雪の消える朝に
その出会いは、彼が生前に悪事を働いた亡者共を地獄に送り届けた後の事だった。
雪が積もり始めた初冬の山。
その遥か上空を、炎を身に纏った青年が柔らかく降る雪を溶かしながら飛び進んで行く。
緋色の着物を纏い、長い髪は炎のように風に揺られながらなびいて。
瞳も、伸ばされた爪も全てが赤く、肌だけは日に焼けたかのような褐色だった。
悪行を好んだ魂を地獄へと送る火車の一族、緋翼。
いつもは寄り道などせずに帰る緋翼だが、初雪が降り始めた事を知り、気まぐれに山へと飛び来たのだ。
しかし炎を纏う彼は、雪山に降りることは許されない。炎の熱さに雪が溶けてしまうからだ。
よく耳にする雪の冷たさに恋しさに似た思いを抱きながら、緋翼は眼下に広がる積もり続ける雪の白さに魅入った。
時に命すら奪う雪ではあるが、美しいと素直に思う。
火車の一族には触れられぬ白に、いつか触れられるのだろうか。そんな夢のような思いに囚われながら果てしなく続くかのような山を見回した緋翼は、ふいに聞こえてきた幼い悲鳴に顔を上げた。
「――…子供か?」
同時に聞こえてきた、男達の罵声。
少し雪山に近付いて目を凝らせば、まだ完全に雪に被われていない木々の間に数人の人影を見つけ、そこに目を懲らした。
山を進むのは人間の男達で、いずれも防寒衣を纏い、物騒な農具を構えながら何かを追っている。
鹿か、ウサギか。
冬の食料調達だろうかと空から獲物を探した緋翼は、見つけた血濡れの幼児に目を疑った。
白い着物を真っ赤に染めて、山奥へと逃げる幼い娘。
年頃はまだ五つにも満たないほどの。
男達はいずれも、逃げるその娘を鬼気迫る様子で追い回している。
「愚かな!」
しかし緋翼もすぐに気付いた。
その幼児が人ではないことを。
雪山に生きる聖霊だ。
人共からは妖怪‘雪女’と呼ばれる、冬の守り神。
雪山を守る彼女を殺せば、この山の生命達は厳しい冬を生き延びることは出来ないというのに。
緋翼は小さく舌打ちをすると男達の真上へと一気に飛び、両の手を一番娘に近い男に向けた。
男の持った鋭い農具が娘を貫くよりわずかに早く、緋翼の放った炎が男を包んだ。
炎が男を焼いたのは一瞬で、すぐに消えてしまう。焼かれた男はその出来事に呆然と自身の体をぐるりと確認し、やがて天空の緋翼に気付いた。
「去れ、人間よ」
炎は威嚇だ。だがまだ冬の娘を狙うなら今度こそ地獄に連れて行く。
多くは語らずとも、緋翼のその存在とわずかの言葉だけで男達は腰を抜かし、喉を絞るような悲鳴を上げた。
そして手にしていた農具を捨てて我先にと山を下りていく。
耳を疑うほどの悲鳴がしばし続き、少ししてからようやく元の静寂が辺りを包み込んだ。
あの程度の炎なら何ら影響は無いはずだと庇った冬の娘を探せば雪の上に出来た血の軌跡に気付き、緋翼はその後を追って娘を探す。
遠くにはいないはずだと目を凝らせば、白い肌と髪も血に濡れ、苦しそうに腹を押さえて木の隣に座り込んでいる所を見つける。
「大丈――」
「――それいじょうは…」
腹を貫かれたらしく苦痛に身を震わせる娘に近付こうとするが、言葉を止められて。
「かしゃさま…たすけていただいて、かんしゃしております…ですが、どうかそれいじょうは…」
幼い口調で必死に願う姿に、自分が炎を纏った火車であることを思い出した。
近づけば、雪の子は溶けて消える。
「…誰か呼んでこよう。そのままでは貴女の命が危ない」
「ごしんぱいにはおよびません…わたしはうまれたばかり…ゆきがもっとやまをつつめば、わたしのちからももどります」
離れた場所で顔を上げて、苦しげながらも笑顔を向けられる。
その凛とした美しさに、緋翼は知らず魅入ってしまった。
「どうか、いまはこのばしょをはなれてください…うまれたばかりのわたしに、あなたさまのぬくもりは…」
弱々しい声に、緋翼は唇を噛む。
弱り切った聖霊を治す事が出来ないからだ。
「…では、雪が積もりきった頃に、また来てもいいだろうか?」
せめて、彼女から離れた空からでもいいから、無事を確認したくて。
緋翼の言葉に、また微笑みは返される。
灰色の空。吹雪の勢いは少しずつ増し始めていた。
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深手を負った雪の子と別れてから、数日が過ぎようとしていた。
冬の山、雪は瞬く間に全てを白に包み、もう大丈夫だろうか、あと少しは我慢するべきだろうかと緋翼は幼い娘に逢いに行きたい衝動に駆られ続けていた。
瞼の裏に焼き付いた娘の微笑み。
その身体に触れたら、どうなってしまうのだろうか。
彼女が、ではなくて、緋翼が。
冷たい雪に触れてみたかった思いとよく似た、焦がれるような。
だが何かが違う。
雪に見た思いとは違う、欲望じみた何か。
「…もう傷は塞がっただろう…」
自分に言い聞かせるように呟き、緋翼は灼熱の故郷を静かに離れた。
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雲の上の夜空は満天の星の輝きを緋翼に見せつける。
果てしなく続く美しさに、しかし緋翼は見向きもしない。
今までなら魅入っていた美しさだというのに、心が他方を向いているせいで魅入る時間すら惜しかった。
ただ、彼女の元へ。
一刻も早く無事を確認したかった。
火の粉を軌跡に残しながら飛び続け、辿りつく雪山。
数日前よりも一段と積もった雪に、安堵の溜め息が零れた。
一面の雪景色に飲み込まれてしまいそうな畏れすら胸に抱く。
だがどれだけ積もったとしても、緋翼が近づきすぎれば溶けてしまう脆さも雪の一面だ。
雪に影響しない程度に離れた上空から彼女を捜す。
男達が捨てていった農具も、もう雪に深く埋まっているはずだ。
なら彼女は?
あまりにも静かすぎる山は、まるで死に絶えたかのようにも感じられて、ぞっと背筋に悪寒が走る。
娘に促されるままに助けを呼ばなかったが、それははたして正解だったのか?
「--火車様…」
声が響いたのは、そんな時だった。
彼女によく似た、しかし少し大人びたような声。
声の方に吸い寄せられるように身体をそちらへ向ければ、ようやく見つけた。
逢いたかった彼女がいてくれた。
しかし姿が違う。
成長した、というべきなのだろうか。
「先日は助けていただき、ありがとうございました」
雪山にぽつりと浮かぶ、白い娘。
最初に見た頃のような幼児ではなく、美しく成長した娘だった。
雪のように白い髪と白い肌。瞳だけは厚い雲を思わせる灰色をして。
「…驚いた。まさか数日でここまで美しくなるとは」
「御冗談を…」
遠く離れた場所から、見下ろして、見上げて。
軽口は叩けても、頬を少し朱に色付かせながらはにかむ娘をただ魅入ることしかできなかった。
聞きたいことはいくつもあった。
なのに、言葉に出来ない。
「あの…火車様?」
見つめられ続けて恥ずかしくなったのか、一瞬視線を落とした娘は決心を決めたかのように緋翼を呼ぶ。
「あ、ああ」
「御礼をしたいのですが…私が造るものは、どうしても溶けてしまいそうなのです。それで、何か私に出来ることがあれば…」
どうやら娘も、この数日はずっと緋翼の事を考えていたようだ。
娘の贈り物は、どうしても炎に溶けてしまう。
そっと手を合わせて緋翼を見上げながら、娘は申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
「本当に感謝しております。あのままでは、私はこの山を殺してしまうところでした」
「…助かったのだ。そこまで考えなくても構わない。健やかにいてくれたらそれで」
その健気な姿に自然と頬が緩むのを感じ、緋翼は笑顔が零れるままに娘に話す。
「それでは私の気持ちが治まりません」
しかし娘は真剣な眼差しでそう言い返し、どうか、と願い出た。
真面目な姿に苦笑して、緋翼はそれなら、と言葉に甘えて知りたかった事の一つを尋ねる。
「なら…」
夢にまで出てきた娘。
その身を案じて、夜も眠れなかった。
「…貴女の名前を教えてほしい」
「……名前、ですか?」
考えもしていなかったのか、娘はその願いにキョトンと目を丸めた。
だが緋翼が小さく頷くのを見て、
「粉雪、と申します」
伝えられる、娘の名前。
「粉雪か…私は緋翼だ。次からは‘火車様’ではなくそう呼んでおくれ」
「え…」
このまま別れるのはどうしても嫌だった。
再度目を丸くした粉雪に、緋翼はただ静かに、優しく微笑んだ。
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「…粉雪」
誰もいない場所でぽつりと呟いた名前。
美しく成長していた雪の娘は、身体に傷一つ残らなかったと話してくれた。
それは何よりも安堵すべき事だ。
彼女の身体に傷が残るということは雪山にも傷がつくということなのだから。
冬の雪山に抱かれて眠る生命達の揺りかごである粉雪。
無事を確認出来ただけでよかった…はずなのだ。
なのに、また逢いに行く約束を無理矢理した。
驚いた表情を覚えている。
その後に、嬉しげに笑う表情も。
近づけばどうなるかわかっているはずなのに。
触れられない娘に、緋翼は恋をした。
正確には、自分の胸に灯った恋心を理解した。
遠目からでもわかる細い身体。
緋翼は脳裏に彼女を思い起こすと、壊れないようにそっと抱きしめた。
脳裏の彼女は緋翼に抱きしめられ、頬を朱に染めて答えを返してくれる。
そっと緋翼の背に腕を回して。
「…」
そこまで考えて、緋翼は自嘲の笑みを浮かべた。
そんなこと有り得ないのに。
触れられないのだ。
炎と雪。
正反対の種族。
緋翼の願いは叶わない。
それでも…逢いたいという気持ちを抑え切る事など出来ない。
ぎりぎりの限界線まで近くで、彼女といたい。
惹かれてしまったのだ。
愛してしまった。
そう自覚できるほどに焦がれる自分がいる。
「…粉、雪」
彼女を連れてくることなど出来ない、熱い故郷の赤い空。
炎の雲に、溶岩の雨。
自身も灼熱に抱かれ育ちながら、愛したのは幻のような粉雪。
--もう、考えないようにしよう
悲観ばかりでは何も始まらない。
次の仕事の後にまた逢いに行く。
せめて、彼女を苦しめない贈り物をと考えながら。
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何故だろう、そう自分に尋ねてみる。
‘もののけ’ ‘雪女’
人間にそう呼ばれて追いかけられ、背後から貫かれて傷ついた自分を助けてくれたのは、強い力を持つ火車の一族の男性だった。
雪が山に積もり始め、ようやく生まれたばかりの自分を救ってくれた彼に、敬意以上の思いが胸に有る気がする。
近づかれては危険だと本能が告げるのに。
雪山は強すぎる炎を受け入れない。
彼だけなら少しは近づけるが、それでも雪山に降り立つことは叶わない。
救いの礼を求めたら、名前を尋ねられた。
粉雪、そう答えると、彼も名を教えてくれた。
「緋翼様…」
緋色の翼。
空を飛ぶ彼は、確かに名前の通りの姿をしていた。
炎によく似た髪を風になびかせて空を舞う姿は、本当に緋色の翼を羽ばたかせているようだった。
その火の粉は雪山に落ちる前に消えてなくなるが、温もりは届くようで。
有り得ない他者の温もりに、胸が締め付けられた。
しかしそれが恐ろしくて、粉雪は自らを抱きしめる。
冷たい身体。冬の化身。
この雪山に眠る全ての生命の揺りかご。
生命を守り抜く事が使命。
その為に生まれてきたのだ。
それでも…彼がもう一度来てくれると口にした約束を、待ちたい。
初めての出会いは、傷の痛みもあり、炎の姿がただ恐ろしかった。
救われたというのに恐ろしくて追い返してしまった。
それを謝罪したくて、そして礼を伝えたくて。
次に逢った時--今日。
改めて視界に入った姿に胸が高鳴った。
「…緋翼、様」
待ち遠しい、嬉しくて切ない気持ち。
だが、その気持ちに気付いてはいけないと、山が鳴いた気がした。
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贈り物は何がいいだろう?
そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、赤い花の存在だった。
凜と真っ直ぐに伸びた、血を散らしたように咲く曼珠沙華。
それ以外に考えられなかった。
否、他に贈りたいものが無かったというわけではない。
ただどれも、粉雪を溶かしてしまいそうなものばかりだったから。
熱を持つものは渡せない。
緋翼自身のように。
空へ舞い上がる前に、緋翼は水際に咲いていた曼珠沙華を一本切り取る。
火車の里に咲き誇る少し不気味な彼岸の花。それでも、この赤は粉雪の白い姿にどう色を持たせるだろうか。
楽しみであり、微かな不安でも。
そんな思いを胸に抱きながら、空に火の粉の軌跡を残して通い慣れ始めた雪山へ向かった。
雪の溶けないギリギリのところで空に制止して、音の無い静寂の中、粉雪を捜す。
今日は晴れて雪は降ってはいなかったが、前回来た時よりも雪は格段に厚くなっていた。
最初の頃で粉雪の成長は止まってしまったようだが、冬はまだ始まったばかりだ。まだこれからもどんどん積もっていくだろう。
どうかこのまま春が訪れず雪が積もり続け、緋翼が雪山に降り立っても溶けてしまいませんように。そんな子供じみた願いを思いながら、見つけた娘に微笑み、そっと曼珠沙華から手を離した。
まるでフワリと落ちる羽のように雪山に落下していく赤い花。
緋翼の手を抜け、まとわりついた彼の熱を冷ましながら粉雪の胸におさまる。
「緋翼様…これは?」
「見たこともないでしょう?それは曼珠沙華という花です」
粉雪は緋翼に逢えた事に嬉しそうに笑っていたが、花を受け取ったとたんに不思議そうに首をかしげた。
突然の贈り物に少し困惑している様子だが、初めて見る花に興味深い視線を向けている。
「本当はもう少し可憐な花を差し上げたかったのですが、私の熱に耐えられる花はそれしかなくて」
「そんな!…とっても嬉しいです…いいのですか?」
赤い花を胸元に咲かせながら、興奮したように頬を朱に染める粉雪。
「貴女の為の花だ」
そんな彼女に慈愛の瞳を向けて、喜ぶ姿に安堵した。
「あの…ありがとうございます」
小さな声で礼を言う粉雪は、今まで緋翼の手の中にあった曼珠沙華に幸せそうに唇を寄せた。
その姿が、まるで緋翼自身に口付けをするかのようで。
嬉しい錯覚。
今は、それだけで充分すぎた。
「雪山も美しい景色は見せてくれますが、そういったものはないだろうと思いました。喜んでいただけた様子で、安心しましたよ」
「はい、本当に…ありがとうございます」
その喜びだけで我慢しなければ…。
そう思うのに、それ以上の欲が沸いてくるような感情。
「あの、私も何か御礼がしたいのですが」
可愛らしく見上げられて、感情が膨らみそうになる。
「…こちらに来させてもらえるだけで充分ですよ」
だから必死で我慢するのだ。
「何も無い雪山ですのに…」
「……いいえ…貴女がいる」
ポツリと独り言のように呟かれた言葉に、同じく独り言のように返事をする。
頬を一気に真っ赤に染めた粉雪。恥ずかしさからか、曼珠沙華で顔を隠してしまった。
白と赤の印象ばかり。
ふとそう考え、緋翼はまたクスリと小さく笑った。
初めて出会った時、粉雪は白い身体に血の赤を纏っていた。
次からは頬を赤く染めるようになった。
今はさらに花の赤が加わって。
彼岸の花が、神秘的に見えるほど。
神秘的で、少し憎らしい。
「…その花が羨ましいですよ」
「え?」
自身の贈り物ではあったが、その赤が羨ましいのだ。
「私も同じ赤を身に宿すのに、炎の赤だというだけで、貴女に触れる事が叶わないのだから」
胸の思いを告白するように、縋るように見つめながら。
真剣に、切実に。一度口にしてしまうと、止めることは叶わなかった。
「……御冗談を」
「冗談ではない。…貴女を愛おしいと……心から思う…」
告げられる恋心。
だが緋翼の思いとは逆に、粉雪は俯いてしまう。
困惑するように唇をキュッと閉じ、眉を寄せる。
それは、拒絶に似ている気がして。
「…こな」
「私の運命は--冬と共に…」
突然吹雪が吹き荒れて緋翼を襲う。
あまりの衝撃に一瞬目を閉じた彼が次に目を開けた時、そこにはもう粉雪の姿はどこにもなかった。