個別の物語
澄んだ青の水面に映る、黒の鎧を纏う白騎士。
白く美しく、それでいて逞しい精悍な青年の上半身、それを支えるしなやかな曲線を描く白馬の身体。
凪いだ湖面の如く静そのものの表情をした彼は、暫くその場に佇んでいた。
森を吹き抜けていく涼やかな風に、絹糸のような白く長い髪が揺れて横顔に影を落としている。
……と、突然、彼は眉根を寄せて溜め息を吐き、漆黒の肩鎧を脱ぎ捨て木の根元に雑に放った。
革のアームカバーも一気に引き抜き、胴から足にかけての装備もさっさと全て外して後ろも見ずに放り投げる。
春から夏への緑深まる暖気に己のしなやかな白い裸身を晒し、水辺の空気を深く吸い込み、深呼吸を終えると、2、3歩後退する。
そして後退した空間分の勢いをつけ、先程まで完璧な騎士の姿が在った水面に水飛沫をあげて踏み込んでいく。
「……なんだ今の声?」
泉の中程まで進んで胸まで冷たい水に浸かった彼は、若干気の抜けた声で小さく呟いた。
「水面を鏡にする時はもっと下まで気をつけた方がいいんじゃないのかしら、お悩みの騎士さん?」
岸の方へ振り返るとそこには、水面に仰向けに浮かんでくすくす笑いながらこちらを上目で見る小さな何者かの姿があった。
驚きに目を瞬いていると、彼女は星空のような色をした二本の角の先の鋏をカチカチ鳴らして、仰向けのまま手足で水面を漕いで近づいてきた。
「物憂げな美人が水面を覗いてるなんて絵になるわぁと思って見てたら、急に全裸で飛び込んでくるんだもの。予想外すぎて2mは流れていっちゃったわ」
騎士が対応に迷いながら僅かに眉間を寄せ無言のまま眺めていれば、彼女は片手を水面から持ち上げてゆらゆら振る。手足の先はピンセットのようになっていた。
「ねぇねぇ、聞こえてる?
今、おまえも全裸じゃんって言っていいところよ」
ようやく我に帰った騎士は、表情を引き締めて声音を整え、目を瞑って答えた。
「……失礼、私の配慮が足りなかった。
以降、貴女のような水辺の方々の生活を邪魔しないと誓う。
私は目を瞑っているから、その間に離れ……はぁ?ちょ、お前どっこ乗ってんだ!?」
「あら、ちょうど上陸しやすい所なのに、駄目だった?」
「いきなり尻はやめろ尻は!……しまった」
背中に座って身体半分まで水に浸かって蟹の鋏を動かす彼女の楽しそうな笑顔を睨みつけた後、騎士は片手で口を覆った。
白い頰に赤みが差す。
「座り心地最高よ、実は荒っぽい騎士さん?
あなたの名前はなーぁに?」
彼女が悪戯っぽく問いかけて、長い睫毛に縁取られた大きな瞳を瞬かせる。
その声色には、新たな玩具を見つけた喜びが表れていた。
白馬の騎士は、眉尻を下げて肩を竦め、もう一度、今度は長い諦めの溜め息をついた。
その表情に、先程までの取り繕った静の色は無い。
急に表情豊かになった彼は、顔にかかった髪を横に払いながら投げやりな調子で呟く。
「……ラルフ」
「それっぽい名前ね。私はラピス。気侭な蟹のお姉さんよ」
半身浴のような浸かり具合で、夜空色の彼女は背中の上をすいすい行ったり来たりしている。
「なぁ、気侭な蟹のラピスさんとやら、首が疲れるんだが自分で浮いといてくれないか」
「気に入った場所からはなかなか退かないのがチャームポイントな蟹のお姉さんなの。声が聞こえれば問題ないじゃない」
「謎の蟹さんに背中くすぐられてる俺が落ち着かないんだよ。もしかして我儘な蟹のお姉さんの間違いじゃないのか?」
「そうとも言うわ、褒め言葉ね」
妖精に近い類はメンタルが頑丈すぎる。
ラルフには、素で喋るとついつい乗せられてしまう自覚があった。
「しかし素っ裸で騎士ぶるのはキツいな……」
背中側でパシャパシャ水面を叩いて遊ぶ気配を感じながら腕を組み呟く。
「あら、形から入るタイプ?
わたしもわたしも〜 ほらね」
きゅぽん。
音の正体を確認するため首を捻ると、謎の蟹さんの蟹たる証である鋏が取り外されていた。
鋏をとったあとの小さな頭には、別に折れた跡もない。つやつやのウェーブヘアだ。
「おま………なぁ、お前って何?」
「わたしが蟹だと思ってれば鋏がなくても蟹よ、いつから蟹だかは忘れちゃった。生まれた時から蟹かも。う~ん、でもね、ときどき足首生やして二足歩行するし、蟹は蟹でもスッゴイ蟹だと思うわ」
「スッゴイカニ……」
ラルフは空を仰いだ。
木々の隙間から、泉と同じ澄んだ青がのぞいている。
「蟹って、何なんだろうな……」
「蟹について考えるということは、自分は何なのか見つめ直すことよ」
初夏、泉、蟹との出逢い。
何かよく分からない転機がすぐそこまで迫っていた。
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