夢100部屋


 長い睫毛が白い頬に落とす繊細な影を、息を止めてじっと見つめていた。

 バルコニーから差し込む夕陽が、今の時刻を告げている。昼下がりにソファでうたた寝し始めてから、随分と眠っていたらしい。
 目覚めてすぐ視界に飛び込んできた寝顔、追って聞こえてきた穏やかな寝息に驚いて、それから暫し思考が止まった。ようやく状況を理解した頃、眠るアキトさんの膝に一冊の本が置かれていることに気がついた。中ほどのページからのぞく栞が、隣で眠るまでの彼の様子を物語っている。
「(アキトさん……)」
 彼が私のうたた寝に気づいてから隣で眠るまでの光景を頭の中でなぞり描くと、じわじわと頬に熱が上っていく。眠気よ、さらば。
 何はともあれ、気配に敏いアキトさんの寝顔を見る機会は少ない。可能な限り息を止めて目に焼き付ける。そして、名残惜しく思いながらも、悟られないようにそろりと立ち上がる。今日はこれから、もう一つの使命があるから。

 足音を殺してキッチンへと滑り込み、材料の最終チェックを開始する。ジャガイモ、人参、玉ねぎ、豚肉……。それから、カレーのルウ。昼間、二人で買ってきた具材たちだ。ジャガイモを洗うため、ボウルに水を張っていた、そのとき。ふと、流しに映る影が増えていることに気がついた。
「アキトさん、おはようございます」
 たぶん、気配を出し忘れている。まだ少し眠たげな様子で、ぼんやり斜め後ろ、付かず離れずの位置に寄り添い佇んでいる彼の姿には、まるで穏やかな大きい猫のような愛おしさをおぼえた。
 隠れ家にいる時の、アキトさんのシルエットは、いつもより細長い。普段の裾や袖のたっぷりした優雅で神秘的な出立ちも素敵だが、ブラウン基調の落ち着いた部屋着アキトさんはそのぶん素の美しさ凛々しさが際立って、クローゼットから持参してきたエプロンを背中で結ぶ姿はキッチンに降り立つ料理の神を思わせる。
「おはようございます」
 エプロンを結び終えた料理の神が、背筋を伸ばしてきりりと佇まいを正した。違うんです料理の神様。あなたにはまだ休んでいてほしかったんですよ。
 でも、こうなることは、立ち上がった時点でもう確信していた。アキトさんは、私が起こさないようにこっそり行ったことまで悟って、意思を汲み取った上で、意思を尊重して少しゆっくりしてからしっかり起きてくる。ここまで読みは完璧だ。
 読みが当たったので、アキトさんが美味しそうなカレーの香りで目を覚ましてお腹が鳴るサプライズコースはやむなく路線変更。これより先、一緒にカレーを作る方向へ参ります。
「ゆっくり眠ってほしくて、先に始めちゃいました」
 満杯になった水を止めてから弁明をしていると、彼は隣で受け止め、柔らかく微笑む。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが……私も貴方に、手料理を食べていただきたいのです」
「……アキトさん」
 ゆったりと落ち着いた声は、いつでもあたたかい気持ちをくれた。返事の代わりに笑顔を交わすと、かたや私はジャガイモを、アキトさんは人参を手にとって準備に取り掛かる。
 注意深く芋の皮を剥いている合間に手を止めてふと横を向けば、アキトさんが何やら、真剣な表情で人参に謎の切り込みを入れている。
 一個剥き終わったところで気になって再び見る。すると、彼が包丁の刃を入れる度、その手元から丸みを帯びた可愛らしい花形の人参がひとひらひとひら、作り出されていた。三個目の芋を剥き終える頃には、たくさんの花人参と、光の煌めきのように細かくカットされた切れ込み部分。手元に、一つの花畑が完成していた。

 私は、集中している時のアキトさんが好きだ。

 普段向けてくれる微笑みとは違い、鋭く冴え渡る澄んだ美しさをたたえている。出来を確かめている横顔にこっそり見惚れていると、視線に気づいた彼がはっと我に帰って顔を上げ、眉尻を下げてはにかんだ。
「集中するとどうにも無言になってしまうようです。貴方との時間を、もっと楽しみたいのに……」
「とんでもありません。私の方こそ、楽しんでばかりでなかなか進まなくて」
 慌ててそこまで答えてから、小首を傾げたアキトさんを見て口を手で覆った。これではジャガイモの皮剥きが楽しくて一個剥くたび悦に浸る人になってしまう。開き直って、正直に白状しよう。
「その……私、集中している時のアキトさんの様子を見るのが、大好きなんです。だから、いつも、切り絵をしている時や本を読んでいる横顔をそっと見ていて。今日は、こんなに近くで見られたのが嬉しくて、はしゃいでしまいました」
 俯いて白状し、ちらりと目線を上げ反応をうかがう。
 彼は、何度か目を瞬かせ、それからふわりと花が綻ぶような笑顔を浮かべた。頬がわずかに赤い。
「我を忘れて没頭してしまうこと、子どもみたいだと恥ずかしく思っていました。
 そんな一面まで愛していただけるとは……浮かれてしまいます。……困りました、表情が元に戻りません」
 幸せそうな困り笑いで声に茶目っ気を混じえて呟く姿が、とても可愛らしい。
 今日は、微笑ましいアキトさんの姿をたくさん見ることが出来て、嬉しいな。

 下準備の済んだ具材がそれぞれ、ボウルに山となって積み上がった。
「……」
「アキトさん?」
 さぁ炒めるぞと言う場面まで来て、もりもり具材山を瞬きしながら見るアキトさんの視線を追い、気づいた。野菜をごっそり出して、大きなジャガイモを五個剥いた時点で気がつくべきだった。
「あぁ! すみません! 具沢山にしすぎました」
 心ゆくまで食べたくて、普通の二倍は具材を入れる癖が出てしまった。せっかく綺麗な花形人参を作ってもらったのに、優美から程遠いカレーになってしまう。せめて人参を上に散りばめようと反省していると、小さな笑い声と、優しい声が耳に届く。
「私の方こそ驚いてしまって、……いえ……」
 そこまで言って、アキトさんはわずかに首を傾け、暫し己の考えを言葉にまとめる時間に入った。

 私は、思いを言葉にしようと考えているアキトさんが好きだ。

 以前は言い淀んだあと、そのまま「何でもありません……忘れてください」とすぐに諦めて憂いのまま去ってしまった。その後ろ姿を何度となく追いかけて止め、間に合わなかった晩には頭を抱えて後悔していたから。
 長い時は数分かかる、この時間を取ってくれることが嬉しい。言葉の力は偉大だと、自身も想いを言葉にして伝えていきたいと、かつて語ってくれたことを、誠心誠意実行してくれる、その為のこの時間が好……あっ、待って。しみじみ思い出に浸りながら見つめていたら、アキトさんの左手はその間にも手早く鍋を火にかけて肉から順番に炒め始めている。素早い。早くサポートに回らないと。
 右往左往した末に鍋の中を覗く。油が行き渡ってそろそろ煮込み始めてよさそうな様子をこの目で確かめた時、頭上で小さく笑う声が聞こえた。
 顔を上げれば、お玉一本分ほどの近さでアキトさんと目が合う。
 彼がわずかに背を屈めて瞳を覗き込むと、一房だけ束ねている長い髪がさらりと揺れた。
「……何だか、貴方と出会った頃を思い出して、懐かしく温かい気持ちになりました」
 そこまでで一度言葉を切ると、アキトさんはあらかじめ計ってあった規定量の水を鍋に注ぎ、残りの具材もすっかり投入して煮込み体制へと移してしまう。
 言葉の先を待つより他になくなり、じっと見上げる。コトコトと盛り上がり始めたカレーの具材たちをBGMに、アキトさんは一度伏せた目を穏やかに細く開け、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「貴方と出会った頃、私は……先を憂いてばかりで、自分の生活は二の次でした」
 いま動かなくては、もっと願いから遠ざかってしまう。愛される花になることを切望していた頃、彼は確かにいつも言いようのない焦燥に駆られ、そして何処か諦めていた。
 それはほんの少し傍で過ごした自分にも感じられた。
「眠ることも、食べることも、必要最低限の時が多かったように思います。貴方へと全てを打ち明けてからも、今度は隣に立つ資格が無いと悩んでは、目の前の生活を疎かにしていました」
 ふと、お玉を手に取ったアキトさんが浮いてきたアクを掬い集める。盛り上がりをみせていた鍋のコーラスは、アクを掬いきって一度静かになった。
 いつだっただろう。彼が本来、とても生活力が高いのだと気づいたのは。今もタイミングが抜群で、本当に料理の神かも。
「眠っても、先を憂いているから嫌な夢を見る。食べようにも、胸の中で不安がつかえている。そんな折、中庭のベンチで眠る貴方を見つけました」
「アキトさん……」
 当時の、今にも儚く散ってしまいそうな姿を思い返して胸が痛む。
 ひたむきな性格の彼だからこそ、立ち塞がる壁から目を逸らせなかったのだろう。
「曼珠沙華のそばで幸せそうに眠る貴方を、私は長らく息をひそめて見つめていました。……その後、貴方が起きる前にその場を去りました。直接許しを請う勇気がなかったのです。それからは、眠る前にいつもその時の貴方の様子を思い浮かべるようになりました。勝手に見つめ思い描いていたことを、お許しください」
「そんな……そんなお役に立てていたなんて。むしろ、この上なく嬉しいです。これからもよく眠ってください」
 鍋が再びコトコトと速い音を立てている。まるで、寝る前にずっと想われていたことに、遅れて速まってきた鼓動と呼応しているよう。
「……あ! 今日、キッチンへ来る前に私もアキトさんの寝顔を見つめていました。私も目に焼き付けましたから、これでおあいこですね」
 あの時の美しい寝顔と、本を読むつもりで寝てしまった様子のが分かる様子を鮮明に思い出すと、自然と頬が緩む。
「おや、見ていたのですか。貴方には敵いませんね。懺悔のつもりが、また幸せをもらっている。そのうえ……治していただいた生活面での悪い癖が、まだあと二つあるのです」
 陽気に盛り上がり続ける鍋を、先ほど受け取ったお玉を手にゆっくりかき混ぜて落ち着かせながら、耳を傾ける。
「ひとつが、食事。貴方とご一緒する機会がある度……食事は幸せで心休まるものなのだと、思い出していきました。ですからこうして、一緒にたくさん作って、食べたいと思える。私は今、幸せなのだと実感しています」
「アキトさん……」
 万感を込めて、名を呟く。
 出会ってすぐの頃は、明らかに無理をして心労を抱え込んでいる彼が心配で心配で、呟いていた。今ではすっかり癖となって、本人がその場にいない時もぽつりと溢れている。
「……3つ目は、それなのです」
「! どれですか?」
 突然すぎて何か聞き逃したかと焦り、意味なくきょろきょろと辺りを見回す。くすっと笑ったアキトさんに、後ろから、ふわりと腕を回して包み込まれる。ゆるく抱き締められると、右の頬を彼の柔らかな髪がくすぐる。落ち着いた低い声と、体温と鼓動が直に伝わってきた。
「……貴方は以前からよく、思いを込めて私の名を呼んでくれました。そこには、言いたくても言えないこと、聞けないこと、心配、それから温かい愛情……さまざまな思いが、滲んでいました。焦って無理をしそうになった時、私の心の内に残った貴方の呼び声が、貴方の思いやりが、私を止めてくれるのです……」
 背中が温かくて、鍋の湯気も温かくて、心までぽかぽかと温かくて。のぼせてしまいそう。鍋の盛り上がりも最高潮で、手を伸ばして、カチリといったん火を止める。
 くるりと背後のアキトさんへ向き直って、腕を回して、ぎゅっと抱き締め返す。
「あ」
「どうしました?」
「すみません。すごくすごく嬉しくて、つい抱きついちゃったんですが……タマネギを切ったから、アキトさんの背中までタマネギの匂いにしてしまいます」
「……」
 すると、彼は何度か目を瞬かせた。そしてなんと、左手で私の右手をそっと捕まえ、おもむろに梁のまっすぐ通った鼻へと近づけて香りを吟味し始める。
「アキトさん!?」
 仰天する私と対照的に、彼はいたって真面目だ。逆に、私が仰天したことに対してちょっと慌てている様子。
「タマネギと貴方の香りが混ざった香りを覚えておきたくて……駄目、でしたか?」
 しゅんと俯いているが、このアキトさんはたぶん、駄目とは言われないことをもう分かっている。タマネギの匂いに染まった指先まで愛しく思ってもらえるなんて、嬉しくないわけがないけれど、やっぱりちょっと驚きが強い。花の精として香りは特別なのか、それともアキトさんの天然だろうか。……でも待って。私もタマネギの匂いになったアキトさんの指先は、嗅ぎたい……かも。

 返事の代わりに指先を預けると、柔らかな感触が押し当てられる。
 キスが降ってきたのだと理解するまで3秒かかった。
「タマネギの味がしますよ」
「ふふ……少し、しました。洗ってもなかなか落ちないものですね」
 今日のアキトさんは、いつもよりお茶目だ。

 お互い、まだ知らない部分がたくさんある。知れば知るほど、好きになっていく。カレー鍋の出来上がりも、これからの毎日も、コクが増して美味しくなっていくはず。
 たっぷりの具材にたっぷりのルウを溶かし、美味しいカレーの香りに包まれて、隠れ家で過ごす二人きりの温かな夜は更けていった。
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