜〜!』
「おい、なまえ!」
初めてトリガーを渡され、トリオン体になったあの日。せっかく大好きな人に名前を呼ばれたはずなのに、生まれて初めて聞いた自分の名前は、生まれて初めて聞いた大好きな人の声は、少し苦い思い出を残した。
ーーーーー
なまえは生まれつき耳が聞こえない。家が近所で幼なじみと言える関係の彼女は俺のふたつ年下だった。しかし聴覚障害というハンデをおった彼女はそのハンデを感じさせないほど明るい子だった。学校でも支援学級にいながらも同級生にもそれなりに馴染んでいたようで友人と呼べる人間もいたようだし、学年の違う俺も時折見かける程度にはあちこち活発に動き回っていたようだ。それでもその心にはきちんと繊細な部分を持っていて、俺は次第に俺が彼女を守らなければという思いを抱いていた。
『あ、う...。』
「なまえ!」
そしてあの第一次大規模侵攻の日。改めてこの子を守るんだと誓った。特別支援学校を卒業し、障害を持っていても採用してくれる職場を求めて三門市を離れた彼女から、俺に連絡があった。必死の思いで三門市に戻ってきた彼女を待ち受けていた現実はあまりにも残酷だった。なまえの家族は彼女を残してみんな死んでしまった。近界民に殺された。生まれ育った家は無事だったものの、そこに戻ってくる家主はいなくなってしまった。そうして思い出だけが残るその場所は彼女にとって辛い現実を突きつけるだけの場所となってしまった。その前で肩を震わせ、大粒の涙を流す彼女の姿を未だはっきりと覚えている。
それから俺はボーダーに入隊した。耳の聞こえないなまえはといえば、様々な整理をするために俺に手伝いを頼んできて、それが終わるとまた職場のある別の街での生活に戻った。俺が大学に入った頃から実家に帰る時に少し話す程度だった以前よりは、一連の流れを経て頻繁に連絡を取るようになった。話す内容は他愛もないことばかりで、短いメッセージを送り合うだけだったが。それでもそんなやり取りの中で、俺の中の彼女に対する思いがより特別なものに変わっていくのが分かった。
そんなある日、トリオン体について研究していた時ふとなまえがトリオン体になったら彼女の聴力はどうなるのだろうかという疑問がわいた。サイドエフェクトは生身であってもトリオン体であっても発現する。視力が悪い人間もトリオン体ならば関係なくなる。最近、あまり体の強くない人間がトリオン体でなら健康体として動けるのではないかという研究を進める動きがあると聞く。ならば、なまえのように完全にその力を失った身体機能はどうなるのか?その疑問の答えを探すべく、研究室や上層部に掛け合い、なまえに協力を依頼するところまで漕ぎ着けた。彼女は最初は戸惑っていたものの、ボーダー入隊ではなくあくまで研究に協力するという形でならと了承してくれた。
そして、約束の日。彼女を駅まで迎えに行くと、緊張した面持ちのなまえがそこにいた。トリオン体のこと、研究のための実験内容、その結果予想される事象、一応必要事項は文面で説明してある。けれどもそれは既にボーダーとしてトリガーを使っている俺には当たり前でも、なまえにとっては未知の世界。不安や恐怖があって当然だと思う。
「何があっても、そばに居るから。」
これだけは、とこの日のために覚えた手話でなまえに伝える。なまえは相手の口の動きである程度相手の言うことがわかるが、それでも手話や文章の方がよりはっきり言葉が伝わる。なまえと話すため昔はもっと手話を使えていたが、使わない言葉を忘れるスピードは自分が思うより早く、最近はメールやメッセージアプリに頼ってばかりだった。そんな俺からの言葉は、なまえにはっきり伝わったようで。
『ありがとう。』
口の形と手話で俺にそう返してきたなまえの表情は少しだけ和らいでいた。しかし、実験の結果は芳しくなかった。いや、結論だけ言えば、彼女はトリオン体になることで聴力を手に入れることが出来た。しかし、生まれて初めての「音」というものに体が拒絶反応を起こしたようで、酷い頭痛が彼女を襲った。
ーーーーー
『はるあきくん。』
「ん、なんだ?」
『声、変じゃない?発音、あってる?』
「大丈夫、可愛いよ。」
『か、わい...、かわっ!?』
初めてトリオン体になって、音というものを手に入れた私は、その衝撃に体が耐えられず、頭痛と耳鳴り(後でそういうのだと知った)に襲われて、研究初日はまともに予定をこなすことが出来なかった。再び同じ症状が出ることに恐怖は感じたけれど、それでも始めたことをすぐに投げ出したくなかったし、何よりも幼い頃からいつも助けてくれた春秋くんの役に立ちたいという気持ちから、その後もボーダーの研究に協力することになった。
生まれて初めて聞こえた春秋くんの声に感動する暇すらなかったのは心残りだったけど、最初は自分が発する音、つまりは呼吸や鼓動、体を動かしたり歩いたりする時に出る物音から少しずつ音というものに耳を慣らした。それから、トリオン体の調節をしながら少しずつ春秋くんや他の人の話す声を聞くことができるようになった。ただ、今まで口の動きで何となく言葉を予想しながら会話していたおかげで全くではなかったものの、初めて発音というものを意識した私は自分でそれを発声することの難しさを痛感した。声を用いた私の会話レベルは当初赤子同然で、言われたことを理解することも簡単ではなかった。
生身でも喉の筋肉に異状はなかったから、研究に協力する時以外でも積極的に声を出すよう努力した。でも、生身の時には自分で自分の声を聞くことが出来ないから、春秋くんに時折ビデオ通話をしてくれるようお願いした。実際に会って話す方が簡単だけど、忙しい春秋くんと時間を合わせるのはなかなかそれも難しくて。ビデオ通話だと会話の難易度は上がるので先程のように言われたことの意味を理解するまで時間がかかったりすることもあったけど、テキストや手話を織り交ぜた私たちなりの会話をする時間はとても楽しいひと時だった。2年ほど前の大規模侵攻があった時から、いやそれよりもずっと前から私を色んな意味で支えてくれた春秋くんへの想いを胸の奥深くに仕舞い込んだままだったとしてもその事実は変わらなかった。
『からかわないで!』
「からかってなんかないさ。それに、ちゃんと俺の言ってることもわかってて嬉しいよ。」
『ちゃんと、受け取れてる、のかな?』
「大丈夫。」
春秋くんの声を知れたからこそ、彼の優しい声色が例え今は聞こえなくても、想像することが出来る。そしてその「大丈夫」に私は何度も救われてきている。だからこそ、優しい春秋くんに、大好きな彼に、あんなことを言われるとは思ってなかった。
「なまえは、ボーダーに入る気はやっぱりないのか?」
『え?』
研究に協力するようになって半年ほど経った頃だった。その頃には発声はまだ少し苦手な部分もあったけれど、初めて会う人にもある程度伝わるようになっていたし、相手の言葉を口の形から理解する能力の方はトリオン体を経験する以前より格段に上がっていた。しかもその話をした時はトリオン体の時だったから聞き間違えるはずもなかった。
「いや、なに、ボーダー隊員になれば、なまえも自分のトリガーが持てるようになる。つまりは、いつでもトリオン体になることが可能だ。その方がなまえにとっても都合がいいんじゃないかと思ってな。」
『それ、は、』
彼が私のことを思って言ってくれているのはわかった。でも、その時はなぜか、今のままの私より、耳の聞こえる私の方がいいって言われているような気がした。耳の聞こえない私を支えてくれる職場の人達、同じようなハンデを背負った友人達、そうした人たちの関係性を断ち切れと、言われているような気がしてしまった。…以前より近くなった気がしている距離は、トリオン体のおかげなのだと、あくまで耳が聞こえるようになったからなのだと、言われたように感じた。結局その言葉を境に今まで楽しかったはずの春秋くんと会話する時間が、色々な感情が折り混ざるせいで苦しくなった私は、次第に彼と連絡を取る回数が減っていった。
ーーーーー
「あら東さん、お疲れ?」
A級部隊を解散し、新たに将来を期待できそうな隊員と部隊を組み直してしばらくしたある日の事だった。自ら率いた部隊を最近A級認定させた加古と二宮、B級ランク戦にて上位に定着している三輪を焼肉に連れていった時の事だった。集合場所に指定した店に行く途中、後ろから声をかけてきた加古の声に振り返ると俺の顔を見た彼女がそう言った。いつでも自然体に振る舞う加古だが、その勘の良さや観察眼の鋭さは、さすがと言えるだろう。
「そう見えるか?」
「そうねぇ、身体的疲労よりも精神的疲労って感じかしら?新しい部隊に問題でも?」
「いや、そうじゃないんだが。」
「なら、別のお悩みがあるのね?」
顔をのぞき込まれ、疑問符こそ語尾についているが断言するように言われれば観念するしかない。俺は最近なまえから距離を置かれていることを加古に話した。加古にはなまえについて話したことがあったし、数回彼女と顔を合わせたこともあるから、この話をするのには適任だった。
「つまり東さんは、なまえちゃんの耳が聞こえるようになればと思ってボーダーに誘ったってことかしら?」
「厳密には、なまえの耳が治る訳じゃないからその言い方は語弊があるが...。でも、トリオン体でいられる時間が長ければ彼女の可能性が広がるだろうと思ったのは事実だな。」
「じゃあ、今のなまえちゃんには何の可能性もないのかしら?なまえちゃんが聞こえるようになって都合がいいのは本当に彼女?それとも東さん自身?そもそもその変化を彼女は望んでいるの?」
加古の言葉は自分でも無意識だった部分を浮き彫りにさせた。そしてそれは、俺の発した言葉が俺にそのつもりは全くなくても彼女を傷つけるものであったことに気づくには十分で。
「なるほどな...。」
「東さんも、こういう事で悩んだりするのね。」
「どういう意味か敢えて聞かないが、俺も人の子だ、と返しておく。」
「ふふ、そうみたいね。そんな東さんに女の目線でもう一つだけ言わせてもらおうかしら。」
「...?」
「どれだけ強がろうと、結局女は好きな男に守られたら、愛されたら、嬉しいものよ。」
「それは...」
やはり加古はとんでもない爆弾を落としていく。本当にどこまで分かっているのか。そしてそんな話をしながら合流したにもかかわらず、それ以降はほぼいつもと変わらぬ時が流れて、加古も流石だが、三輪や二宮の相変わらずぶりにも思わずひっそりと苦笑した。いや、二宮辺りは気づいていて何も言わないのかもしれないが。少なくとも三輪は素直に目の前の肉しか見えてないような気がした。そういう意味では、やはり二宮も同じか。
その帰り道、1人になった俺はなまえにメッセージを送った。思えば、なまえとのやり取りの機会が減ったのは今まで会話を始めるのが基本彼女からであったことが理由だ。ならば、俺から始めればいい。彼女とまた楽しい時を過ごしたいのなら。俺から歩み寄ればいい。彼女を手放したくないのなら。ただそれだけの事。
<今度、デートしよう。>
いきなりだということは自覚していた。まだ、付き合っていないどころか、告白もしていない相手にこんなことを言うのはおかしな話だとは分かっていた。それでも、彼女に会いたかった。会って話したかった。なまえに俺のことを知ってもらうために。なまえのことをもっと俺が知るために。
<いいよ。>
既読は比較的早くついたものの、彼女からの返信はなく、そんな一言だけのメッセージが送られてきたのは丸1日経った頃だった。素っ気なくも思えるその文面はなまえらしくない、そう思った。だがその裏に何か彼女の思いが隠れているような気がしてならなかった。いや、俺の男の部分がそう都合よく解釈しただけだ。結局俺はなまえが関わると彼女のためと言いながら、自分の都合良いように考えてしまうらしい。そんな自分に呆れながらも、指はデートの日時や場所の提案を彼女に伝えるべく勝手に文字を打っていた。
ーーーーー
春秋くんとの連絡の頻度が目に見えて減ってからしばらくだったある日の夜。不意にスマホが光ってメッセージの受信を告げた。耳の聞こえない私がそれにすぐに気づくことは多くなくて、相手もそれを分かっているから気づいたとしてもあまり急いでメッセージに返事をすることはない。それでもその日はなぜかすぐにアプリに指が伸び、メッセージを確認した。送り主は春秋くんだった。次の研究の協力の日程の調整かと思い、それを開いた。しかしそこにあったのは、たった一言。
<今度、デートしよう。>
それを見た瞬間、息が止まり、心臓が飛び跳ねたような気がした。もちろんそんなのは錯覚だけどそれくらいの衝撃だった。最初は送り主を間違えたのではないかと思った。でも、きっと、春秋くんはそんなことしない。もし万が一仮にそうだとしたら、すぐに訂正の言葉を送ってくるはずだ。でもそうではないとすると...。ならば、なぜ私にそんな事を送ってきたのかと理由を思い巡らせる。でも、どんなに考えてもその理由を想像することすらできない。こうなると、次はどうやって返信していいかに悩んだ。と同時に自分がいまだに、春秋くんを好きなことを自覚する。好きという純粋な想いと、言葉に傷つけられたという痛みと、彼が望む自分になりたいという願いと、彼にありのままの自分は受け入れてほしいという期待と。さまざまな感情が入り混じり、私の心を掻き乱していく。
<いいよ。>
その答えにたどり着くまでには随分と時間を要してしまって、やっとの思いで送信ボタンを押した時には、メッセージを受信してから1日程経ってしまっていた。断るという選択肢だけはどうやっても浮かばなかったこと、デートなんて生まれて初めてで正直どうしていいかわからなかったこと、先日の言葉にどうしてもひねくれた感情しか持てなかったのにそれでも春秋くんに会いたいと思ったこと、そういうことも含めて直接春秋くんに私の思いを全部伝えよう、そう思いながら、彼から送られてくるデートの予定を眺めることにした。
耳の聞こえない私が出かけるのは、やはり難易度が高い。それでも私はまだ友人たちと出かけたりすることがある方だとは思うが、どうしてもいつもの場所、いつもの道が安心するからそうなりがちだし、あまりに人が多いところは苦手だ。音が聞こえないというのは、気配を感じにくいということなので、後ろから歩いてくる人や不意に横から出てくる人とぶつかることも多い。道を歩けば車や自転車などが来ることがわかりにくくて、完全に歩道と車道が別れていない道で怖い思いをしたことも何度かある。でも、だからといって私のことを気遣ってばかり貰うのもすごく居心地が悪くて。
『お待たせ。』
「俺もさっき来たところだ。」
だから、待ち合わせがいつも通りの駅だったことに少しだけ安心した。デートだから車で迎えに行くとか言われても、私には運転中の人と会話する方法なんてなくて。いや、彼がそんなことを言うタイプかどうかなんて、そもそもそんな誘い文句を言う人がいるのかさえ、デート初体験の私には分からないけれど。当日のプランは彼に任せてあって行先は普段は行かないような場所のようだったけど、誰かと、他でも無い春秋くんと一緒なら不安もさほどない。
「可愛いな、服。いつもと違う感じだ。」
『そういう恥ずかしいこと言わないで!』
「怒るなよ。褒めてるんだから。」
『...今日は研究じゃないし、でも、春秋くんの隣にいて、変じゃないようにしなきゃって、思って。』
「デートって、意識してくれたのか?」
意識してくれたもなにも、どんな服を着ればいいか本当に悩んで、悩みすぎて待ち合わせギリギリになるくらいには私にはデートのハードルは高い。そう言ってしまいたいのに、ドキドキして上手く言葉が出なくて頷くことしか出来ない。本当に意識しすぎてしまっている。
「じゃ、ついでに。」
『は、春秋くん!?』
そう言ってするりと繋がれた手。あまりに自然で躊躇いのない動作に驚きの声を上げたものの、その手を離そうとは微塵も思えなくて。ただ私は春秋くんと付き合ってすらないはずのに、これは一体どういうことなんだろう。そんな考えが一瞬頭をよぎる。
「もし嫌なら、振りほどいてくれて構わない。でも、できれば俺は離したくない。」
真面目だけれども冗談も通じるし、茶目っ気とでもいうのか、時にゆるい部分も彼が持ち合わせていることを幼馴染という長い付き合いから知っている。知ってはいるが、今それが発揮されているとは全く思えない。それほど真っ直ぐに見つめられて、ゆっくり、はっきりと自分と同じ気持ちをぶつけられれば、私には黙ってその手を握り返す以外の返事が見つからなかった。
ーーーーー
休日の昼下がりのショッピングモールはそれなりに人でごった返していた。それでも俺の中では想定の範囲内といった程度だったが、あまり休みの日にこういったところに来ないというなまえは初めのうち少し表情が硬かった。
「大丈夫だ。」
恐らく人にぶつかることに不安を感じているのだろうと、繋いだ手を握り直し伝えれば少し表情を緩めたなまえ。ただその顔に釣られるように笑った自分の表情の中には己に対する呆れが混じっていないか少し心配だった。未だ告白さえしていないただの幼馴染という関係の俺たちだがきっと、傍から見れば恋人同士に映るだろう。口を動かしゆっくり話すことに努めてはいるものの今は、なまえが実は耳が聞こえないことすら、大抵の人間には分からないだろう。けれどそうなるよう、望んだのは俺だ。そしてこれは、ありのままのなまえと普通のことをして過ごせば、彼女を傷つけた事実がなかったことにはならなくとも、その誤解を解くことができるのではという俺のエゴだ。
なまえの行きたいところを聞きながら、普段はネットで買うことの多いという服を中心に見ながら俺たちは適当な店に入る。服にこだわる方ではないと照れながら教えてくれた彼女に、その中での好みも聞きながら俺の意見もそれとなく伝えると、少し嬉しそうにそして割と真剣に服を選び始めた。そんななまえにゆっくりと近づく人影があった。
「そちら、大変人気の商品なんですよー。」
営業スマイルを浮かべた女性がなまえの斜め後ろから声をかけてきた。しかし、それに全く反応しないなまえに、少し困ったような表情の女性店員。
「すみません、彼女耳が聞こえなくて。」
「えっ。あ、そうでしたかー。」
『はるあきくん?...あ!』
ふと顔を上げたなまえの視線が服からこちらを向いて、気が緩んでいたのか発音も少し曖昧に俺を呼ぶ。そうして俺の視線の先に気づいてようやく状況を理解したらしく声を上げた。
『すみません、私、耳、聞こえ、なくて。』
「こちらこそすみません。って、聞こえないんですよね...。彼氏さん、伝えてもらっても?」
「かれ、し。」
なまえに自分の言葉が全く伝わっていないと思っている店員が俺の方に向かってそう言う。しかしなまえはといえば、その口の動きを読んで、ポツリとそう言った。その言葉を反芻し、顔を赤くしている彼女は今、何を考えているんだろう。どう接すればいいか分からないのと、それとは別の気まずさとを半々くらいで顔に出した店員に適当な笑みを返せば「ごゆっくりどうぞー」とそそくさとその場を去っていく。服から顔を上げているため、そう言われたのはわかったようでぺこりと慌ててお辞儀をしたなまえに思わず笑いを漏らす。けれどそれは、彼女には聞こえなくて反応は返ってこない。それが良かったような寂しいようななんとも言えない気分になる。
結局その店を何も買わずに出た俺たち。なまえに他の店に入るか?と尋ねてみたが微妙な顔をされ、ならばと適当に歩を進めることにしてなまえの手を再び引いて歩き出せば、口数が随分と減っていた彼女が話し出す。
『ああいうのがあるから、お店で服を買うの、苦手。』
「そうか。」
『春秋くんにも、気まずい思いさせて、ごめんね。』
「いや、俺の配慮が足らなかった。こっちこそ悪かった。」
俺たちの言葉のやり取りは手話も交えてだから、繋いだ手を時折離しながら言葉を交わす。それでも話し終えればを繋いで。自然と離されたままにされてしまうかと思っていたので、その反応は少し予想外とも言える。ただまあ、嬉しい誤算だ。少し寂しそうにも見える顔のなまえに何か甘いものでも食うか、と立ち止まり提案すれば、影のさしていた表情をぱっと明るくさせ嬉しそうに頷いてきて。思わず、今度は彼女が見ている前で軽く吹き出してしまった。それに返ってくるのはやはり照れたような、怒ったような顔で。その反応は純粋に嬉しく、楽しいと思える。謝りつつどの店がいいか尋ねれば、しばらく怒っていた顔を真剣なものに変えて一件の店を指定してくるなまえ。その手をもう一度繋ぎなおして、彼女の行きたいという店に足を向けた。
ーーーーー
『美味しい!』
「それは良かった。」
人気チェーン店でもあるそのカフェはいつも人で賑わっていて、飲み物を頼んだことこそあれど、店内でそれをゆっくり味わった経験はほとんどなくて。しかもそれだけじゃなくて、飲み物のカスタマイズや、それに合わせたフードメニューも店員さんからオススメを聞くことができた。今までしたことない体験に気分の高揚を抑えきれないのは少し恥ずかしいけれど、これも全部春秋くんのおかげだ。
『春秋くん、ごめんね。』
「...なまえ?」
喜びに浮いた心のまま零れ落ちた言葉は謝罪で春秋くんの不思議そうな顔を見ながら自分自身も少し驚いていることにまた、笑うしかなかった。
『私が急に連絡しなくなったから、今日誘ってくれたんでしょう?』
私の問いに、春秋くんが目を見開く。いつも冷静で、涼しい顔をしている春秋くんがそんな顔をするのは珍しい気がするから、自分は何か変なことを言ってしまったのだろうかと心配になる。
『あ、えっと、デートしようってメッセージきてびっくりして!しばらく連絡できてなかったから、春秋くん気にしちゃったかなって心配でっ。返事、遅くなっちゃってごめんね。断るつもりは全然なかったんだけど、でも、デートなんて初めてで、なんて返していいかわからなくて、』
「なまえ、ちょっと待って。」
『あぇ?』
カフェに入ってしたさまざまな経験に妙にテンションが上がった私はすっかり舞い上がってしまい、何か話さないとと言う思いに駆られて息継ぎも忘れたように話してしまって。自分が何を言ったかもわからなくなるペースでいたのを、春秋くんが両手を突き出しながら遮ってきたおかげでようやく止まることができた。と同時に、自分の様子を改めて思い返して、随分と恥ずかしい状態だったことに気づく。パチパチと瞬きを繰り返しながら、どうしていいかわからない私に、とりあえず一旦落ち着けと飲み物を差し示してくる春秋くん。
『ふう。』
「落ち着いたか?」
『うん。ごめんね。』
「いや…。」
『?』
飲み物を飲んでゆっくり息を吐くと、少しだけ心が落ち着いた。と、同時にやっぱりいつでも動じない春秋くんはすごいなあと思っていた私は彼に違和感を覚えた。今まで私が勝手にワタワタしていたからそう思えただけで、よくよく考えると彼の様子もおかしい。向かい合って座っているのに、こんなにも彼と目が合わないことなんて、今まであっただろうか。
「参ったな。」
ぽつり。多分その声が私に聞こえていたら、そう表現するのが的確なんだと思う。そんな、私に伝えるつもりはなかったであろう彼の口の動きは、そう言ったのであろうことがなんとなくわかって。
『なにが、参ったの?』
「えっ。」
思わず訪ねてしまった私と春秋くんの目がパチリと会う。バツが悪いといったその視線はすぐにまた逸れてしまったけれど、私がじっと見つめ返しているとやがてフッと閉じられた瞼がゆっくり開いて。
「本当は、この後も色々考えてたんだが。思うようにはいかないもんだ。」
『え、っと?』
突然の、想像もしていなかった、そして何も読み取ることのできない言葉にどうしても困惑してしまう。しかし、彼が紡ぐ言葉を取りこぼさないように、春秋くんから目を逸らさずにいると返ってきたのは苦笑で。
『ん??』
「いや、目を合わせて話すなんて今までと同じなはずなのに、意識すると違うもんだなと思ってな。」
『は、春秋くん?あの、』
「なまえ。」
『は、はい。』
脈絡がなく、どうにも要領を得ない春秋くんの言葉にきちんと彼の言葉を受け取れているかさえ不安になっていると突然名前を呼ばれ、慌てて返事をする。彼の表情は真剣そのものになっていて、次の言葉をじっと待った。
「いくつか、聞いてもいいか?」
『な、なんでしょう?』
「まず…そうだな。しばらく連絡できなくて、って言ってたけど、できない理由があったのか?」
『え?それは、その…』
「あー…この聞き方は卑怯だな。悪い。質問を変える。」
『…。』
彼との会話にこれほどついていけないと感じたことがあっただろうか。それだけこれまで春秋くんが私に話すペースや内容、いろいろなことを合わせてくれていたことを知る。だから次の言葉が、こんなにも率直な彼の気持ちが私を動揺させるなんて、知らなかった。
「俺は、お前が連絡して来なくなった理由を、俺がお前を無意識に傷つけたせいだと思ってる。」
『!』
春秋くんの言葉に、思わず息を飲んだ。
ーーーーー
「お前の正直な気持ちを聞かせて欲しい。俺が、ボーダーに入らないか聞いた時、なまえが何を思ったか。どう感じたか。」
尋ねながら、じっとりと手のひらが汗で湿っていくのを感じた。こんなに緊張したことはここしばらくの記憶にはない。ボーダーの入隊試験でさえ、こんなには緊張しなかったと思う。これから俺が話すべきことを、彼女の気持ちを知る問いを、俺の思いを伝える言葉を、一つ一つを慎重に選びながらも、どうにも自分の話し方は尋問のようだとどこか他人事のように思う自分がいて。
『どう、感じたか、っていうのは?』
「嬉しかったとか、悲しかったとか、そう言うのでいい。思ったことがあったら、教えて欲しい。ただ嘘はつかないでほしい。どんな答えでもお前は悪くない。絶対に、責めたりはしない。」
驚き、あっけに取られるなまえの言葉を待ちながら、もっとスマートな聞き方があっただろうと反省する。それでも、出した言葉を引っ込めることはできない。
『…正直に、言うね?』
「ああ。」
『えっとね、その…。捻くれた、受け取り方しか、できなかったの。春秋くんに、耳が聞こえてる私の方がいい、って言われてるみたいだって思った。』
「そう、か。」
加古の言葉である程度自分がしたこと…なまえを傷つけた自覚があっても、いざ彼女の思いを聞かされると、覚悟が揺らぐ。それでも、ここまでのことを言わせた責任は全て俺にあって、それに答える義務もある。わかっていてなお次の言葉が紡げない自分は本当に情けない。
『ち、違うって分かってる!春秋くんがそんな人じゃないこと、わかってるよ!でも、でもね…。なんでか、耳が聞こえないまま生きてきた、今までの私の人生、どこか、否定された気がして。』
「…悪い。」
『謝らないで!春秋くんが、そんなつもりじゃないことは、わかってるから。』
「いや。俺は、俺のためにお前をボーダーに誘った。それは事実だ。」
『え…?』
情けなくて、申し訳なくて。それでも、ここで逃げるという選択肢は選べない。なまえにだけ言わせておいて、自分は逃げるなんて一生の恥になる。そうでなくても俺は、これ以上彼女を傷つけたくはないのだから。
「もちろん、お前を傷つけたかったわけじゃない。許してくれとは言わないけど、それだけは知っておいてほしい。」
『う、うん…。』
「それで、だ。」
言葉を探すふりをして、まだ無意識に逃げ道を探す自分がいる。目の前のなまえは戸惑いながらも俺から視線を逸らさずにじっとこちらを見てくれているというのに。それが例え、彼女が俺の口の動きを読み取ろうとしているだけの行動だったとしても、俺の言葉に向き合おうとしてくれていることに変わりはない。俺は、ゆっくり息を吸い、吐いて、もう一度吸う。そして、
「好きだ。」
『…え?』
俺の気持ちを吐き出して、脈絡が無い言葉だったと気づく。思えば今日のデートに誘った時の言葉もずいぶん突飛なものだったとまたも他人事のように思い出した。
『あ、あの…』
「ん?」
『えっと、相手、間違ってないよね?』
「…は?」
しばらくポカンとしていたなまえの顔がじわじわと赤くなり忙しなく視線を彷徨わせたかと思ったら、意を決したように彼女が絞り出した言葉に今度は俺が呆気にとられる。間違えるも何もここには今俺となまえしかいないわけで。彼女の言葉の意図が全く読み取れず俺はなまえが再び話始めるのを待った。しかし、
『…ふっ。』
「??」
彼女の口からこぼれたのは言葉ではなく、小さな笑い声だった。その後もなまえは話すのではなくクスクスと笑い続け、ますます意味がわからない。けれどなぜか、それを不快には思わずそのまま彼女の可愛らしい笑い声を遮ることはできなかった。
ーーーーー
“好きだ。”
あまりに突然の春秋くんの告白に私は頭が追いつかなかった。口の動きだけで会話していたならきっと聞き間違いだろうと流したと思う。それでも春秋くんははっきりと口だけじゃなく手話でもきちんと私に彼の思いを伝えてくれた。今までぼんやりとしか動いてなかった彼の大きな手がそれだけははっきりとしていたからたぶん、私の勘違いなんかじゃない。それでも、デートの誘いを受けた時みたいに私じゃない誰かのための言葉じゃないかと疑ってしまうことを許してほしい。
『えっと、相手、間違ってないよね?』
「…は?」
そんな私の不安を打ち消してくれたのはいつもの彼の優しくてかっこいい言葉や表情ではなくて。未だかつて春秋くんのこんな顔、見たことあっただろうか。失礼だけれど、とても間の抜けた顔だった。驚くなんてものじゃない。呆気にとられるってこういう顔なんだと訳もわからない思考が、さらに飛躍していく。そういえばデートのお誘いも何の前触れもなく突然だった。今日は春秋くんの見たことない表情をたくさん見られたけど、彼はどうやら大事なことは突然伝えてくるのか。長いこと幼馴染やってるつもりなんだけどはじめて知った。そしてこんなにも表情豊かなんだとも。
『…ふっ。』
そんなことを考えていたら笑いが堪えきれなくなった。春秋くんはずいぶんと困った顔をしている。そりゃそうだ。突然目の前で笑い出して何も言わないんだもん。でも、申し訳ないと思いつつ止められない。正直彼の表情がおかしいのが半分で、もう半分は正直自分でもよくわからない。あの春秋くんを可愛いと思う日が来るなんて。彼とのこの時間がいつまでも続いてほしい。けれど、これ以上この話をするのが怖い気もする。そんな中ふっと湧きあがった感情に自分はずいぶん都合のいい人間だなあとまた笑う。
『ねえ、春秋くん。』
「な、んだ?」
『私やっぱり、あの時ボーダーに入ってればよかった。』
「なまえ…?」
『だってそうすれば、春秋くんの声で、ちゃんと聞こえたのに。』
こんなことを言って、どれだけ春秋くんを困らせれば気がすむんだろう。でも、春秋くんは私をあの時ボーダーに誘ったことを気にしていたようだし,確かに私もあの時傷ついたのは事実だし、それとおあいこということにしてもらおう。
「それは、」
『…?』
まだ笑いの余韻が残っていた私には、春秋くんの表情がまた変化していることに気が付かなかった。そしてその目が、その視線が突然私を惹きつける。さっきまで可愛いと思っていたはずの春秋くんは、もうそこにはいなくなっていた。
「それは…その答えは、俺の望む答えと捉えていいんだよな?」
『あ、それは、』
そこでようやく、彼が先ほど私に告白してくれた事実を思い出す。いや、忘れてたわけではないのだけれど。けれどあまりに私にとっては信じられない話で。けれど彼の表情があまりに真剣なものになっていたから受け止めざるを得なくて。
「それは、えっと、」
『正直、答えを焦らせるなんてカッコ悪いと思う。でも、そんな顔されたら、俺も期待する。』
思わず言い淀んだ私に春秋くんはそう畳み掛ける。私,どんな顔してるんだろう。期待、って、つまり。
「…じゃあ、行こうか。」
『え、どこに?』
また、唐突な春秋くんの言葉。それと同時に春秋くんは,残っていたドリンクを飲み干した。私も釣られて、少し冷めたドリンクと初めて頼んだのに結局味わいきれなかったケーキをむぐむぐと口に収める。空っぽになった皿とカップの乗ったトレーをサッと持ち上げ席を立つ春秋くんに私は慌ててついていくことしかできなくて。
『あの、春秋くん、』
「成功すると分かってる告白なら、もう一度してもいい。」
『!』
店を出て、空いた手でさっきまでのように私の手を握った春秋くんがくるりとこちらを向いてそう言った。その顔はずいぶんとかっこよくて、意地悪で。そして、ボーダーに向かうことに私の了承を得て少しだけを歩を早める彼に必死についていく。
その時の私はまだ今日という日が、彼の想いを優しい音として聞くのと、彼と私の関係が幼馴染から変化するのと、私がボーダーに入ることが同時に起こる日になるなんて知る由もなかった。
ーーーーー
『あ,やっぱり東さんだ。』
「ああ、根付さんに呼ばれてね。」
俺がなまえと恋人という関係性を手に入れてしばらくしてから。彼女は結局メディア対策室に一般職員としてボーダーに所属していた。トリオン量が基準より足らず、また今まで音というもののない世界で生活していた彼女には通信を中心として会話することが求められるオペレーターとしての仕事はあまりにハードルが高かったらしい。
『また仕事させられてる…。』
「仕方ないだろ、俺よりずっと根付さんの方が働いてるだろうし。」
『春…、じゃない。東さんは自分の仕事じゃないことに駆り出されすぎ!』
「…公私混同は避けてもらいたいものだね。」
『室長!』
ガチャリと奥の扉が開いて根付さんが姿を表す。ちなみになまえはいつものように俺が入ってきたのを見つけたんだろう。この光景は何度か見たことがあった。
『公私混同じゃないです!は…東さんがこの部屋にくるの,今月何回目だと思ってるんですか!』
「私だって働きたいわけでも彼を働かせたいわけでもないんだよ。それでも仕事はある。」
「そっちも仕事残ってるんだろ?早く戻れ。」
『私は春秋くんに会うためにボーダー来てるんだからそんなに仕事溜まってないの!ここ最近まだ基地内でしかほとんど会えてないの、覚えてないとは言わせないっ。』
そう言いながらも言われたとおり部屋から出ていくなまえ。それを公私混同と言うんだよ…と言う根付さんの言葉に苦笑いを返すしかできない俺はこのあと少しでも彼女と過ごす時間を作ろうと、目の前の人物に早速本題に入るよう促す。しかし、意外にも根付さんが最初に口にしたのはなまえについてだった。
「あれで、仕事ができて、ここ以外ではきっちり君との関係も隠し通せてるから文句も言えないよ。」
「…連れが迷惑かけてるようで、すみません。」
「まあ、あれで仕事はきちんとしているからね。本当に耳が聞こえないのかと疑ってしまうほどにはコミュニケーション能力も高い。」
「トリオン体のおかげというのはもちろんありますが、あいつが評価されるのは俺も鼻が高いです。でもこれ以上、なまえを怒らせるわけにもいかないので、要件を伺っても?」
全く、君まで公私混同かい…。と根付さんは小言を言いながらもようやく本題を話し始めたのだった。
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22.10.06
title: 確かに恋だった 様 より
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