序章 謎の糸張る商店街





蜘蛛などいなさそうな所で、糸も何も見えないのに、蜘蛛の巣に引っかかった感覚がする。

そんな経験をしたことがあるだろうか。

存在が曖昧すぎてどんなに手を振り回しても掴めない、それなのにいつまでも絡みついていてすっきりしない、あの糸。

そうそうあちこちに張っているものではない。1週間に1回あるか無いかだ。

夜道に、路地に、電柱と塀の間に。階段の途中に。

引っかかっても捕食者は来ない。

ただ、暫く絡みついて取れなくて、ふと気がつくと自分に吸収してしまっているよううで、ちょっと怖い。




「本当に何なんだろ コレ」


有田 日和 25歳 会社員。

つい最近、睡眠時間延長のために前より職場の近くへと引っ越してきた彼女は、そんな謎の糸が見えるという、未だ嘗て役に立ったことがない特異な体質を持っていた。



飛蚊症の類いではありませんように。

日和は、休日に近所のパン屋への道中、目の前に斜めに張る半透明の糸を前に、ぼんやり考えていた。

この町に越してきてからというもの、これまで週1ペースだった謎の糸を、1日1本ペースで見かけている。

幻覚? 新種の蜘蛛の仕業? 網膜の異常? いいや、眼の検査は毎回良好。

試しに避けずに突っ込んでみる。

糸がふつっと切れて顔の横に靡いた感触があった。

体感から言って、肩まである自分の髪よりも長そうだ。

引っかかった額の辺りをぺたぺたと触る。とれない。

全然とれない。靡いた糸までわずかに後頭部にくっついたような気がする。

塀の上にいた白鳩が、日和の挙動不審な行動を見てバタバタ飛び立っていった。



謎の糸を取るのを諦めて、そよそよ靡かせながら商店街のパン屋に向かう。


「らっしゃっせー」

パン屋に着く直前、後ろから来た自転車に追い抜かされた。

先程の間延びした気怠げな若者らしい声は、通り過ぎざまにかけられたのだと、遅れて気づく。

自転車はすぐにパン屋「仔馬の夢」の脇道を曲がって店の裏手へ消えていった。



パン屋の匂いが好きだ。

遅くまで寝こけてから来ても、嗅いだ途端に食欲が覚醒してわくわくする。

ついつい予定より1個多くカトラリーにのせてカウンターに来たが、誰もいない。

背伸びしてカウンター奥の扉を見ていると、先程通り過ぎた青年がひょこっと顔を出した。

「姉貴ィ、オレきょうサークルの集まりで遅……あ?お客サンじゃねーの」

先程まで自転車の前籠に斜めに入っていたA4サイズのクリアケースを手にしたまま、どうやら学生らしき彼はカウンターへ出て来た。

彼は明るい茶髪につり目がちで、派手な柄のTシャツに、ジッパーがあちこちについている英字ロゴ入り黒パーカー。
ちょいワルとチャラ風味の中間といった感じの出で立ちながら、慣れた様子でパンを袋に包んでくれた。

「んだよ姉貴も親父も店ほったらかしやがって。あっ、スタンプカードありやすか?」

「あります」

「ゴアイコあざーっす。無料券まであと3個っす。おつかれっしたー」

「おつかれっした」

別におつかれっしてないことに気づいたのは、店を出てからだった。

ハンコの末尾に「爽馬」と暴れ気味の若さを感じる字で書かれたポイントカードを財布にしまって、帰路につく。パンの袋が秋の風でカサカサと鳴った。

白鳩が公園の柵にとまっている。さっきの鳩まだいたのか。

少し風が冷たくなってきた。歩きながら、クリームベージュのパーカーのチャックを上げる。

首元まで上げて、ふと前方を見遣ると、突如として目の前に黒色の糸が現れた。

糸の先が、そよそよと風にたなびいている。


ぴんと張っていないのが珍しくて、そーっと親指と人差し指でつまむ。



つまめた。



「おっ?」


日和にとってその糸は、触ればふつりと切れて空に漂うかまとわりついてくるものであり、捕まえたのは初めてだった。

不思議に思ってつんつん引っ張ってみると、手応えがある。

なにこれ。すごい。

さて、この糸はいったいどこに繋がってい、る、のか……


「……きみ」


好奇心に浮かされた子供のような気分は、視線の先をたどる内にかつてない戸惑いへと変わった。


黒色の糸を辿った先は、電柱でも路地でも曲がり角でも無かった。


すらりとした長身のシルエットに吸い込まれるように消えた糸の先で、肩越しにこちらを射る、光の無い黒の瞳。

顔に半分かかるような灰混じりの長い前髪の下、感情の読めない淡白な表情をのぞかせる初老の男は、低い声でゆっくりとこう問いかけた。


「 まさか《 見えている 》のか……?」



「……。…………。…………いえ」



日和は、暫く瞬きも出来ないまま硬直してしまった。

糸はついさっき驚いて離していた。

目的を失って不自然な形に差し出された手に、前方から流れてきた別の糸が絡みつきかける。しかし、それより先に通りすがりの赤トンボが指先にとまった。


日和はトンボの脚の感触ではっと我に帰った。


謎の男性に向け、左の人差し指を立てて唇に当てて見せると、赤トンボの目の前でぐるぐる円を描く。


ぐるぐる、ぐるぐる。ぐーるぐるぐる。


わずか1分の間が永遠に思われた。

すっかり目が回った赤トンボをはしっと捕まえる。

左手で赤トンボをつまんだ日和は、こちらを振り向いた姿勢のまま律儀に手にした杖をついて待っている男性に対し、にこりと笑顔をつくってお辞儀をする。


「お騒がせしました。それでは…」


足早に男性の横を通り過ぎ、公園の終わりの角を右に曲がる。

僅かに音がしたのでほんの少し様子を見ると、手にした木の杖を地面についた音らしかった。じっとこちらを見ているが、追ってくる様子は無い。


そして視線を感じない所まで来ると、ブロック塀の上にそっとトンボを置いた。

暫くして「えらい目に遭ったぜ」といった様子でふらふら飛んでいくトンボを見送った後、小さく呟く。


「ありがとう、うっかり一休みしてくれて」


あれはどう考えても関わってはいけない人だった。いや、そもそもお化けの類かもしれない。

例え糸の秘密を知っているとしてもだ。

私の直感が告げている、ありふれた平和な日常を送りたいなら、極力関わるなと。


「ま、そうそう会わないでしょ」


トンボを構っている間にひっそり絡みついた糸があったことに、日和は全く気がついていなかった____________






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