個別の物語





ぼくは、昔から本当にドジだった。



あの日も、誕生日にもらっていつも一緒にいた大事なお友達を外出先に置いてきてしまって。
帰ってきてからお父さんとお母さんに連れられてようやく見つけて泣きながら抱き締めていた。


『もう失くさないように、ここに名前を書いておいてね』

『うん……うん!』

お母さんがお友達に縫いつけてくれた大きめの真っ白なタグを前に、ぼくは一日中考えていた。

そして、何かおかしいとお母さんが気づいた時にはもう、ぼくは自分の名前ではなく、大事な大事なお友達の名前をタグに書いていた。

『えぇ?そうじゃなかったんだけど……いい名前ね』

ぼくの大好きな、大切なユーイ。

もう絶対に、離れ離れになんてならないからね。




❇︎




大きな木を見上げて物想いに浸っていた僕の額に、大きな雨粒が落ちてきた。

いつもなら気がつくのに、冷たい風が吹いてきたことにも、空がにわかに灰色がかってきたことにも気がつかなかった。

ぱらぱらと急に強まる雨足の中、バッグを両腕で抱えて慌てて走り出す。

背中を伝う雨を感じながら家路まで半分ほど走ったとき、僕はふと流れゆく景色に違和感を覚えて立ち止まり、数m駆け戻った。

木の根元、平たい岩の上、大きなバスケットの中。

ピクニックに来た誰かの忘れ物かと思ってひょいと中を覗いた僕は……

「わぁ⁉︎」

驚いて3歩飛び退き、ドクドク鳴る心臓を押さえて再び覗き込んだ。

やっぱりだ。

「人間の、赤ちゃんだ…………」

赤子といえば泣いているイメージしか持ち合わせがない僕は、その静かな様子を見て、震える手をそっと伸ばして開きっぱなしの手の平に触れた。

「!」

少々間が空いて、きゅっとか弱い力で指先を握られる。

飛び上がりそうになったのをぐっと堪えて、戻せない指先をそのままにしながら辺りを見回した。

「だ、だれ、だれか……えーっと、この子のお母さーーーーーん⁉︎」

パニックになってここ数十年は出した事のない大声を上げたものの、雨音の合間に虚しく吸い込まれて何も返ってこない。

「どうしよう、どうしたらいい?そうだ、探さなきゃ!手がかりは……」

金色の髪。ダメだ今日は人っ子ひとりすれ違っていない。

バスケットの中、雨に濡れて破れかけた小さな紙片。
ノートの切れ端のようなその紙を祈るような気持ちで開いた僕の頭は、真っ白になった。

『ごめんなさい』

書き殴られた謝罪の言葉。

言葉も出ずに立ち尽くす僕の額を、雨粒が伝っていく。

その雨粒が、赤子の頬にぽつりと滴る。

ゆっくり開かれたグレーの瞳に、途方に暮れた僕の姿が映し出された。

「……ふぇ」

「え?」

途端、くしゃりと歪められた表情を認識すると共に。

森中に大きな泣き声が響き渡り。

僕は大慌てでバスケットごと持ち上げ、強まる雨足から守る術が無いことに気づき。

恐れ慄きながら首を支えて直接抱き上げ、上着の内側に守るようにし。

バスケットの中に取り急ぎ自分のバッグを入れて肘にかけ。

いまだ耳を突き抜ける大声で泣く赤子に、どうしていいか分からなくて自分の「お友達」を一緒に抱いてみるなどして。

パニックで半泣きになりながら、仕事で何度も動物を診たことがある孤児院への道を走った。




街外れを駆け抜けて孤児院の通用口に辿り着く前に、腕の中の赤子が泣き止んだ。

「へ……?」

まだ腕の中には確かな温もりが呼吸をしているが、僕は全身から血の気が引いて急に足元の地面が消えたような心地がした。

灯が消えるのはいつも突然だ。

木を見上げて、空を見上げて。
やがて行けるのか、本当にその向こうに居るのかさえ分からない存在を想って、僕だけいつまでも先には進めない_________________



「だめだよ、もうすぐだから……行かないで……!」

途中の医者の門を懸命に叩いて呼んで、誰もいなくて。

涙で見えなくなる目を擦って、走って、孤児院の通用口に辿り着いた頃には日が暮れて、ずぶ濡れで大泣きしていたのは僕の方で、慌てて出てきた院長に説明することも出来ず、おおかた察してくれた彼女に赤子を引き渡して。

手慣れた人々に介抱されている様子と、「少し熱があるようだけど、大丈夫、よく眠っているだけ」という言葉をどこか遠い所の声のように聞いて。

僕はそのまま横倒しなって意識を手放した。







小鳥の鳴き声がする。

「あさ……?」

見慣れない天井の木目を眺め、片手をかざして、見慣れない白い袖に驚く。

直角に飛び起きると、そこはいつも外から見ていた孤児院の一室だった。

窓の外では、きのう着ていた自分の服が物干し竿にかけられている。

扉から外に出て触ってみると、もう乾いていた。

太陽の位置からしてもう昼だろうか。

ひとまず竿から下ろして抱えたところで、後ろから声をかけられて飛び上がりかけた。

「ごめんね、ソファで寝てもらっちゃって」

「い、いえ!そんな、着替えまで貸して頂いてありがとうございます」

「あなた男の子だったのね、ちゃんと男性にお願いしたから大丈夫よ」

「(女の子だと思われていたのか……)」

違う違う。ショックを受けている場合じゃない。

僕がなんと説明しようか途方に暮れていると、院長は寂しげに微笑んでポケットから紙片を取り出した。

「あ……」

『ごめんなさい』

謝罪の言葉が書かれた紙は、真ん中で破れて滲んでいたものの、乾いてしっかり残っていた。

「全部分かったわ。悲しいけれどね。……この子はどこに?」

「……森です。あの、あの、僕、もう一度探してきます!
この子の親が戻って来てるかもしれない……!」

「ええ、私達にも場所を教えて貰えるかしら?
なにせ、とても愛情深く育てられていた子だものね……ユーイくんは」

「はい!……ユーイくん?」

「あの子と一緒だったぬいぐるみに書いてあったの。
『わたしの大好きな、大切なユーイ』って。
離すと泣いちゃうからきのう大急ぎで乾かして返してたのよ」

それは僕の友達の名前です。そう説明するわけにもいかず、動揺しながら言われるがまま、院長のあとについて行った。

「……」

そして、僕の友達を抱きしめてすやすや眠っている赤ちゃんを見て、何にも言えなくなってしまった。


これからこの子は大きくなって、自分に親がいないことを知るのだろう。

名前も分からない、親の顔も分からない、あの紙切れ以外に何の手がかりもない、そんな事を知ったら……。

「院長先生。この子には、僕が連れて来たってこと、内緒にしてください」

「…………え?……ええ、そう、ね」

年老いた彼女は、目を瞬いた後、また寂しげに微笑んだ。

彼女は気づいている。

彼女が若い頃から院に動物を診に来ているロフィの姿が、年老いても全く変わらない、その異常さに。

僕はいつも、気づいたうえで気づかないフリをしてくれる人々に甘えて、何も言わずに少しだけ通う場所を変えながら生きてきた。


でも、この子が成長しても自分が全く変わらなければ、その違いが誰の目にも明らかになってしまう。

だから、僕は。君を、ユーイを、見守ることは出来ない。

「……引き継ぎ用の資料を作ってきます」

元の服に着替えて、僕は孤児院をあとにした。



❇︎





「…………はっ、……ゆめ?」

二本立てで濃い夢を見てしまった。

「きのう、あんな事があったからだ……」


『そっか、ありがと。最近寝つき悪くて困っててさ、おかげですっきりしたよ。
俺の名前はユーイ。君は?』


後ろに撫でつけた金色の髪に、灰色の瞳。

図書館で気さくに声をかけてきたあの青年は、歳の頃20代半ばだろうか。



四半世紀過ぎたからと通う図書館を変えたら、何故かいつも定位置で居眠りしている青年がいて。

眩しそうにしていたからカーテンを閉めた。

ただそれだけだった。なのに、まさかその青年が……

「同名の別人かも……」

頭を抱える。

いや、しっかりしろ僕。

彼は、ユーイは僕が自分に関係あるなんて思いもしないはずだ。

そう、ただ純粋にお礼を言いたかっただけ……

「ぼく男の子ですので!って酷いよね……」

長らく仕事以外で極力人と接しないようにしていたからか、自然と距離を詰めてくるユーイにびっくりして酷く失礼なことを言ってしまった。自意識過剰な上にナンパ者扱いだ。

「ぼくのせいで、もっと寝つき悪くなって不眠症になっちゃったらどうしよう……」

どうしても、あの日腕の中で体を震わせて泣いていた小さな温もりがちらついて、相手がもう自分より背丈の大きい青年だというのに無限に心配してしまう。

僕よりしっかりしてそうだし大丈夫かな、でも、しっかりしてる人の方がストレス抱えがちかも……。

「……図書館……明日も行こ」

枕元では、あの日お別れした大切なお友達にそっくり似せて作った、未練の塊みたいな新しいお友達がボタンの瞳でこっちを見ている。

寂しくてがんばって指を刺しながらそっくりに作ったのに、やっぱり代わりには出来なかった。
同じ名前で呼べなくて、新しい名前もつけられなくて、そのまま別の大切な存在になってしまった新しいお友達。

この新しいお友達を撫でる度に、思い出すんだ。

あの日の君を。






『もしかして、君が恩人かもしれないって思ってさ』



ユーイが何でもないような笑顔でひっそり表した意図に全く気づかないまま、ロフィは図書館で借りた本を逆さまに開いてぼんやり物想いに耽るのだった。





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