幻紅葉


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「西日の彼方であなたを思いましょう。あなたの世界が楽園でないのなら、どうか私に手助けをさせてください。ここは楽園です。あなたの苦しむ心はこの楽園でのみ清らかに癒されるでしょう」

「それが、詠唱?」

「そうだ」

中庭の長椅子に座ったまま、キールドは静かにブルーの作り出した詠唱を呟いた。

教えてほしいと請うたのはシェイリーだ。

「なんだか…まるで地獄から救い出してくれるみたいな詠唱ですね」

「ああ。癖があるから万人を呼び出せるものではないだろう」

「特定の?」

「そういうことになるな」

魔法陣ひとつに対して、詠唱は最初に定められたものから変えることは出来ない。

ブルーの作り出した詠唱は激しく偏った代物で、彼の言う通り生命体でない物質を呼び出そうとしても失敗することは明白だった。

だが生命体なら大丈夫というものでもない。

何かが引っ掛かる。

それが何なのか発覚させる為の決定的なものが欠けているが。

「いっそのこと“出てこい宇宙人”くらいの単純な詠唱にしとけばいいもんを」

愚痴りながら頭を掻けば、隣から遠慮のない笑い声が響き渡った。

「そんなに簡単な詠唱で済むなら誰でもすぐに魔法陣を操れますね」

「今回に限っては、そうあってほしかったよ。何でこんな詠唱を思い付いたか…」

魔法陣を動かす為の詠唱は、最初に限りふわりと頭に浮かぶものだ。ブルーが考え抜いた末の詠唱というわけでなく、それが頭に浮かんで口にしたはずだ。

そして詠唱と魔法陣に呼び出されたのは、瀕死状態の女の子だった。

突然の召喚に気絶する生命体は勿論いるが、モミジに限ってはそこに当てはまらない。

それこそ、詠唱の通り苦しむ生命体が楽園を求めるようにこちらに訪れたと言えるだろう。

「…苦しむ生命体?」

「どうかしました?」

「いや…あの詠唱は…」

あと少しで何かがわかりそうな。

いったい何だ。

隣にシェイリーがいることも忘れて思考の渦に没頭しようとした瞬間、己の魔力が他方で反応したことに気付いた。

「---!?」

「先生?」

思わず立ち上がり、辺りを見回してしまう。

不安そうにシェイリーも立ち上がり、様子を気にするように見上げてきて。

「…あの子に付けた俺の護衛玉が作動した」

「なんですって!?」

モミジに万が一危害が及ばないようにキールドが術式を組み合わせて作り出した護衛玉が、モミジが休んでいるはずの部屋以外で。

移動したのか?勝手に?

「先生!」

「黙ってろ!場所を確認する!」

焦るシェイリーを静かにさせて、自分の魔力を辿る。

どこだ?

学園中に意識を飛ばし、ようやく見つけた場所は。

「--学園長室だ!!」

言うと同時にキールドは走り出した。

「待ってください!」

後ろにシェイリーもついて走り、2人で急ぎ。

学園長達はモミジの件についての会議を開いており、学園長室には誰もいないはずで。

なら何故そこにモミジがいるのか。

--駄目だ、今はとにかく急げ

考えるのはモミジの無事を確認してからでいいと、キールドは全力で走り続けた。

あの角を曲がりさえすれば、学園長室はすぐで。

「--いやあああぁぁぁぁっ!!!」

甲高い女の悲鳴が聞こえてきたのは、キールドが角を曲がってすぐの時だった。

聞き覚えのある声。

それはノイエのものだ。

わずかに遅れているシェイリーを放置して先に学園長室に飛び込み、さらにその奥の部屋に足を踏み込んだキールドは、あまりの光景に絶句してしまった。

何だこれは。

有り得ない光景が、目前に広がる。

「--キールド先生!」

「来るな!!」

後ろからようやく辿り着いたシェイリーが中に入ろうとして、彼女も教諭の立場であることを忘れて止めてしまった。

「ひっ…」

しかし、シェイリーもその光景を見てしまう。

室内に充満するのは噎せ返るような重くえぐみのある血の匂い。

壁際ではグランツは呆然と、ノイエは完全に腰を抜かしてそれを眺めることしか出来ない様子だった。

モミジには護衛玉が発動しているが、目隠しになっているわけではなく、キールドの見ている中でぺたりとしりもちをつく。

モミジは護衛玉のおかげで“汚れ”てはいない。だがグランツとノイエはもろに浴びていた。

しかし2人よりも酷いのはブルーだ。

全身が赤い。

赤く染まったまま人形のように立ち尽くし、彼が目線を落とす魔法陣の上には。

胸の上から無理矢理ちぎり取られたような両腕から頭の無い無惨な女。女だとわかった理由は、その下腹部が一目で妊婦とわかる腹をしていたからだ。

だらりと力無く開かれた股からはみ出していたのは、逆子だったのだろう、胎児の片足だった。

「…先せ…」

呆然と立ち尽くすキールドに気付いたように、ブルーの頭が動いてこちらを向く。

若さゆえの過ちと言ってやるには悲惨すぎる地獄絵図が、そこには広がっていた。


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胎児は、その段階ではぎりぎり生きていた。

異変に気付いた他の教諭達も集まり、ブルー達をその場から離して。

モミジにはシェイリーがついて、パニックに陥った彼女をあやしていた。

血に汚れたブルー達は他の生徒の目に入らないように教諭達の使う入浴施設に連れていかれ、ブルーとグランツには男性教諭が4名、ノイエには女性教諭が2名ついた。

キールドは学園長達と共に現場の確認に回され、ぴくりと動いた胎児の足に誰かが気付き、やむ終えず女の遺体を切り裂いて胎児を救出して。

破水していたので、恐らく出産の途中だったのだろう。

腹から出された胎児はキールド達の介抱も虚しく、結局その夜のうちに母親の元へと旅立ってしまった。

夜が明けてもブルー達は状況を話せる状態ではなく、詳しくはわからないまま話し合いは始まり。

物質だから失敗した。生命体ならば成功したはずだと宣言していたブルーが勝手に実行に移したということで動機は定まり、次に話し合われたのは、ブルーをどうするかという事だった。

退学にするべきか否か。

だがこれも、答えはすぐに出された。

ブルーを退学になど、そちらの方が危険すぎる。

グランツとノイエも“見て”しまったのだ。退学にはできなかった。こちらには無期限の謹慎と学園への無償労働が言い渡される事が決まったが、ブルーは。



「特殊魔術学科?」

「ああ。ブルーの魔力は強すぎる。思想も少し危うかったからな。以前からその話は出ていたんだが、今回の件で確定になった」

ブルーは天才ではない。その一点が彼を普通の魔術学科に留めていたのだ。だがその枷は外れてしまった。

「まだ状況も聞けていないのにですか」

「仕方無いだろう。俺も賛成した」

「そんな!」

あの夜も共にいた中庭の一角で、キールドはシェイリーに強く睨み付けられてしまった。

あれから2日。

モミジは何とか落ち着きを取り戻してきたと聞いたが、ブルー達はそうではなかった。

グランツは寮に返されたが、当時の話を聞こうとすると吐き気をもよおし話にならない。ノイエは精神の揺れ幅がひどく、未だに医務室だ。

ブルーは呆然としたまま、意識はあるが対話力が曖昧で。

曖昧なまま、特殊魔術学科への転科が告げられた。

特殊魔術学科は文字通り、普通とは異なる魔術師の卵達が集まる学科だ。

キールドもいくつか授業を請け負っているが、そこの生徒達は、異常な思考を持つ者があまりにも多い。

異常であることは確実で、だが何かしたわけではないので捕らえることも出来ない。

そんな者達が集まる学科にブルーを入れることをシェイリーは強く非難するが、ブルーはもう戻れないところまで来てしまったのだ。

状況からしても、ブルーは人を殺した。

殺したくて殺したのではなく、救いたかったのに殺してしまったのだ。その血を浴びて、普通でいられるとは思えなかった。

「…こればかりはどうしようもない。…だがブルーのおかげで、わかった事もいくつかある」

「…どういうこと?」

シェイリーは未だに剣呑な眼差しをキールドに向けるが、とりあえずは怒りを堪えてくれる。

「魔法陣についてだ。生命体ならば可能というわけでなく、生命体の、さらに限られた存在しか無事には召喚されないのだろう」

「…詠唱のように?」

「ああ」

ブルーが口にした詠唱は、まるで救いを求める存在に希望を示すようなものだった。

救いを求める存在、すなわち。

「…恐らくあの魔法陣は、半死半生の生命体だけを召喚してくれる」

だからそれ以外は。

「…でも母親と赤ちゃんは」

「母親は死にかけてなんかいなかった。死にかけてたのは赤子の方だ。魔法陣は赤子に反応して、赤子を呼び寄せた。まだ母親の腹にいる状況でな」

そこまで言えばシェイリーにも理解できたらしく、頬が青ざめる様子を目にする。

母親は胎児とへその緒で繋がっていたから、こちらに連れてこられた。だが半死半生でないが故に、移動途中で魔力の保護を受けられずに身体が引きちぎられてしまった。

キールドがブルーに怒鳴ったように、真っ二つになってしまったのだ。

「赤子は結局死んじまったが…同じ見た目だとしても異星の生命体だ。俺達にはどうしようもなかった」

モミジは運がよかった。助けられる状況だったから。

「…待ってください…じゃあ半死半生でこちらに来るということは…」

「…ああ」

そしてシェイリーは気付いたようだった。

魔法陣は半死半生の者だけを通す。ということは。

「…あの子を元の星に帰してやるには、瀕死にする必要がある」

「駄目よ!!」

「早まるな。俺だってやりたくない。それに瀕死にして、無事に帰れる保証も無いんだ」

キールドはそう口にしたが、シェイリーは疑いの眼差しを消すつもりはない様子だった。

下手をすると、面会も拒まれてしまいそうだ。

「あの子は今はどうしてる?」

「だいぶ落ち着いていますけど…帰りたいと口にはしなくなりました」

「…だが、母親を求めている、か」

小さく頷かれて、ため息が漏れた。

モミジの話を聞く限りは、ブルー達はモミジを家に帰す為に強行手段に出たという事だった。

モミジも帰路に近付くと胸が弾んだ事だろう。

「…帰すことは出来ないが…」

「…何ですか?」

言おうとした言葉を途中で止めてしまい、続けるよう促される。

少し思考の中で吟味してから、キールドはようやくそれを告げた。

「まだ帰ることは出来ないが、わずかな時間だけなら、魔法陣を使って向こうの星に意識だけを飛ばすことは出来るはずだ」

キールドを含めたこの学園中の魔術師が集まり高度な術式を組めば、だが。

モミジは母親をひどく心配していた。まだ帰れないにしても、母親の現状を見ることができたら。

「…反対です。もし母親がとても落ち込んでしまっていたら、あの子も心に傷を負うわ」

「…それでも、一応話してみてくれないか?あの子が拒むなら、しなければいいだけの事だ」

「……」

「俺達があの子に今してやれる唯一の償いだ。頼む」

シェイリーは顔を背けたまま聞き流そうとする。

「シェイリー」

その両肩を掴んで、説得の為に少しだけ力を込めた。

「…わかりました。離してください」

ようやく頷いてはくれるが、身体では拒絶されて。

シェイリーが頑なになる理由なら、この学園の中ではキールドが最も理解しているだろう。

それでも。

「…お前じゃ彼女の母親にはなれないんだ」

言葉の後、渾身の平手打ちがキールドの左頬に見事に命中した。

「っ…わかってるわよ!!」

打たれて痛いのはキールドのはずなのに、痛みに涙を流すのはシェイリーだ。

キールドの頬を打った手のひらが痛いわけではない。

指摘された言葉が、シェイリーの心を深くえぐったのだ。

ボロボロと大粒の涙を流したシェイリーが、涙を拭くこともなく強く唇を噛んで背中を向け、走り去ってしまう。

後を追うことなどキールドには出来ない。

後を追える関係は、既に終わってしまっているのだから。

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